新潟鐵工所:ディーゼル機関の国産化と蒲田・長岡両工場の焼失
1918年〜マーリース社からの製造権取得と、蒲田専門工場の建設
新潟鐵工所がディーゼル機関の製造権買収に動いた出発点は、技師の加藤重男氏が持ち帰った調査にある。加藤重男氏は1912年に農商務省海外練習生として渡米し、内燃機関とテーラー式科学的管理法を修得したうえで、英国のマーリース社とスウェーデンのA・Bディーゼル社を調査して帰国した。帰国後には便箋50枚におよぶ建言書"ディーゼル機関製作企業について"を提出し、欧州の一流製作者から製作権を得て事業を始めるよう求めている。新潟鐵工所は石油発動機の製作経験から、先進国の製造権を買収して設計と製作技術を修得する道を選び、1916年6月、東京工場の設備購入で渡米中の加藤重男氏にディーゼル機関の調査を当たらせた。
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
- [1]加藤重男は1912年に農商務省海外練習生として渡米し、内燃機関とテーラー式科学的管理法を修得、さらに英国マーリース社とスウェーデンA・Bディーゼル社のディーゼル機関を調査して帰国した
- [2]加藤重男は帰国後、便箋50枚におよぶ建言書『ディーゼル機関製作企業について』を提出し、欧州における一流の製作者から製作権を得て事業を開始することを切望すると結んだ
- [3]石油発動機製作の経験から先進国より製造権を買収し設計・製作技術を修得することが成功の近道と認め、1916年6月、東京工場拡張の設備機械購入で渡米中の加藤技師にディーゼル機関の調査に当たらせた
製造権の交渉と並行して、新潟鐵工所は自社設計の機関も仕上げた。A・Bディーゼル社との交渉は先方が新条件を出し続けて1年近くを費やしたのち断念し、英国のマーリース・ビッカートン・エンド・デイ社へ切り替えた結果、1918年1月に製造及び特許権買収の契約が成立した。先に輸入していたA・Bディーゼル社の50馬力舶用機関に範を採り、1918年春には自社設計のポーラー形舶用100馬力へ取りかかっている。試作第1号機M4Z型の試運転は1919年5月。この舶用100馬力は1920年4月、静岡県焼津町の東海遠洋漁業"第二太洋丸"と御前崎村の"海運丸"へ据え付けられた。陸用の第1号機となるマーリース形300馬力は1920年6月に完成し、国産ディーゼル機関の最初期にあたる。同月19日に東京工場で試運転を公開したのち、京都市外山科の日本絹布へ納入した。
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
- [4]A・Bディーゼル社との折衝は同社が次々と新条件を出し1か年近くを空費して断念、英国マーリース・ビッカートン・エンド・デイ社へ転じ、1918年1月にディーゼル機関の製造及び特許権買収契約が成立した
- [5]A・Bディーゼル社から輸入してあった50馬力舶用機関に範を採り独自に設計、最初に製作したディーゼル機関は1918年春に自ら設計したポーラー形舶用100馬力である
- [7]1920年4月、静岡県焼津町の東海遠洋漁業『第二太洋丸』および同県御前崎村の『海運丸』に据え付け、ともに好成績をあげた
- [9]陸用ディーゼル機関第1号機はマーリース形300馬力で、1920年6月19日東京工場で試運転を公開し、京都市外山科の日本絹布に納入した。わが国で製作した産業用の最初のものである
- 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
- [6]1919年5月、試作ディーゼル機関第1号機M4Z型を試運転
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
- [8]英国モリース社より4サイクル・ディーゼル機関の製造権を取得し1920年6月完成、これは国産ディーゼル機関の最初のものである
