選択と集中
高度成長期からバブル期まで、日本の大企業は多角化を続けた。本業が伸びるかぎり、隣接分野への進出は合理的な判断だった。設備資金は主力銀行が供給し、株式は取引先と相互に保有していたため、投下資本の効率を株主から問われることもなかった。売上高と従業員数が企業の格を示す時代にあって、抱える事業の数はそのまま実力の証明だった。
資産価格の下落は、銀行の資金と株式の相互保有に支えられた多角化の前提を一度に崩した。設備・雇用・債務の三つの過剰が同時に表面化し、主力銀行も不良債権の処理に追われて新規融資を絞った。外部から資金を調達できなければ、次の投資原資は保有事業の売却で捻出するしかない。保有事業を売却して中核へ絞る整理を、米国は1980年代に済ませていた。買収の圧力と株主の要求によってコングロマリットが解体され、企業は中核事業へ資源を集約していた。日本が同じ整理に着手したのは、およそ十年後だった。
選択と集中は、この整理を説明する言葉として1990年代末に定着した。中核事業に経営資源を集中し、それ以外は売却するか停止する。論理は明快で、しかも当時の日本企業が置かれた状況を的確に言い当てていた。ただし実際に使われた場面の多くは、不採算部門の整理だった。三菱化学は四日市のエチレン設備を停止して総合化学からの脱却を掲げ、名古屋鉄道は多角化で広げた路線と関連会社を切り離した。いずれも損失の発生源を除く措置であって、残した事業をどう伸ばすかまで示したわけではない。
一方、中核を選び直した企業は少ない。東芝は汎用DRAMの量産から撤退し、NAND型フラッシュメモリへ主力を移した。武田薬品工業は非医薬事業を売却して医療用医薬品に集約している。コマツの構造改革も、競争優位を維持できる機種だけを残す判断だった。どれも撤退と同時に、次の収益源となる事業を名指ししている。選択と集中が本来指していたのは、撤退と次の収益源の指名を一体で決める判断である。
だが1990年代末の日本企業にとって、撤退すべき事業は損益計算書に現れており、伸ばすべき事業はどの帳簿にも現れていなかった。撤退する事業は、数字を測って決められる。伸ばす事業は、十年後の市場を予測して決めるしかない。同じ言葉が多くの場合に不採算部門の整理だけを意味したのは、そのためである。
財務諸表のどこを見るか
セグメント情報を数年並べ、区分の数と売上構成比がどう動いたかを追う。集中が進んだ会社はセグメントが減少し、残した区分の営業利益率が上がる。掛け声だけの年は区分名が変わるだけで構成比が動かない。事業用資産の減損損失と事業構造改善費用は、やめる判断を実行した年に特別損失として立つ。設備投資額と減価償却費の内訳を見れば、どの区分へ資金を回し続けているかが分かる。