1985年4月の電電公社民営化までは、移動体通信は電話そのものと同じく独占事業だった。自動車電話はすでに存在したが、料金が高く普及に至らず[1]、企業のトップの専用車や公用車といった特別な乗用車、あるいは高額所得者の手に限られていた。携帯電話にいたっては小型軽量化が進まず、本格的なサービスには遠かった。この停滞に刺激を与えたのが通信の自由化である。長距離通信へ参入した新電電各社が中心となり、全国各地域に移動体通信の新会社が生まれた。日本移動通信は、その第一号として1987年3月に設立[2]された。
母体となったのは、中継系の新電電である日本高速通信だった[3]。日本高速通信は高速道路沿いに光ファイバーを敷く会社で、トヨタ自動車と建設省が主導してつくった。日本移動通信は、その移動体部門を分離して生まれた。出資者には日本高速通信のほかトヨタ自動車、東京電力[4]、日産自動車、中部電力が並んだ。東京電力にとっては通信事業への多角化の一環にあたる。同社は1985年12月、三井物産・三菱商事との共同出資で東京通信ネットワークの設立発起人会を開いた[5]。翌年12月にはポケットベル事業の東京テレメッセージを設立し、その3カ月後に日本移動通信へ資本参加した。
経営の最高責任者には、トヨタ自動車で相談役を務めた花井正八が日本高速通信と兼務で就いた[6]。花井は1989年の時点で『参謀に日本企業の経営はできない』[引用元]と論じた人物だが、その花井が率いる会社の意思決定は出資各社の合議に縛られた。自動車と道路と電力という、通信を本業としない三つの資本が持ち寄った会社であり、経営陣も出資各社から送り込まれた。のちに社長となる塚田健雄は、この成り立ちを『電力会社、商社、お役所などの寄り合い所帯』[引用元]と呼んだ[7]。設立から解散までの13年間、何を採るかも誰と組むかも、この株主構成に縛られた。
1988年12月、日本移動通信は首都圏と中部圏[8]の1都12県で自動車電話と携帯電話のサービスを始めた。採用したのはNTTと同じ大容量方式である。新規参入の事業者が既存の独占事業者と同じ規格を選ぶのは、一見すると不利な決定に見える。しかし当時の判断材料は限られていた。実際に日本で商用運用され、端末も基地局も供給の裏付けがある無線方式は、NTTのものだけだった。加えてトヨタ自動車は独占時代からディーラーでNTTの自動車電話を扱っており、その販売経験[9]をそのまま生かせた。実績を重んじる選択として、参入時点では筋が通っていた。
代償は規格の所有者との関係に現れた。NTT方式の技術情報は原則として非公開で、日本移動通信は開示を受けるために10億円を超える金額をNTTへ支払った[10]。端末にも外部への許諾料が上乗せされ、調達価格は競合より高くついた。技術公開の時期も相手次第だった。NTTが1991年4月に小型端末『ムーバ』を実用化[11]したのに対し、関連技術の公開は半年後で、同等品の『ミニモJ』を出せたのは1992年9月にずれ込んだ。1年5カ月の遅れは、端末の小型化がそのまま販売を左右した時期に生じている。規格を借りる立場は、商品を出す時期まで相手に握られた。
同じ時期に生まれた各地のセルラー電話会社は、逆の選択をしている。第二電電と地域の電力会社が共同で出資した関西セルラー電話が1989年以降に開業し[12]、九州・中国・東北・北海道・北陸・四国・沖縄と続いた。これらの会社は英国生まれのTACS方式を採り、NTTの規格には乗らなかった。日本移動通信の営業区域は首都圏と中部圏、セルラー各社はそれ以外[13]という棲み分けが最初から成立している。全国を一社でカバーするNTTに対し、新規参入側は地域ごとに分かれ、方式も二系統に割れた状態で競争に入った。
1989年、米モトローラは自社のTACS方式が中部圏と首都圏[14]で使えない状況を、日本市場が閉鎖的である証拠として持ち出した。日米電気通信交渉の争点となり、政治問題へ発展した。決着は、日本移動通信が同方式を自社で提供するというものだった。同社の側には、外国勢が直接参入してくるよりは自社で抱えたほうが得策[15]という計算もあった。ただし引き受けた対象は無線設備に互換性のない別規格であり、NTT方式の基地局とは別に、もう一組の基地局網を建てる必要が生じた。開業から2年の会社が、二つ目の設備投資を国家間の交渉の帰結として負った。