東京工場は1913年の建設から間もなく手狭になり、拡張の余地もなかったため、新潟鐵工所はディーゼル機関の専門工場を別に設けた。東京府荏原郡蒲田村の駅に隣接する土地を1918年2月から秋までに20,000余坪買収し、水田だった敷地の一部を掘って3尺以上の地盛りに充て、同年11月から建築に入った。1919年7月に機械工場1,737坪を建て、1920年9月から一部で操業を開始した。1921年11月には、技師の松浦春吉氏が欧米調査に基づいて設計した1,000坪の鋳物工場が竣工している。蒲田工場では加藤重男氏が米国タボア製造会社で修得したテーラー式科学的管理法を全面採用し、生産組織を計画部門と実施部門に分けたうえ、材料管理・工程管理・原価計算の伝票や書式まで同社の様式にならって作成した。
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
- [10]1913年建設の東京工場は日ならずして狭隘を訴え拡張の余地もなく、新たに大規模のディーゼル機関専門工場を設けることに決定した
- [11]東京府荏原郡蒲田村の駅に隣接する敷地を1918年2月から秋までに20,000余坪買収、一帯は水田で3尺以上の地盛りを要したため地所の一部を掘って土盛りに充て、同年11月から建築に着手した
- [12]1919年7月に機械工場1,737坪の建築工事を行ない、翌年9月には機械工場の一部の操業を開始した
- [13]鋳物工場は技師松浦春吉が欧米における調査に基づいて設計した1,000坪の工場で、1921年11月竣工した
- [14]加藤重男が米国タボア製造会社で体得したテーラー・システムを蒲田工場に全面的に採用し、工場生産組織を生産計画部門と実施部門とに分け、材料管理・工程管理・原価計算に使用する諸伝票並びに書式や標準寸法までタボア会社の様式にのっとって作成した
参考文献[1]-[14]
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
- [1]加藤重男は1912年に農商務省海外練習生として渡米し、内燃機関とテーラー式科学的管理法を修得、さらに英国マーリース社とスウェーデンA・Bディーゼル社のディーゼル機関を調査して帰国した
- [2]加藤重男は帰国後、便箋50枚におよぶ建言書『ディーゼル機関製作企業について』を提出し、欧州における一流の製作者から製作権を得て事業を開始することを切望すると結んだ
- [3]石油発動機製作の経験から先進国より製造権を買収し設計・製作技術を修得することが成功の近道と認め、1916年6月、東京工場拡張の設備機械購入で渡米中の加藤技師にディーゼル機関の調査に当たらせた
- [4]A・Bディーゼル社との折衝は同社が次々と新条件を出し1か年近くを空費して断念、英国マーリース・ビッカートン・エンド・デイ社へ転じ、1918年1月にディーゼル機関の製造及び特許権買収契約が成立した
- [5]A・Bディーゼル社から輸入してあった50馬力舶用機関に範を採り独自に設計、最初に製作したディーゼル機関は1918年春に自ら設計したポーラー形舶用100馬力である
- [7]1920年4月、静岡県焼津町の東海遠洋漁業『第二太洋丸』および同県御前崎村の『海運丸』に据え付け、ともに好成績をあげた
- [9]陸用ディーゼル機関第1号機はマーリース形300馬力で、1920年6月19日東京工場で試運転を公開し、京都市外山科の日本絹布に納入した。わが国で製作した産業用の最初のものである
- [10]1913年建設の東京工場は日ならずして狭隘を訴え拡張の余地もなく、新たに大規模のディーゼル機関専門工場を設けることに決定した
- [11]東京府荏原郡蒲田村の駅に隣接する敷地を1918年2月から秋までに20,000余坪買収、一帯は水田で3尺以上の地盛りを要したため地所の一部を掘って土盛りに充て、同年11月から建築に着手した
- [12]1919年7月に機械工場1,737坪の建築工事を行ない、翌年9月には機械工場の一部の操業を開始した
- [13]鋳物工場は技師松浦春吉が欧米における調査に基づいて設計した1,000坪の工場で、1921年11月竣工した
- [14]加藤重男が米国タボア製造会社で体得したテーラー・システムを蒲田工場に全面的に採用し、工場生産組織を生産計画部門と実施部門とに分け、材料管理・工程管理・原価計算に使用する諸伝票並びに書式や標準寸法までタボア会社の様式にのっとって作成した
- [6]1919年5月、試作ディーゼル機関第1号機M4Z型を試運転
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
