新潟鐵工所:倉井敏麿社長の再建と6事業部制の総合機械メーカー
1950年〜日本勧業銀行から迎えた倉井敏麿社長と5件の技術提携
1949年に2度の人員整理を行った新潟鐵工所では、整理をめぐる争議が1950年6月に妥結し、解雇退職者は1,376名にのぼった。同年8月、日本勧業銀行から倉井敏麿氏が社長に就任した。倉井敏麿社長は社内機構と職制を改め、受注から生産に至る一切の計画を本社で立案し、各工場はその指示に従って生産にあたる方式へ切り替えた。経営を科学的・合理的に運営する方針のもと、赤字の解消と経理の健全化、技術提携の推進、合弁会社および傍系会社の発足に着手している。1950年3月には下関営業所、10月には札幌営業所を開設して営業網を広げた。折から朝鮮動乱の勃発で機械工業は活況に転じ、新潟鐵工所も大幅な利益を計上した。
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
- [1]1949年、危機突破の一方策として二度にわたる人員整理を行った
- [4]倉井敏麿社長は社内機構・職制を改革し、受注から生産に至る一切の計画を本社において立案し、各工場はその指示によって生産にあたる方式を採用した
- [5]経営を科学的・合理的に運営する方針を採り、多額の赤字解消、経理の健全化、技術提携の積極的推進、合弁会社及び傍系会社の発足など施策の実施にあたった
- [7]朝鮮動乱勃発により機械工業も活況を迎え、当社にあっても大幅な利益を計上した
- 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
- [2]1950年6月、人員整理をめぐる争議が妥結。解雇退職者1,376名
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
- [3]1950年8月、日本勧業銀行より倉井敏麿氏を社長に迎えた
- [6]1950年3月に下関営業所、同年10月に札幌営業所を開設して営業網を拡充した
倉井敏麿社長は海外からの技術導入を再建策の柱に据えた。1952年12月に米国トウィン・ディスク社とトルクコンバーターおよび流体接手で提携し、続いてウォシントン社とポンプおよびコンプレッサーで契約を締結した。1954年7月には米国サンドストランド社と生産フライス盤で提携し、車両メーカー10社と共同でトランシット・リサーチ・コーポレーションとPCCカー、ジャパン・ミーハナイト社を通じてミーハナイト鋳物の提携も加わった。トウィン・ディスク社には加茂工場、ウォシントン社には柏崎工場を現物出資し、出資比率75%の新潟コンバーターと51%の新潟ウォシントンを設けた。1954年2月には台湾造船有限公司に舶用内燃機関と漁船の製造販売権を許諾する契約を締結し、東南アジアの一角に輸出ルートを開いた。1954年3月期の売上高は38億円、当期純利益は2億円を記録した。
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
- [8]倉井敏麿社長は技術提携の積極的推進、合弁会社および傍系会社の発足を再建策として実施した。かねて海外より優秀技術の導入を企図していた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
- [9]1952年12月に米国トウイン・ディスク社とトルクコンバーターおよび流体接手に関して提携し、ウォシントン社とポンプおよびコンプレッサーに関して技術提携した
- [11]車輌メーカー10社と共同でトランシット・リサーチ・コーポレーションとPCCカーに関して、またジャパン・ミーハナイト社を通じてミーハナイト鋳物に関して技術提携した
- [12]トウイン・ディスク社およびウォシントン社との提携では、契約に基づき加茂工場および柏崎工場を現物出資し、新潟コンバーター株式会社および新潟ウォシントン株式会社を新設した
- [14]1954年2月、台湾造船有限公司に対し舶用内燃機関ならびに漁船の製造および販売権を許諾する契約を締結し、東南アジア地域の一角に輸出ルートを確保した
- 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
- [10]1954年7月、米国サンドストランド社と生産フライス盤で技術提携
- 証券アナリストジャーナル 1963年(羽深知治)
- [13]新潟ウォシントンの出資比率は新潟鉄工所51%・ウォーシントン社49%、新潟コンバーターの出資比率は新潟鉄工所75%・ツインディスク・クラッチ社25%
- 上場会社総覧 1956年版 半期合算
- [15]1954年3月期の売上高38億円、当期純利益2億円
参考文献[1]-[15]
