CMP研磨材のグローバルニッチトップ確立と生成AI特需への対応——井上雅偉社長体制のROIC経営
半導体特需という追い風を、新社長・井上雅偉氏はどう資本効率経営の実装に結びつけたか
更新:
- 概要
- 2022年6月、富士紡ホールディングスは16年間社長を務めた中野光雄氏から井上雅偉氏へ経営トップを交代し、ROIC経営の徹底と生成AI向け半導体需要の取り込みを両輪とする資本効率経営に着手した経営判断。
- 背景
- 中野光雄氏の16年間で、半導体研磨用のCMPソフトパッドを手がける研磨材事業が主力化し、連結営業利益の過半から7割超を稼ぐ構造ができあがっていたが、単一事業への依存という課題もあわせて抱えていた。
- 内容
- 井上社長はROIC10%以上を掲げ、東証プライム市場移行やGFIホールディングス・IPMの子会社化による化成品事業の拡張、連結配当性向35%目標・DOE3.5%下限という株主還元方針の明示、株式分割などを進めた。
- 含意
- 半導体不況からの急回復と生成AI特需を追い風に、中期経営計画「進化26-30」で一段高い目標を掲げるに至ったが、研磨材事業への収益依存という構造的な課題は残り、その解消は今後の経営に持ち越されている。
引き継いだ強みを、経営の物差しにどう変えたか
この経営判断の核心は、危機からの再建ではなく、すでに世界的なニッチ地位を確立した事業を、資本市場の物差しでどう経営するかという次の段階への移行にある。中野光雄氏の16年間が研磨材という「何で稼ぐか」を固めた時代だったとすれば、井上雅偉社長の課題は、その稼ぐ力をROICや株主還元という指標に翻訳し直すことであったとみることができる。就任直後に半導体不況へ直面しながらもROIC経営の看板を下ろさなかった点に、単なる路線継承にとどまらない性格がうかがえる。
もっとも、生成AI特需による急回復は、井上社長の経営判断そのものというより外部環境の追い風に負う面も大きい。研磨材事業への依存度は連結営業利益の7割超に達しており、半導体サイクルが再び下向けば、業績の振れ幅は再燃しかねない。中期経営計画「進化26-30」が掲げる2035年度営業利益200億円という目標が、単一事業依存という積年の課題への答えになるのか、それとも依存をさらに深める選択になるのか、その帰趨はこれからの経営に委ねられている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
研磨材主力体制を築いた中野光雄体制
富士紡ホールディングスは、2005年9月に持株会社制へ移行し、研磨材事業を主力に据える経営方針の土台を築いた。持株会社化と前後して策定した中期経営計画「変身06-10」(2006-2010年度)は「利益なくして事業なし」を掲げ、不採算事業の縮小・撤退と研磨材・化学工業品中心のポートフォリオ強化を打ち出した。研磨材事業を主力化する判断は、この持株会社化の前後に確立したとみることができる[1]。
2006年、この方針転換を体現する形で、研磨材事業を含む機能品分野を歩んできた中野光雄氏が第12代社長に就任した。中野氏は1973年に山形大学工学部繊維工学科を卒業して富士紡績へ入社した生え抜きの経営者で、機能資材部長・機能品事業部長を経て、研磨材事業の中核会社である柳井化学工業の社長を歴任していた。その後16年間の在任中に研磨材事業は規模を広げ、FY16(2017年3月期)には売上144億円・営業利益56億円をあげ、連結営業利益68億円のうち過半を稼ぐ事業へと育っていた[2]。
単一事業依存という構造的な課題
もっとも、研磨材事業への傾斜は、業績が半導体産業の投資サイクルに強く連動する構造をあわせて生んだ。井上雅偉社長は2024年1月の繊研新聞インタビューで「主力事業の研磨材は半導体の需要低迷が響いて苦戦しています」「一昨年の秋から半導体の需要が急激に落ち込みました」と述べ、シリコンウエハー用途や超精密加工用途を中心とする研磨材需要が急変動する実情を語った[3]。
中野氏が社長を退いた2022年6月の直前、FY21(2022年3月期)の連結業績は売上高359億円・営業利益59億円と、研磨材事業を軸に堅調な水準まで積み上がっていた。研磨材という単一事業への依存度を高めながら収益力を確立してきたこの16年間の実績が、次の社長に引き継がれる経営基盤となった[4]。
決断
井上雅偉社長の就任とROIC経営の表明
2022年6月、中野光雄氏は16年にわたる社長在任を終え、井上雅偉氏が第13代社長に就任した[5]。井上氏は1987年に京都工芸繊維大学繊維学科を卒業して富士紡績に入社した生え抜きの経営者で、フジボウテキスタイルや柳井化学工業の社長を歴任し、研磨材事業を含む機能品事業の開発部門を長く歩んできた。統合報告書2024は「2022年6月には、経営トップが中野光雄から井上雅偉へ交代し、更なる企業価値向上に向けた成長投資やROIC経営に取り組んでいます」[6]と、この交代を資本効率経営への転換点と位置づけている。
