新潟鐵工所 の歴史

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創業 1895年
創業者 山口達太郎
創業地 新潟県新潟市
創業
1895年6月、日本石油が中蒲原郡松島村字山ノ下に5,473坪を買い入れ、日本石油株式会社支店新潟鐵工所として設立登記を済ませた。機械の修理にも東京方面へ送るほかなかった石油事業の不便を断つための付属工場で、翌1896年5月に英国から輸入した機械を据え付けて営業に入っている。同年6月には北越鉄道と鉄道車両の製造修理を契約し、1904年に東京陸軍砲兵工廠から砲弾旋盤50台を受注して工作機械の製作に入り、1905年7月には新潟造船工場が操業を始めた。1910年6月、内藤久寛氏と山口達太郎氏ら9名が発起人となり、資本金200万円の株式会社新潟鐵工所として日本石油から分離独立した。
決断
事業を足すことはあっても、減らすことはなかった。1918年に英マーリース社からディーゼル機関の製造権を買収し、1924年にはスウェーデンのノベル社から2サイクル機関の製造権も取得して、石油発動機の会社を内燃機関の会社へ変えた。戦後は日本勧業銀行から迎えた倉井敏麿社長が5件の技術提携を結び、1959年に建設機械へ参入して製品別事業部制を敷いている。1971年には資本金95億円、従業員7,000名、13工場で6事業部を抱えるまでになった。1982年3月期に経常損益が11億円の赤字へ転じても区分は減らず、1985年3月期のエンジニアリング35%・内燃機関26%・工作機械10%・産業機械10%という7区分の構成がそのまま残った。
現況
会社は消えたが、7つの事業は5社に分かれて現在も動いている。1992年3月期に売上高1,805億円と過去最高を記録したあと、保有する銀行株の下落で1995年には株式含み損が135億円前後へ拡大し、製造業で最大となった。2000年3月の再建計画『S-21』でも立て直しには届かず、2001年11月27日、負債総額2,270億円・従業員2,338名で東京地方裁判所へ会社更生法の適用を申請し、翌2002年2月28日に東証一部の上場が廃止された。2003年に原動機は新潟原動機、鉄道車両と除雪機械は新潟トランシス、造船は新潟造船、変速機は日立ニコトランスミッション、工作機械はニイガタマシンテクノへ渡り、一社では支えきれなかった7区分が事業ごとの引き取り手を見つけて残った。
競合
同じ製品で競う相手が、事業の数だけ別々にいた。プラントの設計・機器製作・現地据付を一括で請け負えたのは千代田化工建設と新潟鐵工所の2社にとどまり、化工機は最も競争の緩い区分だった。一方で内燃機関は舶用ディーゼルの専業各社、工作機械は工作機械の専業、建設機械は建設機械の専業と、区分ごとに別の相手と向き合わなければならない。IHI造船から陸上機械・産業機械へ事業構成を移したのに対し、新潟鐵工所は7区分を保ったまま2001年の更生法へ至った。承継後は原動機と鉄道車両の2事業が石川島播磨重工業の資本を受け、専業の側で残っている。
長期業績の推移 1949〜2002年
新潟鐵工所:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1959年3月期1985年3月期

創業ストーリー 日本石油の付属工場から株式会社新潟鉄工所の設立へ (1895年〜)

日本石油の付属工場から株式会社新潟鉄工所の設立へ

創業ストーリー(1)

日本石油が山ノ下に置いた機械修理の付属工場

日本石油は1890年に米国からさく井機械を輸入して機械さく井に成功したが、機械の一部を修理するにも東京方面へ送るほかなかった[1]。直江津港以北には鉄道の便がなく、同港と事業地とのあいだの運搬は主として小汽船に頼っていた[2]。修理に長い日数がかかる状態を改めるため、内藤久寛氏ら取締役は自ら鉄工所を経営する結論を得て、1894年8月5日に尼瀬の本社で臨時株主総会を開き、付属事業としての新潟鐵工所設置を可決した[3]。日本海岸地方には見るべき機械類の製作所がなかったので、石油事業に要る機械器具に加えて一般機械の製作修繕も引き受ける方針を立て、交通運輸の便から中蒲原郡松島村字山ノ下に5,473坪を買い入れた[4]。1895年6月16日、日本石油株式会社支店新潟鐵工所として設立登記を済ませ、同日創立事務所を設けた[5]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [1]明治23年(1890年)、日本石油は米国からさく井機械を輸入し初めて機械さく井に成功したが、当時は機械の一部分を修理するにも一々東京方面に送らなければならなかった。
    • [2]直江津港以北には鉄道の便がなく、同港と事業地とのあいだは主として小汽船によるほかに運搬の方法がなかった。
    • [3]機械修理に長日数を要する状態を受けて山口・内藤ら諸取締役は会社自ら鉄工所を経営するとの結論を得、日本石油は明治27年(1894年)8月5日に尼瀬の本社で臨時株主総会を招集し、付属事業として新潟鉄工所設置を提案して可決した。
    • [4]日本海岸地方にはいうに足るべき機械類の製作所がなかったので、石油事業に必要な機械器具とともに一般機械類の製作修繕も引き受けることを目的とし、交通運輸の便を考えて山ノ下を候補地と定め、中蒲原郡松島村字山ノ下に明治28年(1895年)6月までに5,473坪を手に入れた。
    • [5]明治28年(1895年)6月16日、日本石油支店新潟鉄工所を設置し、同日創立事務所を設けた。登記社名は日本石油株式会社支店新潟鉄工所。

工場・倉庫・事務所など6棟は1895年9月に落成し、英国から輸入した機械は翌1896年1月27日に横浜経由で新潟へ入港した[6]。据え付けを終えて5月8日に試運転を行い、そのまま営業に入った[7]。開業時の規模は敷地5,473坪、建物311坪、社員11名、工員196名[8]。仕事はほとんどが日本石油の石油事業に関するものだった[9]。ところが開業から半年後の1896年11月11日、鋳工場から出た火が隣接の機械仕上工場と鍛工場へ回り、事務所と倉庫を残して工場を全焼させた[10]。車両工場の建築用材が焼け残ったのでこれを流用し、全員交替の徹夜作業で2週間後の11月25日に試運転までこぎつけた[11]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [6]建築工事は工場・倉庫・事務所など6棟の落成によって明治28年(1895年)9月中に大体終了し、英国から輸入した機械は汽船『金盛丸』で横浜から輸送され、明治29年(1896年)1月27日入港、2月6日荷揚げを終えた。
    • [8]創業当時の規模は敷地5,473坪、建物木造311坪、従業員は社員11名・工員196名。
    • [9]仕事はほとんど全部が日本石油の石油事業に関するものであった。
    • [10]開業後わずか半年の明治29年(1896年)11月11日午後9時20分頃、鋳工場から出火し、隣接の機械仕上工場、棟続きの鍛工場に及び、事務所と倉庫を残して工場全部が焼失した。
    • [11]車両工場の建築用材が焼失を免れたのでこれを流用し、全員交替徹夜作業を続けて災後わずか2週間で復旧し、同月25日に試運転を終えた。
    • [7]1896年5月、工場設備の完成により営業開始。七十年史では明治29年5月8日に汽機汽罐据付を完了して試運転を行い、同日から営業を開始したとする。

1897年に引き受けた汽船『安進丸』の汽機・汽罐と汽船『六甲丸』の汽罐は、設備と技術者の経験がともに足りず失敗に終わった[12]。『安進丸』は1898年1月の試運転で速力が従来にも達せず、同年10月に安進社から契約取消と機関の引き取り拒絶を通告された[13]。『六甲丸』はクランクシャフトを自社で作れずに三菱造船所へ組合式で発注し、汽機・汽罐の据え付けを終えるまでに工事開始から1年半かかった[14]。業績は極度の不振に陥り、1899年1月の株主総会では株主側から鉄工所廃止説が出たが、山口権三郎氏と内藤久寛氏ら取締役が陳弁して存続に決した[15]。同年4月、難工事の処理に当たった技師長の笹村万蔵氏が所長となり、社員と工員の淘汰に踏み切った[16]。石油事業の好況もあって、1899年前半期には創業後初めて相当の利益を計上した[17]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [12]明治30年(1897年)3月に安進社から外輪式汽船『安進丸』の汽機・汽罐の製作を、同年5月に清水回漕店から汽船『六甲丸』の汽罐の製作を引き受けたが、両工事とも工場の設備に対して無理であったことと技術者が経験に乏しかったことのために大失敗を招いた。
    • [13]『安進丸』は明治31年(1898年)1月の試運転の結果が成績不良で従来の速力にも達せず、同年10月に安進社から契約取消と機関の引き取り拒絶の通知を受けた。
    • [14]『六甲丸』は自社製作のクランクシャフトが不合格となり、最後に三菱造船所へビルトアップ(組合式)で注文することとなり、汽機・汽罐の据え付けを終えたのは翌年3月で、出帆までに1年半を要した。
    • [15]業績は極度の不振に陥り、明治32年(1899年)1月の株主総会において株主側から鉄工所廃止説が持ち出されたが、山口・内藤ら諸取締役が陳弁に努めて存続に決した。
    • [16]明治32年(1899年)4月、支配人を廃して技師長の笹村万蔵が所長となり、弛緩した工場内の規律矯正に努め、英断をもって社員および工員の淘汰を決行した。
    • [17]明治31年に長嶺油田が盛況を呈し、翌年には新津油田に噴油があり、同年8月には柏崎に日本石油の新社屋・製油所が完成するなど石油事業好況の影響下に、当工場も同年(1899年)前半期に至って創業後初めて相当の利益をあげた。
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [1]明治23年(1890年)、日本石油は米国からさく井機械を輸入し初めて機械さく井に成功したが、当時は機械の一部分を修理するにも一々東京方面に送らなければならなかった。
    • [2]直江津港以北には鉄道の便がなく、同港と事業地とのあいだは主として小汽船によるほかに運搬の方法がなかった。
    • [3]機械修理に長日数を要する状態を受けて山口・内藤ら諸取締役は会社自ら鉄工所を経営するとの結論を得、日本石油は明治27年(1894年)8月5日に尼瀬の本社で臨時株主総会を招集し、付属事業として新潟鉄工所設置を提案して可決した。
    • [4]日本海岸地方にはいうに足るべき機械類の製作所がなかったので、石油事業に必要な機械器具とともに一般機械類の製作修繕も引き受けることを目的とし、交通運輸の便を考えて山ノ下を候補地と定め、中蒲原郡松島村字山ノ下に明治28年(1895年)6月までに5,473坪を手に入れた。
    • [5]明治28年(1895年)6月16日、日本石油支店新潟鉄工所を設置し、同日創立事務所を設けた。登記社名は日本石油株式会社支店新潟鉄工所。
    • [6]建築工事は工場・倉庫・事務所など6棟の落成によって明治28年(1895年)9月中に大体終了し、英国から輸入した機械は汽船『金盛丸』で横浜から輸送され、明治29年(1896年)1月27日入港、2月6日荷揚げを終えた。
    • [8]創業当時の規模は敷地5,473坪、建物木造311坪、従業員は社員11名・工員196名。
    • [9]仕事はほとんど全部が日本石油の石油事業に関するものであった。
    • [10]開業後わずか半年の明治29年(1896年)11月11日午後9時20分頃、鋳工場から出火し、隣接の機械仕上工場、棟続きの鍛工場に及び、事務所と倉庫を残して工場全部が焼失した。
    • [11]車両工場の建築用材が焼失を免れたのでこれを流用し、全員交替徹夜作業を続けて災後わずか2週間で復旧し、同月25日に試運転を終えた。
    • [12]明治30年(1897年)3月に安進社から外輪式汽船『安進丸』の汽機・汽罐の製作を、同年5月に清水回漕店から汽船『六甲丸』の汽罐の製作を引き受けたが、両工事とも工場の設備に対して無理であったことと技術者が経験に乏しかったことのために大失敗を招いた。
    • [13]『安進丸』は明治31年(1898年)1月の試運転の結果が成績不良で従来の速力にも達せず、同年10月に安進社から契約取消と機関の引き取り拒絶の通知を受けた。
    • [14]『六甲丸』は自社製作のクランクシャフトが不合格となり、最後に三菱造船所へビルトアップ(組合式)で注文することとなり、汽機・汽罐の据え付けを終えたのは翌年3月で、出帆までに1年半を要した。
    • [15]業績は極度の不振に陥り、明治32年(1899年)1月の株主総会において株主側から鉄工所廃止説が持ち出されたが、山口・内藤ら諸取締役が陳弁に努めて存続に決した。
    • [16]明治32年(1899年)4月、支配人を廃して技師長の笹村万蔵が所長となり、弛緩した工場内の規律矯正に努め、英断をもって社員および工員の淘汰を決行した。
    • [17]明治31年に長嶺油田が盛況を呈し、翌年には新津油田に噴油があり、同年8月には柏崎に日本石油の新社屋・製油所が完成するなど石油事業好況の影響下に、当工場も同年(1899年)前半期に至って創業後初めて相当の利益をあげた。
    • [7]1896年5月、工場設備の完成により営業開始。七十年史では明治29年5月8日に汽機汽罐据付を完了して試運転を行い、同日から営業を開始したとする。
創業ストーリー(2)