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
- [1]1949年、危機突破の一方策として二度にわたる人員整理を行った
- [4]倉井敏麿社長は社内機構・職制を改革し、受注から生産に至る一切の計画を本社において立案し、各工場はその指示によって生産にあたる方式を採用した
- [5]経営を科学的・合理的に運営する方針を採り、多額の赤字解消、経理の健全化、技術提携の積極的推進、合弁会社及び傍系会社の発足など施策の実施にあたった
- [7]朝鮮動乱勃発により機械工業も活況を迎え、当社にあっても大幅な利益を計上した
- [8]倉井敏麿社長は技術提携の積極的推進、合弁会社および傍系会社の発足を再建策として実施した。かねて海外より優秀技術の導入を企図していた
- [2]1950年6月、人員整理をめぐる争議が妥結。解雇退職者1,376名
- [10]1954年7月、米国サンドストランド社と生産フライス盤で技術提携
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
- [3]1950年8月、日本勧業銀行より倉井敏麿氏を社長に迎えた
- [6]1950年3月に下関営業所、同年10月に札幌営業所を開設して営業網を拡充した
- [9]1952年12月に米国トウイン・ディスク社とトルクコンバーターおよび流体接手に関して提携し、ウォシントン社とポンプおよびコンプレッサーに関して技術提携した
- [11]車輌メーカー10社と共同でトランシット・リサーチ・コーポレーションとPCCカーに関して、またジャパン・ミーハナイト社を通じてミーハナイト鋳物に関して技術提携した
- [12]トウイン・ディスク社およびウォシントン社との提携では、契約に基づき加茂工場および柏崎工場を現物出資し、新潟コンバーター株式会社および新潟ウォシントン株式会社を新設した
- [14]1954年2月、台湾造船有限公司に対し舶用内燃機関ならびに漁船の製造および販売権を許諾する契約を締結し、東南アジア地域の一角に輸出ルートを確保した
- 証券アナリストジャーナル 1963年(羽深知治)
- [13]新潟ウォシントンの出資比率は新潟鉄工所51%・ウォーシントン社49%、新潟コンバーターの出資比率は新潟鉄工所75%・ツインディスク・クラッチ社25%
- 上場会社総覧 1956年版 半期合算
- [15]1954年3月期の売上高38億円、当期純利益2億円
1955年〜石油掘削装置から建設機械までの新分野と製品別事業部制
新潟鐵工所は日本石油から分離独立した経緯から、石油精製と石油化学のプラント建設に古くから携わってきた。1955年3月には帝国石油と3,000m級の石油掘削装置N3000型を共同開発した。化工機の製作はプラントの設計、機器の製作、現地の組立据付の3部門に分かれ、この3つを一括して請け負っていたのは千代田化工建設と新潟鐵工所の2社である。新潟鐵工所はこの部門の伸びを見込んで横浜根岸の埋立地に新工場を建設し、1963年6月までに操業を開始した。し尿処理装置や塵埃処理設備を扱う浄化工業部門も加わり、年間2〜3億円の売上高を1964年度に5〜7億円へ伸ばす見込みを立てた。
- 証券アナリストジャーナル 1963年(羽深知治)
- [16]日本石油から分離独立した関係上、取扱製品は石油精製・石油化学に関係したものが多く、戦前の石油精製工場を建設するメーカーは藤永田造船と新潟鉄工だけであった
- [18]化工機の製作部門はプラントの設計、機器の製作、現地工事の3部門からなり、この3部門を一括して請け負っているのは千代田化工建設と新潟鉄工所である
- [19]化工機部門の伸びが著しいとの見込みから横浜根岸の埋立地に新工場を建設し、1963年6月の講演時点ですでに操業を開始していた
- [20]化工機関係の浄化工業部門はし尿処理装置・塵埃処理設備が主で、売上げは年間2〜3億円、1964年度には5〜7億円を見込んでいた
- 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
- [17]1955年3月、帝国石油と3,000m級石油掘削装置N3000型を共同開発
1959年7月、新潟鐵工所は建設機械部門に参入した。トラックミキサーは米国ウォシントン社との技術提携によるもので、アスファルト・フィニッシャーなどの舗装用機械は日本舗道と業務提携して作った。道路建設計画の進行に合わせて生産力を広げ原価を下げるため、高崎に新工場を建設した。工作機械では、終戦時の賠償指定で1951年まで製作を禁じられた遅れを取り戻すべく、フライス盤、プレーナー、普通旋盤、自動旋盤へ生産を絞った。ベッド型フライス盤と自動旋盤は米国サンドストランド社との提携品で、ニイガタ・サンドストランドの商標で販売した。1961年9月には初の数値制御工作機械22SMEVN型を完成させた。