井上社長就任と同じ2022年には、経営体制の刷新と並行して事業構成の見直しも進んだ。同年4月には東京証券取引所の市場区分見直しにより市場第一部からプライム市場へ移行し、同年10月にはフジケミ株式会社がフジボウテキスタイル株式会社から化成品部門を吸収分割により承継、同年11月には株式会社GFIホールディングスおよび株式会社IPMを完全子会社化した。研磨材への依存度が高いなかで、化成品事業を新たな収益源として育てる布石が、社長交代の年に集中して打たれた[7]。
半導体不況下でのROIC経営の実装
もっとも、井上体制の滑り出しは順風とはいかなかった。半導体需要が急落した影響で、FY22(2023年3月期)の連結営業利益は49億円、FY23(2024年3月期)は28億円まで落ち込んだ。それでも井上社長はROIC10%以上を目標とする資本効率経営の看板を下ろさず、2024年1月の繊研新聞インタビューでは需要環境の厳しさを認めつつ、収益性を維持する事業運営の方針を語っている[8]。
井上社長は、資本コストや株価を意識した経営を具体的な数値目標に落とし込む作業も並行して進めた。統合報告書2025は「資本コストや株価を意識した経営の実現に向け、ROIC経営の徹底など、さまざまな施策を推進」[9]すると述べ、2025年5月には連結配当性向35%目標・DOE(自己資本配当率)3.5%下限という株主還元の数値基準を公表した。ROIC経営の理念を、投資家に向けた具体的な還元方針として制度化する段階に進んだ形といえる。
結果
生成AI特需による急回復とグローバルシェアの裏付け
半導体需要は生成AI向け最先端品を中心に急速に持ち直し、FY24(2025年3月期)の連結業績は売上高429億円・営業利益65億円・親会社株主に帰属する当期純利益45億円まで回復した。研磨材事業は売上193億円・営業利益47億円をあげ、連結営業利益の73%を稼ぐ、依然として突出した主力事業であることを示した[10]。
研磨材事業の中核をなすCMPソフトパッドの世界シェアは、複数の外部評価で確認できる。いちよし経済研究所の大澤充周アナリストは2025年5月時点で「仕上げ用ソフトパッドの市場における富士紡のシェアは約75%」と評価し、2026年6月の報道では「世界シェア約80%」と伝えられた。数字に幅はあるものの、微細化が進むほど需要が増すニッチ市場で富士紡HDが圧倒的な地位を占めているという評価は、複数の分析で一致している[11][12]。
「進化26-30」と株主還元の制度化
2026年1月30日、富士紡HDは次期中期経営計画「進化26-30」を発表した。前の中期経営計画「増強21-25」が最終年度に掲げていた営業利益100億円の目標を前倒しで達成したことを踏まえ、2030年度に売上高650億円、2035年度に売上高1,000億円・営業利益200億円への到達を目指す方針を示した。柳井工場内への新プラント設置など、研磨材事業への追加投資も計画に盛り込んだ[13]。
中期経営計画の発表と同じ2026年1月30日、富士紡HDは1株を3株とする株式分割も発表した。2026年3月31日を基準日に、2026年4月1日付で分割の効力を生じさせるもので、投資単位の引き下げによって株主層を広げるねらいを持つ。2025年5月に示した連結配当性向35%目標・DOE3.5%下限の還元方針とあわせ、ROIC経営を株主還元の具体策へ結びつける動きが一段と進んだ[14]。
- 富士紡ホールディングス 統合報告書2024
- 富士紡ホールディングス 統合報告書2025
- 繊研新聞(2024年1月19日)「井上雅偉氏(富士紡HD・社長)」インタビュー
- 週刊東洋経済 2025年5月10日号「【特集 半導体 異変】Part3 きらりと光る半導体銘柄」
- 株探ニュース(2026年6月5日)「富士紡ホールディングス:CMPソフトパッドで世界シェア約80%、AI半導体需要が業績を牽引」
- 富士紡ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- 富士紡ホールディングス 有価証券報告書【役員の状況】
- 富士紡ホールディングス 有価証券報告書 第197期(2017年3月期)【セグメント情報】
- 富士紡ホールディングス 有価証券報告書 第202期(2022年3月期)【主要な経営指標等の推移】
- 富士紡ホールディングス 有価証券報告書 第204期(2024年3月期)【主要な経営指標等の推移】
- 富士紡ホールディングス 有価証券報告書 第205期(2025年3月期)【主要な経営指標等の推移】
- 富士紡ホールディングス 有価証券報告書 第205期(2025年3月期)【セグメント情報】
- 富士紡ホールディングス「中期経営計画『進化26-30』策定に関するお知らせ」(2026年1月30日付適時開示)
- 富士紡ホールディングス「株式分割および株式分割に伴う定款の一部変更に関するお知らせ」(2026年1月30日付適時開示)