リーマンショック後の緊急再建と総合電機からの決別

7,880億円の赤字を前に、出戻り社長・川村隆氏は「事業の聖域」をどう解体したか

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時期 2009年4月
意思決定者 川村隆 執行役会長兼執行役社長
論点 経営再建と事業ポートフォリオ
概要
2009年、リーマンショック後に日本の製造業として過去最大の約7,880億円の最終赤字を計上した日立製作所が、子会社会長だった川村隆氏を社長に呼び戻し、3,492億円の増資と社内カンパニー制、不採算事業の売却で再建に踏み切った経営判断。
背景
東電ショックと重電のゼロサム化で総合電機の総花経営が行き詰まり、2007年には時価総額で三菱電機に追い抜かれた。リーマンショックが弱った収益基盤を直撃し、連結自己資本比率は11.2%まで低下した。
内容
日立マクセル会長の川村隆氏を出戻りで社長に据え、就任直後に3,492億円を増資。社内カンパニー制で収益責任を明確化し、HDD事業を約48億ドルで売却、薄型テレビの自社生産からも撤退して総合電機の看板を返上した。
含意
危機を機に「事業の聖域」を解体した選択と集中は、中西宏明氏・東原敏昭氏へ継承され、常時運転の経営規律となった。事業を抱え込む会社から入れ替える会社への転換点にあたる。
筆者の見解

二度目の淵から

川村改革の核心は、財務の穴埋めそのものよりも、危機を口実に「聖域」を解体した点にあったとみることができる。日立は1950年にも、全工場の生産を止めてまで8,500名の整理に踏み切り、倒産の淵から立ち直った歴史を持つ。倒産寸前まで追い込まれて初めて、平時には触れられない構造へ手が入る——二度の危機に共通するこの図式は、大企業が自らを作り替える難しさを裏側から映している。

もっとも、看板を降ろすことと、次の稼ぎ方を定めることは別の課題である。総合電機の枠を外した日立は、その後ABBのパワーグリッド事業やGlobalLogicといった巨額買収で、エネルギーとデジタルへ稼ぎ頭を入れ替えていく。川村氏が引いた「情より理」の線を、後任がどこまで貫けるか。7,880億円の赤字から始まった問いは、事業を持ち替え続ける今日の日立にも、なお引き継がれているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

総合電機の総花経営と東電ショック

日立製作所は重電から家電まで、あらゆる電機製品を自前で抱える総合電機として戦後の成長を続けてきた。ところが2000年代に入ると、収益の柱であった電力・社会インフラ機器で潮目が変わる。2001年、最大の顧客である東京電力が翌年度の設備投資を15%減らして1兆円を割り込むと公表し、重電各社の受注環境は一変した。電力会社を相手にした堅実な商いに安住してきた重電業界は、限られた需要を奪い合うゼロサムの市場へ押し出された[1][2]

総花的な事業構成は、規模の大きさとは裏腹に収益力の低さを常態化させていた。2007年8月には時価総額で三菱電機に追い抜かれ、連結売上高で4割にも満たない相手に序列を覆される。長年の好敵手である東芝だけでなく、規模で下に見ていた同業にも抜かれた日立の姿を、日経ビジネスは「100年目の孤独」と書いた。消費者・大口顧客・グループ子会社という支え手が次々に離れ、求心力の低下が誰の目にも明らかになりつつあった[3]

リーマンショックと7,880億円の赤字

2008年秋のリーマンショックは、弱った収益基盤を直撃した。世界的な需要の急減を受け、日立は2009年3月期に約7,880億円の最終赤字を計上する。日本の製造業として過去最大の赤字であり、連結の自己資本比率は前年度の20.6%から11.2%へ半減した。繰延税金資産の取り崩しが損失を膨らませ、財務の毀損は事業継続そのものを脅かす水準に達した[4]

危機の深刻さは末端まで共有された。社長の古川一夫氏は経営責任を取って辞任を表明し、指名委員会は後継の選定に入る。あわせて国内外で大規模な人員削減にも踏み切り、従来の延長線上では立て直せないという認識が社内に広がった。もう一度リーマン級の後退が来ていれば倒産していた、とのちに語られるほどの淵に、創業以来の総合電機は立たされていた[5]

決断

子会社会長からの呼び戻し

指名委員会が選んだのは、日立本体を離れて子会社・日立マクセルの会長に転じていた川村隆氏であった。本体で執行の中枢を経験した経営者が、子会社から本社の社長へ復帰する前例は乏しい。川村氏自身、この人事を「まったく予想をしていない大変なこと」と振り返るほどの異例の出戻りであった。2009年4月、7,880億円の赤字を抱えた本社の指揮を川村氏が執った[6]

川村氏は就任直後、3,492億円の公募増資に踏み切る。既存株主には約13%の希薄化が生じ、世界中の投資家から厳しい批判を浴びた。それでも自己資本比率の早期回復を他のすべてに優先すべきだという判断を、川村氏は譲らなかった。攻めの投資ではなく、財務の底が抜ける前に資本を厚くしておくための、生き残りの増資であった[7]

社内カンパニー制と集団指導体制

組織にも手を入れた。2009年10月、川村氏は事業グループを社内カンパニーへ再編し、主要グループ会社と同じ独立採算で各事業に収益責任を負わせる体制を敷く。どの事業がいくら稼ぎ、いくら失っているのかを一つずつ可視化し、判断の土台をつくる狙いであった。あわせて川村氏を支える副社長の集団指導体制を組み、経営の責任の所在をはっきりさせた[8]

不採算事業に手をかければ、それを育ててきた先輩経営者から、汗水を垂らして築いたものを簡単に売るのかという反発が上がる。川村氏は、社長として決めた以上は撤回しないという立場を崩さなかった。「社長として決めたことを撤回するわけにはいかない」という構えは、情に流されず経済合理で切るという線であり、のちの選択と集中を支える規律となった[9]

結果

財務の回復と総合電機の看板返上

増資と構造改革は数字に表れた。日立は2011年3月期に4期ぶりの黒字へ転じ、2012年3月には米ウエスタン・デジタルへハードディスク駆動装置事業を約48億ドルで売却する。この売却で自己資本比率は11.2%から18.8%へ戻り、財務の底離れが確かなものになった。同じ月には中小型ディスプレイ事業も手放している[10]

売却は、かつて日立の顔であった事業に及んだ。2011年には1956年以来55年続けた薄型テレビの自社生産から退き、家電・情報機器・半導体が次々と本体から切り離される。重電から家電まで一通りを抱える総合電機という看板を、日立は自ら降ろした。川村氏は同時期のインタビューで総合電機路線との決別を明言しており、先輩たちの反発を押し切って聖域に踏み込んだ判断が、事業構成の輪郭を描き替えた[11][12]

選択と集中の制度化と継承

川村体制が示した方向は、後任に受け継がれた。2011年に川村氏は取締役会長へ移り、中西宏明氏が社長として川村路線を継ぐ。危機のなかで生まれた「事業に聖域はない」という発想は、その後の海外買収や上場子会社の整理を貫く経営規律として定着していく。二度の危機を経た日立は、事業を抱え込む会社から入れ替える会社へと、性格を変え始めた[13]

中西氏はデジタル基盤「Lumada」を掲げ、東原敏昭氏は海外買収でエネルギーとデジタルへ舵を切る。川村氏が財務再建のために始めた選択と集中は、一過性の緊急措置ではなく、歴代トップが引き継ぐ常時運転の規律へと姿を変えた。7,880億円の赤字が突きつけた問いは、その後の十年をかけて日立の事業構成そのものを組み替えていく[14]

出典・参考