第1章 年〜年

新潟鐵工所:日本石油の付属工場から株式会社新潟鉄工所の設立へ

1895年〜日本石油が山ノ下に設置した機械修理の付属工場

直江津港から北へは鉄道が通っておらず、港と事業地の往来は主に小汽船頼みだった。そのため、日本石油が1890年に米国から入れたさく井機械で機械さく井を成功させたあとも、機械の一部を直すだけで東京方面まで送り出すしかなかった。修理で長く待たされる状況を解消しようと、内藤久寛氏ら取締役は自前で鉄工所を営むことに決めた。1894年8月5日、尼瀬の本社で臨時株主総会が開かれ、付属事業として新潟鐵工所を置く案が可決された。日本海側には目ぼしい機械工場がなかったことから、石油事業向けの機械器具だけでなく一般機械の製作・修繕も請け負う方針とし、交通の便を考えて中蒲原郡松島村字山ノ下に5,473坪の土地を購入した。設立登記は1895年6月16日で、日本石油株式会社支店新潟鐵工所の名で行われ、同じ日に創立事務所も置かれた。

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [1]直江津港以北には鉄道の便がなく、同港と事業地とのあいだは主として小汽船によるほかに運搬の方法がなかった。
    • [2]明治23年(1890年)、日本石油は米国からさく井機械を輸入し初めて機械さく井に成功したが、当時は機械の一部分を修理するにも一々東京方面に送らなければならなかった。
    • [3]機械修理に長日数を要する状態を受けて山口・内藤ら諸取締役は会社自ら鉄工所を経営するとの結論を得、日本石油は明治27年(1894年)8月5日に尼瀬の本社で臨時株主総会を招集し、付属事業として新潟鉄工所設置を提案して可決した。
    • [4]日本海岸地方にはいうに足るべき機械類の製作所がなかったので、石油事業に必要な機械器具とともに一般機械類の製作修繕も引き受けることを目的とし、交通運輸の便を考えて山ノ下を候補地と定め、中蒲原郡松島村字山ノ下に明治28年(1895年)6月までに5,473坪を取得した。
    • [5]明治28年(1895年)6月16日、日本石油支店新潟鉄工所を設置し、同日創立事務所を設けた。登記社名は日本石油株式会社支店新潟鉄工所。

工場・倉庫・事務所など6棟は1895年9月に落成し、英国から輸入した機械は翌1896年1月27日に横浜経由で新潟へ入港した。据え付けを終えて5月8日に試運転を行い、そのまま営業に入った。開業時の規模は敷地5,473坪、建物311坪、社員11名、工員196名。仕事はほとんどが日本石油の石油事業に関するものだった。ところが開業から半年後の1896年11月11日、鋳工場から出た火が隣接の機械仕上工場と鍛工場へ回り、事務所と倉庫を残して工場を全焼させた。車両工場の建築用材が焼け残ったのでこれを流用し、全員交替の徹夜作業で2週間後の11月25日に試運転までこぎつけた。

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [6]建築工事は工場・倉庫・事務所など6棟の落成によって明治28年(1895年)9月中に大体終了し、英国から輸入した機械は汽船『金盛丸』で横浜から輸送され、明治29年(1896年)1月27日入港、2月6日荷揚げを終えた。
    • [8]創業当時の規模は敷地5,473坪、建物木造311坪、従業員は社員11名・工員196名。
    • [9]仕事はほとんど全部が日本石油の石油事業に関するものであった。
    • [10]開業後わずか半年の明治29年(1896年)11月11日午後9時20分頃、鋳工場から出火し、隣接の機械仕上工場、棟続きの鍛工場に及び、事務所と倉庫を残して工場全部が焼失した。
    • [11]車両工場の建築用材が焼失を免れたのでこれを流用し、全員交替徹夜作業を続けて災後わずか2週間で復旧し、同月25日に試運転を終えた。
  • 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
    • [7]1896年5月、工場設備の完成により営業開始。七十年史では明治29年5月8日に汽機汽罐据付を完了して試運転を行い、同日から営業を開始したとする。