1991年10月、モトローラ方式による『トーキョーフォン[16]』が東京23区を中心とする1都3県で始まった。基本料金をNTT方式より月3000円安く設定したが、開始から6カ月の1992年3月末で加入は2000回線[17]にとどまる。同じ期間にNTT方式が6000回線を積んだのと比べて振るわなかった。東京23区に置いた47の無線基地局のうち[18]、二つの方式で用地を兼用できたのは12局にすぎない。1基あたり2億円から3億円かかる基地局を、新たに建て増した。加入の伸びない方式の側に、設備だけが先に積み上がった。
1992年6月、モトローラからの設備拡充要求と郵政省の要請を受けて、同方式へ3年間で400億円を超える追加投資を決めた[19]。当初の見積りは二百数十億円だったから、負担はほぼ倍になった。1992年3月期は売上高604億円に対して経常利益が12[20]億円まで落ち、前期からの落ち込みは23億円に達した。約98億円あった累積損失の一掃時期は、1992年から1993年と見込んでいたものが1996年へ後退した。加入24万回線を抱えて事業が軌道に乗りかけた時期に、通商交渉の帰結が財務を直撃した。売上高604億円の会社に、3年で400億円を超える追加投資が乗った。
1994年、日本移動通信はデジタル方式の携帯電話を始めた。三つ目の無線方式である。[21]割り当てられた電波には余裕があり、需要の面では急ぐ必要がなかった。それでも前倒しで投資したのは、同じ年に東京デジタルホンとツーカーセルラー東京がデジタルで参入[22]したためである。日本テレコム系と日産自動車系の新顔が加わり、首都圏では一つの地域に四社が並んだ。デジタル方式はアナログに比べて盗聴に強く、同じ帯域から取れる回線数も多い。後発の二社はその利点を売りにして参入してきた。設備を持たずに見送れば、商品の差で契約を取れなくなる。競争に取り残されないための投資が、二重投資を三重投資へ押し上げた。
販売そのものは、1994年に加速した。同年4月に端末の売り切り制が始まり[23]、通信機・家電メーカーが利用者へ直接端末を売れるようになった。小型化と値下げが一気に進み、端末が数カ月待ちになるほどの需要が生まれた。日本移動通信は法人需要に強いNTTドコモを避けて個人客と量販店へ販路を移し、価格の安いモトローラ方式を前面に立てた。新規契約の8割から9割を同方式が占め、契約数は1994年3月末の33万6800から年末の50[24]万1800へ9カ月で16万5000増えた。同年10月には月間の販売数量で初めてドコモを上回った。
それでも1994年度の中間期は、38億3300万円の経常損失を計上した[25]。営業利益は前年同期比31%減の49億円である。三つの方式を並行して維持する減価償却費が増え、人件費を除いても売上高の6割が固定費という構造になっていた。黒字回復の見込みは早くても1997年度下期とされた。同じ年度、方式を一つに絞った第二電電系のセルラー電話8社は、売上高1910億円・経常利益380[26]億円の増収増益を見込んだ。加入者が過去最高で伸びた年に、両者の損益は逆になっている。売れば売るほど設備が要り、設備が増えるほど償却が利益を削った。
1997年3月、日本移動通信は第二電電系のセルラー電話グループと次世代携帯電話で全面提携した[27]。翌年から導入する方式に、米クアルコムが開発したCDMAを共同採用すると決めた。二つの陣営は営業区域が重なっておらず、日本移動通信の首都圏・中部圏とセルラー8社のそれ以外を合わせれば全国が埋まった[28]。地域割りのままでは埋められなかった営業上の弱点が、方式を揃えたことで消えた。区域を広げるのではなく、同じ商品を持つことで全国を埋める道を選んだ。
CDMAを選んだ理由は、性能だけではない。同じ電波を複数の通話で使い分ける方式のため、基地局の数を減らしても同じ範囲をまかなえ、収容できる加入者も増える。ただし独自に開発すれば、時間も費用もかかる。すでに米国ではアナログ方式とCDMA[29]の両方に対応する端末が実用化されており、それを持ち込めば開発の負担を抑えられる。第二電電の小野寺正は、開発期間とコスト[30]を考えると他に選択肢がなかったと説明した。二陣営とも既存方式に多額の設備を残しており、そこを捨てずに次へ移れる方式が求められていた。
1999年4月、共同の新方式は『cdmaOne』[31]の名でサービスに入った。訴求したのは基本性能である。デジタル方式より高速のデータ通信ができ、通話が途切れにくく、音質がよい。この三点をテレビ広告で正面から打ち出した。従来の加入者は男女がほぼ半々だったのに対し、cdmaOneの利用者は20代から30代の男性が7割を占めた。この偏りは、音質とつながりやすさを求める層に届いたことを示すものだろう。
