日本石油は1890年に米国からさく井機械を輸入して機械さく井に成功したが、機械の一部を修理するにも東京方面へ送るほかなかった[1]。直江津港以北には鉄道の便がなく、同港と事業地とのあいだの運搬は主として小汽船に頼っていた[2]。修理に長い日数がかかる状態を改めるため、内藤久寛氏ら取締役は自ら鉄工所を経営する結論を得て、1894年8月5日に尼瀬の本社で臨時株主総会を開き、付属事業としての新潟鐵工所設置を可決した[3]。日本海岸地方には見るべき機械類の製作所がなかったので、石油事業に要る機械器具に加えて一般機械の製作修繕も引き受ける方針を立て、交通運輸の便から中蒲原郡松島村字山ノ下に5,473坪を買い入れた[4]。1895年6月16日、日本石油株式会社支店新潟鐵工所として設立登記を済ませ、同日創立事務所を設けた[5]。
工場・倉庫・事務所など6棟は1895年9月に落成し、英国から輸入した機械は翌1896年1月27日に横浜経由で新潟へ入港した[6]。据え付けを終えて5月8日に試運転を行い、そのまま営業に入った[7]。開業時の規模は敷地5,473坪、建物311坪、社員11名、工員196名[8]。仕事はほとんどが日本石油の石油事業に関するものだった[9]。ところが開業から半年後の1896年11月11日、鋳工場から出た火が隣接の機械仕上工場と鍛工場へ回り、事務所と倉庫を残して工場を全焼させた[10]。車両工場の建築用材が焼け残ったのでこれを流用し、全員交替の徹夜作業で2週間後の11月25日に試運転までこぎつけた[11]。
1897年に引き受けた汽船『安進丸』の汽機・汽罐と汽船『六甲丸』の汽罐は、設備と技術者の経験がともに足りず失敗に終わった[12]。『安進丸』は1898年1月の試運転で速力が従来にも達せず、同年10月に安進社から契約取消と機関の引き取り拒絶を通告された[13]。『六甲丸』はクランクシャフトを自社で作れずに三菱造船所へ組合式で発注し、汽機・汽罐の据え付けを終えるまでに工事開始から1年半かかった[14]。業績は極度の不振に陥り、1899年1月の株主総会では株主側から鉄工所廃止説が出たが、山口権三郎氏と内藤久寛氏ら取締役が陳弁して存続に決した[15]。同年4月、難工事の処理に当たった技師長の笹村万蔵氏が所長となり、社員と工員の淘汰に踏み切った[16]。石油事業の好況もあって、1899年前半期には創業後初めて相当の利益を計上した[17]。
開業の翌月にあたる1896年6月、新潟鐵工所は直江津・新潟間を結ぶ北越鉄道と鉄道車両の製造および修理について正式に契約を結び、車両工場の建設に着手した[18]。北越鉄道も車両修繕のため自ら工場を設ける必要を感じていたが、新潟鐵工所の設置を受けて計画を見合わせ、同所を利用する口約を交わしていた[19]。石油機械以外への最初の広がりがこの契約であり、新潟鐵工所は一般機械に鉄道車両を加える方針を立てた[20]。車両は1896年の北越鉄道向け客車に始まり、1899年に半木製タンク車、1907年に全鋼製タンク車を製作した[21]。1909年10月4日には逓信大臣兼鉄道院総裁の後藤新平氏が随員7名とともに来場して設備を調査し、新潟鐵工所は鉄道用橋梁および機械の指定工場となった[22]。
石油の産地が動くにつれ、新潟鐵工所は油田の近くへ分工場を置いて供給と修繕を早めた[23]。1900年10月に柏崎分工場、1902年3月に長岡分工場を設けた[24]。長岡分工場は市内の鉄工場を買収したもので、東山油田の顧客、とりわけ長岡に本拠を構えて日本石油と対立していた宝田石油の注文を取ることを目的とした[25]。1903年には米国スタンダード石油の分身であるインタナショナル石油会社の発注を見込んで直江津分工場を置いたが、同社は1907年6月に新潟県下の事業財産全部を175万円で日本石油へ売却して日本を去り、直江津分工場は1910年7月に廃止となった[26]。石油発動機は1901年から1902年ごろに長岡分工場が採油の動力用として作り始め、1905年には新潟の本工場でも25馬力以下10種の小工業用原動機を製作した[27]。
