ニップンニップン冷食の設立と冷凍食品製造部門の分社化
本体の一部門のままか、独立した製造会社か——粉の需要が頭打ちへ向かう年に冷凍食品をどう立て直したか
- 概要
- 1996年6月、日本製粉がニップン冷食株式会社を設立し、同年10月に冷凍食品製造部門を分社して高崎工場を移した経営判断。1973年10月にクリームコロッケで冷凍食品を始めてから23年を経て、製造の現場を本体の外へ出し、冷凍食品を独立した事業として立ち上げ直した。
- 背景
- 小麦の総需要量は1996年度ごろまで増加をたどり、その後は人口減と少子高齢化で頭打ちへ向かう。1993年10月に澤田浩社長が始めた「経営基盤強化のための全社的再構築」は、ヒト・モノ・カネの再配置を掲げ、粉の外に稼ぐ先を探していた。
- 内容
- 1996年3月にエヌエフフローズン、6月にニップン冷食を設立し、10月に高崎工場を新会社へ移管する。1999年4月には本体が伊勢崎市に冷凍食品工場を建ててエヌエフフローズンへ貸与した。同年11月のタイ進出、1998年4月のパスタ分社もこの時期に重なる。
- 含意
- 2021年4月、ニップン冷食から冷凍食品製造事業を譲り受け、伊勢崎冷食工場・竜ヶ崎冷食工場とした。分社から本体復帰まで25年。会社は2030年に冷凍食品で年間売上高900億円・売上構成比18%を掲げ、参入から半世紀を過ぎた事業を成長領域の中心に据えている。
受け皿を先に用意した会社
小麦の総需要が伸びをやめた1996年度は、ニップン冷食を設立した年度でもあった。澤田浩社長が1993年から率いた全社的再構築のなかで、冷凍食品はなお本体の一製造部門にすぎず、投資も人繰りも製粉の論理の下に置かれていた。別会社へ出したことで、人手のかかる製造の採算を単独で測る道が開く。高崎工場を移す一方、伊勢崎の新工場は本体が建てて子会社へ貸した。事業は切り離しながら資金の負担は本体で引き受ける構えがうかがえる。
ただ、切り離した事業が本体へ戻るまでには二十五年かかった。1996年に本格参入と呼んだ冷凍食品が売上構成比18%へ届くのは2030年の目標で、クリームコロッケから数えれば五十七年になる。会社が自ら認めるとおり、安価というイメージはいまもつきまとい、価格改定の交渉は難しい。速く育った事業ではない。粉の需要が頭打ちへ向かうと読んだ年に受け皿を先に用意し、育つのを待った点にこそ、この会社の時間の使い方が表れているといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
二十三年、本体の一製造部門であった冷凍食品
日本製粉が冷凍食品を作り始めたのは1973年10月であった。高崎工場でクリームコロッケの生産に入り、じゃがいもを使わずバタールーをベースにした家庭用の高級品として売り出す。1969年にヘルスケア、1973年に冷凍食品と、加工食品への進出はこの時期に相次いでいる。ただし冷凍食品は独立した事業ではなく、製粉本体が抱える一製造部門にとどまり、その状態が二十年以上続いた[1][2]。
事業の単位はその後も動いた。1990年10月にオーマイ株式会社を吸収合併し、同社の設備を厚木工場・加古川工場とする。1955年に別会社として始めた家庭用食品を、三十五年かけて本体へ取り込んだ。1991年3月には、単身世帯と高齢者の増加や女性の社会進出で高まる簡便化の要求に応え、弁当や惣菜を扱う中食事業に入っている。粉を挽いて売る商売の外側に、売り先が二本増えた[3][4]。
全社的再構築と、頭打ちへ向かう粉の需要
1993年10月、「経営基盤強化のための全社的再構築」が始まる。ヒト・モノ・カネの再配置を掲げた計画で、会社は自らの歴史に前例のない取組みと記している。同じ1993年に社長へ就いた澤田浩氏が主導し、2002年に会長へ退くまで九年、この再編が経営の中心にあった。1995年1月の阪神淡路大震災では神戸工場が全面閉鎖、神戸甲南工場も長期の操業停止となり、再構築は途中で災害復旧を抱え込む[5][6]。
粉の側に伸びしろは乏しかった。小麦の総需要量は、一人当たり消費量の伸びと人口増によって1996年度ごろまで増加をたどり、そこから緩やかな人口減と少子高齢化で頭打ちへ向かう。原料の小麦は政府が買い入れて製粉各社へ売り渡す国の管理下にあり、量も価格も自社では動かせない。冷凍食品の会社を作った年は、国内の粉の需要が伸びをやめた年と重なっていた[7]。
決断
一九九六年、製造を本体の外へ出す
