1900年に群馬県館林で正田貞一郎氏が館林製粉(現・日清製粉)を創業[1]。米国から最新鋭の機械式ローラーミルを輸入して製粉業に参入した新興企業であった。創業当初の資本金は3万円、製粉能力は日産50バーレルで[2]、原料挽砕量に直せば一日およそ6トンにとどまる小規模な出発だった。当時の国内市場は伝統的な水車粉と輸入粉が消費のおよそ9[3]割を占めており、機械式製粉は1割未満にとどまっていた。正田家は地元の館林で営んできた米穀商や醤油醸造業で培った財務基盤をもち、高額な機械輸入と自家発電設備の先行投資に耐えうる資本力を備えており、家業の多角化として機械製粉に新規参入を果たした。
ボトルネックであった輸送については、東武鉄道の館林延伸(1907年)が製品出荷のボトルネックを解消して全国への出荷を開始。群馬地区における小麦粉を全国に出荷する事業をスタートさせた。
1908年に館林製粉は経営難に陥っていた横浜の日清製粉(旧会社)を合併し、日清製粉の社名を継承[4]。本社機能を群馬県館林から東京へ移し[5]、地方の製粉会社から国内業界の再編を主導する立場へ転じた。日露戦争後に各地で乱立した製粉会社が不況のたびに経営難に陥る業界構造をとらえ、"合理的経営"を社是に掲げたうえで、国内工場の合併吸収により生産規模を拡大した。大正期の好況のもとで名古屋・水戸・岡山・神戸の各工場を新設し、上毛製粉など4[6]社を合併して、生産能力を1万バーレル超まで拡大。[7]業界再編による規模の経済の追求が、日清製粉における製粉業の成功体験となった。
1928年に第二期工事がほぼ完成した鶴見工場は能力7,000バーレルで当時の国内最大級であり、これにより同社の全能力は1万9,400バーレルに増加し全国第一位となった。臨海の岸壁に直接本船を着岸させ、真空吸い上げ機で原料を自動受入する、いわゆる『海工場』として、輸入小麦の大量処理と品質管理を同時に成り立たせた拠点であった。投下した建設資金は800万円、資本金1,200万円の会社としては相応の決断を要した規模であった。
鶴見建設の狙いは専務取締役・正田貞一郎氏が1913年の外遊でマンチェスターの製粉工場を視察し、岸壁に汽船が横付けされニューマチックポンプで原料を吸い上げる光景に接した経験と、日本の製粉業発展には輸出が必要であるという判断による。
鶴見工場の能力拡張は、小麦粉輸出をもう一本の成長の柱に育てる前提となった。カナダ産の下級小麦を高品質に仕立てる独自の製品化技術と鶴見工場の処理能力が国際競争力の源泉となり、1933年の小麦粉輸出量は1,500万袋の過去最高[8]を記録した。これは当年の国内販売量のおよそ半分に相当する輸出量で、日清製粉はグローバル市場でも頭角を表した。鶴見以降も汽船岸壁直付け方式の臨海工場を国内で先行整備し、原料の受入から製品の船積みまでを一拠点で完結させる『海工場』という事業構想により、製粉シェアの確保に注力した。
第二次世界大戦の勃発が製粉業界の状況を一変させた。軍の統制下で製粉業は『不急産業』として整備対象に指定され、工場の運転禁止処分が相次いで発令された。輸出を前提に積み上げた鶴見工場の能力は、原料輸入の途絶と統制経済への移行で稼働の機会を奪われ、戦前期に組み上げた業界首位の生産体制は、軍需に直接寄与しない産業として一律に縮小した。輸出の柱を失い、国内消費向けの稼働も統制で抑え込まれる二重の制約のもとで、戦前拡張の前提が崩れた。
1945年の空襲により、日清製粉は岡山、宇都宮、鶴見、水戸、鳥栖という主力の5工場[9]が相次いで焼失した。終戦時点の残存能力は4,958バーレルと、戦前最高の5分の1以下まで低下[10]。臨海立地で輸出を支えた鶴見工場も焼失工場の中に含まれており、戦前30年余りで積み上げた設備資産の大部分が一年間の戦災で失われた。このため、残存設備のみで戦後復興を開始した。
戦時中の空襲により製粉能力を低下させたが、戦後は政策的な後押しにより業容を拡大した。戦後の国内では食糧難の解消が最優先課題となり、政府の後押しにより食糧管理制度のもとで小麦の国内供給量を戦前の3倍規模まで拡大。加えて米国からの援助小麦、いわゆる"ガリオア・エロア援助"によってパン食の普及が後押しされ、日清製粉の売上を拡大する追い風となった。ただし、原料調達と販路は国の制度によって設計され、同業他社との差が生まれにくい構造を伴っていた。