北越鉄道の客車から造船・工作機械へ広げた受注

開業の翌月にあたる1896年6月、新潟鐵工所は直江津・新潟間を結ぶ北越鉄道と鉄道車両の製造および修理について正式に契約を結び、車両工場の建設に着手した[18]。北越鉄道も車両修繕のため自ら工場を設ける必要を感じていたが、新潟鐵工所の設置を受けて計画を見合わせ、同所を利用する口約を交わしていた[19]。石油機械以外への最初の広がりがこの契約であり、新潟鐵工所は一般機械に鉄道車両を加える方針を立てた[20]。車両は1896年の北越鉄道向け客車に始まり、1899年に半木製タンク車、1907年に全鋼製タンク車を製作した[21]。1909年10月4日には逓信大臣兼鉄道院総裁の後藤新平氏が随員7名とともに来場して設備を調査し、新潟鐵工所は鉄道用橋梁および機械の指定工場となった[22]

    • [18]1896年6月、北越鉄道と車両製造契約を締結し車両工場を設置。七十年史も明治29年6月に北越鉄道とのあいだで鉄道車両製造および修理について正式に契約を結び、車両工場の建設に着手したとする。
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [19]直江津・新潟間を連絡する北越鉄道が創立され、同社もまた車両修繕その他のために工場設置の必要を感じていたが、新潟鉄工所の設置によってその企図を見合わせ、当所を利用する口約が成立した。
    • [20]北越鉄道という顧客を得たことにより、一般機械類に加え鉄道車両をも製作する方針を立てた。
    • [21]車両も明治29年(1896年)北越鉄道の客車に始まり、明治32年(1899年)には半木製タンク車を、明治40年(1907年)には全鋼製タンク車を製作した。両タンク車ともわが国初めてのものであった。
    • [22]明治42年(1909年)10月4日、逓信大臣兼鉄道院総裁後藤新平が随員7名とともに来場し、工場の設備を調査した結果、鉄道用橋梁および機械の指定工場となった。

石油の産地が動くにつれ、新潟鐵工所は油田の近くへ分工場を置いて供給と修繕を早めた[23]。1900年10月に柏崎分工場、1902年3月に長岡分工場を設けた[24]。長岡分工場は市内の鉄工場を買収したもので、東山油田の顧客、とりわけ長岡に本拠を構えて日本石油と対立していた宝田石油の注文を取ることを目的とした[25]。1903年には米国スタンダード石油の分身であるインタナショナル石油会社の発注を見込んで直江津分工場を置いたが、同社は1907年6月に新潟県下の事業財産全部を175万円で日本石油へ売却して日本を去り、直江津分工場は1910年7月に廃止となった[26]。石油発動機は1901年から1902年ごろに長岡分工場が採油の動力用として作り始め、1905年には新潟の本工場でも25馬力以下10種の小工業用原動機を製作した[27]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [23]順次各地に新油田が開発され、あるいは在来油田の発展に伴い、これに対する供給の敏活を期するために続々分工場を開設してこれに応じた。新たに開発され、あるいは発展した石油鉱場に対しては、その付近の交通便利な要地に分工場を設けて機械の供給および修繕の便宜・敏速を図った。
    • [25]明治35年(1902年)、長岡市の一鉄工場を買収して新潟鉄工所長岡分工場を開設した。その目的は東山油田における顧客の便を図り、特に長岡に本拠を構え日本石油と拮抗していた宝田石油の注文を獲得することにあった。
    • [26]米国スタンダード石油会社の分身であるインタナショナル石油会社の注文を期待して明治36年(1903年)直江津分工場を設置したが、同社は明治40年(1907年)6月に新潟県下における事業財産全部を175万円で日本石油に売却してわが国を去り、直江津分工場は油田の不振と同社の退陣によって明治43年(1910年)7月に廃止した。
    • [27]明治34・35年(1901〜1902年)頃から長岡分工場で石油汲取動力用として石油発動機を製作し、明治38年(1905年)には新潟の本工場でも製作を始め、25馬力以下10種の小工業用原動機を製作した。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [24]明治33年(1900年)10月柏崎分工場、明治35年(1902年)3月長岡分工場を設立した。

1904年11月、日露戦争のさなかに東京陸軍砲兵工廠から砲弾旋盤50台を単価850円で受注し、約1年を費やして1905年末に納め終えた[28]。これが新潟鐵工所による工作機械製作の最初で、以後の自家用工作機械はおおむね自社で作った[29]。造船と船渠は創業計画に含まれながら入船町の用地買収に失敗して持ち越されていたが、1904年に主要土地9,700坪を買収して着手し、1905年7月に新潟造船工場が操業を始めた[30]。同年10月には第一番船となる200トン型木造汽船の建造に入り、1906年6月に『第一日本海丸』として完成させ、同時に運輸部を開設した[31]。1908年5月、国内で最初の鋼製油槽船『宝国丸』を進水させた[32]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [28]明治37年(1904年)11月、東京陸軍砲兵工廠から砲弾旋盤50台(心高300ミリ、床長2,120ミリ、単価金850円)の注文を受け、約1か年を費やして明治38年(1905年)末に完納した。
    • [29]これは当社が工作機械を製作した嚆矢であり、以来、自家用の工作機械はおおむね自ら製作した。
    • [30]造船および船渠業は新潟鉄工所設立計画中の一部であったが、第一に選定した入船町の土地買収不成功などのために実現に至らなかった。明治37年(1904年)に主要土地9,700坪を買収したのを手始めに敷地を整え、明治38年(1905年)7月に操業を開始した。
    • [31]明治38年(1905年)10月に第一番船として200トン型木造汽船1隻の建造に着手し、翌年6月に完成して『第一日本海丸』と命名、同時に運輸部を開設した。
    • [32]1908年5月、国内初の鋼製油槽船「宝国丸」を進水。
    • [18]1896年6月、北越鉄道と車両製造契約を締結し車両工場を設置。七十年史も明治29年6月に北越鉄道とのあいだで鉄道車両製造および修理について正式に契約を結び、車両工場の建設に着手したとする。
    • [32]1908年5月、国内初の鋼製油槽船「宝国丸」を進水。
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [19]直江津・新潟間を連絡する北越鉄道が創立され、同社もまた車両修繕その他のために工場設置の必要を感じていたが、新潟鉄工所の設置によってその企図を見合わせ、当所を利用する口約が成立した。
    • [20]北越鉄道という顧客を得たことにより、一般機械類に加え鉄道車両をも製作する方針を立てた。
    • [21]車両も明治29年(1896年)北越鉄道の客車に始まり、明治32年(1899年)には半木製タンク車を、明治40年(1907年)には全鋼製タンク車を製作した。両タンク車ともわが国初めてのものであった。
    • [22]明治42年(1909年)10月4日、逓信大臣兼鉄道院総裁後藤新平が随員7名とともに来場し、工場の設備を調査した結果、鉄道用橋梁および機械の指定工場となった。
    • [23]順次各地に新油田が開発され、あるいは在来油田の発展に伴い、これに対する供給の敏活を期するために続々分工場を開設してこれに応じた。新たに開発され、あるいは発展した石油鉱場に対しては、その付近の交通便利な要地に分工場を設けて機械の供給および修繕の便宜・敏速を図った。
    • [25]明治35年(1902年)、長岡市の一鉄工場を買収して新潟鉄工所長岡分工場を開設した。その目的は東山油田における顧客の便を図り、特に長岡に本拠を構え日本石油と拮抗していた宝田石油の注文を獲得することにあった。
    • [26]米国スタンダード石油会社の分身であるインタナショナル石油会社の注文を期待して明治36年(1903年)直江津分工場を設置したが、同社は明治40年(1907年)6月に新潟県下における事業財産全部を175万円で日本石油に売却してわが国を去り、直江津分工場は油田の不振と同社の退陣によって明治43年(1910年)7月に廃止した。
    • [27]明治34・35年(1901〜1902年)頃から長岡分工場で石油汲取動力用として石油発動機を製作し、明治38年(1905年)には新潟の本工場でも製作を始め、25馬力以下10種の小工業用原動機を製作した。
    • [28]明治37年(1904年)11月、東京陸軍砲兵工廠から砲弾旋盤50台(心高300ミリ、床長2,120ミリ、単価金850円)の注文を受け、約1か年を費やして明治38年(1905年)末に完納した。
    • [29]これは当社が工作機械を製作した嚆矢であり、以来、自家用の工作機械はおおむね自ら製作した。
    • [30]造船および船渠業は新潟鉄工所設立計画中の一部であったが、第一に選定した入船町の土地買収不成功などのために実現に至らなかった。明治37年(1904年)に主要土地9,700坪を買収したのを手始めに敷地を整え、明治38年(1905年)7月に操業を開始した。
    • [31]明治38年(1905年)10月に第一番船として200トン型木造汽船1隻の建造に着手し、翌年6月に完成して『第一日本海丸』と命名、同時に運輸部を開設した。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [24]明治33年(1900年)10月柏崎分工場、明治35年(1902年)3月長岡分工場を設立した。
創業ストーリー(3)

資本金200万円での分離独立と本店の東京移転

創業から15年を経て基礎が固まり、日本石油から分離独立するほうが経営上便利だという判断に至った[33]。1910年3月5日の役員会で意見が一致し、翌6日の臨時株主総会が新潟鐵工所の分離を満場一致で可決した[34]。内藤久寛氏と山口達太郎氏ら9名が発起人となって資本金200万円の株式会社新潟鐵工所を設立し、日本石油所属の新潟鐵工所の財産全部を買収してその営業と一切の権利義務を引き継いだ[35]。株式の募集では、日本石油の株主に所有株式5株につき1株の割合で応募優先権を認めた[36]。6月17日、新潟商業会議所で創立総会を開いて発足し、本店は新潟市入船町に置いた[37]。取締役社長には日本石油創業者である山口権三郎氏の長男の山口達太郎氏[38]が就き、専務取締役には笹村万蔵氏が就任した[39]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [33]創業以来すでに15年を経過して基礎も確立し、事業も大いに発展したので、日本石油から分離独立するほうが経営上便利であるということになった。
    • [34]明治43年(1910年)3月5日に役員会を開いて意見の一致をみたので、翌6日に臨時株主総会を招集し、本社定款改正の件および新潟鉄工所分離の件を満場一致で可決した。
    • [35]内藤久寛、山口達太郎、飯塚弥一郎、中野貫一、本間新作、久須美秀三郎、渡辺忠、山口政治、松方乙彦の9名が発起人となり、資本金200万円の株式会社新潟鉄工所を設立して、日本石油所属新潟鉄工所の財産全部を買収し、その営業および一切の権利義務を継承することとした。
    • [36]株式の募集にあたり、日本石油株式会社の株主にはその所有株式5株に対し1株の割合で応募優先権を認めた。
    • [37]明治43年(1910年)6月17日、新潟商業会議所において創立総会を開き、株式会社新潟鉄工所が成立した。本店は新潟市入船町四丁目3776番地、資本総額200万円、一株の金額50円。
    • [39]取締役社長は山口達太郎、専務取締役は笹村万蔵。
    • [38]初代社長は山口達太郎氏。日本石油創業者・山口権三郎氏の長男。