1904年11月、日露戦争のさなかに東京陸軍砲兵工廠から砲弾旋盤50台を単価850円で受注し、約1年を費やして1905年末に納め終えた[28]。これが新潟鐵工所による工作機械製作の最初で、以後の自家用工作機械はおおむね自社で作った[29]。造船と船渠は創業計画に含まれながら入船町の用地買収に失敗して持ち越されていたが、1904年に主要土地9,700坪を買収して着手し、1905年7月に新潟造船工場が操業を始めた[30]。同年10月には第一番船となる200トン型木造汽船の建造に入り、1906年6月に『第一日本海丸』として完成させ、同時に運輸部を開設した[31]。1908年5月、国内で最初の鋼製油槽船『宝国丸』を進水させた[32]。
創業から15年を経て基礎が固まり、日本石油から分離独立するほうが経営上便利だという判断に至った[33]。1910年3月5日の役員会で意見が一致し、翌6日の臨時株主総会が新潟鐵工所の分離を満場一致で可決した[34]。内藤久寛氏と山口達太郎氏ら9名が発起人となって資本金200万円の株式会社新潟鐵工所を設立し、日本石油所属の新潟鐵工所の財産全部を買収してその営業と一切の権利義務を引き継いだ[35]。株式の募集では、日本石油の株主に所有株式5株につき1株の割合で応募優先権を認めた[36]。6月17日、新潟商業会議所で創立総会を開いて発足し、本店は新潟市入船町に置いた[37]。取締役社長には日本石油創業者である山口権三郎氏の長男の山口達太郎氏[38]が就き、専務取締役には笹村万蔵氏が就任した[39]。
第1回決算にあたる1910年11月30日時点の株主は1,590名で、うち新潟県内が1,293名、東京が118名、その他の府県が179名だった[40]。中央への足がかりは1908年4月に東京市京橋区本材木町の日本石油東京販売店内へ置いた東京出張店で[41]、分離独立に際して隣地へ独立の事務所を新築した[42]。発動機付漁船の普及で石油発動機の需要が伸びたため、京橋区月島一号地に東京精米から市有地2,000余坪の借地権を譲り受け[43]、1913年5月に東京工場を落成させた[44]。工作機械は1913年に営業品目へ加え、1914年の第一次世界大戦勃発で需要が急増し、1916年には年産300台に達した[45]。1916年2月10日、東京株式取引所で新潟鐵工所株式の売買が始まった[46]。
中央での業務が繁忙を加え、本社を新潟に置いたままにはできない事情となった[47]。1917年6月26日の定時株主総会が本社の東京移転を議決すると新潟市から反対の声が上がり、笹村万蔵専務が東京進出の必要と新潟工場がかえって発展することを力説して了解を求めた[48]。同年7月1日、本社を東京市麹町区有楽町三丁目五番地へ移した[49]。移転先には、1916年3月16日から東京出張所が借りていた数寄屋橋際の2階建て貸事務所をあてた[50]。10月1日には東京市築地の精養軒で披露晩餐会を開き、山口達太郎社長の挨拶に対して農商務大臣の仲小路廉氏と子爵の渋沢栄一氏らが祝辞を述べた[51]。
新潟鐵工所がディーゼル機関の製造権買収に動いた出発点は、技師の加藤重男氏が持ち帰った調査にある。加藤重男氏は1912年に農商務省海外練習生として渡米し、内燃機関とテーラー式科学的管理法を修得したうえで、英国のマーリース社とスウェーデンのA・Bディーゼル社を調査して帰国した[52]。帰国後には便箋50枚におよぶ建言書『ディーゼル機関製作企業について』を提出し、欧州の一流製作者から製作権を得て事業を始めるよう求めている[53]。新潟鐵工所は石油発動機の製作経験から、先進国の製造権を買収して設計と製作技術を修得する道を選び、1916年6月、東京工場の設備購入で渡米中の加藤重男氏にディーゼル機関の調査を当たらせた[54]。
製造権の交渉と並行して、新潟鐵工所は自社設計の機関も仕上げた。A・Bディーゼル社との交渉は先方が新条件を出し続けて1年近くを費やしたのち断念し、英国のマーリース・ビッカートン・エンド・デイ社へ切り替えた結果、1918年1月に製造及び特許権買収の契約が成立した[55]。先に輸入していたA・Bディーゼル社の50馬力舶用機関に範を採り、1918年春には自社設計のポーラー形舶用100馬力へ取りかかっている[56]。試作第1号機M4Z型の試運転は1919年5月[57]。この舶用100馬力は1920年4月、静岡県焼津町の東海遠洋漁業『第二太洋丸』と御前崎村の『海運丸』へ据え付けられた[58]。陸用の第1号機となるマーリース形300馬力は1920年6月に完成し、国産ディーゼル機関の最初期にあたる[59]。同月19日に東京工場で試運転を公開したのち、京都市外山科の日本絹布へ納入した[60]。