1897年に引き受けた汽船"安進丸"の汽機・汽罐と汽船"六甲丸"の汽罐は、設備と技術者の経験がともに足りず失敗に終わった。"安進丸"は1898年1月の試運転で速力が従来にも達せず、同年10月に安進社から契約取消と機関の引き取り拒絶を通告された。"六甲丸"はクランクシャフトを自社で作れずに三菱造船所へ組合式で発注し、汽機・汽罐の据え付けを終えるまでに工事開始から1年半かかった。業績は極度の不振に陥り、1899年1月の株主総会では株主側から鉄工所廃止説が出たが、山口権三郎氏と内藤久寛氏ら取締役が陳弁して存続に決した。同年4月、難工事の処理に当たった技師長の笹村万蔵氏が所長となり、社員と工員の淘汰に踏み切った。石油事業の好況もあって、1899年前半期には創業後初めて相当の利益を計上した。

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [12]明治30年(1897年)3月に安進社から外輪式汽船『安進丸』の汽機・汽罐の製作を、同年5月に清水回漕店から汽船『六甲丸』の汽罐の製作を引き受けたが、両工事とも工場の設備に対して無理であったことと技術者が経験に乏しかったことのために大失敗を招いた。
    • [13]『安進丸』は明治31年(1898年)1月の試運転の結果が成績不良で従来の速力にも達せず、同年10月に安進社から契約取消と機関の引き取り拒絶の通知を受けた。
    • [14]『六甲丸』は自社製作のクランクシャフトが不合格となり、最後に三菱造船所へビルトアップ(組合式)で注文することとなり、汽機・汽罐の据え付けを終えたのは翌年3月で、出帆までに1年半を要した。
    • [15]業績は極度の不振に陥り、明治32年(1899年)1月の株主総会において株主側から鉄工所廃止説が持ち出されたが、山口・内藤ら諸取締役が陳弁に努めて存続に決した。
    • [16]明治32年(1899年)4月、支配人を廃して技師長の笹村万蔵が所長となり、弛緩した工場内の規律矯正に努め、英断をもって社員および工員の淘汰を決行した。
    • [17]明治31年に長嶺油田が盛況を呈し、翌年には新津油田に噴油があり、同年8月には柏崎に日本石油の新社屋・製油所が完成するなど石油事業好況の影響下に、当工場も同年(1899年)前半期に至って創業後初めて相当の利益をあげた。
参考文献[1]-[17]
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [1]直江津港以北には鉄道の便がなく、同港と事業地とのあいだは主として小汽船によるほかに運搬の方法がなかった。
    • [2]明治23年(1890年)、日本石油は米国からさく井機械を輸入し初めて機械さく井に成功したが、当時は機械の一部分を修理するにも一々東京方面に送らなければならなかった。
    • [3]機械修理に長日数を要する状態を受けて山口・内藤ら諸取締役は会社自ら鉄工所を経営するとの結論を得、日本石油は明治27年(1894年)8月5日に尼瀬の本社で臨時株主総会を招集し、付属事業として新潟鉄工所設置を提案して可決した。
    • [4]日本海岸地方にはいうに足るべき機械類の製作所がなかったので、石油事業に必要な機械器具とともに一般機械類の製作修繕も引き受けることを目的とし、交通運輸の便を考えて山ノ下を候補地と定め、中蒲原郡松島村字山ノ下に明治28年(1895年)6月までに5,473坪を取得した。
    • [5]明治28年(1895年)6月16日、日本石油支店新潟鉄工所を設置し、同日創立事務所を設けた。登記社名は日本石油株式会社支店新潟鉄工所。
    • [6]建築工事は工場・倉庫・事務所など6棟の落成によって明治28年(1895年)9月中に大体終了し、英国から輸入した機械は汽船『金盛丸』で横浜から輸送され、明治29年(1896年)1月27日入港、2月6日荷揚げを終えた。
    • [8]創業当時の規模は敷地5,473坪、建物木造311坪、従業員は社員11名・工員196名。
    • [9]仕事はほとんど全部が日本石油の石油事業に関するものであった。
    • [10]開業後わずか半年の明治29年(1896年)11月11日午後9時20分頃、鋳工場から出火し、隣接の機械仕上工場、棟続きの鍛工場に及び、事務所と倉庫を残して工場全部が焼失した。
    • [11]車両工場の建築用材が焼失を免れたのでこれを流用し、全員交替徹夜作業を続けて災後わずか2週間で復旧し、同月25日に試運転を終えた。
    • [12]明治30年(1897年)3月に安進社から外輪式汽船『安進丸』の汽機・汽罐の製作を、同年5月に清水回漕店から汽船『六甲丸』の汽罐の製作を引き受けたが、両工事とも工場の設備に対して無理であったことと技術者が経験に乏しかったことのために大失敗を招いた。
    • [13]『安進丸』は明治31年(1898年)1月の試運転の結果が成績不良で従来の速力にも達せず、同年10月に安進社から契約取消と機関の引き取り拒絶の通知を受けた。
    • [14]『六甲丸』は自社製作のクランクシャフトが不合格となり、最後に三菱造船所へビルトアップ(組合式)で注文することとなり、汽機・汽罐の据え付けを終えたのは翌年3月で、出帆までに1年半を要した。
    • [15]業績は極度の不振に陥り、明治32年(1899年)1月の株主総会において株主側から鉄工所廃止説が持ち出されたが、山口・内藤ら諸取締役が陳弁に努めて存続に決した。
    • [16]明治32年(1899年)4月、支配人を廃して技師長の笹村万蔵が所長となり、弛緩した工場内の規律矯正に努め、英断をもって社員および工員の淘汰を決行した。
    • [17]明治31年に長嶺油田が盛況を呈し、翌年には新津油田に噴油があり、同年8月には柏崎に日本石油の新社屋・製油所が完成するなど石油事業好況の影響下に、当工場も同年(1899年)前半期に至って創業後初めて相当の利益をあげた。
    • [7]1896年5月、工場設備の完成により営業開始。七十年史では明治29年5月8日に汽機汽罐据付を完了して試運転を行い、同日から営業を開始したとする。