第1回決算にあたる1910年11月30日時点の株主は1,590名で、うち新潟県内が1,293名、東京が118名、その他の府県が179名だった[40]。中央への足がかりは1908年4月に東京市京橋区本材木町の日本石油東京販売店内へ置いた東京出張店で[41]、分離独立に際して隣地へ独立の事務所を新築した[42]。発動機付漁船の普及で石油発動機の需要が伸びたため、京橋区月島一号地に東京精米から市有地2,000余坪の借地権を譲り受け[43]、1913年5月に東京工場を落成させた[44]。工作機械は1913年に営業品目へ加え、1914年の第一次世界大戦勃発で需要が急増し、1916年には年産300台に達した[45]。1916年2月10日、東京株式取引所で新潟鐵工所株式の売買が始まった[46]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [40]第1回決算(明治43年6月18日から同年11月30日まで)における株主総数は1,590名、うち新潟県1,293名、東京118名、その他の府県在住者179名であった。
    • [42]東京出張店は、明治43年(1910年)日本石油から分離の際、隣地に独立の事務所を新築し、大正2年(1913年)東京工場落成に至るまで東京方面における販売拠点として営業活動を行なった。
    • [43]発動機付漁船の普及が迅速で発動機の需要がすこぶる旺盛となったため、生産を増すとともに改良進歩を図る専門工場を東京に設けることとなり、京橋区月島一号地に東京精米から市有地2,000余坪の借地権を譲り受けた。
    • [45]大正2年(1913年)に工作機械を営業品目に加えて生産を増加する方針を確立し、大正3年(1914年)の第一次大戦勃発により工作機械の需要が急激に上昇、翌年の1か年の生産は130余台に達し、大正5年(1916年)には年産300台を記録した。
    • [46]当社の株式は大正5年(1916年)東京株式取引所に上場し、2月10日から売買を開始した。同日現在の上場会社は191社であった。
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [41]明治41年(1908年)4月、東京市京橋区本材木町三丁目の日本石油東京販売店内に東京出張店を設けた。東京出張店の開設は新潟鉄工所の中央進出の第一歩であった。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [44]急増した工作機械・石油発動機の需要に応ずるため、大正2年(1913年)5月、東京工場を月島に設立した。

中央での業務が繁忙を加え、本社を新潟に置いたままにはできない事情となった[47]。1917年6月26日の定時株主総会が本社の東京移転を議決すると新潟市から反対の声が上がり、笹村万蔵専務が東京進出の必要と新潟工場がかえって発展することを力説して了解を求めた[48]。同年7月1日、本社を東京市麹町区有楽町三丁目五番地へ移した[49]。移転先には、1916年3月16日から東京出張所が借りていた数寄屋橋際の2階建て貸事務所をあてた[50]。10月1日には東京市築地の精養軒で披露晩餐会を開き、山口達太郎社長の挨拶に対して農商務大臣の仲小路廉氏と子爵の渋沢栄一氏らが祝辞を述べた[51]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [47]事業発展に伴い中央における業務がますます繁忙を加え、新潟に偏在するを許さない事情となった。
    • [48]大正6年(1917年)6月26日の定時株主総会において本社の東京移転を議決した。これは新潟市に大きな衝動をあたえ反対の声があがったが、笹村専務は東京進出の必要と、これにより新潟工場がますます発展して市に対する好影響となるべきことを力説して諒解を求めた。
    • [49]大正6年(1917年)7月1日をもって東京市麹町区有楽町三丁目五番地に移転を決行した。
    • [50]東京出張所は大正5年(1916年)3月16日に麹町区有楽町三の五(数寄屋橋際)の二階建の貸事務所を借り受けて移転しており、大正6年7月1日の本社東京移転に伴いこれを本社事務所に充てた。
    • [51]大正6年(1917年)10月1日、東京市築地の精養軒で本社東京移転の披露晩餐会を開催し、朝野の名士300名内外が臨席した。社長山口達太郎の挨拶に対し、農商務大臣仲小路廉、子爵渋沢栄一その他の祝辞があった。
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [33]創業以来すでに15年を経過して基礎も確立し、事業も大いに発展したので、日本石油から分離独立するほうが経営上便利であるということになった。
    • [34]明治43年(1910年)3月5日に役員会を開いて意見の一致をみたので、翌6日に臨時株主総会を招集し、本社定款改正の件および新潟鉄工所分離の件を満場一致で可決した。
    • [35]内藤久寛、山口達太郎、飯塚弥一郎、中野貫一、本間新作、久須美秀三郎、渡辺忠、山口政治、松方乙彦の9名が発起人となり、資本金200万円の株式会社新潟鉄工所を設立して、日本石油所属新潟鉄工所の財産全部を買収し、その営業および一切の権利義務を継承することとした。
    • [36]株式の募集にあたり、日本石油株式会社の株主にはその所有株式5株に対し1株の割合で応募優先権を認めた。
    • [37]明治43年(1910年)6月17日、新潟商業会議所において創立総会を開き、株式会社新潟鉄工所が成立した。本店は新潟市入船町四丁目3776番地、資本総額200万円、一株の金額50円。
    • [39]取締役社長は山口達太郎、専務取締役は笹村万蔵。
    • [40]第1回決算(明治43年6月18日から同年11月30日まで)における株主総数は1,590名、うち新潟県1,293名、東京118名、その他の府県在住者179名であった。
    • [42]東京出張店は、明治43年(1910年)日本石油から分離の際、隣地に独立の事務所を新築し、大正2年(1913年)東京工場落成に至るまで東京方面における販売拠点として営業活動を行なった。
    • [43]発動機付漁船の普及が迅速で発動機の需要がすこぶる旺盛となったため、生産を増すとともに改良進歩を図る専門工場を東京に設けることとなり、京橋区月島一号地に東京精米から市有地2,000余坪の借地権を譲り受けた。
    • [45]大正2年(1913年)に工作機械を営業品目に加えて生産を増加する方針を確立し、大正3年(1914年)の第一次大戦勃発により工作機械の需要が急激に上昇、翌年の1か年の生産は130余台に達し、大正5年(1916年)には年産300台を記録した。
    • [46]当社の株式は大正5年(1916年)東京株式取引所に上場し、2月10日から売買を開始した。同日現在の上場会社は191社であった。
    • [47]事業発展に伴い中央における業務がますます繁忙を加え、新潟に偏在するを許さない事情となった。
    • [48]大正6年(1917年)6月26日の定時株主総会において本社の東京移転を議決した。これは新潟市に大きな衝動をあたえ反対の声があがったが、笹村専務は東京進出の必要と、これにより新潟工場がますます発展して市に対する好影響となるべきことを力説して諒解を求めた。
    • [49]大正6年(1917年)7月1日をもって東京市麹町区有楽町三丁目五番地に移転を決行した。
    • [50]東京出張所は大正5年(1916年)3月16日に麹町区有楽町三の五(数寄屋橋際)の二階建の貸事務所を借り受けて移転しており、大正6年7月1日の本社東京移転に伴いこれを本社事務所に充てた。
    • [51]大正6年(1917年)10月1日、東京市築地の精養軒で本社東京移転の披露晩餐会を開催し、朝野の名士300名内外が臨席した。社長山口達太郎の挨拶に対し、農商務大臣仲小路廉、子爵渋沢栄一その他の祝辞があった。
    • [38]初代社長は山口達太郎氏。日本石油創業者・山口権三郎氏の長男。
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [41]明治41年(1908年)4月、東京市京橋区本材木町三丁目の日本石油東京販売店内に東京出張店を設けた。東京出張店の開設は新潟鉄工所の中央進出の第一歩であった。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [44]急増した工作機械・石油発動機の需要に応ずるため、大正2年(1913年)5月、東京工場を月島に設立した。

ディーゼル機関の国産化と、蒲田・長岡両工場の焼失

創業ストーリー(4)

マーリース社からの製造権取得と、蒲田専門工場の建設

新潟鐵工所がディーゼル機関の製造権買収に動いた出発点は、技師の加藤重男氏が持ち帰った調査にある。加藤重男氏は1912年に農商務省海外練習生として渡米し、内燃機関とテーラー式科学的管理法を修得したうえで、英国のマーリース社とスウェーデンのA・Bディーゼル社を調査して帰国した[52]。帰国後には便箋50枚におよぶ建言書『ディーゼル機関製作企業について』を提出し、欧州の一流製作者から製作権を得て事業を始めるよう求めている[53]。新潟鐵工所は石油発動機の製作経験から、先進国の製造権を買収して設計と製作技術を修得する道を選び、1916年6月、東京工場の設備購入で渡米中の加藤重男氏にディーゼル機関の調査を当たらせた[54]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [52]加藤重男は1912年に農商務省海外練習生として渡米し、内燃機関とテーラー式科学的管理法を修得、さらに英国マーリース社とスウェーデンA・Bディーゼル社のディーゼル機関を調査して帰国した
    • [53]加藤重男は帰国後、便箋50枚におよぶ建言書『ディーゼル機関製作企業について』を提出し、欧州における一流の製作者から製作権を得て事業を開始することを切望すると結んだ
    • [54]石油発動機製作の経験から先進国より製造権を買収し設計・製作技術を修得することが成功の近道と認め、1916年6月、東京工場拡張の設備機械購入で渡米中の加藤技師にディーゼル機関の調査に当たらせた

製造権の交渉と並行して、新潟鐵工所は自社設計の機関も仕上げた。A・Bディーゼル社との交渉は先方が新条件を出し続けて1年近くを費やしたのち断念し、英国のマーリース・ビッカートン・エンド・デイ社へ切り替えた結果、1918年1月に製造及び特許権買収の契約が成立した[55]。先に輸入していたA・Bディーゼル社の50馬力舶用機関に範を採り、1918年春には自社設計のポーラー形舶用100馬力へ取りかかっている[56]。試作第1号機M4Z型の試運転は1919年5月[57]。この舶用100馬力は1920年4月、静岡県焼津町の東海遠洋漁業『第二太洋丸』と御前崎村の『海運丸』へ据え付けられた[58]。陸用の第1号機となるマーリース形300馬力は1920年6月に完成し、国産ディーゼル機関の最初期にあたる[59]。同月19日に東京工場で試運転を公開したのち、京都市外山科の日本絹布へ納入した[60]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [55]A・Bディーゼル社との折衝は同社が次々と新条件を出し1か年近くを空費して断念、英国マーリース・ビッカートン・エンド・デイ社へ転じ、1918年1月にディーゼル機関の製造及び特許権買収契約が成立した
    • [56]A・Bディーゼル社から輸入してあった50馬力舶用機関に範を採り独自に設計、最初に製作したディーゼル機関は1918年春に自ら設計したポーラー形舶用100馬力である
    • [58]1920年4月、静岡県焼津町の東海遠洋漁業『第二太洋丸』および同県御前崎村の『海運丸』に据え付け、ともに好成績をあげた
    • [60]陸用ディーゼル機関第1号機はマーリース形300馬力で、1920年6月19日東京工場で試運転を公開し、京都市外山科の日本絹布に納入した。わが国で製作した産業用の最初のものである
    • [57]1919年5月、試作ディーゼル機関第1号機M4Z型を試運転
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [59]英国モリース社より4サイクル・ディーゼル機関の製造権を取得し1920年6月完成、これは国産ディーゼル機関の最初のものである