東京工場は1913年の建設から間もなく手狭になり、拡張の余地もなかったため、新潟鐵工所はディーゼル機関の専門工場を別に設けた[61]。東京府荏原郡蒲田村の駅に隣接する土地を1918年2月から秋までに20,000余坪買収し、水田だった敷地の一部を掘って3尺以上の地盛りに充て、同年11月から建築に入った[62]。1919年7月に機械工場1,737坪を建て、1920年9月から一部で操業を始めた[63]。1921年11月には、技師の松浦春吉氏が欧米調査に基づいて設計した1,000坪の鋳物工場が竣工している[64]。蒲田工場では加藤重男氏が米国タボア製造会社で修得したテーラー式科学的管理法を全面採用し、生産組織を計画部門と実施部門に分けたうえ、材料管理・工程管理・原価計算の伝票や書式まで同社の様式にならって作成した[65]。
1923年3月、蒲田工場の機械工の一部が東京鉄工組合蒲田支部を組織し、新潟鐵工所が主謀者3名を解雇すると、機械工全員約280名が日給制の復旧・退職手当の制定・解雇者の復職を求めて怠業に入った[66]。争議は6月末から東京工場も加わって長引き、8月には約200名が工場事務所へ押しかけて本儀正工場長を負傷させ、警視庁は翌日までに100余名を検挙した[67]。争議団が解散したのは、9月1日の関東大震災による[68]。日比谷交叉点付近の本社は隣家の倒壊で崩れたうえに焼失し、東京工場も夜に入って類焼した[69]。蒲田工場の被害は大物組立工場と鋳物工場の一部、小物組立工場1棟と煙突の崩壊にとどまり、機械類は全部無事だった[70]。
震災後、新潟鐵工所は東京工場の復興を見合わせた。かねて蒲田工場への合併を考えていたため、工員74名と社員13名を解雇して残りを他工場へ転勤させ、使用に耐える機械と在庫品を蒲田工場へ送って工作機械の製作を続けた[71]。焼失した本社と東京工場には451,000円の保険を掛けていたが、一部の見舞金すら見込めない状況だった[72]。損害計上額は本社30,207円、東京工場850,026円、蒲田工場100,000円の合計980,234円に達した[73]。1924年6月の定時株主総会では、資本金500万円を400万円へ減じて震災による繰越損失金910,000円を補填することを決議している[74]。
1926年下期には、戸畑鋳物社長の鮎川義介氏から農林省水産局技師の田島達之輔氏を介して提携の申し入れがあり、協議は蒲田工場を新潟鐵工所から分離して戸畑鋳物へ合併する案に転じたが、条件の隔たりが大きく交渉を打ち切った[75]。一方、大形機関には別の方式が求められた。従来の4サイクルは中・小形に適し、大形には2サイクルが有利とされたためで、技師の仲谷新治氏を派遣し、1924年7月にスウェーデンのノベル社から2サイクル・ディーゼル機関の製造権を買収している[76]。試作の舶用500馬力は1926年7月に完成し、以後は舶用・陸用として供給範囲を広げた[77]。1928年に蒲田工場で製作した2,000馬力機関は、陸用として国内最大となった[78]。
1929年から新潟鐵工所は機種別の専門工場へ生産を組み替えた。同年10月、震災後に蒲田工場で続けていた工作機械の製造を新潟工場構内の新工場へ移し、1930年末には焼玉機関の専門工場を同じ構内に落成させている[79]。蒲田工場はディーゼル機関の需要増に追われて焼玉機関の製作を中止し、ディーゼル機関に絞った[80]。用途の面では1930年前後から車両用・舶用の軽量高速機関に着手し、ディーゼルカーを完成させた[81]。1935年6月には石油精製装置と貯油槽を作るため月島工場を設けた[82]。1937年10月、世界初のディーゼル捕鯨船へ舶用機関を据え付けている[83]。