1896年〜北越鉄道の客車から造船・工作機械へ拡大した受注

開業の翌月にあたる1896年6月、新潟鐵工所は直江津・新潟間を結ぶ北越鉄道と鉄道車両の製造および修理について正式に契約を締結し、車両工場の建設に着手した。北越鉄道も車両修繕のため自ら工場を新設する必要を感じていたが、新潟鐵工所の設置を受けて計画を見合わせ、同所を利用する口約を交わしていた。石油機械以外への最初の広がりがこの契約であり、新潟鐵工所は一般機械に鉄道車両を加える方針を立てた。車両は1896年の北越鉄道向け客車に始まり、1899年に半木製タンク車、1907年に全鋼製タンク車を製作した。1909年10月4日には逓信大臣兼鉄道院総裁の後藤新平氏が随員7名とともに来場して設備を調査し、新潟鐵工所は鉄道用橋梁および機械の指定工場となった。

  • 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
    • [18]1896年6月、北越鉄道と車両製造契約を締結し車両工場を設置。七十年史も明治29年6月に北越鉄道とのあいだで鉄道車両製造および修理について正式に契約を結び、車両工場の建設に着手したとする。
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [19]直江津・新潟間を連絡する北越鉄道が創立され、同社もまた車両修繕その他のために工場設置の必要を感じていたが、新潟鉄工所の設置によってその企図を見合わせ、当所を利用する口約が成立した。
    • [20]北越鉄道という顧客を得たことにより、一般機械類に加え鉄道車両をも製作する方針を立てた。
    • [21]車両も明治29年(1896年)北越鉄道の客車に始まり、明治32年(1899年)には半木製タンク車を、明治40年(1907年)には全鋼製タンク車を製作した。両タンク車ともわが国初めてのものであった。
    • [22]明治42年(1909年)10月4日、逓信大臣兼鉄道院総裁後藤新平が随員7名とともに来場し、工場の設備を調査した結果、鉄道用橋梁および機械の指定工場となった。

石油の産地が動くにつれ、新潟鐵工所は油田の近くへ分工場を置いて供給と修繕を早めた。1900年10月に柏崎分工場、1902年3月に長岡分工場を新設した。長岡分工場は市内の鉄工場を買収したもので、東山油田の顧客、とりわけ長岡に本拠を構えて日本石油と対立していた宝田石油の注文を取ることを目的とした。1903年には米国スタンダード石油の分身であるインタナショナル石油会社の発注を見込んで直江津分工場を置いたが、同社は1907年6月に新潟県下の事業財産全部を175万円で日本石油へ売却して日本を去り、直江津分工場は1910年7月に廃止となった。石油発動機は1901年から1902年ごろに長岡分工場が採油の動力用として作り始め、1905年には新潟の本工場でも25馬力以下10種の小工業用原動機を製作した。

