第二電電PHS事業への参入と、地域別9社によるポケット電話会社の設立
携帯電話を持ちながら、なぜもう一つ別系統の移動体通信を立てたのか——料金の安さで広げる筋と、面で敷く基地局
- 概要
- 1994年7月、第二電電がディーディーアイポケット企画を設立し、同年11月にディーディーアイ東京ポケット電話へ商号変更したうえでポケット電話会社8社を設立して、PHS(簡易型携帯電話)事業へ参入した経営判断。地域別9社の体制を敷き、1995年7月に東京と札幌で開業した。
- 背景
- 第二電電は1984年、高い長距離電話料金を下げる目的で設立された会社で、1987年に参入したセルラー8社を通じて携帯電話も持っていた。PHSは車などでの高速移動中に使えない代わりに料金を安くでき、携帯電話の3分の1から4分の1の料金が見込まれていた。
- 内容
- 全国1社ではなく地域別9社に分け、開業の時期も地域ごとにずらした。基地局の出力を独自に高め、設置数は約7000局とNTTパーソナルの3分の1で足りた。街中に自前の足場を持たない事業者が、屋上を借りて面を作るための設計である。
- 含意
- DDIポケットは縮小するPHS市場でトップシェアを保った一方、面で基地局を敷く投資が先行して1000数百億円の累損が残った。1999年に稲盛和夫名誉会長がPHS設備投資の半減に言及し、2000年1月に9社は1社へ合併した。
安さは、相手との差でしか成り立たない
安くして広げるという考え方は、長距離電話でもPHSでも変わっていない。「日本の長距離電話は大変高く、一般大衆の方々が大変苦しんでいる」と言って1984年に始めた会社が、10年後に携帯電話の3分の1から4分の1という料金でもう一つの移動体通信を立てたのは、同じ手の繰り返しであった。全国1社ではなく地域別9社に分けた形も、セルラー8社と同じ設計を方式を変えて使い直している。
9つに分けても、基地局をビルの屋上に一つずつ借りる手間は割れなかった。セルラーの地域分割には、郵政省の割り当てと地元資本の調達という外側の理由があった。PHSにはそれがない。免許も資金も本体から出ているのに法人だけが9つあり、面を敷く作業は各社が別々に抱えた。千本社長は開業前から、携帯電話の3分の1から4分の1でなければ割安感が出ないと条件を明示している。前提が崩れたのは携帯電話側の値下げが続いたためであり、9社という形はその崩れ方を和らげなかった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
安くして広げるという参入時からの筋
第二電電は1984年、日本の長距離電話料金を下げる目的で設立された会社である。稲盛和夫会長は後年の講演で、参入の動機を「日本の長距離電話は大変高く、一般大衆の方々が大変苦しんでいるので、それを安くしたい」と説明している。国鉄系は新幹線沿いに、道路公団系は高速道路沿いに光ファイバーを敷けたが、第二電電に使える設備はなく、山の頂から頂へパラボラアンテナを立てて東名阪を結んだ。値下げで量を取る考え方は、この会社の出発点にあった[1]。
移動体通信の伸びは、その考え方を裏づけていた。稲盛会長によれば、1981年の日本の携帯電話市場はNTTの独占下で13万台・普及率0.1%にすぎなかったが、1994年の1年間だけで220万台の新規加入があり、同年末の総稼働台数は433万台に達した。1995年7月末には582万台、普及率4.7%へ伸びている。1987年に子会社を通じて参入したセルラー8社の経常利益も、1995年3月期に410億円となった[2]。
PHSという方式と、参入者の顔ぶれ
PHSは、車などでの高速移動中に通信ができない代わりに、料金を安くできる方式である。DDI東京ポケット電話の千本倖生社長は開業前の取材に、料金は3分間40〜60円程度、月額基本料は3000円程度、新規加入料は1万円程度を想定していると答えた。携帯電話の3分の1から4分の1である。安い通信網を作れることが根拠で、これだけ安くしなければ携帯電話に対する割安感が出ないとも述べている[3]。
同じ方式に、NTT系のNTTパーソナル、日本テレコムや電力各社が設立したアステル、JR系が相次いで参入した。これらは電話ボックスや電柱、駅といった街中の施設を持つ公益企業体で、そこに基地局を置ける。民間企業の第二電電を母体とするDDIポケットには、その足場がない。基地局はビルの屋上を一つずつ間借りして作るほかなく、オーナーや施工主との調整が先に立った[4]。
決断
携帯電話を持ちながら、第二の系統を立てる
1994年7月、第二電電はディーディーアイポケット企画を設立した。11月にはこれをディーディーアイ東京ポケット電話へ商号変更し、同時にディーディーアイ北海道ポケット電話などポケット電話会社8社を設立している。翌年夏の開業を目指して10月に事業会社を立てるという段取りは、千本社長が同じ秋に語ったとおりに運んだ。セルラー8社で携帯電話をすでに持つ会社が、別系統の移動体通信をもう一つ立てた[5][6]。