東京工場は1913年の建設から間もなく手狭になり、拡張の余地もなかったため、新潟鐵工所はディーゼル機関の専門工場を別に設けた[61]。東京府荏原郡蒲田村の駅に隣接する土地を1918年2月から秋までに20,000余坪買収し、水田だった敷地の一部を掘って3尺以上の地盛りに充て、同年11月から建築に入った[62]。1919年7月に機械工場1,737坪を建て、1920年9月から一部で操業を始めた[63]。1921年11月には、技師の松浦春吉氏が欧米調査に基づいて設計した1,000坪の鋳物工場が竣工している[64]。蒲田工場では加藤重男氏が米国タボア製造会社で修得したテーラー式科学的管理法を全面採用し、生産組織を計画部門と実施部門に分けたうえ、材料管理・工程管理・原価計算の伝票や書式まで同社の様式にならって作成した[65]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [61]1913年建設の東京工場は日ならずして狭隘を訴え拡張の余地もなく、新たに大規模のディーゼル機関専門工場を設けることに決定した
    • [62]東京府荏原郡蒲田村の駅に隣接する敷地を1918年2月から秋までに20,000余坪買収、一帯は水田で3尺以上の地盛りを要したため地所の一部を掘って土盛りに充て、同年11月から建築に着手した
    • [63]1919年7月に機械工場1,737坪の建築工事を行ない、翌年9月には機械工場の一部の操業を開始した
    • [64]鋳物工場は技師松浦春吉が欧米における調査に基づいて設計した1,000坪の工場で、1921年11月竣工した
    • [65]加藤重男が米国タボア製造会社で体得したテーラー・システムを蒲田工場に全面的に採用し、工場生産組織を生産計画部門と実施部門とに分け、材料管理・工程管理・原価計算に使用する諸伝票並びに書式や標準寸法までタボア会社の様式にのっとって作成した
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [52]加藤重男は1912年に農商務省海外練習生として渡米し、内燃機関とテーラー式科学的管理法を修得、さらに英国マーリース社とスウェーデンA・Bディーゼル社のディーゼル機関を調査して帰国した
    • [53]加藤重男は帰国後、便箋50枚におよぶ建言書『ディーゼル機関製作企業について』を提出し、欧州における一流の製作者から製作権を得て事業を開始することを切望すると結んだ
    • [54]石油発動機製作の経験から先進国より製造権を買収し設計・製作技術を修得することが成功の近道と認め、1916年6月、東京工場拡張の設備機械購入で渡米中の加藤技師にディーゼル機関の調査に当たらせた
    • [55]A・Bディーゼル社との折衝は同社が次々と新条件を出し1か年近くを空費して断念、英国マーリース・ビッカートン・エンド・デイ社へ転じ、1918年1月にディーゼル機関の製造及び特許権買収契約が成立した
    • [56]A・Bディーゼル社から輸入してあった50馬力舶用機関に範を採り独自に設計、最初に製作したディーゼル機関は1918年春に自ら設計したポーラー形舶用100馬力である
    • [58]1920年4月、静岡県焼津町の東海遠洋漁業『第二太洋丸』および同県御前崎村の『海運丸』に据え付け、ともに好成績をあげた
    • [60]陸用ディーゼル機関第1号機はマーリース形300馬力で、1920年6月19日東京工場で試運転を公開し、京都市外山科の日本絹布に納入した。わが国で製作した産業用の最初のものである
    • [61]1913年建設の東京工場は日ならずして狭隘を訴え拡張の余地もなく、新たに大規模のディーゼル機関専門工場を設けることに決定した
    • [62]東京府荏原郡蒲田村の駅に隣接する敷地を1918年2月から秋までに20,000余坪買収、一帯は水田で3尺以上の地盛りを要したため地所の一部を掘って土盛りに充て、同年11月から建築に着手した
    • [63]1919年7月に機械工場1,737坪の建築工事を行ない、翌年9月には機械工場の一部の操業を開始した
    • [64]鋳物工場は技師松浦春吉が欧米における調査に基づいて設計した1,000坪の工場で、1921年11月竣工した
    • [65]加藤重男が米国タボア製造会社で体得したテーラー・システムを蒲田工場に全面的に採用し、工場生産組織を生産計画部門と実施部門とに分け、材料管理・工程管理・原価計算に使用する諸伝票並びに書式や標準寸法までタボア会社の様式にのっとって作成した
    • [57]1919年5月、試作ディーゼル機関第1号機M4Z型を試運転
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [59]英国モリース社より4サイクル・ディーゼル機関の製造権を取得し1920年6月完成、これは国産ディーゼル機関の最初のものである
創業ストーリー(5)

関東大震災による減資と、蒲田工場譲渡交渉の打ち切り

1923年3月、蒲田工場の機械工の一部が東京鉄工組合蒲田支部を組織し、新潟鐵工所が主謀者3名を解雇すると、機械工全員約280名が日給制の復旧・退職手当の制定・解雇者の復職を求めて怠業に入った[66]。争議は6月末から東京工場も加わって長引き、8月には約200名が工場事務所へ押しかけて本儀正工場長を負傷させ、警視庁は翌日までに100余名を検挙した[67]。争議団が解散したのは、9月1日の関東大震災による[68]。日比谷交叉点付近の本社は隣家の倒壊で崩れたうえに焼失し、東京工場も夜に入って類焼した[69]。蒲田工場の被害は大物組立工場と鋳物工場の一部、小物組立工場1棟と煙突の崩壊にとどまり、機械類は全部無事だった[70]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [66]1923年3月上旬、蒲田工場機械工の一部が東京鉄工組合蒲田支部を組織、同月19日に主謀者3名を解雇したところ翌日機械工全員約280名が要求書を提出して怠業に入った。要求は日給制の復旧、退職手当の制定、共済会規定の改正、馘首者の復職などであった
    • [67]6月27日にふたたび怠業が始まり東京工場も合流、8月24日には約200名の集団が工場事務所に殺到して本儀工場長を殴打負傷させ、警視庁が翌日までに100余名を検挙した
    • [68]9月1日の関東大震災に遭遇して争議団は解散し、協定が成立して10月1日から操業を開始した
    • [69]本社建物(日比谷交叉点付近)は隣家倒壊のために倒壊し十五分内外で類焼、東京工場は地震の損害は軽微であったが夜に入って類焼し焼失した
    • [70]蒲田工場は大物組立工場と鋳物工場の一部が破損、小物組立工場1棟および煙突の崩壊があっただけで、機械類は全部無事であった

震災後、新潟鐵工所は東京工場の復興を見合わせた。かねて蒲田工場への合併を考えていたため、工員74名と社員13名を解雇して残りを他工場へ転勤させ、使用に耐える機械と在庫品を蒲田工場へ送って工作機械の製作を続けた[71]。焼失した本社と東京工場には451,000円の保険を掛けていたが、一部の見舞金すら見込めない状況だった[72]。損害計上額は本社30,207円、東京工場850,026円、蒲田工場100,000円の合計980,234円に達した[73]。1924年6月の定時株主総会では、資本金500万円を400万円へ減じて震災による繰越損失金910,000円を補填することを決議している[74]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [71]東京工場は会社経営の見地からかねて蒲田工場に合併の意図があったため復興を見合わせ、工員74名と社員13名を解雇、その他は他工場に転勤させ、使用に耐える機械・在庫品を蒲田工場に送って工作機械の製作を継続した
    • [72]本社及び東京工場に対し45万1,000円の保険をつけてあったが、一部分の見舞金すら絶望の状況であった
    • [73]関東大震災による損害計上額は本社30,207円、東京工場850,026円、蒲田工場100,000円、合計980,234円
    • [74]1924年6月24日開催の定時株主総会において、資本金500万円を400万円に減じ、大震災による繰越損失金91万円を補填することを決議した

1926年下期には、戸畑鋳物社長の鮎川義介氏から農林省水産局技師の田島達之輔氏を介して提携の申し入れがあり、協議は蒲田工場を新潟鐵工所から分離して戸畑鋳物へ合併する案に転じたが、条件の隔たりが大きく交渉を打ち切った[75]。一方、大形機関には別の方式が求められた。従来の4サイクルは中・小形に適し、大形には2サイクルが有利とされたためで、技師の仲谷新治氏を派遣し、1924年7月にスウェーデンのノベル社から2サイクル・ディーゼル機関の製造権を買収している[76]。試作の舶用500馬力は1926年7月に完成し、以後は舶用・陸用として供給範囲を広げた[77]。1928年に蒲田工場で製作した2,000馬力機関は、陸用として国内最大となった[78]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [75]1926年下期、戸畑鋳物社長鮎川義介から農林省水産局技師田島達之輔を介して提携の申込みを受け、協議は蒲田工場を当社から分離して戸畑に合併する案となったが、先方の条件が苛酷にすぎ交渉を打ち切った
    • [76]四サイクル式は中・小形機関に適し大形機関には二サイクル式が有利とされ、マーリース社の勧誘を機に技師仲谷新治を派遣、1924年7月スウェーデン国ノベル会社から二サイクル式ディーゼル機関の製造権を買収した
    • [77]最初に試作した舶用500馬力機関は1926年7月完成して好成績を収め、以来舶用及び陸用として各方面に供給範囲を著しく拡大した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [78]1928年に蒲田工場で製作された2,000馬力ディーゼル機関は、陸用としてわが国最大のものであった
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [66]1923年3月上旬、蒲田工場機械工の一部が東京鉄工組合蒲田支部を組織、同月19日に主謀者3名を解雇したところ翌日機械工全員約280名が要求書を提出して怠業に入った。要求は日給制の復旧、退職手当の制定、共済会規定の改正、馘首者の復職などであった
    • [67]6月27日にふたたび怠業が始まり東京工場も合流、8月24日には約200名の集団が工場事務所に殺到して本儀工場長を殴打負傷させ、警視庁が翌日までに100余名を検挙した
    • [68]9月1日の関東大震災に遭遇して争議団は解散し、協定が成立して10月1日から操業を開始した
    • [69]本社建物(日比谷交叉点付近)は隣家倒壊のために倒壊し十五分内外で類焼、東京工場は地震の損害は軽微であったが夜に入って類焼し焼失した
    • [70]蒲田工場は大物組立工場と鋳物工場の一部が破損、小物組立工場1棟および煙突の崩壊があっただけで、機械類は全部無事であった
    • [71]東京工場は会社経営の見地からかねて蒲田工場に合併の意図があったため復興を見合わせ、工員74名と社員13名を解雇、その他は他工場に転勤させ、使用に耐える機械・在庫品を蒲田工場に送って工作機械の製作を継続した
    • [72]本社及び東京工場に対し45万1,000円の保険をつけてあったが、一部分の見舞金すら絶望の状況であった
    • [73]関東大震災による損害計上額は本社30,207円、東京工場850,026円、蒲田工場100,000円、合計980,234円
    • [74]1924年6月24日開催の定時株主総会において、資本金500万円を400万円に減じ、大震災による繰越損失金91万円を補填することを決議した
    • [75]1926年下期、戸畑鋳物社長鮎川義介から農林省水産局技師田島達之輔を介して提携の申込みを受け、協議は蒲田工場を当社から分離して戸畑に合併する案となったが、先方の条件が苛酷にすぎ交渉を打ち切った
    • [76]四サイクル式は中・小形機関に適し大形機関には二サイクル式が有利とされ、マーリース社の勧誘を機に技師仲谷新治を派遣、1924年7月スウェーデン国ノベル会社から二サイクル式ディーゼル機関の製造権を買収した
    • [77]最初に試作した舶用500馬力機関は1926年7月完成して好成績を収め、以来舶用及び陸用として各方面に供給範囲を著しく拡大した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [78]1928年に蒲田工場で製作された2,000馬力ディーゼル機関は、陸用としてわが国最大のものであった
創業ストーリー(6)

高速ディーゼル機関への進出から浦和工場の労働争議まで

1929年から新潟鐵工所は機種別の専門工場へ生産を組み替えた。同年10月、震災後に蒲田工場で続けていた工作機械の製造を新潟工場構内の新工場へ移し、1930年末には焼玉機関の専門工場を同じ構内に落成させている[79]。蒲田工場はディーゼル機関の需要増に追われて焼玉機関の製作を中止し、ディーゼル機関に絞った[80]。用途の面では1930年前後から車両用・舶用の軽量高速機関に着手し、ディーゼルカーを完成させた[81]。1935年6月には石油精製装置と貯油槽を作るため月島工場を設けた[82]。1937年10月、世界初のディーゼル捕鯨船へ舶用機関を据え付けている[83]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [79]新潟工場構内に建設した工作機械専門工場が落成し、震災後蒲田工場で行なってきた同機械製造業務を1929年10月に移転、焼玉機関の専門工場も新潟工場構内に新設して1930年末に落成、直ちに操業を開始した
    • [80]その後ディーゼル機関の需要が増加し蒲田工場のみでは応じきれなくなったため、焼玉機関の製作を中止してディーゼル機関を製作するに至った
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [81]1930年から1931年ごろより車輌用、舶用等の軽量高速機関の製作にも着手した。この間、産業用ディーゼル機関、ディーゼルカーを完成した
    • [82]1935年6月、石油精製装置、貯油槽等製造のため月島工場を設けた
    • [83]1937年10月、世界初のディーゼル捕鯨船に舶用機関を据付け

