第二電電移動体通信への参入と、全国8地域へのセルラー電話会社の分散設立、首都圏・中部圏の日本移動通信への割り当て受け入れ
最大の市場を相手に渡してでも独立した経営を残すか——郵政省の全国二分割に第二電電はどう応じたか
- 概要
- 関西セルラー電話の設立から4年で、割り当てられた地域に8社を建てた。市外電話サービスの開業前にあった第二電電が、1987年6月に移動体通信へ参入した判断である。郵政省が全国を二分して首都圏・中部圏を日本移動通信に割り当てたことを受け入れ、残る地域に1社ずつ会社を置く形を選んだ。
- 背景
- 稲盛和夫会長は半導体の集積度が幾何級数的に上がることから、車のトランクに積んだ送受信機が数年で小さな端末に収まると読んでいた。同じ読みでトヨタ自動車・日本高速通信の陣営も参入を決め、東京・名古屋をめぐる一本化交渉は1986年に物別れとなった。
- 内容
- 割り当てられた地域には全国1社をつくらず、地域ごとに法人を分けた。関西セルラー電話は第二電電と関西電力が主な出資者となり、九州・中国・東北・北陸・北海道・四国・沖縄の各社も地域電力会社や地元資本との共同出資で設立された。通信方式は日本移動通信のNTT方式に対し、米モトローラ方式(TACS方式)を採った。
- 含意
- セルラー8社は当初3年の赤字を経て黒字へ転じ、1995年3月期には経常利益の合計が410億円に達した。一方、譲った首都圏・中部圏へは1991年から日産自動車との共同出資で別会社を建てたため、グループは10社を超え、資本も規格も二つの系統に分かれたまま残った。
面積を取り、人口を渡した参入
取ったのは面積で、渡したのは人口である。東京・名古屋という最も有利な市場を日本移動通信に渡し、代わりに他社と相乗りしない会社を手元に残した。ただし、残った地域の埋め方まで受け身だったわけではない。関西電力をはじめ地域電力会社や地元資本を株主に迎え、8社に分けて建てた形は、割り当てへの対応であると同時に、営業をどこから起こすかの設計でもあったとみられる。全国1社で運営していれば、この株主構成は生まれなかった。
ツーカーセルラー東京・東海の2社は日産自動車と組んだ関連会社で、方式もセルラー8社のTACSではなくデジタルだった。譲った市場へ戻る道は、資本でも規格でも本体の系統から外れている。1995年3月期に410億円を稼いだのも本体ではなく子会社群であり、稼ぐ主体は本体の外側にあった。地域別に法人を分けた形は、2000年11月にセルラー7社が関西セルラー電話を存続会社として合併するまで13年続いた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
端末が小さくなるという読み
第二電電は1985年6月に第一種電気通信事業の許可を受け、1986年10月に専用サービス、1987年9月に市外電話サービスの営業を始めた長距離通信の新規参入者である。移動体通信への参入を決めたとき、その市外電話はまだ開業していない。稲盛和夫会長は半導体産業のただ中で仕事をしてきた経験から、集積回路の集積度が幾何級数的に上がることを知っており、数年で車のトランクの送受信機が小さな端末に収まると見ていた[1][2]。
社内の反対は強かった。稲盛会長自身が後年の講演で、当時の第二電電はまだ始まったばかりで営業も開始していなかったため皆が反対したと述べている。市場そのものも小さい。1981年の日本の自動車電話はNTTの独占下で13万台、普及率0.1%にとどまり、米国の123万台・0.5%、英国の26万台・0.45%を下回っていた。押し切る材料は目の前の需要になく、端末が小さくなるという読みだけが手元に残る[3][4]。
一本化交渉の決裂と、郵政省による全国の二分割
同じ読みで自動車電話に乗り出した陣営がもう一つあった。トヨタ自動車と日本高速通信を軸とする日本移動通信である。相手も東京・名古屋での事業を望んだため両者は争い、1986年に一本化の交渉に入ったものの、交渉は物別れに終わった。相手方の関係者は「トヨタを中心にしたわが社は正統派。経団連のゲリラを自認する企業(京セラ)と一緒にやるのは困難」と語っている。事業の条件よりも、組織の性格の違いが前に出た[5][6]。
決着は郵政省がつけた。全国を二つに分け、首都圏・中部圏を日本移動通信に、それ以外の地域を第二電電系のセルラー各社に割り当てた。人口も企業も集中する2大都市圏が相手に渡り、第二電電の取り分は残る全国となった。稲盛会長は当然これに抵抗した。なぜ向こうが頭のアンコを独占し、こちらは皮だけなのか。割り当ての線引きそのものに納得しなかった[7]。