別系統を立てた理由は、価格帯の違いにあった。千本社長は、通話料が40〜50円に収まれば事業開始から1年で各社合わせて200万台、1人1台の感覚なら2000年までに6000万台の普及も可能とみていた。稲盛会長もPHSを「ポケット電話」と呼び、市内通話料は公衆電話より少し高い程度で月額基本料も安いと説明したうえで、21世紀初頭には国内だけでPHSを含む携帯電話が5000万台になると予想している[7][8]。
全国1社ではなく、地域別9社
体制は全国1社ではなく、東京と北海道以下の地域別9社に分けた。1987年に携帯電話へ参入したときのセルラー8社と同じ設計の反復である。免許も営業も地域単位に置き、開業の時期も地域ごとにずらした。1995年7月にはまず東京と札幌でサービスを始めている。全国を一度に敷くのではなく、需要の濃い地域から順に基地局を置く進め方であった[9]。
基地局の設計も他社と違えた。DDIポケットが選んだ基地局の出力は500ミリワットで、NTTパーソナルの20ミリワットの25倍にあたった。20ミリワットでは電波が半径100〜200メートルしか届かないが、500ミリワットなら半径500メートルまで広がり、基地局を密に置かずに済む。当初の設置数は約7000局と、NTTパーソナルの2万局の3分の1にとどまった。街中に足場を持たない事業者に選べる形は、これしかなかった[10]。
結果
開業直後の運用停止と、端末の値引き競争
開業の翌月、この設計の弱点が表に出た。DDI東京ポケット電話は1995年8月16日から20日まで、東京の一部地域でPHSの運用を停止した。1つの基地局で同時に通話できるのは3人までで、カバー範囲の広い基地局に利用者が集まれば通話しにくくなる。複数の基地局でカバーし合うためのタイミングが揃わず、起動し直したのが停止の中身であった。稲盛会長も「基地局の設置等にトラブルがあり、ユーザーの皆様方に大変ご迷惑をかけました」と述べている[11]。
価格の競争は端末から始まった。DDI東京ポケット電話は1996年2月、販売店に払う販売奨励金を1台5000円から2万円へ引き上げ、3000円を切る端末が店頭に並んだ。アステル東京やNTT中央パーソナルも一部商品の増額で対抗した。山一証券経済研究所の田中宏典氏は、値下げの火付け役となったDDIポケットが年間500億円の赤字になると予測されているとしたうえで、3〜4年後には十分に黒字化するとみていた[12]。
先行投資の重みと、9社の一本化
誤算は、比べる相手が動かないという前提に置かれていた。千本社長は開業前、これだけ安くしなければ携帯電話に対する割安感が出ないと述べている。裏を返せば、携帯電話の料金が下がるほどPHSの取り分は薄くなる。しかもPHSは電波の届く範囲が狭く、基地局を面で敷き詰めるまでは使えない。加入者が増える前に設備が要る事業であり、DDIグループが携帯電話とPHSに投じた先行投資は年2000〜3000億円に達した[13]。
負担は連結の財務に出た。連結有利子負債は1995年3月期の2020億円から1999年3月期に8400億円へ増え、連結自己資本比率は14.6%まで下がった。1999年3月期に黒字へ転じたPHSも翌期には再び赤字となり、130億円の最終損失が見込まれた。稲盛名誉会長は同年、「今期の連結設備投資は公表計画より減らす。特にPHSは半減でもかまわないと強固に言っている。とにかく、これ以上借金を増やしてはならない」と語っている[14]。
DDIポケットは縮小するPHS市場でトップシェアを保ったが、過去の巨額投資のツケは1000数百億円の累損として残った。2000年1月、ポケット電話9社はディーディーアイ東京ポケット電話を存続会社として合併し、ディーディーアイポケットへ商号変更している。地域別に立てた9社は5年余りで1社に戻り、参入時に敷いた体制はここで畳まれた。同年10月、第二電電はKDD・日本移動通信と合併している[15][16]。
- 日経ビジネス 1994年11月21日号「千本倖生[DDI東京ポケット電話社長]PHS、低額料金なら1年で200万台普及」
- 日経ビジネス 1995年8月28日号「DDIポケット 運用停止で反NTT路線に初の試練」
- 日経ビジネス 1996年4月1日号「PHS価格下落も心配なし/DDIポケットは大化けも」
- 証券アナリストジャーナル 1995年11月号「京セラの海外展開と通信事業戦略」(稲盛和夫氏講演)
- 週刊東洋経済 1999年7月10日号「[TopNews]大転換 設備投資圧縮に転じる稲盛DDIの胸のウチ」
- 第二電電 有価証券報告書【沿革】