1937年に工作機械製造事業法が制定されると、新潟鐵工所は5大メーカーの1つとして指定工場に選ばれた[84]。1939年7月には国家総動員法により新潟工場が陸海軍の管理工場に指定されている[85]。軍需の割り当ては工場の新設に直結し、同年8月に石油鑿井機を作る長岡第二工場、9月に高速ディーゼル機関と軽戦車を作る浦和工場を設立した[86]。1942年以降は戦時増産に応じるため、蔵王分工場・三条分工場・六日町工場・柿崎工場・加茂工場と拡張を重ねた[87]。1945年4月には米軍の空襲で蒲田工場と中央研究所が被災し[88]、同年の戦災で蒲田工場の7割と長岡第一工場を焼失した[89]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [84]1937年に工作機械事業法が制定されるや五大メーカーの一つとして直ちに指定工場に指定された
    • [86]1939年8月、石油鑿井機製造のため長岡第二工場、さらに同年9月、高速ディーゼル機関および軽戦車製造のため浦和工場を設立した
    • [87]1942年以降は戦時増産に応ずるため蔵王分工場、三条分工場、六日町工場、柿崎工場、加茂工場と次々に工場の拡張を行った
    • [89]1945年、戦災により蒲田工場の七割および長岡第一工場を焼失した
    • [85]1939年7月、国家総動員法により新潟工場が陸海軍の管理工場に指定
    • [88]1945年4月、米軍空襲により蒲田工場と中央研究所が被災

終戦後の新潟鐵工所は工場の一部を閉鎖したうえで民需へ転換し、従来の業務に復帰した[90]。1946年8月に新潟工作機工場など3工場が第2次賠償指定を受け、1948年2月には過度経済力集中排除法の指定を受けたが、同年11月に取り消されている[91]。それでも復興は遅れ、多数の人員を抱えたまま仕事量が不足し、資金調達の道も閉ざされて賃金の分割払いに至った[92]。1949年のドッジ・ライン実施で鉄道車両の需要が激減し、内示発注の取消しが重なって深刻な影響を受けた[93]。同年5月には東京・大阪の両証券取引所へ株式を上場している[94]。新潟鐵工所は同年、2度にわたる人員整理を行ない、独立採算制を採用したが、立ち直りには至らなかった[95]。人員整理をめぐる労働争議は同年に頂点へ達し、組合連合を脱退した浦和工場の争議は激烈をきわめた[96]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [90]終戦後工場の一部閉鎖を行うとともに、いち早く民需に転換し、従来の業務に復帰した
    • [93]1949年のドッジ政策実施に伴なう経済界の不況、なかんずく鉄道車輌の需要の激減、内示発注の取消しによって深刻な影響を受けるに至った
    • [91]1946年8月、新潟工作機工場など3工場が第2次賠償指定工場に指定。1948年2月、過度経済力集中排除法の指定(同年11月に取消)
    • [94]1949年5月、東京・大阪の両証券取引所に株式を上場
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
    • [92]戦後の再建復興は遅れ、多数の人員を擁して仕事量の不足と、資金調達のみちが閉され、賃金分割払いを余儀なくされるなど、完全復興操業の目途が立たぬ状況にあった
    • [95]1949年、危機突破の一方策として二度にわたる人員整理、あるいは独立採算制を採用するなど存立のため努力を払ったが、なお立ち直りを見るに至らなかった
    • [96]1949年の人員整理にあたって労働争議は頂点に達し、なかでも組合連合を脱退した浦和工場の争議は激烈をきわめ、当社にとって空前の労働争議であった
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [79]新潟工場構内に建設した工作機械専門工場が落成し、震災後蒲田工場で行なってきた同機械製造業務を1929年10月に移転、焼玉機関の専門工場も新潟工場構内に新設して1930年末に落成、直ちに操業を開始した
    • [80]その後ディーゼル機関の需要が増加し蒲田工場のみでは応じきれなくなったため、焼玉機関の製作を中止してディーゼル機関を製作するに至った
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [81]1930年から1931年ごろより車輌用、舶用等の軽量高速機関の製作にも着手した。この間、産業用ディーゼル機関、ディーゼルカーを完成した
    • [82]1935年6月、石油精製装置、貯油槽等製造のため月島工場を設けた
    • [84]1937年に工作機械事業法が制定されるや五大メーカーの一つとして直ちに指定工場に指定された
    • [86]1939年8月、石油鑿井機製造のため長岡第二工場、さらに同年9月、高速ディーゼル機関および軽戦車製造のため浦和工場を設立した
    • [87]1942年以降は戦時増産に応ずるため蔵王分工場、三条分工場、六日町工場、柿崎工場、加茂工場と次々に工場の拡張を行った
    • [89]1945年、戦災により蒲田工場の七割および長岡第一工場を焼失した
    • [90]終戦後工場の一部閉鎖を行うとともに、いち早く民需に転換し、従来の業務に復帰した
    • [93]1949年のドッジ政策実施に伴なう経済界の不況、なかんずく鉄道車輌の需要の激減、内示発注の取消しによって深刻な影響を受けるに至った
    • [83]1937年10月、世界初のディーゼル捕鯨船に舶用機関を据付け
    • [85]1939年7月、国家総動員法により新潟工場が陸海軍の管理工場に指定
    • [88]1945年4月、米軍空襲により蒲田工場と中央研究所が被災
    • [91]1946年8月、新潟工作機工場など3工場が第2次賠償指定工場に指定。1948年2月、過度経済力集中排除法の指定(同年11月に取消)
    • [94]1949年5月、東京・大阪の両証券取引所に株式を上場
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
    • [92]戦後の再建復興は遅れ、多数の人員を擁して仕事量の不足と、資金調達のみちが閉され、賃金分割払いを余儀なくされるなど、完全復興操業の目途が立たぬ状況にあった
    • [95]1949年、危機突破の一方策として二度にわたる人員整理、あるいは独立採算制を採用するなど存立のため努力を払ったが、なお立ち直りを見るに至らなかった
    • [96]1949年の人員整理にあたって労働争議は頂点に達し、なかでも組合連合を脱退した浦和工場の争議は激烈をきわめ、当社にとって空前の労働争議であった

倉井敏麿社長の再建と、6事業部制の総合機械メーカー

創業ストーリー(7)

日本勧業銀行から迎えた倉井敏麿社長と5件の技術提携

1949年に2度の人員整理を行った新潟鐵工所では[97]、整理をめぐる争議が1950年6月に妥結し、解雇退職者は1,376名にのぼった[98]。同年8月、日本勧業銀行から倉井敏麿氏が社長に就任した[99]。倉井敏麿社長は社内機構と職制を改め、受注から生産に至る一切の計画を本社で立案し、各工場はその指示に従って生産にあたる方式へ切り替えた[100]。経営を科学的・合理的に運営する方針のもと、赤字の解消と経理の健全化、技術提携の推進、合弁会社および傍系会社の発足に着手している[101]。1950年3月には下関営業所、10月には札幌営業所を開いて営業網を広げた[102]。折から朝鮮動乱の勃発で機械工業は活況に転じ、新潟鐵工所も大幅な利益を計上した[103]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
    • [97]1949年、危機突破の一方策として二度にわたる人員整理を行った
    • [100]倉井敏麿社長は社内機構・職制を改革し、受注から生産に至る一切の計画を本社において立案し、各工場はその指示によって生産にあたる方式を採用した
    • [101]経営を科学的・合理的に運営する方針を採り、多額の赤字解消、経理の健全化、技術提携の積極的推進、合弁会社及び傍系会社の発足など施策の実施にあたった
    • [103]朝鮮動乱勃発により機械工業も活況を迎え、当社にあっても大幅な利益を計上した
    • [98]1950年6月、人員整理をめぐる争議が妥結。解雇退職者1,376名
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [99]1950年8月、日本勧業銀行より倉井敏麿氏を社長に迎えた
    • [102]1950年3月に下関営業所、同年10月に札幌営業所を開設して営業網を拡充した

倉井敏麿社長は海外からの技術導入を再建策の柱に据えた[104]。1952年12月に米国トウィン・ディスク社とトルクコンバーターおよび流体接手で提携し、続いてウォシントン社とポンプおよびコンプレッサーで契約を結んだ[105]。1954年7月には米国サンドストランド社と生産フライス盤で提携し[106]、車両メーカー10社と共同でトランシット・リサーチ・コーポレーションとPCCカー、ジャパン・ミーハナイト社を通じてミーハナイト鋳物の提携も加わった[107]。トウィン・ディスク社には加茂工場、ウォシントン社には柏崎工場を現物出資し[108]、出資比率75%の新潟コンバーターと51%の新潟ウォシントンを設けた[109]。1954年2月には台湾造船有限公司に舶用内燃機関と漁船の製造販売権を許諾する契約を結び、東南アジアの一角に輸出ルートを開いた[110]。1954年3月期の売上高は38億円、当期純利益は2億円を記録した[111]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
    • [104]倉井敏麿社長は技術提携の積極的推進、合弁会社および傍系会社の発足を再建策として実施した。かねて海外より優秀技術の導入を企図していた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [105]1952年12月に米国トウイン・ディスク社とトルクコンバーターおよび流体接手に関して提携し、ウォシントン社とポンプおよびコンプレッサーに関して技術提携した
    • [107]車輌メーカー10社と共同でトランシット・リサーチ・コーポレーションとPCCカーに関して、またジャパン・ミーハナイト社を通じてミーハナイト鋳物に関して技術提携した
    • [108]トウイン・ディスク社およびウォシントン社との提携では、契約に基づき加茂工場および柏崎工場を現物出資し、新潟コンバーター株式会社および新潟ウォシントン株式会社を新設した
    • [110]1954年2月、台湾造船有限公司に対し舶用内燃機関ならびに漁船の製造および販売権を許諾する契約を締結し、東南アジア地域の一角に輸出ルートを確保した
    • [106]1954年7月、米国サンドストランド社と生産フライス盤で技術提携
  • 証券アナリストジャーナル 1963年(羽深知治)
    • [109]新潟ウォシントンの出資比率は新潟鉄工所51%・ウォーシントン社49%、新潟コンバーターの出資比率は新潟鉄工所75%・ツインディスク・クラッチ社25%
  • 上場会社総覧 1956年版 半期合算
    • [111]1954年3月期の売上高38億円、当期純利益2億円
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
    • [97]1949年、危機突破の一方策として二度にわたる人員整理を行った
    • [100]倉井敏麿社長は社内機構・職制を改革し、受注から生産に至る一切の計画を本社において立案し、各工場はその指示によって生産にあたる方式を採用した
    • [101]経営を科学的・合理的に運営する方針を採り、多額の赤字解消、経理の健全化、技術提携の積極的推進、合弁会社及び傍系会社の発足など施策の実施にあたった
    • [103]朝鮮動乱勃発により機械工業も活況を迎え、当社にあっても大幅な利益を計上した
    • [104]倉井敏麿社長は技術提携の積極的推進、合弁会社および傍系会社の発足を再建策として実施した。かねて海外より優秀技術の導入を企図していた
    • [98]1950年6月、人員整理をめぐる争議が妥結。解雇退職者1,376名
    • [106]1954年7月、米国サンドストランド社と生産フライス盤で技術提携
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [99]1950年8月、日本勧業銀行より倉井敏麿氏を社長に迎えた
    • [102]1950年3月に下関営業所、同年10月に札幌営業所を開設して営業網を拡充した
    • [105]1952年12月に米国トウイン・ディスク社とトルクコンバーターおよび流体接手に関して提携し、ウォシントン社とポンプおよびコンプレッサーに関して技術提携した
    • [107]車輌メーカー10社と共同でトランシット・リサーチ・コーポレーションとPCCカーに関して、またジャパン・ミーハナイト社を通じてミーハナイト鋳物に関して技術提携した
    • [108]トウイン・ディスク社およびウォシントン社との提携では、契約に基づき加茂工場および柏崎工場を現物出資し、新潟コンバーター株式会社および新潟ウォシントン株式会社を新設した
    • [110]1954年2月、台湾造船有限公司に対し舶用内燃機関ならびに漁船の製造および販売権を許諾する契約を締結し、東南アジア地域の一角に輸出ルートを確保した
  • 証券アナリストジャーナル 1963年(羽深知治)
    • [109]新潟ウォシントンの出資比率は新潟鉄工所51%・ウォーシントン社49%、新潟コンバーターの出資比率は新潟鉄工所75%・ツインディスク・クラッチ社25%
  • 上場会社総覧 1956年版 半期合算
    • [111]1954年3月期の売上高38億円、当期純利益2億円
創業ストーリー(8)