数字は速く動いた。日本移動通信の純増シェアは1999年3月の1.8%から5月には7.0[32]%へ上がった。同じ月、NTTドコモグループの純増シェアは1月の70.9%から41.9%へ落ち、3年ぶりに5割を割った。解約率も3月の2%台後半から2%台前半[33]へ下がった。1988年の開業以来、NTTと同じ方式で始め、日米交渉で二つ目を負い、競争で三つ目を足してきた事業者が、四つ目の方式で初めてドコモの純増を削った。二つ目までは外から与えられた選択であり、四つ目は初めて自ら選び直した方式だった。
| 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1985〜1988年トヨタと電力会社が持ち寄った会社が、NTTと同じ方式を選ぶまでの経緯 | 日本移動通信を設立 | ★★ | ||
| 開業時の無線方式へのNTT大容量方式の採用と、TACS方式の不採用 1988年12月に首都圏と中部圏の1都12県で開業した日本移動通信が、自動車電話・携帯電話の無線方式にNTTと同じ大容量方式を採り、英国生まれのTACS方式を採らなかった技術選択。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 1989〜1995年日米通信摩擦が持ち込んだ二重投資と、三つの方式を抱えたまま迎えた赤字転落 | 日米電気通信交渉を受けてモトローラ方式の首都圏導入を引き受ける | ★★ | ||
| 塚田健雄氏が社長に就任 | ★ | |||
| モトローラ方式(TACS)による「トーキョーフォン」を開始 | ★ | |||
| モトローラ方式に3年間で400億円超の追加投資を決め、累損一掃を1996年へ先送り | ★ | |||
| NTT方式の小型端末「ミニモJ」を実用化 | ★ | |||
| デジタル方式の携帯電話サービスを開始 | ★ | |||
| 携帯電話端末の売り切り制が始まり加入が急増 | ★ | |||
| 1994年度中間期に経常損失38億3300万円を計上し赤字へ転落 | ★★ | |||
| 月間販売数量で初めてNTTドコモを上回る | ★ | |||
| 資本金を114億円から229億円へ倍額増資 | ★ | |||
| モトローラとの再交渉を受けて無線基地局159局を増設 | ★ | |||
| 1996〜1999年NTT方式との決別——DDIセルラーグループとのCDMA共同採用とcdmaOneの浸透 | DDIセルラーグループとの次世代携帯電話における全面提携と、CDMA方式の共同採用 1997年3月、日本移動通信が第二電電系のセルラー電話グループと、1998年からの次世代携帯電話で全面提携すると発表した経営判断。米クアルコムが開発したCDMA方式を共同で採用し、両陣営の営業区域を合わせて全国均一のサービスを目指した。塚田健雄社長のもとで決まっている。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 塚田健雄社長がDDIグループとの「戦略的大同団結」を表明 | ★ | |||
| トヨタ自動車が出資比率を引き上げ子会社化 | ★★ | |||
| cdmaOneへの全面転換と、DDIセルラーグループとの「au」ブランド統一 1999年4月、日本移動通信(IDO)がDDIセルラーグループと共同でcdmaOneのサービスを開始し、同年6月に社長へ就いた中川哲氏のもとで、資本の統合より先に『au』への全国ブランド統一を進めた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 携帯電話の純増シェアが3月の1.8%から7.0%へ上昇 | ★ | |||
| 中川哲氏が社長に就任 | ★ | |||
| DDIセルラーグループと携帯電話ブランドを「au」に統一 | ★ | |||
| DDI・KDD・IDOの三社合併——長距離・国際・携帯を1社に束ねたKDDIの発足 2000年10月1日、第二電電(DDI)を存続会社としてKDDと日本移動通信(IDO)が合併し、KDDIが発足した。3社の単純合算で連結売上高2兆630億円、従業員9700人となり、NTTに次ぐ国内2位の通信会社が生まれた。長距離電話のDDI、国際通信のKDD、関東・中部の携帯電話のIDOという、事業も出自も異なる3社の統合だった。 詳細を読む | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日本移動通信)