- 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
- [21]1959年7月、建設機械部門に参入
- [26]1961年9月、初の数値制御工作機械22SMEVN型が完成
- 証券アナリストジャーナル 1963年(羽深知治)
- [22]建設機械のミキサーは米国ウォーシントン・コーポレーションとの技術提携によるもので、舗装用の機械は日本舗道との業務提携により製作していた
- [23]膨大な道路建設計画の進行に伴い、生産力の拡大と原価の低減を図るため高崎に新工場を建設した
- [24]終戦時に賠償指定工場に指定され1951年まで工作機械の製作を禁止されたため業界に後れをとり、フライス盤・プレーナー・普通旋盤・自動旋盤に生産を集中する方針をとった
- [25]ベッド型のフライス盤と自動旋盤は米国サンドストランド社との技術提携によるもので、ニイガタ・サンドストランドの商標で販売していた
部門ごとの自主的な運営と責任の所在をはっきりさせるため、新潟鐵工所は1959年6月に製品別事業部制を採用し、車両事業部を発足させた。同じ時期に社工員の差別撤廃、職階制の施行、給与形態の改正といった労務管理の近代化も実施した。受注高は1960年上期の60億円弱から岩戸景気の1961年上期に100億円近くへ伸び、1962年下期には金融引締めと設備投資の抑制を受けて72億円まで減少した。売上高は1959年3月期の61億円から1962年3月期の164億円へ増えた。1963年12月には射出成形機の第1号機S350/550VE型が完成した。
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
- [27]1959年に製品別事業部制を採用し、部門の自主的運営と責任体制の確立による利益向上につとめた
- [29]社工員の差別撤廃、職階制の施行、給与形態の改正など労務管理面の近代化を進めた
- 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
- [28]1959年6月、事業部制を採用し車両事業部が発足
- [33]1963年12月、射出成形機第1号機S350/550VE型が完成
- 証券アナリストジャーナル 1963年(羽深知治)
- [30]受注高は1960年上期の60億円弱から1961年上期には100億円弱に達し、1962年下期には金融引締めと設備投資の抑制を中心とする景気調整策の影響で72億円にダウンした
- 上場会社総覧 1961年版 半期合算
- [31]1959年3月期の売上高61億円
- 会社年鑑 1963年版 半期合算
- [32]1962年3月期の売上高164億円
参考文献[16]-[33]
- 証券アナリストジャーナル 1963年(羽深知治)
- [16]日本石油から分離独立した関係上、取扱製品は石油精製・石油化学に関係したものが多く、戦前の石油精製工場を建設するメーカーは藤永田造船と新潟鉄工だけであった
- [18]化工機の製作部門はプラントの設計、機器の製作、現地工事の3部門からなり、この3部門を一括して請け負っているのは千代田化工建設と新潟鉄工所である
- [19]化工機部門の伸びが著しいとの見込みから横浜根岸の埋立地に新工場を建設し、1963年6月の講演時点ですでに操業を開始していた
- [20]化工機関係の浄化工業部門はし尿処理装置・塵埃処理設備が主で、売上げは年間2〜3億円、1964年度には5〜7億円を見込んでいた
- [22]建設機械のミキサーは米国ウォーシントン・コーポレーションとの技術提携によるもので、舗装用の機械は日本舗道との業務提携により製作していた
- [23]膨大な道路建設計画の進行に伴い、生産力の拡大と原価の低減を図るため高崎に新工場を建設した
- [24]終戦時に賠償指定工場に指定され1951年まで工作機械の製作を禁止されたため業界に後れをとり、フライス盤・プレーナー・普通旋盤・自動旋盤に生産を集中する方針をとった
- [25]ベッド型のフライス盤と自動旋盤は米国サンドストランド社との技術提携によるもので、ニイガタ・サンドストランドの商標で販売していた
- [30]受注高は1960年上期の60億円弱から1961年上期には100億円弱に達し、1962年下期には金融引締めと設備投資の抑制を中心とする景気調整策の影響で72億円にダウンした
- [17]1955年3月、帝国石油と3,000m級石油掘削装置N3000型を共同開発
- [21]1959年7月、建設機械部門に参入