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [23]順次各地に新油田が開発され、あるいは在来油田の発展に伴い、これに対する供給の敏活を期するために続々分工場を開設してこれに応じた。新たに開発され、あるいは発展した石油鉱場に対しては、その付近の交通便利な要地に分工場を設けて機械の供給および修繕の便宜・敏速を図った。
    • [25]明治35年(1902年)、長岡市の一鉄工場を買収して新潟鉄工所長岡分工場を開設した。その目的は東山油田における顧客の便を図り、特に長岡に本拠を構え日本石油と拮抗していた宝田石油の注文を獲得することにあった。
    • [26]米国スタンダード石油会社の分身であるインタナショナル石油会社の注文を期待して明治36年(1903年)直江津分工場を設置したが、同社は明治40年(1907年)6月に新潟県下における事業財産全部を175万円で日本石油に売却してわが国を去り、直江津分工場は油田の不振と同社の退陣によって明治43年(1910年)7月に廃止した。
    • [27]明治34・35年(1901〜1902年)頃から長岡分工場で石油汲取動力用として石油発動機を製作し、明治38年(1905年)には新潟の本工場でも製作を始め、25馬力以下10種の小工業用原動機を製作した。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [24]明治33年(1900年)10月柏崎分工場、明治35年(1902年)3月長岡分工場を設立した。

1904年11月、日露戦争のさなかに東京陸軍砲兵工廠から砲弾旋盤50台を単価850円で受注し、約1年を費やして1905年末に納め終えた。これが新潟鐵工所による工作機械製作の最初で、以後の自家用工作機械はおおむね自社で作った。造船と船渠は創業計画に含まれながら入船町の用地買収に失敗して持ち越されていたが、1904年に主要土地9,700坪を買収して着手し、1905年7月に新潟造船工場が操業を開始した。同年10月には第一番船となる200トン型木造汽船の建造に入り、1906年6月に"第一日本海丸"として完成させ、同時に運輸部を開設した。1908年5月、国内で最初の鋼製油槽船"宝国丸"を進水させた。