1937年に工作機械製造事業法が制定されると、新潟鐵工所は5大メーカーの1つとして指定工場に選ばれた[84]。1939年7月には国家総動員法により新潟工場が陸海軍の管理工場に指定されている[85]。軍需の割り当ては工場の新設に直結し、同年8月に石油鑿井機を作る長岡第二工場、9月に高速ディーゼル機関と軽戦車を作る浦和工場を設立した[86]。1942年以降は戦時増産に応じるため、蔵王分工場・三条分工場・六日町工場・柿崎工場・加茂工場と拡張を重ねた[87]。1945年4月には米軍の空襲で蒲田工場と中央研究所が被災し[88]、同年の戦災で蒲田工場の7割と長岡第一工場を焼失した[89]。
終戦後の新潟鐵工所は工場の一部を閉鎖したうえで民需へ転換し、従来の業務に復帰した[90]。1946年8月に新潟工作機工場など3工場が第2次賠償指定を受け、1948年2月には過度経済力集中排除法の指定を受けたが、同年11月に取り消されている[91]。それでも復興は遅れ、多数の人員を抱えたまま仕事量が不足し、資金調達の道も閉ざされて賃金の分割払いに至った[92]。1949年のドッジ・ライン実施で鉄道車両の需要が激減し、内示発注の取消しが重なって深刻な影響を受けた[93]。同年5月には東京・大阪の両証券取引所へ株式を上場している[94]。新潟鐵工所は同年、2度にわたる人員整理を行ない、独立採算制を採用したが、立ち直りには至らなかった[95]。人員整理をめぐる労働争議は同年に頂点へ達し、組合連合を脱退した浦和工場の争議は激烈をきわめた[96]。
1949年に2度の人員整理を行った新潟鐵工所では[97]、整理をめぐる争議が1950年6月に妥結し、解雇退職者は1,376名にのぼった[98]。同年8月、日本勧業銀行から倉井敏麿氏が社長に就任した[99]。倉井敏麿社長は社内機構と職制を改め、受注から生産に至る一切の計画を本社で立案し、各工場はその指示に従って生産にあたる方式へ切り替えた[100]。経営を科学的・合理的に運営する方針のもと、赤字の解消と経理の健全化、技術提携の推進、合弁会社および傍系会社の発足に着手している[101]。1950年3月には下関営業所、10月には札幌営業所を開いて営業網を広げた[102]。折から朝鮮動乱の勃発で機械工業は活況に転じ、新潟鐵工所も大幅な利益を計上した[103]。
倉井敏麿社長は海外からの技術導入を再建策の柱に据えた[104]。1952年12月に米国トウィン・ディスク社とトルクコンバーターおよび流体接手で提携し、続いてウォシントン社とポンプおよびコンプレッサーで契約を結んだ[105]。1954年7月には米国サンドストランド社と生産フライス盤で提携し[106]、車両メーカー10社と共同でトランシット・リサーチ・コーポレーションとPCCカー、ジャパン・ミーハナイト社を通じてミーハナイト鋳物の提携も加わった[107]。トウィン・ディスク社には加茂工場、ウォシントン社には柏崎工場を現物出資し[108]、出資比率75%の新潟コンバーターと51%の新潟ウォシントンを設けた[109]。1954年2月には台湾造船有限公司に舶用内燃機関と漁船の製造販売権を許諾する契約を結び、東南アジアの一角に輸出ルートを開いた[110]。1954年3月期の売上高は38億円、当期純利益は2億円を記録した[111]。
新潟鐵工所は日本石油から分離独立した経緯から、石油精製と石油化学のプラント建設に古くから携わってきた[112]。1955年3月には帝国石油と3,000m級の石油掘削装置N3000型を共同開発した[113]。化工機の製作はプラントの設計、機器の製作、現地の組立据付の3部門に分かれ、この3つを一括して請け負っていたのは千代田化工建設と新潟鐵工所の2社である[114]。新潟鐵工所はこの部門の伸びを見込んで横浜根岸の埋立地に新工場を建て、1963年6月までに操業を始めた[115]。し尿処理装置や塵埃処理設備を扱う浄化工業部門も加わり、年間2〜3億円の売上高を1964年度に5〜7億円へ伸ばす見込みを立てた[116]。
1959年7月、新潟鐵工所は建設機械部門に参入した[117]。トラックミキサーは米国ウォシントン社との技術提携によるもので、アスファルト・フィニッシャーなどの舗装用機械は日本舗道と業務提携して作った[118]。道路建設計画の進行に合わせて生産力を広げ原価を下げるため、高崎に新工場を建てた[119]。工作機械では、終戦時の賠償指定で1951年まで製作を禁じられた遅れを取り戻すべく、フライス盤、プレーナー、普通旋盤、自動旋盤へ生産を絞った[120]。ベッド型フライス盤と自動旋盤は米国サンドストランド社との提携品で、ニイガタ・サンドストランドの商標で販売した[121]。1961年9月には初の数値制御工作機械22SMEVN型を完成させた[122]。