石油掘削装置から建設機械までの新分野と製品別事業部制

新潟鐵工所は日本石油から分離独立した経緯から、石油精製と石油化学のプラント建設に古くから携わってきた[112]。1955年3月には帝国石油と3,000m級の石油掘削装置N3000型を共同開発した[113]。化工機の製作はプラントの設計、機器の製作、現地の組立据付の3部門に分かれ、この3つを一括して請け負っていたのは千代田化工建設と新潟鐵工所の2社である[114]。新潟鐵工所はこの部門の伸びを見込んで横浜根岸の埋立地に新工場を建て、1963年6月までに操業を始めた[115]。し尿処理装置や塵埃処理設備を扱う浄化工業部門も加わり、年間2〜3億円の売上高を1964年度に5〜7億円へ伸ばす見込みを立てた[116]

  • 証券アナリストジャーナル 1963年(羽深知治)
    • [112]日本石油から分離独立した関係上、取扱製品は石油精製・石油化学に関係したものが多く、戦前の石油精製工場を建設するメーカーは藤永田造船と新潟鉄工だけであった
    • [114]化工機の製作部門はプラントの設計、機器の製作、現地工事の3部門からなり、この3部門を一括して請け負っているのは千代田化工建設と新潟鉄工所である
    • [115]化工機部門の伸びが著しいとの見込みから横浜根岸の埋立地に新工場を建設し、1963年6月の講演時点ですでに操業を開始していた
    • [116]化工機関係の浄化工業部門はし尿処理装置・塵埃処理設備が主で、売上げは年間2〜3億円、1964年度には5〜7億円を見込んでいた
    • [113]1955年3月、帝国石油と3,000m級石油掘削装置N3000型を共同開発

1959年7月、新潟鐵工所は建設機械部門に参入した[117]。トラックミキサーは米国ウォシントン社との技術提携によるもので、アスファルト・フィニッシャーなどの舗装用機械は日本舗道と業務提携して作った[118]。道路建設計画の進行に合わせて生産力を広げ原価を下げるため、高崎に新工場を建てた[119]。工作機械では、終戦時の賠償指定で1951年まで製作を禁じられた遅れを取り戻すべく、フライス盤、プレーナー、普通旋盤、自動旋盤へ生産を絞った[120]。ベッド型フライス盤と自動旋盤は米国サンドストランド社との提携品で、ニイガタ・サンドストランドの商標で販売した[121]。1961年9月には初の数値制御工作機械22SMEVN型を完成させた[122]

    • [117]1959年7月、建設機械部門に参入
    • [122]1961年9月、初の数値制御工作機械22SMEVN型が完成
  • 証券アナリストジャーナル 1963年(羽深知治)
    • [118]建設機械のミキサーは米国ウォーシントン・コーポレーションとの技術提携によるもので、舗装用の機械は日本舗道との業務提携により製作していた
    • [119]膨大な道路建設計画の進行に伴い、生産力の拡大と原価の低減を図るため高崎に新工場を建設した
    • [120]終戦時に賠償指定工場に指定され1951年まで工作機械の製作を禁止されたため業界に後れをとり、フライス盤・プレーナー・普通旋盤・自動旋盤に生産を集中する方針をとった
    • [121]ベッド型のフライス盤と自動旋盤は米国サンドストランド社との技術提携によるもので、ニイガタ・サンドストランドの商標で販売していた

部門ごとの自主的な運営と責任の所在をはっきりさせるため、新潟鐵工所は1959年6月に製品別事業部制を採用し[123]、車両事業部を発足させた[124]。同じ時期に社工員の差別撤廃、職階制の施行、給与形態の改正といった労務管理の近代化も実施した[125]。受注高は1960年上期の60億円弱から岩戸景気の1961年上期に100億円近くへ伸び、1962年下期には金融引締めと設備投資の抑制を受けて72億円まで落ちた[126]。売上高は1959年3月期の61億円から[127]1962年3月期の164億円へ増えた[128]。1963年12月には射出成形機の第1号機S350/550VE型が完成した[129]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
    • [123]1959年に製品別事業部制を採用し、部門の自主的運営と責任体制の確立による利益向上につとめた
    • [125]社工員の差別撤廃、職階制の施行、給与形態の改正など労務管理面の近代化を進めた
    • [124]1959年6月、事業部制を採用し車両事業部が発足
    • [129]1963年12月、射出成形機第1号機S350/550VE型が完成
  • 証券アナリストジャーナル 1963年(羽深知治)
    • [126]受注高は1960年上期の60億円弱から1961年上期には100億円弱に達し、1962年下期には金融引締めと設備投資の抑制を中心とする景気調整策の影響で72億円にダウンした
  • 上場会社総覧 1961年版 半期合算
    • [127]1959年3月期の売上高61億円
  • 会社年鑑 1963年版 半期合算
    • [128]1962年3月期の売上高164億円
  • 証券アナリストジャーナル 1963年(羽深知治)
    • [112]日本石油から分離独立した関係上、取扱製品は石油精製・石油化学に関係したものが多く、戦前の石油精製工場を建設するメーカーは藤永田造船と新潟鉄工だけであった
    • [114]化工機の製作部門はプラントの設計、機器の製作、現地工事の3部門からなり、この3部門を一括して請け負っているのは千代田化工建設と新潟鉄工所である
    • [115]化工機部門の伸びが著しいとの見込みから横浜根岸の埋立地に新工場を建設し、1963年6月の講演時点ですでに操業を開始していた
    • [116]化工機関係の浄化工業部門はし尿処理装置・塵埃処理設備が主で、売上げは年間2〜3億円、1964年度には5〜7億円を見込んでいた
    • [118]建設機械のミキサーは米国ウォーシントン・コーポレーションとの技術提携によるもので、舗装用の機械は日本舗道との業務提携により製作していた
    • [119]膨大な道路建設計画の進行に伴い、生産力の拡大と原価の低減を図るため高崎に新工場を建設した
    • [120]終戦時に賠償指定工場に指定され1951年まで工作機械の製作を禁止されたため業界に後れをとり、フライス盤・プレーナー・普通旋盤・自動旋盤に生産を集中する方針をとった
    • [121]ベッド型のフライス盤と自動旋盤は米国サンドストランド社との技術提携によるもので、ニイガタ・サンドストランドの商標で販売していた
    • [126]受注高は1960年上期の60億円弱から1961年上期には100億円弱に達し、1962年下期には金融引締めと設備投資の抑制を中心とする景気調整策の影響で72億円にダウンした
    • [113]1955年3月、帝国石油と3,000m級石油掘削装置N3000型を共同開発
    • [117]1959年7月、建設機械部門に参入
    • [122]1961年9月、初の数値制御工作機械22SMEVN型が完成
    • [124]1959年6月、事業部制を採用し車両事業部が発足
    • [129]1963年12月、射出成形機第1号機S350/550VE型が完成
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
    • [123]1959年に製品別事業部制を採用し、部門の自主的運営と責任体制の確立による利益向上につとめた
    • [125]社工員の差別撤廃、職階制の施行、給与形態の改正など労務管理面の近代化を進めた
  • 上場会社総覧 1961年版 半期合算
    • [127]1959年3月期の売上高61億円
  • 会社年鑑 1963年版 半期合算
    • [128]1962年3月期の売上高164億円
創業ストーリー(9)

中貞男社長の大形地区集約と、13工場・6事業部への拡大

1964年6月の新潟地震で、山ノ下・入船地区にあった内燃機、製鋼、工作機、造船の4工場が冠水し[130]、建物の倒壊や傾斜も生じた[131]。同年11月の定時株主総会後の役員会で倉井敏麿社長は会長へ退き、副社長の中貞男氏が社長に就任した[132]。1965年3月期の売上高は196億円と前期の193億円から伸び悩み、当期純利益は3億円の赤字に転じた[133]。中貞男社長は被災した4工場のうち造船工場を除く3工場と支社を、新潟市岡山(大形)地区へ移すと決めた[134]。用地16万2,000平方メートル(約5万坪)を買収し、建設費27億円を投じた[135]

    • [130]1964年6月、新潟地震により山の下・入船地区の4工場が冠水
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
    • [131]1964年6月の新潟地震により新潟地区の4工場(内燃機、製鋼、工作機、造船)は冠水、一部建物の倒壊・傾斜など甚大な打撃を受けた
    • [132]1964年11月、定時株主総会後の役員会で倉井敏麿は社長を退任して会長となり、副社長の中貞男が社長に就任した
    • [134]中貞男社長は入船・山ノ下両地区の罹災4工場(内燃機、製鋼、工作機、造船)のうち造船工場を除いた工場ならびに支社を、新潟市岡山(通称大形)地区へ移すと決断した
    • [135]新潟市岡山(大形)地区に162,000平方メートル(約5万坪)を買収し、建設費27億円を投入して工場を集中した
  • 会社年鑑 1967年版 半期合算
    • [133]1964年3月期の売上高193億円・当期純利益8億円、1965年3月期の売上高196億円・当期純利益-3億円

移転は2期に分けて進んだ[136]。1966年6月に内燃機と鋳造の2工場が完成し、同年8月に操業を始めた[137]。工作機工場は1967年10月に完成し、設備を移して12月に操業へ入った[138]。新潟地区の内燃機、工作機械、鋳造の3工場が大形地区に出そろい[139]、レイアウトを組み替えた設備配置に加えて公害対策と労働環境にも配慮を加えた[140]。中貞男社長は組織の改善、人材の配置、長期経営計画の策定、新製品の開発、営業網の拡充を並行して実施し、不況下でも業績を押し上げた[141]。売上高は1967年3月期の275億円から1968年3月期に318億円へ増え、当期純利益は7億円である[142]

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
    • [136]新工場の建設は第一期・第二期に分けて行われた
    • [137]1966年6月に第一期の内燃機・鋳造の2工場が完成して移転を行ない、同年8月に操業に入った
    • [138]工作機工場は1967年10月に完成し、続いて設備移転を行ない、12月操業の予定であった
    • [140]新工場は合理的レイアウトによる最新鋭の設備を備え、公害対策と労働環境にも配慮した
    • [141]中貞男社長は組織の改善、人材の合理的配置、長期経営計画の策定、新製品の開発推進、営業面の強化拡充を相次いで実施し、不況下にかかわらず業績は伸長を示した
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「新潟鉄工所」
    • [139]1967年末、内燃機、工作機械、鋳造の3工場が新潟市に新たに完成した
  • 会社年鑑 1971年版 半期合算
    • [142]1967年3月期の売上高275億円、1968年3月期の売上高318億円・当期純利益7億円

1971年時点で新潟鐵工所は資本金95億円、従業員7,000名、新潟県下7と関東6の計13工場を擁し、化工機、内燃機、機械、車両建機、造船、鋳造の6事業部を置いた[143]。1970年度の売上高は約630億円[144]。第3次3カ年計画では、基準年次1969年度の受注高610億円に対し、1972年度の受注規模を年間1,000億円へ広げる目標を掲げた[145]。1970年代前半には公害防止機器、長距離輸送パイプライン、NC工作機械を核とする省力化機器、吸収式冷暖房機器、海洋開発の各分野へ手を伸ばした[146]。1975年3月期の売上高は1,094億円、経常利益は35億円[147]。同期の大株主上位10名は第一勧銀、三井信託、日本火災、朝日生命など銀行と保険会社が並び、日本石油は入っていない[148]

