ニップン三井物産への製品一手販売の委託と、日清製粉を含む製粉共販組合の結成
- 概要
- 大正末の設備過剰と販売競争の激化で不振に陥った日本製粉が、1927年5月に三井物産と製品一手販売契約を結んで再建に着手し、1928年10月の日清製粉との価格協約を経て、1930年4月に日清製粉・三井物産と製粉共販組合を発足させた経営判断。
- 背景
- 1925年の大型機械製粉の総能力は約33,700バーレルと大戦前の3倍を超え、その80%強を日清製粉と日本製粉が握っていた。パン用強力粉・菓子用薄力粉の消費は伸びたものの、工場能力の増加がそれを上回り、過剰生産の傾向が強まっていた。
- 内容
- 1926年5月に7社で限産協定を結んで操短を続けたうえ、日本製粉は販売そのものを三井物産に委ねた。1930年4月1日発足の製粉共販組合は資金20万円で、日清製粉が10万円、日本製粉と三井物産が5万円ずつを出資した。
- 含意
- 1931年4月に日東製粉が加わって東部製粉共販組合となり、関西の増田・大阪製粉はアウトサイダーとして牽制した。満州事変後の市況回復で両組合は1935年7月に解散し、価格を取り決める枠組みは1940年の公定価格制へ引き継がれていった。
筆者の見解
値を決める相手が、市場から組合へ移った五年
製粉共販組合の資金20万円のうち、日本製粉の持ち分は5万円にとどまった。日清製粉の半分であり、自社製品の販売を担う三井物産と同額である。設備能力では業界の8割強を相手と二分しながら、共同販売の枠内での立場は対等ではなかった。1927年5月に販売を三井物産へ委ね、1928年10月に競争相手と価格を取り決め、1930年4月に共同販売の機関へ加わる。三段の手はいずれも自社で値を決める余地を削っており、設備過剰を自力の販売力で吸収する道は、この時点では残っていなかったとみられる。
ただ、共販組合が市況を支えた五年は、日本製粉が競争力を取り戻した五年ではない。組合を解散に導いたのは自社の販売の立て直しではなく、満州事変以後の市価の騰勢と大陸向け輸出の激増という外側の変化であった。関西の増田製粉や大阪製粉が最後まで加わらなかった事実も、この枠組みが業界全体を律しきれなかったことを示している。自主的な取り決めの時代も、1940年1月の農林省告示による最高販売価格の決定で終わる。値を決める相手が市場から組合へ、そして国家へ移っていく過程の入口に、この判断は置かれているといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
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