部門ごとの自主的な運営と責任の所在をはっきりさせるため、新潟鐵工所は1959年6月に製品別事業部制を採用し[123]、車両事業部を発足させた[124]。同じ時期に社工員の差別撤廃、職階制の施行、給与形態の改正といった労務管理の近代化も実施した[125]。受注高は1960年上期の60億円弱から岩戸景気の1961年上期に100億円近くへ伸び、1962年下期には金融引締めと設備投資の抑制を受けて72億円まで落ちた[126]。売上高は1959年3月期の61億円から[127]1962年3月期の164億円へ増えた[128]。1963年12月には射出成形機の第1号機S350/550VE型が完成した[129]。
1964年6月の新潟地震で、山ノ下・入船地区にあった内燃機、製鋼、工作機、造船の4工場が冠水し[130]、建物の倒壊や傾斜も生じた[131]。同年11月の定時株主総会後の役員会で倉井敏麿社長は会長へ退き、副社長の中貞男氏が社長に就任した[132]。1965年3月期の売上高は196億円と前期の193億円から伸び悩み、当期純利益は3億円の赤字に転じた[133]。中貞男社長は被災した4工場のうち造船工場を除く3工場と支社を、新潟市岡山(大形)地区へ移すと決めた[134]。用地16万2,000平方メートル(約5万坪)を買収し、建設費27億円を投じた[135]。
移転は2期に分けて進んだ[136]。1966年6月に内燃機と鋳造の2工場が完成し、同年8月に操業を始めた[137]。工作機工場は1967年10月に完成し、設備を移して12月に操業へ入った[138]。新潟地区の内燃機、工作機械、鋳造の3工場が大形地区に出そろい[139]、レイアウトを組み替えた設備配置に加えて公害対策と労働環境にも配慮を加えた[140]。中貞男社長は組織の改善、人材の配置、長期経営計画の策定、新製品の開発、営業網の拡充を並行して実施し、不況下でも業績を押し上げた[141]。売上高は1967年3月期の275億円から1968年3月期に318億円へ増え、当期純利益は7億円である[142]。
1971年時点で新潟鐵工所は資本金95億円、従業員7,000名、新潟県下7と関東6の計13工場を擁し、化工機、内燃機、機械、車両建機、造船、鋳造の6事業部を置いた[143]。1970年度の売上高は約630億円[144]。第3次3カ年計画では、基準年次1969年度の受注高610億円に対し、1972年度の受注規模を年間1,000億円へ広げる目標を掲げた[145]。1970年代前半には公害防止機器、長距離輸送パイプライン、NC工作機械を核とする省力化機器、吸収式冷暖房機器、海洋開発の各分野へ手を伸ばした[146]。1975年3月期の売上高は1,094億円、経常利益は35億円[147]。同期の大株主上位10名は第一勧銀、三井信託、日本火災、朝日生命など銀行と保険会社が並び、日本石油は入っていない[148]。
1976年6月、新潟鐵工所は世界初のマシニングセンタ夜間無人運転システムを開発した[149]。1979年11月には大阪市向け新交通システム『ニュートラム』の試作車が完成[150]。工作機械と車両の双方で新製品を出す一方、売上高は1976年3月期の1,157億円から1981年3月期の1,826億円へ、経常利益は42億円から51億円へ増えた[151]。新潟鐵工所が抱える事業は1975年3月期の時点で9区分にわたり、化工機が36.3%、内燃機関が29.6%、船舶が16.2%を占め、車両・建設機械・産業機械・工作機械・鋳造品・空調機器が残りを分けていた[152]。
1980年、新潟鐵工所は石油・ガス開発関連機器の分野へ進出するため、海外の有力企業との提携を重ねた[153]。石油と天然ガスの井戸処理システムで世界的に知られる米国のBS&Bエンジニアリング社については日本法人に資本参加し、米国BS&Bセイフティーシステムズ社とは合弁会社を設立した[154]。石油関連ではほかにも数社と合弁会社を設けた[155]。新潟鐵工所の狙いは技術を教わることではなく、海外企業の看板を借りて信用を得ることにあった[156]。信頼性が生命の石油開発用機器では、品質がいくら良くても無名の日本製品は世界市場で相手にされないためである[157]。