  • 証券アナリストジャーナル 1971年7月号(吉村義城・講演)
    • [143]1971年時点で資本金95億円、従業員7,000名、工場は新潟県下に7、関東地方に6の計13工場。製品別事業部制として化工機、内燃機、機械、車両建機、造船、鋳造の6事業部を置いた
    • [144]1970年度の年間売上高は約630億円
    • [145]第3次3カ年計画で、基準年次1969年度の受注高610億円に対し1972年度は受注規模を年間1,000億円に拡大する計画を立て実行中であった
    • [146]新たな分野として公害防止機器、長距離輸送パイプライン・システム、NC工作機械を中核とする省力化機器、吸収式冷暖房機器による空調機器、海洋開発の各分野に進出した
  • 会社年鑑 1976年版
    • [147]1975年3月期の売上高1,094億円、経常利益35億円
    • [148]1975年3月時点の大株主上位10位は第一勧銀、三井信託、日本火災、朝日生命、協栄生命、長銀、丸紅、日本生命、伊藤忠商事、第四銀行であり、日本石油は含まれない
    • [130]1964年6月、新潟地震により山の下・入船地区の4工場が冠水
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
    • [131]1964年6月の新潟地震により新潟地区の4工場(内燃機、製鋼、工作機、造船)は冠水、一部建物の倒壊・傾斜など甚大な打撃を受けた
    • [132]1964年11月、定時株主総会後の役員会で倉井敏麿は社長を退任して会長となり、副社長の中貞男が社長に就任した
    • [134]中貞男社長は入船・山ノ下両地区の罹災4工場(内燃機、製鋼、工作機、造船)のうち造船工場を除いた工場ならびに支社を、新潟市岡山(通称大形)地区へ移すと決断した
    • [135]新潟市岡山(大形)地区に162,000平方メートル(約5万坪)を買収し、建設費27億円を投入して工場を集中した
    • [136]新工場の建設は第一期・第二期に分けて行われた
    • [137]1966年6月に第一期の内燃機・鋳造の2工場が完成して移転を行ない、同年8月に操業に入った
    • [138]工作機工場は1967年10月に完成し、続いて設備移転を行ない、12月操業の予定であった
    • [140]新工場は合理的レイアウトによる最新鋭の設備を備え、公害対策と労働環境にも配慮した
    • [141]中貞男社長は組織の改善、人材の合理的配置、長期経営計画の策定、新製品の開発推進、営業面の強化拡充を相次いで実施し、不況下にかかわらず業績は伸長を示した
  • 会社年鑑 1967年版 半期合算
    • [133]1964年3月期の売上高193億円・当期純利益8億円、1965年3月期の売上高196億円・当期純利益-3億円
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「新潟鉄工所」
    • [139]1967年末、内燃機、工作機械、鋳造の3工場が新潟市に新たに完成した
  • 会社年鑑 1971年版 半期合算
    • [142]1967年3月期の売上高275億円、1968年3月期の売上高318億円・当期純利益7億円
  • 証券アナリストジャーナル 1971年7月号(吉村義城・講演)
    • [143]1971年時点で資本金95億円、従業員7,000名、工場は新潟県下に7、関東地方に6の計13工場。製品別事業部制として化工機、内燃機、機械、車両建機、造船、鋳造の6事業部を置いた
    • [144]1970年度の年間売上高は約630億円
    • [145]第3次3カ年計画で、基準年次1969年度の受注高610億円に対し1972年度は受注規模を年間1,000億円に拡大する計画を立て実行中であった
    • [146]新たな分野として公害防止機器、長距離輸送パイプライン・システム、NC工作機械を中核とする省力化機器、吸収式冷暖房機器による空調機器、海洋開発の各分野に進出した
  • 会社年鑑 1976年版
    • [147]1975年3月期の売上高1,094億円、経常利益35億円
    • [148]1975年3月時点の大株主上位10位は第一勧銀、三井信託、日本火災、朝日生命、協栄生命、長銀、丸紅、日本生命、伊藤忠商事、第四銀行であり、日本石油は含まれない

7部門を抱えたまま迎えた2001年の会社更生法申請

創業ストーリー(10)

マシニングセンタ無人化と石油開発機器への進出

1976年6月、新潟鐵工所は世界初のマシニングセンタ夜間無人運転システムを開発した[149]。1979年11月には大阪市向け新交通システム『ニュートラム』の試作車が完成[150]。工作機械と車両の双方で新製品を出す一方、売上高は1976年3月期の1,157億円から1981年3月期の1,826億円へ、経常利益は42億円から51億円へ増えた[151]。新潟鐵工所が抱える事業は1975年3月期の時点で9区分にわたり、化工機が36.3%、内燃機関が29.6%、船舶が16.2%を占め、車両・建設機械・産業機械・工作機械・鋳造品・空調機器が残りを分けていた[152]

    • [149]1976年6月、世界初のマシニングセンタ夜間無人運転システムを開発した
    • [150]1979年11月、大阪市向け新交通システム「ニュートラム」の試作車が完成した
  • 会社年鑑 1986年版
    • [151]単体売上高は1976年3月期1,157億円・経常利益42億円、1981年3月期1,826億円・経常利益51億円
  • 会社年鑑 1976年版
    • [152]1975年3月期の売上構成比は化工機36.3%、内燃機関29.6%、船舶16.2%、車両5.5%、建設機械4.8%、産業機械3.8%、工作機械3.2%、鋳造品0.4%、空調機器0.2%の9区分

1980年、新潟鐵工所は石油・ガス開発関連機器の分野へ進出するため、海外の有力企業との提携を重ねた[153]。石油と天然ガスの井戸処理システムで世界的に知られる米国のBS&Bエンジニアリング社については日本法人に資本参加し、米国BS&Bセイフティーシステムズ社とは合弁会社を設立した[154]。石油関連ではほかにも数社と合弁会社を設けた[155]。新潟鐵工所の狙いは技術を教わることではなく、海外企業の看板を借りて信用を得ることにあった[156]。信頼性が生命の石油開発用機器では、品質がいくら良くても無名の日本製品は世界市場で相手にされないためである[157]

  • 日経ビジネス 1980年8月11日号
    • [153]1980年、石油・ガス開発関連機器の分野への進出を効率的に進めるため、海外の有力企業との提携に出た
    • [154]石油・天然ガスの井戸処理システムで世界的に著名な米国BS&Bエンジニアリング社の日本法人に資本参加し、米国BS&Bセイフティーシステムズ社と合弁会社を設立した
    • [155]このほかにも石油関連で数社と合弁会社を設けていた
    • [156]提携のねらいは技術を教えてもらうことではなく、海外企業の看板を借りることにあった
    • [157]信頼性が生命の石油開発用機器では、いくら品質がよくても無名の日本製品は世界市場で相手にされない

同じ1980年、新潟鐵工所は社長のなすべき事だけを書き出した『社長業マニュアル』を作った[158]。社長決裁事項は会社の基本方針、経営計画、役員の担当業務の決定、決算方針、予算編成方針、会社の新設、合併、新規事業、生産設備の購入など18項目で、これ以外は担当役員へ権限を委譲した[159]。あわせて稟議書制度を廃止し、形骸化していた常務会も取りやめた[160]。担当役員以下にも職務執行の責任を厳しく問う『行動マニュアル』と『権限細則』を設けた[161]。経営環境が複雑になるなかで社長の負担を軽くし、担当役員の責任を明確にすることが目的であった[162]

  • 日経ビジネス 1980年9月22日号
    • [158]1980年、社長のなすべき事を決めた「社長業マニュアル」を作った
    • [159]社長決裁事項は会社の基本方針、経営計画、役員の担当業務の決定、決算方針、予算編成方針、会社の新設、合併、新規事業、生産設備の購入など18項目で、これ以外は担当役員へ権限委譲した
    • [160]稟議書制度を廃止するとともに、形骸化していた常務会なども取りやめた
    • [161]担当役員以下にも「行動マニュアル」や「権限細則」を設け、それぞれ職務執行の責任を厳しく問う仕組みとした
    • [162]複雑化する経営環境に合わせ、社長の負担軽減と担当役員の責任明確化をはかった
    • [149]1976年6月、世界初のマシニングセンタ夜間無人運転システムを開発した
    • [150]1979年11月、大阪市向け新交通システム「ニュートラム」の試作車が完成した
  • 会社年鑑 1986年版
    • [151]単体売上高は1976年3月期1,157億円・経常利益42億円、1981年3月期1,826億円・経常利益51億円
  • 会社年鑑 1976年版
    • [152]1975年3月期の売上構成比は化工機36.3%、内燃機関29.6%、船舶16.2%、車両5.5%、建設機械4.8%、産業機械3.8%、工作機械3.2%、鋳造品0.4%、空調機器0.2%の9区分
  • 日経ビジネス 1980年8月11日号
    • [153]1980年、石油・ガス開発関連機器の分野への進出を効率的に進めるため、海外の有力企業との提携に出た
    • [154]石油・天然ガスの井戸処理システムで世界的に著名な米国BS&Bエンジニアリング社の日本法人に資本参加し、米国BS&Bセイフティーシステムズ社と合弁会社を設立した
    • [155]このほかにも石油関連で数社と合弁会社を設けていた
    • [156]提携のねらいは技術を教えてもらうことではなく、海外企業の看板を借りることにあった
    • [157]信頼性が生命の石油開発用機器では、いくら品質がよくても無名の日本製品は世界市場で相手にされない
  • 日経ビジネス 1980年9月22日号
    • [158]1980年、社長のなすべき事を決めた「社長業マニュアル」を作った
    • [159]社長決裁事項は会社の基本方針、経営計画、役員の担当業務の決定、決算方針、予算編成方針、会社の新設、合併、新規事業、生産設備の購入など18項目で、これ以外は担当役員へ権限委譲した
    • [160]稟議書制度を廃止するとともに、形骸化していた常務会なども取りやめた
    • [161]担当役員以下にも「行動マニュアル」や「権限細則」を設け、それぞれ職務執行の責任を厳しく問う仕組みとした
    • [162]複雑化する経営環境に合わせ、社長の負担軽減と担当役員の責任明確化をはかった
創業ストーリー(11)

1982年3月期の減収赤字と鷲尾秀夫社長の再建推進委員会

1982年3月期、新潟鐵工所の売上高は前期の1,826億円から1,773億円へ減り、経常利益は11億円の赤字、当期純利益は16億円の赤字に沈んだ[163]。1982年6月、入社以来ほぼ一貫して管理畑を歩いた鷲尾秀夫氏が社長に就任し、野島富雄氏は同年7月に会長へ移った[164]。鷲尾秀夫社長は1950年3月に東京大学法学部を卒業して新潟鐵工所に入り、1968年に経理部長、1971年に取締役、1972年に常務、1977年に専務を経ての就任であった[165]。鷲尾秀夫社長は、海外を中心とするプラント・エンジニアリング業務と内燃機、そして機械部門の建て直しを当面の重点課題に挙げた[166]。1982年10月にはエンジニアリング事業本部の組織を再編した[167]

  • 会社年鑑 1986年版
    • [163]単体売上高は1981年3月期1,826億円から1982年3月期1,773億円へ減少し、経常利益-11億円、当期純利益-16億円
  • 日経ビジネス 1983年1月10日号
    • [164]1982年6月に鷲尾秀夫氏が社長に就任。入社以来ほぼ一貫して管理畑を歩いた。野島富雄氏は1982年7月時点で会長
    • [165]鷲尾秀夫氏は1950年3月東京大学法学部卒、同年新潟鉄工所入社。1968年経理部長、1971年取締役、1972年常務、1977年専務を経て1982年6月社長就任
    • [166]当面の経営の重点課題は、海外を中心とするプラント・エンジニアリング業務と内燃機、そして機械部門の強化
    • [167]1982年10月からエンジニアリング事業本部の組織再編を実施した

赤字を計上したあとも、新潟鐵工所は抱える事業の数を減らさなかった。1983年3月に再建推進委員会を設置し[168]、1984年3月期は売上高1,421億円、経常利益47億円の赤字まで落ち込んだ[169]。1985年3月期は売上高1,508億円、経常利益3億円、当期純利益2億円と黒字に戻した[170]。この期の事業構成はエンジニアリング532億円で35%、内燃機関386億円で26%、工作機械153億円で10%、産業機械148億円で10%、建設機械他125億円で8%、船舶106億円で7%、車両55億円で4%の7区分だった[171]。1988年10月には世界初の10万回転主軸をもつ超高速NCフライス盤UHS10を開発した[172]