- [8]英国モリース社より4サイクル・ディーゼル機関の製造権を取得し1920年6月完成、これは国産ディーゼル機関の最初のものである
1923年〜関東大震災による減資と、蒲田工場譲渡交渉の打ち切り
1923年3月、蒲田工場の機械工の一部が東京鉄工組合蒲田支部を組織し、新潟鐵工所が主謀者3名を解雇すると、機械工全員約280名が日給制の復旧・退職手当の制定・解雇者の復職を求めて怠業に入った。争議は6月末から東京工場も加わって長引き、8月には約200名が工場事務所へ押しかけて本儀正工場長を負傷させ、警視庁は翌日までに100余名を検挙した。争議団が解散したのは、9月1日の関東大震災による。日比谷交叉点付近の本社は隣家の倒壊で崩れたうえに焼失し、東京工場も夜に入って類焼した。蒲田工場の被害は大物組立工場と鋳物工場の一部、小物組立工場1棟と煙突の崩壊にとどまり、機械類は全部無事だった。
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
- [15]1923年3月上旬、蒲田工場機械工の一部が東京鉄工組合蒲田支部を組織、同月19日に主謀者3名を解雇したところ翌日機械工全員約280名が要求書を提出して怠業に入った。要求は日給制の復旧、退職手当の制定、共済会規定の改正、馘首者の復職などであった
- [16]6月27日にふたたび怠業が始まり東京工場も合流、8月24日には約200名の集団が工場事務所に殺到して本儀工場長を殴打負傷させ、警視庁が翌日までに100余名を検挙した
- [17]9月1日の関東大震災に遭遇して争議団は解散し、協定が成立して10月1日から操業を開始した
- [18]本社建物(日比谷交叉点付近)は隣家倒壊のために倒壊し十五分内外で類焼、東京工場は地震の損害は軽微であったが夜に入って類焼し焼失した
- [19]蒲田工場は大物組立工場と鋳物工場の一部が破損、小物組立工場1棟および煙突の崩壊があっただけで、機械類は全部無事であった
震災後、新潟鐵工所は東京工場の復興を見合わせた。かねて蒲田工場への合併を考えていたため、工員74名と社員13名を解雇して残りを他工場へ転勤させ、使用に耐える機械と在庫品を蒲田工場へ送って工作機械の製作を続けた。焼失した本社と東京工場には451,000円の保険を掛けていたが、一部の見舞金すら見込めない状況だった。損害計上額は本社30,207円、東京工場850,026円、蒲田工場100,000円の合計980,234円に達した。1924年6月の定時株主総会では、資本金500万円を400万円へ減じて震災による繰越損失金910,000円を補填することを決議している。
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
- [20]東京工場は会社経営の見地からかねて蒲田工場に合併の意図があったため復興を見合わせ、工員74名と社員13名を解雇、その他は他工場に転勤させ、使用に耐える機械・在庫品を蒲田工場に送って工作機械の製作を継続した
- [21]本社及び東京工場に対し45万1,000円の保険をつけてあったが、一部分の見舞金すら絶望の状況であった
- [22]関東大震災による損害計上額は本社30,207円、東京工場850,026円、蒲田工場100,000円、合計980,234円
- [23]1924年6月24日開催の定時株主総会において、資本金500万円を400万円に減じ、大震災による繰越損失金91万円を補填することを決議した
1926年下期には、戸畑鋳物社長の鮎川義介氏から農林省水産局技師の田島達之輔氏を介して提携の申し入れがあり、協議は蒲田工場を新潟鐵工所から分離して戸畑鋳物へ合併する案に転じたが、条件の隔たりが大きく交渉を打ち切った。一方、大形機関には別の方式が求められた。従来の4サイクルは中・小形に適し、大形には2サイクルが有利とされたためで、技師の仲谷新治氏を派遣し、1924年7月にスウェーデンのノベル社から2サイクル・ディーゼル機関の製造権を買収している。試作の舶用500馬力は1926年7月に完成し、以後は舶用・陸用として供給範囲を広げた。1928年に蒲田工場で製作した2,000馬力機関は、陸用として国内最大となった。