- [26]1961年9月、初の数値制御工作機械22SMEVN型が完成
- [28]1959年6月、事業部制を採用し車両事業部が発足
- [33]1963年12月、射出成形機第1号機S350/550VE型が完成
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
- [27]1959年に製品別事業部制を採用し、部門の自主的運営と責任体制の確立による利益向上につとめた
- [29]社工員の差別撤廃、職階制の施行、給与形態の改正など労務管理面の近代化を進めた
- 上場会社総覧 1961年版 半期合算
- [31]1959年3月期の売上高61億円
- 会社年鑑 1963年版 半期合算
- [32]1962年3月期の売上高164億円
1964年〜中貞男社長の大形地区集約と、13工場・6事業部への拡大
1964年6月の新潟地震で、山ノ下・入船地区にあった内燃機、製鋼、工作機、造船の4工場が冠水し、建物の倒壊や傾斜も生じた。同年11月の定時株主総会後の役員会で倉井敏麿社長は会長へ退き、副社長の中貞男氏が社長に就任した。1965年3月期の売上高は196億円と前期の193億円から伸び悩み、当期純利益は3億円の赤字に転じた。中貞男社長は被災した4工場のうち造船工場を除く3工場と支社を、新潟市岡山(大形)地区へ移すと決めた。用地16万2,000平方メートル(約5万坪)を買収し、建設費27億円を投じた。
- 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
- [34]1964年6月、新潟地震により山の下・入船地区の4工場が冠水
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
- [35]1964年6月の新潟地震により新潟地区の4工場(内燃機、製鋼、工作機、造船)は冠水、一部建物の倒壊・傾斜など甚大な打撃を受けた
- [36]1964年11月、定時株主総会後の役員会で倉井敏麿は社長を退任して会長となり、副社長の中貞男が社長に就任した
- [38]中貞男社長は入船・山ノ下両地区の罹災4工場(内燃機、製鋼、工作機、造船)のうち造船工場を除いた工場ならびに支社を、新潟市岡山(通称大形)地区へ移すと決断した
- [39]新潟市岡山(大形)地区に162,000平方メートル(約5万坪)を買収し、建設費27億円を投入して工場を集中した
- 会社年鑑 1967年版 半期合算
- [37]1964年3月期の売上高193億円・当期純利益8億円、1965年3月期の売上高196億円・当期純利益-3億円
移転は2期に分けて進んだ。1966年6月に内燃機と鋳造の2工場が完成し、同年8月に操業を開始した。工作機工場は1967年10月に完成し、設備を移して12月に操業へ入った。新潟地区の内燃機、工作機械、鋳造の3工場が大形地区に出そろい、レイアウトを組み替えた設備配置に加えて公害対策と労働環境にも配慮を加えた。中貞男社長は組織の改善、人材の配置、長期経営計画の策定、新製品の開発、営業網の拡充を並行して実施し、不況下でも業績を押し上げた。売上高は1967年3月期の275億円から1968年3月期に318億円へ増え、当期純利益は7億円である。
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
- [40]新工場の建設は第一期・第二期に分けて行われた
- [41]1966年6月に第一期の内燃機・鋳造の2工場が完成して移転を行ない、同年8月に操業に入った
- [42]工作機工場は1967年10月に完成し、続いて設備移転を行ない、12月操業の予定であった
- [44]新工場は合理的レイアウトによる最新鋭の設備を備え、公害対策と労働環境にも配慮した
- [45]中貞男社長は組織の改善、人材の合理的配置、長期経営計画の策定、新製品の開発推進、営業面の強化拡充を相次いで実施し、不況下にかかわらず業績は伸長を示した
- 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「新潟鉄工所」
- [43]1967年末、内燃機、工作機械、鋳造の3工場が新潟市に新たに完成した
- 会社年鑑 1971年版 半期合算
- [46]1967年3月期の売上高275億円、1968年3月期の売上高318億円・当期純利益7億円
1971年時点で新潟鐵工所は資本金95億円、従業員7,000名、新潟県下7と関東6の計13工場を擁し、化工機、内燃機、機械、車両建機、造船、鋳造の6事業部を置いた。1970年度の売上高は約630億円。第3次3カ年計画では、基準年次1969年度の受注高610億円に対し、1972年度の受注規模を年間1,000億円へ広げる目標を掲げた。1970年代前半には公害防止機器、長距離輸送パイプライン、NC工作機械を核とする省力化機器、吸収式冷暖房機器、海洋開発の各分野へ手を伸ばした。1975年3月期の売上高は1,094億円、経常利益は35億円。同期の大株主上位10名は第一勧銀、三井信託、日本火災、朝日生命など銀行と保険会社が並び、日本石油は入っていない。