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [28]明治37年(1904年)11月、東京陸軍砲兵工廠から砲弾旋盤50台(心高300ミリ、床長2,120ミリ、単価金850円)の注文を受け、約1か年を費やして明治38年(1905年)末に完納した。
    • [29]これは当社が工作機械を製作した嚆矢であり、以来、自家用の工作機械はおおむね自ら製作した。
    • [30]造船および船渠業は新潟鉄工所設立計画中の一部であったが、第一に選定した入船町の土地買収不成功などのために実現に至らなかった。明治37年(1904年)に主要土地9,700坪を買収したのを手始めに敷地を整え、明治38年(1905年)7月に操業を開始した。
    • [31]明治38年(1905年)10月に第一番船として200トン型木造汽船1隻の建造に着手し、翌年6月に完成して『第一日本海丸』と命名、同時に運輸部を開設した。
  • 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
    • [32]1908年5月、国内初の鋼製油槽船「宝国丸」を進水。
参考文献[18]-[32]
    • [18]1896年6月、北越鉄道と車両製造契約を締結し車両工場を設置。七十年史も明治29年6月に北越鉄道とのあいだで鉄道車両製造および修理について正式に契約を結び、車両工場の建設に着手したとする。
    • [32]1908年5月、国内初の鋼製油槽船「宝国丸」を進水。
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [19]直江津・新潟間を連絡する北越鉄道が創立され、同社もまた車両修繕その他のために工場設置の必要を感じていたが、新潟鉄工所の設置によってその企図を見合わせ、当所を利用する口約が成立した。
    • [20]北越鉄道という顧客を得たことにより、一般機械類に加え鉄道車両をも製作する方針を立てた。
    • [21]車両も明治29年(1896年)北越鉄道の客車に始まり、明治32年(1899年)には半木製タンク車を、明治40年(1907年)には全鋼製タンク車を製作した。両タンク車ともわが国初めてのものであった。
    • [22]明治42年(1909年)10月4日、逓信大臣兼鉄道院総裁後藤新平が随員7名とともに来場し、工場の設備を調査した結果、鉄道用橋梁および機械の指定工場となった。
    • [23]順次各地に新油田が開発され、あるいは在来油田の発展に伴い、これに対する供給の敏活を期するために続々分工場を開設してこれに応じた。新たに開発され、あるいは発展した石油鉱場に対しては、その付近の交通便利な要地に分工場を設けて機械の供給および修繕の便宜・敏速を図った。
    • [25]明治35年(1902年)、長岡市の一鉄工場を買収して新潟鉄工所長岡分工場を開設した。その目的は東山油田における顧客の便を図り、特に長岡に本拠を構え日本石油と拮抗していた宝田石油の注文を獲得することにあった。
    • [26]米国スタンダード石油会社の分身であるインタナショナル石油会社の注文を期待して明治36年(1903年)直江津分工場を設置したが、同社は明治40年(1907年)6月に新潟県下における事業財産全部を175万円で日本石油に売却してわが国を去り、直江津分工場は油田の不振と同社の退陣によって明治43年(1910年)7月に廃止した。
    • [27]明治34・35年(1901〜1902年)頃から長岡分工場で石油汲取動力用として石油発動機を製作し、明治38年(1905年)には新潟の本工場でも製作を始め、25馬力以下10種の小工業用原動機を製作した。
    • [28]明治37年(1904年)11月、東京陸軍砲兵工廠から砲弾旋盤50台(心高300ミリ、床長2,120ミリ、単価金850円)の注文を受け、約1か年を費やして明治38年(1905年)末に完納した。
    • [29]これは当社が工作機械を製作した嚆矢であり、以来、自家用の工作機械はおおむね自ら製作した。
    • [30]造船および船渠業は新潟鉄工所設立計画中の一部であったが、第一に選定した入船町の土地買収不成功などのために実現に至らなかった。明治37年(1904年)に主要土地9,700坪を買収したのを手始めに敷地を整え、明治38年(1905年)7月に操業を開始した。
    • [31]明治38年(1905年)10月に第一番船として200トン型木造汽船1隻の建造に着手し、翌年6月に完成して『第一日本海丸』と命名、同時に運輸部を開設した。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [24]明治33年(1900年)10月柏崎分工場、明治35年(1902年)3月長岡分工場を設立した。

1910年〜資本金200万円での分離独立と本店の東京移転

創業から15年を経て基礎が固まり、日本石油から分離独立するほうが経営上便利だという判断に至った。1910年3月5日の役員会で意見が一致し、翌6日の臨時株主総会が新潟鐵工所の分離を満場一致で可決した。内藤久寛氏と山口達太郎氏ら9名が発起人となって資本金200万円の株式会社新潟鐵工所を設立し、日本石油所属の新潟鐵工所の財産全部を買収してその営業と一切の権利義務を引き継いだ。株式の募集では、日本石油の株主に所有株式5株につき1株の割合で応募優先権を認めた。6月17日、新潟商業会議所で創立総会を開いて発足し、本店は新潟市入船町に置いた。取締役社長には日本石油創業者である山口権三郎氏の長男の山口達太郎氏が就任し、専務取締役には笹村万蔵氏が就任した。

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [33]創業以来すでに15年を経過して基礎も確立し、事業も大いに発展したので、日本石油から分離独立するほうが経営上便利であるということになった。
    • [34]明治43年(1910年)3月5日に役員会を開いて意見の一致をみたので、翌6日に臨時株主総会を招集し、本社定款改正の件および新潟鉄工所分離の件を満場一致で可決した。
    • [35]内藤久寛、山口達太郎、飯塚弥一郎、中野貫一、本間新作、久須美秀三郎、渡辺忠、山口政治、松方乙彦の9名が発起人となり、資本金200万円の株式会社新潟鉄工所を設立して、日本石油所属新潟鉄工所の財産全部を買収し、その営業および一切の権利義務を継承することとした。
    • [36]株式の募集にあたり、日本石油株式会社の株主にはその所有株式5株に対し1株の割合で応募優先権を認めた。
    • [37]明治43年(1910年)6月17日、新潟商業会議所において創立総会を開き、株式会社新潟鉄工所が成立した。本店は新潟市入船町四丁目3776番地、資本総額200万円、一株の金額50円。
    • [39]取締役社長は山口達太郎、専務取締役は笹村万蔵。
  • 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
    • [38]初代社長は山口達太郎氏。日本石油創業者・山口権三郎氏の長男。

