富士紡績の草分けは、1895年12月、富田鉄之助・神知常ら数人を発起人として[1]、静岡県駿東郡管沼村を流れる鮎沢川の水力2500馬力を動力源とする綿糸紡績会社を創立しようとする計画にさかのぼる。1968年刊の概略書は、この計画が翌1896年3月に資本金150万円・会長富田氏・紡機3万錘の会社[2]として結実したと記す。有価証券報告書の沿革も同社の設立を1896年3月としている[3]。設立翌々年の1898年9月、静岡県駿東郡(現在の小山町)に小山工場を新設して操業を開始した[4]。明治期の紡績会社は綿糸の輸入代替を国策として後押しされて設立されたが、富士紡績は鮎沢川すなわち富士川水系の水力を当初から動力源に取り込んだ点が特徴で、後年の電気事業兼営につながる素地を創業時から備えていた。[5]
創業まもなく日清戦争の影響を受けて業績は不振に陥り、概略書はこの危機を打開するため富田氏が退任し、1901年7月に浜口吉右衛門氏[6]が二代目会長に就いたと記す。その後は順調に拡張へ転じた。1903年7月から8月にかけて小名木川綿布株式会社[7]と日本絹綿紡績株式会社を立て続けに合併し、紡績工場から織布・絹綿への業域を広げた。日露戦争後の好況を背景に小山・保土ヶ谷の両工場を拡張し[8]、1906年9月には東京瓦斯紡績株式会社を合併して社名[9]を富士瓦斯紡績株式会社へ改称した。社名に『瓦斯』が入ったのは、合併相手である東京瓦斯紡績が瓦斯灯製造を兼業していた経緯による。1910年2月には電気事業の兼営認可を取得し[10]、1914年2月に相模水力電気株式会社を合併[11]、紡績工場群への電力供給と外販電力事業を一体で運営する体制を整えた。明治末期から大正初期にかけての紡績各社は工場拡張に必要な動力源の自家確保を経営課題としており、富士瓦斯紡績は水力電気事業の取り込みでこの課題に答えた。
1915年1月には川崎工場を新設し[12]、神奈川県への進出を果たした。第一次世界大戦による戦時景気で綿糸需要が急拡大したのを受け、生産能力の積み増しを進めた局面である。1920年12月に中華紡織株式会社を合併[13]し中国市場の生産拠点を取り込み、1922年2月には大分紡績・日華絹綿紡織・東洋絹糸紡績の3社を一括合併、同年11[14]月に中国青島市へ青島工場を新設した。1923年3月には満州紡績株式会社を設立し、金華紡織[15]・日本紡織の2社をさらに合併した。創業から四半世紀で、富士瓦斯紡績は国内主要工場群に加えて中国大陸の生産拠点を組み込む綿紡績会社へと成長した。
1925年3月の協同紡績合併以降も合併攻勢は続き、1929年11月に鷲津工場を新設、1934年10月に東洋織布、1935年12月に相模紡績を合併した[16]。1935年3月には富士繊維工業株式会社を設立し、1939年12月には早くも同社を吸収合併する[17]。概略書は、協同紡績・相模紡績・富士繊維工業・明正紡織などを取り込んだ結果、所有工場は19、保有設備は各種紡機108万8444[18]錘・各種織機9918台に達し、人造スフ製造設備や晒加工設備まで擁する規模になったと記す。並行して1939年1月には柳井化学工業株式会社を設立し[19]、化学事業への布石を打った。柳井化学工業は山口県柳井に拠点を持ち、戦後の富士紡績グループにおいて研磨材事業の母体となる会社である。1939年の設立時点では戦時下の化学繊維生産の補完を担う性格が強かったが、半世紀以上を経て主力事業の発祥拠点となった。
1941年5月に明正紡織を合併、1943年7[20]月には帝国製絲を合併した。戦時統制下の繊維業界は政府の統制令によって企業再編が進められ、地方紡績会社の大同団結が国策として誘導された局面である。富士瓦斯紡績も合併攻勢の延長線上で帝国製絲を取り込んだが、太平洋戦争が進むにつれ企業整備と戦災で事業は大幅に縮小した。概略書は、工場の売却・貸与、機械の供出、ビルマ・スマトラへのプラント移駐が相次[21]ぎ、終戦時の保有設備が所有工場10・各種紡機24万錘・織機2000台・スフ設備日産6[22]トンと、最高時のおよそ5分の1にまで縮小したと記す。さらに敗戦後の財閥解体・在外資産接収によってグループ構造は動揺した。1945年8月の太平洋戦争終結に伴い、満州紡績・中華紡織・青島工場などの在外資産はすべて接収[23]された。明治末期から30年近くかけて新設・合併で広げた中国大陸・満州の生産拠点を、終戦時点で全て失った形である。1945年12月には社名を富士紡績株式会社へ戻し[24]、戦前の『富士瓦斯紡績』期は約40年で幕を閉じた。
1949年3月、政令により再設立された旧帝国製絲株式会社[25]へ八尾工場を返還し、戦時合併で取り込んだ資産の一部は法的に分離された。同年5月には東京・大阪両証券取引所に株式上場を果たし[26]、戦後復興期の繊維需要拡大を捉える資本基盤を整えた。GHQ占領下の繊維製品は外貨獲得の主力商品としての地位を保ち、紡績各社は終戦直後の数年間で業績を回復させた。富士紡績も国内に残った小山・川崎・鷲津などの工場群を稼働させて綿糸生産を再開した。創業から半世紀、明治財界が設立した綿紡績会社は、戦時統合と在外資産接収の双方を経て国内主体の紡績会社として再出発する位置にたどり着いた。