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
- [24]1926年下期、戸畑鋳物社長鮎川義介から農林省水産局技師田島達之輔を介して提携の申込みを受け、協議は蒲田工場を当社から分離して戸畑に合併する案となったが、先方の条件が苛酷にすぎ交渉を打ち切った
- [25]四サイクル式は中・小形機関に適し大形機関には二サイクル式が有利とされ、マーリース社の勧誘を機に技師仲谷新治を派遣、1924年7月スウェーデン国ノベル会社から二サイクル式ディーゼル機関の製造権を買収した
- [26]最初に試作した舶用500馬力機関は1926年7月完成して好成績を収め、以来舶用及び陸用として各方面に供給範囲を著しく拡大した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
- [27]1928年に蒲田工場で製作された2,000馬力ディーゼル機関は、陸用としてわが国最大のものであった
参考文献[15]-[27]
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
- [15]1923年3月上旬、蒲田工場機械工の一部が東京鉄工組合蒲田支部を組織、同月19日に主謀者3名を解雇したところ翌日機械工全員約280名が要求書を提出して怠業に入った。要求は日給制の復旧、退職手当の制定、共済会規定の改正、馘首者の復職などであった
- [16]6月27日にふたたび怠業が始まり東京工場も合流、8月24日には約200名の集団が工場事務所に殺到して本儀工場長を殴打負傷させ、警視庁が翌日までに100余名を検挙した
- [17]9月1日の関東大震災に遭遇して争議団は解散し、協定が成立して10月1日から操業を開始した
- [18]本社建物(日比谷交叉点付近)は隣家倒壊のために倒壊し十五分内外で類焼、東京工場は地震の損害は軽微であったが夜に入って類焼し焼失した
- [19]蒲田工場は大物組立工場と鋳物工場の一部が破損、小物組立工場1棟および煙突の崩壊があっただけで、機械類は全部無事であった
- [20]東京工場は会社経営の見地からかねて蒲田工場に合併の意図があったため復興を見合わせ、工員74名と社員13名を解雇、その他は他工場に転勤させ、使用に耐える機械・在庫品を蒲田工場に送って工作機械の製作を継続した
- [21]本社及び東京工場に対し45万1,000円の保険をつけてあったが、一部分の見舞金すら絶望の状況であった
- [22]関東大震災による損害計上額は本社30,207円、東京工場850,026円、蒲田工場100,000円、合計980,234円
- [23]1924年6月24日開催の定時株主総会において、資本金500万円を400万円に減じ、大震災による繰越損失金91万円を補填することを決議した
- [24]1926年下期、戸畑鋳物社長鮎川義介から農林省水産局技師田島達之輔を介して提携の申込みを受け、協議は蒲田工場を当社から分離して戸畑に合併する案となったが、先方の条件が苛酷にすぎ交渉を打ち切った
- [25]四サイクル式は中・小形機関に適し大形機関には二サイクル式が有利とされ、マーリース社の勧誘を機に技師仲谷新治を派遣、1924年7月スウェーデン国ノベル会社から二サイクル式ディーゼル機関の製造権を買収した
- [26]最初に試作した舶用500馬力機関は1926年7月完成して好成績を収め、以来舶用及び陸用として各方面に供給範囲を著しく拡大した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
- [27]1928年に蒲田工場で製作された2,000馬力ディーゼル機関は、陸用としてわが国最大のものであった
1929年〜高速ディーゼル機関への進出から浦和工場の労働争議まで
1929年から新潟鐵工所は機種別の専門工場へ生産を組み替えた。同年10月、震災後に蒲田工場で続けていた工作機械の製造を新潟工場構内の新工場へ移し、1930年末には焼玉機関の専門工場を同じ構内に落成させている。蒲田工場はディーゼル機関の需要増に追われて焼玉機関の製作を中止し、ディーゼル機関に絞った。用途の面では1930年前後から車両用・舶用の軽量高速機関に着手し、ディーゼルカーを完成させた。1935年6月には石油精製装置と貯油槽を作るため月島工場を新設した。1937年10月、世界初のディーゼル捕鯨船へ舶用機関を据え付けている。
