医薬事業からの撤退——5本柱の一角を合弁相手へ託して畳む
40年かけて育てた医薬部門を、なぜ杏林製薬への統合というかたちで手放したか
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- 概要
- 2008年10月1日、日清製粉グループ本社は、合弁相手のキョーリンとともに、両社の合弁会社・日清キョーリン製薬を杏林製薬へ吸収合併させ、医薬合弁事業を解消した。1965年の日清化学設立以来およそ40年続いた医薬事業からの事実上の撤退で、1970年代に整えた5本柱の一角を畳む選択と集中の判断であった。当時の社長は村上一平であった。
- 背景
- 医薬は製粉本業から派生した化学部門を母体に、補酵素CoQ10の世界初量産化などで原薬・機能性素材の実績を積み、新薬中心の研究開発型への脱皮を目指していた。だが1992年発売のダイム錠など自社新薬の販売規模は事業継続の経済性を支えるに至らず、研究開発投資の重さと販売規模の小ささに苦しむ構造が続いていた。
- 内容
- 1996年に杏林製薬(キョーリン)との合弁で設けた日清キョーリン製薬を、2007年9月の基本合意・2008年8月の合併契約を経て、2008年10月1日付で杏林製薬へ吸収合併した。存続会社は杏林で、合併後の売上高は800億円弱、MRは約750人となり、日清キョーリン製薬の従業員は全て杏林が引き受けた。
- 含意
- 撤退したのは医療用医薬品の販売事業で、CoQ10などの機能性素材や健康食品は日清ファルマに残された。しかし2025年、その日清ファルマも健康食品事業をオリエンタル酵母へ移管しファインケミカル事業を終了し、製粉技術から派生した医薬・機能性素材の系譜も最終的に幕を閉じることとなった。
選択と集中が畳んだもの
この判断の核にあるのは、製粉本業の周辺で40年かけて育てた医薬事業が、ついに独立した収益柱にはならなかったという現実である。ビタミン合成から補酵素の量産化、そして自社新薬へと、製粉技術の応用先を探し続けた歩みは、原薬の供給では一定の成功を収めながら、新薬の販売という最も付加価値の高い領域では規模を得られなかった。合弁相手への統合というかたちで畳んだのは、みずから新薬を売り続ける体力と、それに見合う市場を持てなかったことの裏返しであったとみることができる。選択と集中は、伸びなかった事業を切る論理であると同時に、多角化の一本を手放す痛みを伴う判断でもあった。
その後の展開は、選択と集中という論理がどこまで及ぶのかを示している。2008年に新薬から退いたあとも、CoQ10という象徴的な素材は健康食品として残されたが、それも2025年には他社へ移され、ファインケミカルは終えられた。製粉という安定した本業を持つ企業にとって、周辺で育てた事業をどこまで抱え、どこで手放すかは、成長の段階ごとに繰り返し問われてきた。海外製粉への集中投資が減損という別の試練を招いたことと合わせて見れば、この医薬撤退は、日清製粉グループが多角化と集中のあいだで幾度も選び直してきた歴史の、一つの区切りとして読めるとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
製粉技術から派生した医薬部門
日清製粉の医薬事業は、製粉本業から派生した化学技術を母体としていた。同社は戦前からビタミンE・Kの合成法を工業化しており、1955年以降はこの化学部門で医薬品原料の生産を始めた。1965年には化学部門を日清化学として独立させ、製粉で培った研究開発力を医薬の分野へ振り向けた。1961年の配合飼料を皮切りに広げた多角化のなかで、医薬は製粉・食品・飼料・エンジニアリングと並ぶ5本柱の一角を占めた。ゼロからの参入ではなく、本業の技術的な延長線上に置かれた事業であった[1][2]。
化学部門の到達点の一つが、補酵素CoQ10であった。日清製粉はこの物質を世界で初めて量産化し、1966年からエーザイへ医薬品原料として納入を始めた。作用が緩やかで副作用が少ないこの補酵素は、心臓病の治療薬向けの原料として、ピーク時には年間300億円を売る医薬品へと育った。製粉由来の化学技術が医薬品原料の分野で結実した実績であったが、1980年に特許が切れると他社の参入が相次ぎ、世界シェアを分け合う構図に変わった。原薬の供給だけでは、事業の広がりに限界が見えつつあった[3]。
