日本移動通信cdmaOneへの全面転換と、DDIセルラーグループとの「au」ブランド統一

資本の統合が先か、ブランドの統一が先か——ドコモの純増シェアが5割を割った1999年

時期 1999年4月
意思決定者(推定) 中川哲 社長
論点 通信方式の選択とブランド戦略
概要
1999年4月、日本移動通信(IDO)がDDIセルラーグループと共同でcdmaOneのサービスを開始し、同年6月に社長へ就いた中川哲氏のもとで、資本の統合より先に「au」への全国ブランド統一を進めた経営判断。
背景
純増契約に占めるNTTドコモグループの比率は1999年1月に70.9%、日本移動通信は3月時点で1.8%だった。営業区域は首都圏・中部圏に限られ、通信方式もドコモと同じPDCで、価格以外に違いを説明する材料が乏しかった。
内容
高速のデータ通信・途切れにくさ・音質という基本性能の三点をテレビ広告で正面から打ち出し、DDIセルラーグループと全国一つのサービスとして売った。中川社長は資本の統合を先に置かず、共同の全国ブランドづくりを優先した。
含意
純増シェアは1999年3月の1.8%から5月に7.0%へ戻り、ドコモグループは41.9%へ落ちた。2000年7月にブランドを「au」へ統一したが、その3カ月後に第二電電へ吸収合併され、法人格は設立から13年で消えた。
筆者の見解

商品で勝つことと、会社が残ること

中川哲社長が就任してまず据えたのは、資本の統合ではなかった。DDIセルラーグループと共同で、cdmaOneの全国ブランドを作ることであった。「消費者にとっては会社が一緒になろうとなるまいと関係のない話だ」という言い方には、33年を自動車エンジンの開発に費やした技術者の見方がにじむ。客が買うのは商品であって資本関係ではない。その順序に立って、方式の性能とブランドの統一を先へ置いた。

その順序は、最後まで守られなかった。ブランドを「au」へ揃えた3カ月後、日本移動通信は第二電電に吸収されて法人格を失う。純増シェアを1.8%から7.0%へ戻した翌年に、会社そのものが消えた。商品で勝つことと、会社が残ることは別の問題であった。残ったのはcdmaOneとauの二つで、四つ目の方式にたどり着くまで10年を費やした事業者の名は残らなかった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

違いを説明できない事業者

1999年1月、携帯電話の純増契約に占めるNTTドコモグループの比率は70.9%に達していた。同じ指標で日本移動通信は3月時点の1.8%にとどまる。売り物の違いを説明する材料が乏しかった。営業区域は首都圏と中部圏だけで、方式もドコモと同じデジタル方式(PDC)である。差をつけられるのは価格と端末の品揃えに限られた。二年前の1997年3月、第二電電系のセルラー電話グループと次世代携帯電話で全面提携した。米クアルコムのCDMA方式を共同で採ることも、すでに決めている。残るのは、それを商品として客の前へ出す仕事であった[1][2]

方式を増やすたびに設備が積み上がる会社でもあった。1989年の日米電気通信交渉は、米モトローラのTACS方式を日本移動通信が引き受けることで決着する。NTT方式とは無線設備に互換性がなく、基地局をもう一組建てる必要が生じた。1994年にはデジタル方式を加え、抱える方式は三つになった。cdmaOneは四つ目にあたる[3][4]

トヨタから来た技術者への交代

経営の引き継ぎも終わっていなかった。前任の塚田健雄社長は1998年1月、健康上の理由から親会社のトヨタ自動車へ退任を申し出た。トヨタは「もう少し待ってほしい」と留任を求める一方、次期社長候補として中川哲氏を同年6月に副社長として送り込んだ。中川氏はトヨタで33年間、主に自動車エンジンの開発に携わった技術者である。最後の3年はITS(高度道路交通システム)の最高責任者を務めた[5]

中川氏は通信については基本的に素人であるとして、IDOがどんな商品を持っているのかというところから学び始めた。ドコモに対抗するには差別化した商品が重要だと考えていた。そこへ、1999年4月にcdmaOneのサービスを開始するという話が来る。「これだ! と思いましたね」と振り返った。1年の勉強期間を経て1999年6月に社長へ就き、cdmaOneを「塚田さんからの最高の贈り物。これを育てるのが私の使命」と呼んだ[6][7]

決断

基本性能の三点で正面から競う

1999年4月14日、cdmaOneのサービスが始まった。DDIセルラーグループと共同で、全国を一つのサービスとして売る。首都圏・中部圏だけの事業者という弱点を、ここで消した。訴求したのは基本性能の三点である。デジタル方式より高速のデータ通信ができ、通話が途切れにくく、音質がよい。この三つをテレビ広告で正面から打ち出した。料金の安さや端末の値引きではなく、電波のつながり方そのもので競う売り方を選んだ[8]