焼失工場の再建は政府補助金と自己資本を組み合わせて資金調達されたが、その代償として創業正田家の株式持分は希薄化した。1962年3月末時点の筆頭株主は住友信託銀行(保有比率7.0%)であり、創業家は大株主上位10名の名簿には存在しなかった(出所:株式会社年鑑 昭和38年版)。資本的な裏付けが限定される一方で、社長としては正田英三郎氏が経営を担い続け、創業家の経営関与は形を変えて維持された。
1957年、日清製粉は鶴見と神戸の両工場に空気搬送方式すなわちニューマチック方式の製粉設備を国内で初めて導入した[11]。粉の搬送を機械式コンベヤから空気圧送に切り替えるこの方式は、異物混入の抑制と歩留まりの改善をもたらし、製粉品質と生産効率の両面で従来設備を上回った。新方式の採用は同社の技術的優位を内外に示す材料となり、設備投資の競争で他社の追随を促した。1960年代から1970年代にかけて、パン・パスタ・プレミックスといった加工食品の普及が進み、食生活の洋風化が小麦粉需要の拡大要因として作用した。この需要拡大が、ニューマチック方式に代表される高効率設備への投資回収を支える前提となった。
需要拡大の波を受け、日清製粉は1971年に神戸第二工場、1974年に千葉工場を相次いで稼働させ、輸入小麦の受入から製粉までを一貫処理できる港湾隣接の高能力拠点を整備した。この時期の国内製粉シェアは35%前後で推移し、業界首位の地位を固めた。原料となる小麦は8割以上が輸入であるため、港湾岸壁に船を直付けして真空吸引で受け入れる『海工場』型の高能力工場を持つ事業者ほど、原料物流コストと加工コストの両面で優位に立てる構造があった。立地と能力の組み合わせが直接的に勝敗を決める産業の性質が、上位数社の寡占構造をかたちづくった。日清製粉はこの寡占化の流れの中で、先行投資による規模の経済を最大限に活用する側に位置した。
製粉本業で国内首位を固める一方、1960年代以降は単一事業依存のリスクを意識した多角化路線が本格化した。1961年の配合飼料事業への参入を皮切りに[12]、1965年には医薬品分野で日清化学を設立し[13]、グループ内で蓄積したビタミン合成技術を新薬開発へと振り向けた。1972年にはプラント設計分野で日清エンジニアリング[14]を立ち上げ、製粉設備の社内開発で培ったエンジニアリング機能を外販事業に振り向けた。これらの取り組みを通じて、製粉・飼料・食品・医薬・エンジニアリングという5[15]本柱の事業体制が、1970年代中に整えられた。各事業はいずれも製粉本業との技術的・顧客的な親和性をもつ周辺領域から選ばれ、ゼロからの新規参入ではない形で多角化を組み立てた。
5本柱体制の整備は、食糧管理法の下の制度的な収益構造に対する経営側の対応という側面も持っていた。当時の国内小麦粉価格は、食糧管理法のもとで政府が一定の利益幅を織り込んだ標準価格を設定する仕組みで、国際小麦価格と比べて割高な水準に維持される一方、価格改定の自由度は低く抑えられていた。製粉部門の収益は制度的な天井に阻まれて構造的に圧迫されており、本業の利益率を引き上げる手段が限られていた。多角化は、この収益構造の限界を別事業の積み上げで補う対症療法の性格を帯びていた。ただし、新規事業の収益貢献は緩やかなものに留まり、グループ利益率の改善は数ポイント単位にとどまった。この時期の経営は、利益率の引き上げよりも売上規模の拡大を優先する方向に重心を置いていた。
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|---|---|---|---|---|
| 1900〜1948年機械製粉導入と戦前拡張、空襲で失った5工場 | 館林製粉を創立 | ★ | ||
| 旧日清製粉を合併し社名を継承 | ★★ | |||
| 鶴見工場が竣工 | ★ | |||
| 鶴見工場が火災で焼失 | ★ | |||