第1回決算にあたる1910年11月30日時点の株主は1,590名で、うち新潟県内が1,293名、東京が118名、その他の府県が179名だった。中央への足がかりは1908年4月に東京市京橋区本材木町の日本石油東京販売店内へ置いた東京出張店で、分離独立に際して隣地へ独立の事務所を新築した。発動機付漁船の普及で石油発動機の需要が伸びたため、京橋区月島一号地に東京精米から市有地2,000余坪の借地権を譲り受け、1913年5月に東京工場を落成させた。工作機械は1913年に営業品目へ加え、1914年の第一次世界大戦勃発で需要が急増し、1916年には年産300台に達した。1916年2月10日、東京株式取引所で新潟鐵工所株式の売買が始まった。

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [40]第1回決算(明治43年6月18日から同年11月30日まで)における株主総数は1,590名、うち新潟県1,293名、東京118名、その他の府県在住者179名であった。
    • [42]東京出張店は、明治43年(1910年)日本石油から分離の際、隣地に独立の事務所を新築し、大正2年(1913年)東京工場落成に至るまで東京方面における販売拠点として営業活動を行なった。
    • [43]発動機付漁船の普及が迅速で発動機の需要がすこぶる旺盛となったため、生産を増すとともに改良進歩を図る専門工場を東京に設けることとなり、京橋区月島一号地に東京精米から市有地2,000余坪の借地権を譲り受けた。
    • [45]大正2年(1913年)に工作機械を営業品目に加えて生産を増加する方針を確立し、大正3年(1914年)の第一次大戦勃発により工作機械の需要が急激に上昇、翌年の1か年の生産は130余台に達し、大正5年(1916年)には年産300台を記録した。
    • [46]当社の株式は大正5年(1916年)東京株式取引所に上場し、2月10日から売買を開始した。同日現在の上場会社は191社であった。
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [41]明治41年(1908年)4月、東京市京橋区本材木町三丁目の日本石油東京販売店内に東京出張店を設けた。東京出張店の開設は新潟鉄工所の中央進出の第一歩であった。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [44]急増した工作機械・石油発動機の需要に応ずるため、大正2年(1913年)5月、東京工場を月島に設立した。

中央での業務が繁忙を加え、本社を新潟に置いたままにはできない事情となった。1917年6月26日の定時株主総会が本社の東京移転を議決すると新潟市から反対の声が上がり、笹村万蔵専務が東京進出の必要と新潟工場がかえって発展することを力説して了解を求めた。同年7月1日、本社を東京市麹町区有楽町三丁目五番地へ移した。移転先には、1916年3月16日から東京出張所が借りていた数寄屋橋際の2階建て貸事務所をあてた。10月1日には東京市築地の精養軒で披露晩餐会を開き、山口達太郎社長の挨拶に対して農商務大臣の仲小路廉氏と子爵の渋沢栄一氏らが祝辞を述べた。