同じ1980年、新潟鐵工所は社長のなすべき事だけを書き出した『社長業マニュアル』を作った[158]。社長決裁事項は会社の基本方針、経営計画、役員の担当業務の決定、決算方針、予算編成方針、会社の新設、合併、新規事業、生産設備の購入など18項目で、これ以外は担当役員へ権限を委譲した[159]。あわせて稟議書制度を廃止し、形骸化していた常務会も取りやめた[160]。担当役員以下にも職務執行の責任を厳しく問う『行動マニュアル』と『権限細則』を設けた[161]。経営環境が複雑になるなかで社長の負担を軽くし、担当役員の責任を明確にすることが目的であった[162]。
1982年3月期、新潟鐵工所の売上高は前期の1,826億円から1,773億円へ減り、経常利益は11億円の赤字、当期純利益は16億円の赤字に沈んだ[163]。1982年6月、入社以来ほぼ一貫して管理畑を歩いた鷲尾秀夫氏が社長に就任し、野島富雄氏は同年7月に会長へ移った[164]。鷲尾秀夫社長は1950年3月に東京大学法学部を卒業して新潟鐵工所に入り、1968年に経理部長、1971年に取締役、1972年に常務、1977年に専務を経ての就任であった[165]。鷲尾秀夫社長は、海外を中心とするプラント・エンジニアリング業務と内燃機、そして機械部門の建て直しを当面の重点課題に挙げた[166]。1982年10月にはエンジニアリング事業本部の組織を再編した[167]。
赤字を計上したあとも、新潟鐵工所は抱える事業の数を減らさなかった。1983年3月に再建推進委員会を設置し[168]、1984年3月期は売上高1,421億円、経常利益47億円の赤字まで落ち込んだ[169]。1985年3月期は売上高1,508億円、経常利益3億円、当期純利益2億円と黒字に戻した[170]。この期の事業構成はエンジニアリング532億円で35%、内燃機関386億円で26%、工作機械153億円で10%、産業機械148億円で10%、建設機械他125億円で8%、船舶106億円で7%、車両55億円で4%の7区分だった[171]。1988年10月には世界初の10万回転主軸をもつ超高速NCフライス盤UHS10を開発した[172]。
1992年3月期、新潟鐵工所の売上高は1,805億4,700万円と過去最高に達した[173]。1995年3月31日に日経平均株価が1万6139円まで下げると、保有する銀行株の下落で株式含み損は135億円前後へ拡大し、製造業で最大となった[174]。三井信託銀行株は簿価36億円に対し時価14億円、安田信託銀行株は簿価39億円に対し時価11億円まで下がった[175]。時価が簿価の2分の1になれば損失を決算処理しなければならないと商法などが定めていたが、新井績専務は持ち合い株の売却を検討しつつ、1995年3月期には損失を計上しない方針を示した[176]。1994年3月期までの新潟鐵工所は、数十億円の含み損を抱えたまま配当と役員賞与を続けていた[177]。1995年6月には大田区蒲田本町で新本社ビルが竣工した[178]。
2000年3月、新潟鐵工所は経営再建計画『S-21』を策定した[179]。2001年11月27日、東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請[180]。負債総額は2,270億円、申請時の代表は村松綏啓社長、資本金167億円、従業員2,338名で、日経平均株価225種の採用銘柄であった[181]。
2002年2月28日、東京証券取引所市場第一部の上場が廃止された[182]。7区分に分かれていた事業は、5つの会社へ渡った。2002年4月に石川島播磨重工業と原動機事業の提携で基本合意し、同年6月には交通システム・車両・除雪関連事業でも基本合意に達した[183]。2003年2月、原動機事業を新潟原動機へ、鉄道車両・除雪機械事業を新潟トランシスへ承継[184]。2003年4月には造船事業を三井造船の全額出資による新潟造船へ、変速機事業を日立ニコトランスミッションへ移し、工作機械事業はニイガタマシンテクノが引き継いだ[185]。