- 証券アナリストジャーナル 1971年7月号(吉村義城・講演)
- [47]1971年時点で資本金95億円、従業員7,000名、工場は新潟県下に7、関東地方に6の計13工場。製品別事業部制として化工機、内燃機、機械、車両建機、造船、鋳造の6事業部を置いた
- [48]1970年度の年間売上高は約630億円
- [49]第3次3カ年計画で、基準年次1969年度の受注高610億円に対し1972年度は受注規模を年間1,000億円に拡大する計画を立て実行中であった
- [50]新たな分野として公害防止機器、長距離輸送パイプライン・システム、NC工作機械を中核とする省力化機器、吸収式冷暖房機器による空調機器、海洋開発の各分野に進出した
- 会社年鑑 1976年版
- [51]1975年3月期の売上高1,094億円、経常利益35億円
- [52]1975年3月時点の大株主上位10位は第一勧銀、三井信託、日本火災、朝日生命、協栄生命、長銀、丸紅、日本生命、伊藤忠商事、第四銀行であり、日本石油は含まれない
参考文献[34]-[52]
- [34]1964年6月、新潟地震により山の下・入船地区の4工場が冠水
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
- [35]1964年6月の新潟地震により新潟地区の4工場(内燃機、製鋼、工作機、造船)は冠水、一部建物の倒壊・傾斜など甚大な打撃を受けた
- [36]1964年11月、定時株主総会後の役員会で倉井敏麿は社長を退任して会長となり、副社長の中貞男が社長に就任した
- [38]中貞男社長は入船・山ノ下両地区の罹災4工場(内燃機、製鋼、工作機、造船)のうち造船工場を除いた工場ならびに支社を、新潟市岡山(通称大形)地区へ移すと決断した
- [39]新潟市岡山(大形)地区に162,000平方メートル(約5万坪)を買収し、建設費27億円を投入して工場を集中した
- [40]新工場の建設は第一期・第二期に分けて行われた
- [41]1966年6月に第一期の内燃機・鋳造の2工場が完成して移転を行ない、同年8月に操業に入った
- [42]工作機工場は1967年10月に完成し、続いて設備移転を行ない、12月操業の予定であった
- [44]新工場は合理的レイアウトによる最新鋭の設備を備え、公害対策と労働環境にも配慮した
- [45]中貞男社長は組織の改善、人材の合理的配置、長期経営計画の策定、新製品の開発推進、営業面の強化拡充を相次いで実施し、不況下にかかわらず業績は伸長を示した
- 会社年鑑 1967年版 半期合算
- [37]1964年3月期の売上高193億円・当期純利益8億円、1965年3月期の売上高196億円・当期純利益-3億円
- 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「新潟鉄工所」
- [43]1967年末、内燃機、工作機械、鋳造の3工場が新潟市に新たに完成した
- 会社年鑑 1971年版 半期合算
- [46]1967年3月期の売上高275億円、1968年3月期の売上高318億円・当期純利益7億円
- 証券アナリストジャーナル 1971年7月号(吉村義城・講演)
- [47]1971年時点で資本金95億円、従業員7,000名、工場は新潟県下に7、関東地方に6の計13工場。製品別事業部制として化工機、内燃機、機械、車両建機、造船、鋳造の6事業部を置いた
- [48]1970年度の年間売上高は約630億円
- [49]第3次3カ年計画で、基準年次1969年度の受注高610億円に対し1972年度は受注規模を年間1,000億円に拡大する計画を立て実行中であった
- [50]新たな分野として公害防止機器、長距離輸送パイプライン・システム、NC工作機械を中核とする省力化機器、吸収式冷暖房機器による空調機器、海洋開発の各分野に進出した
- 会社年鑑 1976年版
- [51]1975年3月期の売上高1,094億円、経常利益35億円
- [52]1975年3月時点の大株主上位10位は第一勧銀、三井信託、日本火災、朝日生命、協栄生命、長銀、丸紅、日本生命、伊藤忠商事、第四銀行であり、日本石油は含まれない