発表会には野田聖子郵政大臣が出席し、「今回のcdmaOne方式は、音質もよく、データも速い、そのうえ、(従来の携帯電話のように)プッツン切れないそうですね」と述べた。続けて「国民や利用者にとっては優れたサービスでもあり、また米モトローラとIDOとの“日米協調”の象徴でもあります」とも語った。日米交渉の帰結として二つ目の方式を負った会社が、10年を経て日米協調の象徴として持ち上げられた[9]

資本の統合より先に、ブランドを揃える

同じ年、退任した塚田前社長は新電電の側へ問いを残した。現在の弱いNCCに、これまでの歴史や経緯や思惑、さらにはメンツをかなぐり捨てる覚悟はあるのか。場合によっては外資に飲み込まれることもあってしかるべしと腹をくくってまで、日本に公正にして健全な競争市場を打ち立てる決意はあるのか。塚田氏は在任中から猛烈なNTT批判とDDIセルラーとの合併構想を公言しており、資本の統合を先に置く考えの持ち主であった[10]

後任の中川氏は、その順序を採らなかった。「塚田さんのようにまず資本の統合ありきとは考えない。大事なのはDDIと共同でcdmaOneの全国ブランドを作ること。これが可能なら消費者にとっては会社が一緒になろうとなるまいと関係のない話だ」と答えた。合併観測の報道が絶えないなかで、先に手をつけたのは方式の性能と共同ブランドであった。資本をどう組み替えるかは、その後ろに置かれた[11]

結果

純増シェアの反転と、変わった客層

数字は速く動いた。日本移動通信の純増シェアは1999年3月の1.8%から5月に7.0%へ上がる。同じ月、NTTドコモグループの純増シェアは41.9%まで落ち、1月の70.9%から3年ぶりに5割を割り込んだ。解約率も3月の2%台後半から2%台前半へ下がった。加入者の奪い合いが値引きの応酬になっていた市場で、つながりやすさと音質を理由に乗り換える客が現れた[12]

客層も変わった。従来の加入者は男女がほぼ半々だったのに対し、cdmaOneの利用者は20代から30代の男性が7割を占めた。仕事で使う層が先に動いた。もっとも、電波の質だけが数字を動かしたのではない。出だしは端末の供給不足から販売を抑えぎみに進めており、数量が伸びたのは端末と料金の選択肢が増えてからであった。性能・端末・料金の三つが揃って、はじめて数量が動いた[13][14]

auへの統一と、13年での退場

1999年の秋には端末メーカー6社の製品が出揃い、料金プランも一気に多様化した。年末にはドコモを凌駕する高速データ通信サービスを始めた。中川社長は同年11月の時点で「今期販売目標は一〇〇万台。が、このままいけば一五〇万台はクリアできる」と述べている。1年前まで通信を素人と語っていた社長が、販売数量の上振れを口にする。商品はそこまで育っていた[15]

2000年7月、日本移動通信とDDIセルラーグループは携帯電話のブランドを「au」へ統一した。資本の統合より先に、呼び名が揃った。同年秋には、日立製作所がKDDIの「au」向けだけを供給するcdmaOne規格の端末最大手になっていた。同年10月1日、日本移動通信は第二電電に吸収合併されて解散し、設立から13年で法人格は消えた。cdmaOneとauは、統合後の移動体事業へそのまま引き継がれた[16][17]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1999年6月28日号「異変発生!横綱ドコモのシェアが急減 IDO、セルラー共同の新サービスcdmaOne大ヒットで猛追」
  • 週刊東洋経済 1999年11月20日号「トップの履歴書 IDO(日本移動通信)社長 中川哲 合併話は一蹴、cdmaOneに全力」
  • 週刊東洋経済 1999年4月10日号「ザ・トーク」
  • 週刊東洋経済 1999年7月31日号「アウトルック 新生NTTの行方 IT産業興隆の決め手 ドコモ“独立”のススメ」
  • 週刊東洋経済 2000年10月14日号「日の丸端末メーカーの次世代戦略を読む」
  • 日経ビジネス 1997年3月31日号「セルラー,IDO 提携に至った2つの理由」
  • 日経ビジネス 1992年6月22日号「競争激化の時期に外圧から二重投資 日米通信摩擦に揺れるIDOの経営」
  • 日経ビジネス 1995年1月30日号「誤算の研究 日本移動通信 三重投資で収益悪化 NTT方式採用が足かせ」
  • KDDI 有価証券報告書【沿革】

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