1996年6月、日本製粉はニップン冷食株式会社を設立した。これに先立つ同年3月にはエヌエフフローズン株式会社を設けており、冷凍食品を担う会社を二つ用意していた。同年10月、冷凍食品製造部門を分社化し、高崎工場はニップン冷食高崎工場となる。高崎・竜ヶ崎の両工場にあった冷凍食品プラントが新会社へ移り、1973年に始めた製造の現場は本体を離れた[8][9]。
設備の持ち主と操業の担い手を分ける形は、その後も続いた。1999年4月、本体が伊勢崎市に冷凍食品工場を完成させ、エヌエフフローズンへ貸与している。投資は製粉の本体が負い、日々の製造は子会社が回す。冷凍食品は人手のかかる商売で、装置が動けば済む製粉とは原価の作り方も人の使い方も違う。性格の異なる二つの事業を同じ管理の下に置かない配慮が働いていたとみられる[10]。
創立百年の年に開いた回路と、分社という型
1996年には別の動きも重なっている。冷凍食品会社と同じ6月には日本商事が新日本商事を吸収して商事部門を一本化し、7月の創立100周年に際してはコミュニケーションネーム「NIPPN」と新ロゴマークを発表した。11月にはタイに Nippon Flour Mills (Thailand) Ltd. を設立して初の海外拠点を置く。創立百年の節目に、冷凍食品と海外という二つの回路が同時に開いた[11][12]。
分社は冷凍食品にとどまらなかった。1998年3月にオーマイ株式会社を再び設立し、翌4月にパスタ製造部門を分社して厚木・加古川の両工場を移す。1990年に本体へ吸収したはずの名前を、八年後に製造会社として作り直した。育てる事業は外へ出し、育った事業は中へ戻す。製粉の本体には手を触れず、周辺の会社を組み替えて事業の構成を変える手つきが、この十年で定型になっていた[13]。
結果
二十五年をかけた本体への回収
冷凍食品への設備投資は分社後も重ねられた。2020年10月に福岡工場のプレミックス工場が、同年11月には伊勢崎工場の冷凍食品第2工場とタイの冷凍生地製造工場が竣工している。2021年1月1日、会社は社名を日本製粉から株式会社ニップンへ改めた。そして同年4月、ニップン冷食から冷凍食品製造事業を譲り受け、伊勢崎冷食工場・竜ヶ崎冷食工場とする。別会社へ出した製造が、二十五年を経て本体へ戻った[14][15]。
規模の面では、粉の外の商売が本体を追い越していた。セグメント別の売上高は2015年3月期が製粉事業1,017億円に対して食品事業1,666億円、2026年3月期には製粉1,200億円に対して食品2,437億円で、比率は三分の一と三分の二に開く。1996年に別会社へ出した冷凍食品は、この食品事業のうち近年伸びた部分にあたる。製粉と食品の二本立ては、売上の上では逆転して久しい[16]。
成長領域としての冷凍食品
会社は2024年5月に長期ビジョン2030を定め、冷凍食品事業と海外事業を注力事業に据えた。冷凍食品では2030年までに年間売上高900億円、売上構成比18%を目標に置く。前鶴俊哉社長は2025年8月の記者懇談会で、基本事業で安定的に価値を創出しながら、成長領域と新規事業には投資を含めて積極的に実行したいと述べている。1973年に始めた事業が、五十年を過ぎて成長の柱に置かれた[17][18][19]。
供給の側も広げている。2025年4月に株式会社畑中食品を連結子会社とし、鹿児島県出水市で新工場の建設を進めた。2026年度末に竣工の予定で、グループの冷凍食品工場としては最大規模になる。一方で会社は、冷凍食品には「安価」という商品イメージがあり、消費者の節約志向とあいまって価格設定の難度が高いとも記した。資材費や人件費の上昇を価格へ移す作業には、丁寧な説明が要ると認めている[20][21]。
- 株式会社ニップン公式サイト「ニップンの歴史」
- 日本製粉 有価証券報告書【沿革】
- ニップン 有価証券報告書【沿革】
- ニップン 有価証券報告書(2026年3月期)
- 日本製粉 有価証券報告書(2021年3月期)
- ニップン 有価証券報告書(セグメント情報・2015年3月期および2026年3月期)
- ニップン統合報告書2025
- ニップン「製粉業界の現状」(2026年4月)
- 日本食糧新聞(2025年8月6日)「ニップン、長期ビジョン2030実現へ 冷食売上げ900億円目指す」
- 日本経済新聞(2021年11月25日)「沢田浩氏が死去 元日本製粉(現ニップン)社長」