1950年〜1975年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 38 | n/a | 5 | n/a | 2 | 5.3% | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 41 | +7.9% | 5 | n/a | 2 | 4.9% | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 61 | n/a | 6 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 88 | +44.3% | 8 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 110 | +25.0% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 164 | +49.1% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 161 | ▲1.8% | n/a | n/a | 10 | 6.2% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 193 | +19.9% | n/a | n/a | 8 | 4.1% | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 196 | +1.6% | n/a | n/a | ▲3 | ▲1.5% | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 220 | +12.2% | n/a | n/a | 5 | 2.3% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 275 | +25.0% | n/a | n/a | 6 | 2.2% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 318 | +15.6% | n/a | n/a | 7 | 2.2% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 404 | +27.0% | n/a | n/a | 9 | 2.2% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 510 | +26.2% | n/a | n/a | 16 | 3.1% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 630 | +23.5% | n/a | 36 | 21 | 3.3% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 734 | +16.5% | n/a | 35 | 21 | 2.9% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 829 | +12.9% | n/a | 37 | 21 | 2.5% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 968 | +16.8% | n/a | 35 | 21 | 2.2% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 1,094 | +13.0% | n/a | 35 | 19 | 1.7% | n/a |
出所:上場会社総覧 1956年版 半期合算、上場会社総覧 1961年版 半期合算、会社年鑑 1963年版 半期合算、会社年鑑 1967年版 半期合算、会社年鑑 1971年版 半期合算、会社年鑑 1976年版 半期合算
出典・参考
12件
- 新潟鉄工所七十年史(新潟鉄工所社史編纂委員会、1968年)第八章「当社発展の史的回顧」
- 新潟鉄工所100年史(新潟鉄工所、1996年)年表
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 38_產業機械「新潟鉄工所」
- 上場会社総覧 1956年版 半期合算
- 上場会社総覧 1961年版 半期合算
- 会社年鑑 1963年版 半期合算
- 会社年鑑 1967年版 半期合算
- 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「新潟鉄工所」
- 会社年鑑 1971年版 半期合算
- 会社年鑑 1976年版
- 証券アナリストジャーナル 1963年(羽深知治)
- 証券アナリストジャーナル 1971年7月号(吉村義城・講演)