決断
矛を収めて、経営の独立を残す
稲盛会長は、ある時点で抵抗をやめた。後年の記事によれば、これ以上抵抗を続ければ郵政省が日本移動通信とセルラーの合併を持ち出してくると読み、そうなれば自分の経営ができなくなると判断したためである。1986年に一本化を拒んだ相手と、今度は行政の手で一つの会社にまとめられる。その筋道を避けるため、市場の規模を譲り、他社と相乗りせず自社の判断だけで動かせる会社を手元に残した[8]。
稲盛会長は講演でも、いつまでも争うわけにはいかないとして、東京・名古屋という最も有利な市場を相手に譲り、それ以外の日本各地で携帯電話事業を手がけることにしたと述べている。開業も相手が先に立った。日本移動通信は1988年12月に関東・中部でサービスを始め、第二電電系では関西セルラー電話が1989年から営業に入る。最大の市場と先行の利の両方を、第二電電は渡した形で参入した[9][10]。
全国1社にせず、地域ごとに会社を建てる
割り当てを受けた地域には、1社ずつ会社を建てた。1987年6月の関西セルラー電話を最初に、同年10月に九州、11月に中国、1988年に東北・北陸・北海道、1989年に四国、1991年に沖縄と、8社を順に設立した。全国を1社で運営せず、地域ごとに出資者を集めて法人を分けた。関西セルラー電話は第二電電と関西電力が主な出資者となり、以降の各社も地域電力会社や地元資本との共同出資で設立された[11][12]。
通信方式でも相手と別の道を採った。日本移動通信はNTT方式のシステムを採用すると決めていたが、稲盛会長は米国のモトローラ方式を選んでいる。システムをNTTに押さえられたままでは戦えないという判断による。セルラー各社が敷いた方式はTACSと呼ばれ、神田延祐社長は1993年の講演で、世界で最も普及した方式であり、セルの半径が小さく電波が届きやすいので通話品質が良好であると説明している[13][14]。
結果
子会社群が本体を上回る利益を生む
セルラー8社は当初3年間の赤字を経て、4年目から黒字へ転じた。1995年3月期には8社の経常利益の合計が410億円に達した。同じ期の本体は、数回の通話料金の値下げを重ねながら営業収益3778億円・営業利益359億円であり、地域別に分散した子会社群の利益が本体の利益を上回った。携帯電話の稼働台数も、1994年末の433万台から1995年7月末には582万台へ伸びている[15][16]。
分散した会社群は、本体の売上の作られ方も変えた。1993年3月期の第二電電単体の営業収益2307億円のうち、市外電話サービスが1830億円で79.4%、専用サービスが44億円で1.9%を占めた。残る431億円・18.7%は、移動体通信を手がける関連会社への通信システムや機器の販売による附帯事業である。同期の連結営業収益は2906億円で、従業員2758人の本体の外側に、もう一つの事業の集まりができていた[17][18]。
譲った市場への再参入と、二つに分かれた系統
譲ったはずの首都圏・中部圏へも、別の枠組みで入った。1991年7月に日産自動車との共同出資でツーカーセルラー東京を、1992年2月にツーカーセルラー東海を設立した。神田社長は1993年の講演で、サービスを行っていなかった首都圏と中部圏についても両社を設立し、1994年夏ごろまでに開業する予定だと述べた。上場した1993年9月の時点で、グループは全国10地区で移動体通信を手がける構えになった[19][20]。
ただし、ツーカー2社は営業地域の空白を埋めたにすぎない。セルラー8社は子会社としてTACS方式を敷き、ツーカー2社は日産自動車と組んだ関連会社で、1994年度から始まる1.5GHz帯のデジタル方式に属する。郵政省の割り当ては営業地域を分け、第二電電グループの内側には資本と規格の系統が二つ残った。地域別に建てた法人が一つにまとまるのは、2000年11月に沖縄セルラー電話を除く7社が関西セルラー電話へ合併したときである[21][22][23]。
- 証券アナリストジャーナル 1995年33巻11号「京セラの海外展開と通信事業戦略」(稲盛和夫)
- 週刊東洋経済 2000年8月5日号「[新千年紀の日本人]京セラ名誉会長 稲盛和夫」
- 証券(新規上場会社紹介)1993年45巻11号「第二電電株式会社」
- 証券アナリストジャーナル 1993年31巻10号「第二電電」(神田延祐)
- 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
- 日経産業新聞 1986年8月20日
- 第二電電 有価証券報告書【沿革】