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
- [28]新潟工場構内に建設した工作機械専門工場が落成し、震災後蒲田工場で行なってきた同機械製造業務を1929年10月に移転、焼玉機関の専門工場も新潟工場構内に新設して1930年末に落成、直ちに操業を開始した
- [29]その後ディーゼル機関の需要が増加し蒲田工場のみでは応じきれなくなったため、焼玉機関の製作を中止してディーゼル機関を製作するに至った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
- [30]1930年から1931年ごろより車輌用、舶用等の軽量高速機関の製作にも着手した。この間、産業用ディーゼル機関、ディーゼルカーを完成した
- [31]1935年6月、石油精製装置、貯油槽等製造のため月島工場を設けた
- 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
- [32]1937年10月、世界初のディーゼル捕鯨船に舶用機関を据付け
1937年に工作機械製造事業法が制定されると、新潟鐵工所は5大メーカーの1つとして指定工場に選ばれた。1939年7月には国家総動員法により新潟工場が陸海軍の管理工場に指定されている。軍需の割り当ては工場の新設に直結し、同年8月に石油鑿井機を作る長岡第二工場、9月に高速ディーゼル機関と軽戦車を作る浦和工場を設立した。1942年以降は戦時増産に応じるため、蔵王分工場・三条分工場・六日町工場・柿崎工場・加茂工場と拡張を重ねた。1945年4月には米軍の空襲で蒲田工場と中央研究所が被災し、同年の戦災で蒲田工場の7割と長岡第一工場を焼失した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
- [33]1937年に工作機械事業法が制定されるや五大メーカーの一つとして直ちに指定工場に指定された
- [35]1939年8月、石油鑿井機製造のため長岡第二工場、さらに同年9月、高速ディーゼル機関および軽戦車製造のため浦和工場を設立した
- [36]1942年以降は戦時増産に応ずるため蔵王分工場、三条分工場、六日町工場、柿崎工場、加茂工場と次々に工場の拡張を行った
- [38]1945年、戦災により蒲田工場の七割および長岡第一工場を焼失した
- 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
- [34]1939年7月、国家総動員法により新潟工場が陸海軍の管理工場に指定
- [37]1945年4月、米軍空襲により蒲田工場と中央研究所が被災
終戦後の新潟鐵工所は工場の一部を閉鎖したうえで民需へ転換し、従来の業務に復帰した。1946年8月に新潟工作機工場など3工場が第2次賠償指定を受け、1948年2月には過度経済力集中排除法の指定を受けたが、同年11月に取り消されている。それでも復興は遅れ、多数の人員を抱えたまま仕事量が不足し、資金調達の道も閉ざされて賃金の分割払いに至った。1949年は5月に株式を東京・大阪の両証券取引所へ上場した一方で、ドッジ・ラインの実施により鉄道車両の需要が急減し、内示を受けていた発注の取り消しも相次いで、会社は大きな打撃を受けた年となった。新潟鐵工所は2度の人員整理に踏み切り、独立採算制も取り入れたが、業績の回復には届かなかった。人員整理に反発する労働争議も同年に最高潮となり、とりわけ浦和工場では、組合連合から抜けた組合による争議がきわめて激しいものとなった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
- [39]終戦後工場の一部閉鎖を行うとともに、いち早く民需に転換し、従来の業務に復帰した
- [43]1949年のドッジ政策実施に伴なう経済界の不況、なかんずく鉄道車輌の需要の激減、内示発注の取消しによって深刻な影響を受けるに至った
- 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