    • [168]1983年3月、再建推進委員会を設置した
    • [172]1988年10月、世界初の10万回転主軸をもつ超高速NCフライス盤UHS10を開発した
  • 会社年鑑 1986年版
    • [169]1984年3月期の単体売上高1,421億円、経常利益-47億円
    • [170]1985年3月期の単体売上高1,508億円、経常利益3億円、当期純利益2億円
    • [171]1985年3月期の事業別売上はエンジニアリング532億6,400万円(35%)、内燃機関386億4,400万円(26%)、工作機械153億4,900万円(10%)、産業機械148億6,100万円(10%)、建設機械他125億4,800万円(8%)、船舶106億1,500万円(7%)、車両55億1,900万円(4%)
  • 会社年鑑 1986年版
    • [163]単体売上高は1981年3月期1,826億円から1982年3月期1,773億円へ減少し、経常利益-11億円、当期純利益-16億円
    • [169]1984年3月期の単体売上高1,421億円、経常利益-47億円
    • [170]1985年3月期の単体売上高1,508億円、経常利益3億円、当期純利益2億円
    • [171]1985年3月期の事業別売上はエンジニアリング532億6,400万円(35%)、内燃機関386億4,400万円(26%)、工作機械153億4,900万円(10%)、産業機械148億6,100万円(10%)、建設機械他125億4,800万円(8%)、船舶106億1,500万円(7%)、車両55億1,900万円(4%)
  • 日経ビジネス 1983年1月10日号
    • [164]1982年6月に鷲尾秀夫氏が社長に就任。入社以来ほぼ一貫して管理畑を歩いた。野島富雄氏は1982年7月時点で会長
    • [165]鷲尾秀夫氏は1950年3月東京大学法学部卒、同年新潟鉄工所入社。1968年経理部長、1971年取締役、1972年常務、1977年専務を経て1982年6月社長就任
    • [166]当面の経営の重点課題は、海外を中心とするプラント・エンジニアリング業務と内燃機、そして機械部門の強化
    • [167]1982年10月からエンジニアリング事業本部の組織再編を実施した
    • [168]1983年3月、再建推進委員会を設置した
    • [172]1988年10月、世界初の10万回転主軸をもつ超高速NCフライス盤UHS10を開発した
創業ストーリー(12)

135億円の株式含み損から会社更生法申請と5社への承継

1992年3月期、新潟鐵工所の売上高は1,805億4,700万円と過去最高に達した[173]。1995年3月31日に日経平均株価が1万6139円まで下げると、保有する銀行株の下落で株式含み損は135億円前後へ拡大し、製造業で最大となった[174]。三井信託銀行株は簿価36億円に対し時価14億円、安田信託銀行株は簿価39億円に対し時価11億円まで下がった[175]。時価が簿価の2分の1になれば損失を決算処理しなければならないと商法などが定めていたが、新井績専務は持ち合い株の売却を検討しつつ、1995年3月期には損失を計上しない方針を示した[176]。1994年3月期までの新潟鐵工所は、数十億円の含み損を抱えたまま配当と役員賞与を続けていた[177]。1995年6月には大田区蒲田本町で新本社ビルが竣工した[178]

  • 帝国データバンク(2001年11月27日)
    • [173]1992年3月期に売上高が過去最高の1,805億4,700万円
  • 日経ビジネス 1995年4月10日号
    • [174]1995年3月31日、日経平均株価は1万6139円で引け、保有する銀行株の下落で新潟鉄工所の株式含み損は135億円前後へ拡大し、製造業最大となった
    • [175]三井信託銀行株は簿価36億円が時価14億円、安田信託銀行株は簿価39億円が時価11億円
    • [176]時価が簿価の2分の1になった場合は損失を決算処理しなければならないという商法などの規定があるが、新井績専務は持ち合い株の売却を検討しつつ1995年3月期の決算では損失計上しない方針を示した
    • [177]1994年3月期までは数十億円の含み損を抱えながら配当と役員賞与を続けていた
    • [178]1995年6月、大田区蒲田本町に新本社ビルが竣工した

2000年3月、新潟鐵工所は経営再建計画『S-21』を策定した[179]。2001年11月27日、東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請[180]。負債総額は2,270億円、申請時の代表は村松綏啓社長、資本金167億円、従業員2,338名で、日経平均株価225種の採用銘柄であった[181]

  • 帝国データバンク(2001年11月27日)
    • [179]2000年3月、経営再建計画「S-21」を策定した
    • [180]2001年11月27日、東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請した
    • [181]負債総額2,270億円、申請時の代表は村松綏啓氏、資本金167億円、従業員2,338名。東証一部上場で日経平均株価225種の採用銘柄だった

2002年2月28日、東京証券取引所市場第一部の上場が廃止された[182]。7区分に分かれていた事業は、5つの会社へ渡った。2002年4月に石川島播磨重工業と原動機事業の提携で基本合意し、同年6月には交通システム・車両・除雪関連事業でも基本合意に達した[183]。2003年2月、原動機事業を新潟原動機へ、鉄道車両・除雪機械事業を新潟トランシスへ承継[184]。2003年4月には造船事業を三井造船の全額出資による新潟造船へ、変速機事業を日立ニコトランスミッションへ移し、工作機械事業はニイガタマシンテクノが引き継いだ[185]

    • [182]2002年2月28日、東京証券取引所市場第一部の上場を廃止した
  • 石川島播磨重工業 プレスリリース(2003年1月30日)
    • [183]2002年4月に石川島播磨重工業と原動機事業の提携で基本合意、同年6月に交通システム・車両・除雪関連事業でも基本合意した
  • 新潟トランシス 会社概要
    • [184]2003年2月、原動機事業を新潟原動機へ、鉄道車両・除雪機械事業を新潟トランシスへ承継した
  • 新潟造船 会社概要/日立ニコトランスミッション 沿革/ニイガタマシンテクノ 沿革
    • [185]2003年4月に造船事業を三井造船の全額出資による新潟造船へ、変速機事業を日立ニコトランスミッションへ承継。工作機械事業はニイガタマシンテクノへ承継した
  • 帝国データバンク(2001年11月27日)
    • [173]1992年3月期に売上高が過去最高の1,805億4,700万円
    • [179]2000年3月、経営再建計画「S-21」を策定した
    • [180]2001年11月27日、東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請した
    • [181]負債総額2,270億円、申請時の代表は村松綏啓氏、資本金167億円、従業員2,338名。東証一部上場で日経平均株価225種の採用銘柄だった
  • 日経ビジネス 1995年4月10日号
    • [174]1995年3月31日、日経平均株価は1万6139円で引け、保有する銀行株の下落で新潟鉄工所の株式含み損は135億円前後へ拡大し、製造業最大となった
    • [175]三井信託銀行株は簿価36億円が時価14億円、安田信託銀行株は簿価39億円が時価11億円
    • [176]時価が簿価の2分の1になった場合は損失を決算処理しなければならないという商法などの規定があるが、新井績専務は持ち合い株の売却を検討しつつ1995年3月期の決算では損失計上しない方針を示した
    • [177]1994年3月期までは数十億円の含み損を抱えながら配当と役員賞与を続けていた
    • [178]1995年6月、大田区蒲田本町に新本社ビルが竣工した
    • [182]2002年2月28日、東京証券取引所市場第一部の上場を廃止した
  • 石川島播磨重工業 プレスリリース(2003年1月30日)
    • [183]2002年4月に石川島播磨重工業と原動機事業の提携で基本合意、同年6月に交通システム・車両・除雪関連事業でも基本合意した
  • 新潟トランシス 会社概要
    • [184]2003年2月、原動機事業を新潟原動機へ、鉄道車両・除雪機械事業を新潟トランシスへ承継した
  • 新潟造船 会社概要/日立ニコトランスミッション 沿革/ニイガタマシンテクノ 沿革
    • [185]2003年4月に造船事業を三井造船の全額出資による新潟造船へ、変速機事業を日立ニコトランスミッションへ承継。工作機械事業はニイガタマシンテクノへ承継した

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沿革年表 1895〜2003年

新潟鐵工所の沿革1895〜2003年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1895〜1917年日本石油の付属工場から株式会社新潟鉄工所の設立へ日本石油の付属工場として新潟に創立事務所を設置★★★
工場設備の完成により営業開始
北越鉄道と車両製造契約を締結し車両工場を設置★★
新潟造船工場を設置
国内初の鋼製油槽船「宝国丸」を進水★★
山口達太郎日本石油から分離独立して設立★★★
山口達太郎東京株式取引所の定期取引に株式を上場
山口達太郎本店を東京に移転★★
1918〜1949年ディーゼル機関の国産化と、蒲田・長岡両工場の焼失山口達太郎英国マーリース社から4サイクルディーゼル機関の製造権を取得★★
山口達太郎試作ディーゼル機関第1号機M4Z型を試運転★★
山口達太郎関東大震災により本社社屋が倒壊焼失
山口達太郎世界初のディーゼル捕鯨船に舶用機関を据付け★★
山口達太郎国家総動員法により新潟工場が陸海軍の管理工場に指定
山口達太郎米軍空襲により蒲田工場と中央研究所が被災★★
山口達太郎新潟工作機工場など3工場が第2次賠償指定工場に指定★★
山口達太郎過度経済力集中排除法の指定(同年11月に取消)★★
山口達太郎東京・大阪の両証券取引所に株式を上場
1950〜1975年倉井敏麿社長の再建と、6事業部制の総合機械メーカー倉井敏麿人員整理をめぐる争議が妥結★★
倉井敏麿米国サンドストランド社と生産フライス盤で技術提携
倉井敏麿帝国石油と3,000m級石油掘削装置N3000型を共同開発
倉井敏麿事業部制を採用し車両事業部が発足★★
倉井敏麿建設機械部門に参入
倉井敏麿初の数値制御工作機械22SMEVN型が完成★★
倉井敏麿射出成形機第1号機S350/550VE型が完成
中貞男新潟地震により山の下・入船地区の4工場が冠水★★
1976〜2003年7部門を抱えたまま迎えた2001年の会社更生法申請野島富雄世界初のマシニングセンタ夜間無人運転システムを開発★★
野島富雄大阪市向け新交通システム「ニュートラム」試作車が完成★★
鷲尾秀夫再建推進委員会を設置★★
鷲尾秀夫世界初の10万回転主軸をもつ超高速NCフライス盤UHS10を開発
鷲尾秀夫売上高が過去最高の1,805億円
鷲尾秀夫大田区蒲田本町に新本社ビルが竣工
鷲尾秀夫経営再建計画「S-21」を策定★★
村松綏啓東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請★★★
村松綏啓東京証券取引所市場第一部の上場廃止
村松綏啓石川島播磨重工業と原動機事業の提携で基本合意★★
工作機械事業をニイガタマシンテクノに承継★★
原動機事業と鉄道車両・除雪機械事業を新会社2社に承継★★★
造船事業を新潟造船に、変速機事業を日立ニコトランスミッションに承継★★
出典・参考 24件
出典・参考
  • 石川島播磨重工業 プレスリリース(2003年1月30日)
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
  • 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
  • 上場会社総覧 1956年版 半期合算
  • 上場会社総覧 1961年版 半期合算
  • 会社年鑑 1963年版 半期合算
  • 会社年鑑 1967年版 半期合算
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「新潟鉄工所」
  • 会社年鑑 1971年版 半期合算
  • 会社年鑑 1976年版
  • 会社年鑑 1986年版
  • 証券アナリストジャーナル 1963年(羽深知治)
  • 証券アナリストジャーナル 1971年7月号(吉村義城・講演)
  • 日経ビジネス 1980年8月11日号
  • 日経ビジネス 1980年9月22日号
  • 日経ビジネス 1983年1月10日号
  • 日経ビジネス 1995年4月10日号
  • 帝国データバンク(2001年11月27日)
  • 日本取引所グループ「上場廃止銘柄一覧」
  • 新潟トランシス 会社概要
  • 新潟造船 会社概要/日立ニコトランスミッション 沿革/ニイガタマシンテクノ 沿革

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