  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [47]事業発展に伴い中央における業務がますます繁忙を加え、新潟に偏在するを許さない事情となった。
    • [48]大正6年(1917年)6月26日の定時株主総会において本社の東京移転を議決した。これは新潟市に大きな衝動をあたえ反対の声があがったが、笹村専務は東京進出の必要と、これにより新潟工場がますます発展して市に対する好影響となるべきことを力説して諒解を求めた。
    • [49]大正6年(1917年)7月1日をもって東京市麹町区有楽町三丁目五番地に移転を決行した。
    • [50]東京出張所は大正5年(1916年)3月16日に麹町区有楽町三の五(数寄屋橋際)の二階建の貸事務所を借り受けて移転しており、大正6年7月1日の本社東京移転に伴いこれを本社事務所に充てた。
    • [51]大正6年(1917年)10月1日、東京市築地の精養軒で本社東京移転の披露晩餐会を開催し、朝野の名士300名内外が臨席した。社長山口達太郎の挨拶に対し、農商務大臣仲小路廉、子爵渋沢栄一その他の祝辞があった。
参考文献[33]-[51]
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
    • [33]創業以来すでに15年を経過して基礎も確立し、事業も大いに発展したので、日本石油から分離独立するほうが経営上便利であるということになった。
    • [34]明治43年(1910年)3月5日に役員会を開いて意見の一致をみたので、翌6日に臨時株主総会を招集し、本社定款改正の件および新潟鉄工所分離の件を満場一致で可決した。
    • [35]内藤久寛、山口達太郎、飯塚弥一郎、中野貫一、本間新作、久須美秀三郎、渡辺忠、山口政治、松方乙彦の9名が発起人となり、資本金200万円の株式会社新潟鉄工所を設立して、日本石油所属新潟鉄工所の財産全部を買収し、その営業および一切の権利義務を継承することとした。
    • [36]株式の募集にあたり、日本石油株式会社の株主にはその所有株式5株に対し1株の割合で応募優先権を認めた。
    • [37]明治43年(1910年)6月17日、新潟商業会議所において創立総会を開き、株式会社新潟鉄工所が成立した。本店は新潟市入船町四丁目3776番地、資本総額200万円、一株の金額50円。
    • [39]取締役社長は山口達太郎、専務取締役は笹村万蔵。
    • [40]第1回決算(明治43年6月18日から同年11月30日まで)における株主総数は1,590名、うち新潟県1,293名、東京118名、その他の府県在住者179名であった。
    • [42]東京出張店は、明治43年(1910年)日本石油から分離の際、隣地に独立の事務所を新築し、大正2年(1913年)東京工場落成に至るまで東京方面における販売拠点として営業活動を行なった。
    • [43]発動機付漁船の普及が迅速で発動機の需要がすこぶる旺盛となったため、生産を増すとともに改良進歩を図る専門工場を東京に設けることとなり、京橋区月島一号地に東京精米から市有地2,000余坪の借地権を譲り受けた。
    • [45]大正2年(1913年)に工作機械を営業品目に加えて生産を増加する方針を確立し、大正3年(1914年)の第一次大戦勃発により工作機械の需要が急激に上昇、翌年の1か年の生産は130余台に達し、大正5年(1916年)には年産300台を記録した。
    • [46]当社の株式は大正5年(1916年)東京株式取引所に上場し、2月10日から売買を開始した。同日現在の上場会社は191社であった。
    • [47]事業発展に伴い中央における業務がますます繁忙を加え、新潟に偏在するを許さない事情となった。
    • [48]大正6年(1917年)6月26日の定時株主総会において本社の東京移転を議決した。これは新潟市に大きな衝動をあたえ反対の声があがったが、笹村専務は東京進出の必要と、これにより新潟工場がますます発展して市に対する好影響となるべきことを力説して諒解を求めた。
    • [49]大正6年(1917年)7月1日をもって東京市麹町区有楽町三丁目五番地に移転を決行した。
    • [50]東京出張所は大正5年(1916年)3月16日に麹町区有楽町三の五(数寄屋橋際)の二階建の貸事務所を借り受けて移転しており、大正6年7月1日の本社東京移転に伴いこれを本社事務所に充てた。
    • [51]大正6年(1917年)10月1日、東京市築地の精養軒で本社東京移転の披露晩餐会を開催し、朝野の名士300名内外が臨席した。社長山口達太郎の挨拶に対し、農商務大臣仲小路廉、子爵渋沢栄一その他の祝辞があった。
    • [38]初代社長は山口達太郎氏。日本石油創業者・山口権三郎氏の長男。
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
    • [41]明治41年(1908年)4月、東京市京橋区本材木町三丁目の日本石油東京販売店内に東京出張店を設けた。東京出張店の開設は新潟鉄工所の中央進出の第一歩であった。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
    • [44]急増した工作機械・石油発動機の需要に応ずるため、大正2年(1913年)5月、東京工場を月島に設立した。

出典・参考

4件
出典・参考
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第一章「創業時代」
  • 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
  • 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」

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