- [40]1946年8月、新潟工作機工場など3工場が第2次賠償指定工場に指定。1948年2月、過度経済力集中排除法の指定(同年11月に取消)
- [42]1949年5月、東京・大阪の両証券取引所に株式を上場
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
- [41]戦後の再建復興は遅れ、多数の人員を擁して仕事量の不足と、資金調達のみちが閉され、賃金分割払いを余儀なくされるなど、完全復興操業の目途が立たぬ状況にあった
- [44]1949年、危機突破の一方策として二度にわたる人員整理、あるいは独立採算制を採用するなど存立のため努力を払ったが、なお立ち直りを見るに至らなかった
- [45]1949年の人員整理にあたって労働争議は頂点に達し、なかでも組合連合を脱退した浦和工場の争議は激烈をきわめ、当社にとって空前の労働争議であった
参考文献[28]-[45]
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
- [28]新潟工場構内に建設した工作機械専門工場が落成し、震災後蒲田工場で行なってきた同機械製造業務を1929年10月に移転、焼玉機関の専門工場も新潟工場構内に新設して1930年末に落成、直ちに操業を開始した
- [29]その後ディーゼル機関の需要が増加し蒲田工場のみでは応じきれなくなったため、焼玉機関の製作を中止してディーゼル機関を製作するに至った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
- [30]1930年から1931年ごろより車輌用、舶用等の軽量高速機関の製作にも着手した。この間、産業用ディーゼル機関、ディーゼルカーを完成した
- [31]1935年6月、石油精製装置、貯油槽等製造のため月島工場を設けた
- [33]1937年に工作機械事業法が制定されるや五大メーカーの一つとして直ちに指定工場に指定された
- [35]1939年8月、石油鑿井機製造のため長岡第二工場、さらに同年9月、高速ディーゼル機関および軽戦車製造のため浦和工場を設立した
- [36]1942年以降は戦時増産に応ずるため蔵王分工場、三条分工場、六日町工場、柿崎工場、加茂工場と次々に工場の拡張を行った
- [38]1945年、戦災により蒲田工場の七割および長岡第一工場を焼失した
- [39]終戦後工場の一部閉鎖を行うとともに、いち早く民需に転換し、従来の業務に復帰した
- [43]1949年のドッジ政策実施に伴なう経済界の不況、なかんずく鉄道車輌の需要の激減、内示発注の取消しによって深刻な影響を受けるに至った
- [32]1937年10月、世界初のディーゼル捕鯨船に舶用機関を据付け
- [34]1939年7月、国家総動員法により新潟工場が陸海軍の管理工場に指定
- [37]1945年4月、米軍空襲により蒲田工場と中央研究所が被災
- [40]1946年8月、新潟工作機工場など3工場が第2次賠償指定工場に指定。1948年2月、過度経済力集中排除法の指定(同年11月に取消)
- [42]1949年5月、東京・大阪の両証券取引所に株式を上場
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
- [41]戦後の再建復興は遅れ、多数の人員を擁して仕事量の不足と、資金調達のみちが閉され、賃金分割払いを余儀なくされるなど、完全復興操業の目途が立たぬ状況にあった
- [44]1949年、危機突破の一方策として二度にわたる人員整理、あるいは独立採算制を採用するなど存立のため努力を払ったが、なお立ち直りを見るに至らなかった
- [45]1949年の人員整理にあたって労働争議は頂点に達し、なかでも組合連合を脱退した浦和工場の争議は激烈をきわめ、当社にとって空前の労働争議であった
出典・参考
4件
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第二章「株式会社新潟鉄工所創立と発展」
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
- 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」