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|---|---|---|---|---|
| 1895〜1917年日本石油の付属工場から株式会社新潟鉄工所の設立へ | 日本石油の付属工場として新潟に創立事務所を設置 | ★★★ | ||
| 工場設備の完成により営業開始 | ★ | |||
| 北越鉄道と車両製造契約を締結し車両工場を設置 | ★★ | |||
| 新潟造船工場を設置 | ★ | |||
| 国内初の鋼製油槽船「宝国丸」を進水 | ★★ | |||
| 山口達太郎 | 日本石油から分離独立して設立 | ★★★ | ||
| 山口達太郎 | 東京株式取引所の定期取引に株式を上場 | ★ | ||
| 山口達太郎 | 本店を東京に移転 | ★★ | ||
| 1918〜1949年ディーゼル機関の国産化と、蒲田・長岡両工場の焼失 | 山口達太郎 | 英国マーリース社から4サイクルディーゼル機関の製造権を取得 | ★★ | |
| 山口達太郎 | 試作ディーゼル機関第1号機M4Z型を試運転 | ★★ | ||
| 山口達太郎 | 関東大震災により本社社屋が倒壊焼失 | ★ | ||
| 山口達太郎 | 世界初のディーゼル捕鯨船に舶用機関を据付け | ★★ | ||
| 山口達太郎 | 国家総動員法により新潟工場が陸海軍の管理工場に指定 | ★ | ||
| 山口達太郎 | 米軍空襲により蒲田工場と中央研究所が被災 | ★★ | ||
| 山口達太郎 | 新潟工作機工場など3工場が第2次賠償指定工場に指定 | ★★ | ||
| 山口達太郎 | 過度経済力集中排除法の指定(同年11月に取消) | ★★ | ||
| 山口達太郎 | 東京・大阪の両証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 1950〜1975年倉井敏麿社長の再建と、6事業部制の総合機械メーカー | 倉井敏麿 | 人員整理をめぐる争議が妥結 | ★★ | |
| 倉井敏麿 | 米国サンドストランド社と生産フライス盤で技術提携 | ★ | ||
| 倉井敏麿 | 帝国石油と3,000m級石油掘削装置N3000型を共同開発 | ★ | ||
| 倉井敏麿 | 事業部制を採用し車両事業部が発足 | ★★ | ||
| 倉井敏麿 | 建設機械部門に参入 | ★ | ||
| 倉井敏麿 | 初の数値制御工作機械22SMEVN型が完成 | ★★ | ||
| 倉井敏麿 | 射出成形機第1号機S350/550VE型が完成 | ★ | ||
| 中貞男 | 新潟地震により山の下・入船地区の4工場が冠水 | ★★ | ||
| 1976〜2003年7部門を抱えたまま迎えた2001年の会社更生法申請 | 野島富雄 | 世界初のマシニングセンタ夜間無人運転システムを開発 | ★★ | |
| 野島富雄 | 大阪市向け新交通システム「ニュートラム」試作車が完成 | ★★ | ||
| 鷲尾秀夫 | 再建推進委員会を設置 | ★★ | ||
| 鷲尾秀夫 | 世界初の10万回転主軸をもつ超高速NCフライス盤UHS10を開発 | ★ | ||
| 鷲尾秀夫 | 売上高が過去最高の1,805億円 | ★ | ||
| 鷲尾秀夫 | 大田区蒲田本町に新本社ビルが竣工 | ★ | ||
| 鷲尾秀夫 | 経営再建計画「S-21」を策定 | ★★ | ||
| 村松綏啓 | 東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請 | ★★★ | ||
| 村松綏啓 | 東京証券取引所市場第一部の上場廃止 | ★ | ||
| 村松綏啓 | 石川島播磨重工業と原動機事業の提携で基本合意 | ★★ | ||
| 工作機械事業をニイガタマシンテクノに承継 | ★★ | |||
| 原動機事業と鉄道車両・除雪機械事業を新会社2社に承継 | ★★★ | |||
| 造船事業を新潟造船に、変速機事業を日立ニコトランスミッションに承継 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(新潟鐵工所)