新薬開発の重さと販売規模の小ささ
原薬の供給から一歩進み、医薬部門は新薬中心の研究開発型への脱皮を目指した。1988年には胃潰瘍薬ミドリアミンを開発し、1992年には同社初の大型新薬として高血圧・狭心症の治療薬ダイム錠を発売した。製粉技術の周辺で積み上げた研究開発力を、自社創薬という付加価値の高い領域へ振り向ける方針であった。5本柱のなかで医薬は、最も研究開発の色彩が濃く、将来の成長を託された事業でもあった[4]。
しかし、自社新薬の収益化は続かなかった。ダイム錠の販売規模は事業継続の経済性を支えるには至らず、ジェネリック医薬品の台頭と新薬開発の長期化・コスト増大が事業構造をさらに苦しくしていた。2000年代を通じて医薬部門の事業規模は製粉・食品の両セグメントに比べて小さいままで、自社開発新薬に続く収益柱が育たないまま、研究開発投資の重さと販売規模の小ささに苦しむ構造が続いた。新薬の上市から市場での収益化まで長い年月を要する医薬産業の特性が、グループ内での相対的なプレゼンス低下につながった[5]。
決断
合弁の解消と杏林への統合
日清製粉グループは、医薬の販売力を補うため、1996年に杏林製薬(キョーリン)との合弁で日清キョーリン製薬を設け、医薬事業の強化を図っていた。だが自社新薬の伸び悩みが続くなか、2007年9月、両社は合弁会社を杏林製薬へ統合する方針で基本合意した。2008年8月に合併契約を結び、同年10月1日付で杏林製薬が日清キョーリン製薬を吸収合併した。日清製粉グループとキョーリンは、合弁会社による合弁事業を解消し、医薬事業を杏林へ一本化した[6][7]。
合併後の存続会社は杏林製薬で、統合後の売上高は800億円弱、MRは約750人となり、日清キョーリン製薬の従業員は全て杏林が引き受けた。日清製粉グループの側から見れば、これは医療用医薬品の販売事業からの退出であり、1965年の日清化学設立以来およそ40年続いた医薬事業からの事実上の撤退であった。1970年代に整えた製粉・食品・飼料・医薬・エンジニアリングの5本柱体制は、ここで一角を失った[8][9]。
結果
選択と集中への転換と、素材の系譜
医薬撤退と前後して、経営方針は中核事業への集中と海外製粉の拡大という両軸へと明確に切り替わった。グループは製粉・食品への経営資源集中を前面に掲げ、後年の米国ミラー・ミリング買収へと続く海外拡大を成長の主戦場に据えた。一方で、撤退の対象はあくまで医療用医薬品の販売事業であり、補酵素CoQ10のような機能性素材や健康食品は、持株会社化に伴って発足した日清ファルマに残された。2001年に医薬品から食品区分へ移されたCoQ10は、健康ブームのなかで健康食品としての新たな市場を得ていた。新薬から退く一方で、素材の系譜は形を変えて続いた[10][11]。
もっとも、その素材の系譜も、長くは続かなかった。2025年、日清製粉グループは日清ファルマの健康食品事業をオリエンタル酵母へ移管し、CoQ10などの医薬品原薬を扱うファインケミカル事業の終了を決めた。上田工場での医薬品原薬の製造は2025年10月末に終え、日清ファルマそのものの事業活動も2025年度中に終える計画で、2025年3月期には特別損失22億76百万円を計上した。選択と集中という同じ論理のもとで、2008年に新薬から退いたグループは、17年を経て機能性素材からも手を引くこととなった。製粉技術から派生した化学・医薬の系譜は、ここでほぼ幕を閉じた[12]。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- 日清製粉グループ本社 有価証券報告書【沿革】
- 週刊東洋経済 2005年1月15日号「ニッポンの技術再発見 日清ファルマ 世界初の量産化から40年 健康ブームでブレークCoQ10」
- 薬事日報(2007年)「杏林製薬、来年10月に日清キョーリン製薬を吸収合併」
- 日清製粉グループ本社 適時開示 2007年9月26日「杏林製薬株式会社と日清キョーリン製薬株式会社の合併について」
- 日清製粉グループ本社 ニュースリリース(2025年5月15日)「連結子会社間での健康食品事業の移管及び連結子会社(日清ファルマ株式会社)での事業活動終了のお知らせ」
- 日清製粉グループ本社 有価証券報告書(2009年3月期・連結)