| 小麦粉輸出が過去最高を記録 | ★ | |||
| 朝鮮製粉を設立 | ★ | |||
| 正田英三郎 | 空襲で5工場が焼失 | ★★ | ||
| 1949〜1974年戦後復興と能力増強、5本柱体制への準備 | 正田英三郎 | 東京証券取引所に株式を上場 | ★ | |
| 正田英三郎 | 製粉設備をニューマティック方式に近代化 | ★★ | ||
| 正田英三郎 | 配合飼料事業に参入 | ★★ | ||
| 正田英三郎 | 中央研究所が竣工 | ★ | ||
| 正田英三郎 | 日清化学を設立 | ★ | ||
| 正田英三郎 | 日清DCA食品を設立 | ★ | ||
| 正田英三郎 | 日清エンジニアリングを設立 | ★ | ||
| 1975〜2007年多角化の全盛期、北米進出と持株会社制への移行 | 正田修 | 日清フーズ・日清化学を吸収合併 | ★★ | |
| 正田修 | 合弁製粉会社を設立 | ★ | ||
| 正田修 | ロジャーズフーズ社を買収 | ★★ | ||
| 正田修 | 第2の合弁製粉会社を設立 | ★ | ||
| 正田修 | 日清キョーリン製薬の運営開始 | ★ | ||
| 正田修 | 冷凍食品事業を新日清フーズへ移管 | ★ | ||
| 正田修 | 日清テクノミックを吸収合併 | ★ | ||
| 正田修 | 三幸に経営参加 | ★ | ||
| 正田修 | 全事業の再分社と純粋持株会社「日清製粉グループ本社」への移行 2001年7月、日清製粉が製粉・食品・飼料・ペットフード・医薬の全事業を分社し、本体を製造機能を持たない純粋持株会社『日清製粉グループ本社』へ改めた再編。正田修社長のもとで、事業会社それぞれに社長を置く分権型の体制へ移行した経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 正田修 | オリエンタル酵母工業を子会社化 | ★ | ||
| 2008〜2024年選択と集中——医薬撤退から豪州買収、減損とV字回復 | 村上一平 | 医薬事業からの撤退——5本柱の一角を合弁相手へ託して畳む 2008年10月1日、日清製粉グループ本社は、合弁相手のキョーリンとともに、両社の合弁会社・日清キョーリン製薬を杏林製薬へ吸収合併させ、医薬合弁事業を解消した。1965年の日清化学設立以来およそ40年続いた医薬事業からの事実上の撤退で、1970年代に整えた5本柱の一角を畳む選択と集中の判断であった。当時の社長は村上一平氏であった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 大枝宏之 | 米国製粉会社Miller Milling Company LLCを買収 | ★★ | ||
| 大枝宏之 | ニュージーランド製粉事業を取得 | ★ | ||
| 大枝宏之 | ジョイアス・フーズを子会社化 | ★ | ||
| 大枝宏之 | 見目信樹が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 見目信樹 | 豪州アライド・ピナクル買収と3年後の大型減損 2019年2月27日、日清製粉グループ本社は、事業会社・日清製粉とともにオーストラリア最大手の製粉会社アライド・ピナクルを約459億円(5億7,400万豪ドル)で取得すると発表し、4月1日に株式譲渡を実行した。米国・カナダに続く三極目の海外製粉拠点を得る戦略投資で、当時の意思決定者は見目信樹社長であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 見目信樹 | ペットフード事業から撤退 | ★ | ||
| 瀧原賢二 | 瀧原賢二が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 瀧原賢二 | 熊本製粉を子会社化 | ★ | ||
| 瀧原賢二 | 初の親会社純損失を計上 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日清製粉グループ本社)