明治・大正期に進めた合併攻勢の結果として、戦前期の富士瓦斯紡績は小山・川崎・鷲津・大分・青島・満州など国内外に十数か所の生産拠点を抱える大紡績会社へと成長した。概略書によれば、その出発点は富田鉄之助・神知常らが発起人となり富田氏を会長に据えた1896年の創立にあり、日清戦争後の苦境を浜口吉右衛門氏が二代目会長[27]として乗り切ったうえで、日露戦争後の好況を捉えて小山・保土ヶ谷両工場の拡張と東京瓦斯紡績の合併に踏み切った。富士瓦斯紡績への改称を経た同社は、紡績会社のオペレーション統合と電気事業の取り込みを並行させ、明治財界の有力紡績会社の一つとして日本紡績業界の中核を占めた。富士瓦斯紡績の時代には和田豊治・鹿村美久・堀文平など歴代の経営者が合併・拡張路線を主導したと伝えられている。
戦時期の合併攻勢は、政府の繊維統制令と表裏一体で進められた。1941年の明正紡織合併、1943年の帝国製絲合併は[28]、いずれも戦時下の繊維企業整理統合令に沿って実行された再編である。1939年に設立された柳井化学工業株式会社は、戦時下の化学繊維生産能力を補完する性格で設立されたが、戦後復興期から1950年代にかけては化学薬品・染料関連の事業を担う子会社として再定義された。半世紀後に半導体研磨材事業の母体となる柳井化学工業の設立年が1939年である事実は[29]、戦時期の化学事業への布石が結果として戦後の中核事業へつながる長期的経路を示している。
敗戦直後の在外資産接収は、富士瓦斯紡績にとって資産規模で約3分の1の喪失を意味した。満州紡績・中華紡織・青島工場・金華紡織・日本紡織といった大陸・満州拠点の合計資産は、終戦時点で同社のグループ総資産のうち相当な比率を占めた。戦時統合で取り込んだ資産が法的に再分離される過程で、1949年の八尾工場返還もその延長線上にあった。1945年12月の社名復帰(富士紡績へ)と1949年5月の東京・大阪両証取上場は[30]、在外資産喪失と国内法的整理を経て、国内主体の繊維会社として新たに資本市場と向き合う体制を整えた節目に位置する。
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|---|---|---|---|---|
| 1896〜1945年鮎沢川の水力を動力源に小山工場から始まった綿紡績会社の半世紀 | 富士紡績を設立 | ★★ | ||
| 小山工場を新設し操業開始 | ★ | |||
| 東京瓦斯紡績を合併し社名を富士瓦斯紡績に商号変更 | ★★ | |||
| 電気事業兼営を認可 | ★ | |||
| 大分紡績・日華絹綿紡織・東洋絹糸紡績の3社を合併 | ★ | |||
| 富士電力を設立し電気事業設備を譲渡 | ★ | |||
| 柳井化学工業を設立 | ★ | |||
| 在外資産を接収 | ★★ | |||
| 社名を富士紡績に商号変更 | ★ | |||
| 1946〜2005年繊維不況と非繊維事業の模索が並行した30年 | 東京証券取引所・大阪証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 小坂井工場を新設 | ★ | |||
| 富士ケミクロスを設立 | ★★ | |||
| エチオピア綿業に資本・経営参加 | ★ | |||
| 電子器事業所を開設 | ★★ | |||
| タイテキスタイルに資本・経営参加 | ★ | |||
| エチオピア綿業を国有化 | ★★ | |||
| 帝国製絲を合併 | ★ | |||
| フジボウアパレルを設立 | ★ | |||
| 高田・敦賀フジボウアパレル等3社を設立 | ★ | |||
| メダリオンを設立 | ★ | |||
| 和歌山工場を分離しフジボウ和歌山を設立 | ★ | |||
| フジボウカタンを設立 | ★ | |||
| タイフジボウガーメントを設立 | ★ | |||
| タイフジボウテキスタイルを設立 | ★ | |||
| 電子機器事業所を分離しフジボウ電子を設立 | ★ | |||
| フジボウ小坂井を吸収合併 | ★ | |||
| タイフジボウガーメントが生産を中止 | ★ | |||
| 八尾工場の操業を休止 | ★ | |||
| 鷲津工場の操業を休止 | ★ | |||
| 富士紡(常州)服装有限公司を設立 | ★★ | |||
| タイテキスタイル株式を全量売却 | ★ | |||
| 中野光雄 | 持株会社化と研磨材事業への経営資源集中——中野光雄社長体制と中期経営計画「変身06-10」 2005年9月、慢性的な繊維事業不振に直面していた富士紡績は持株会社制へ移行して富士紡ホールディングスへ改称し、研磨材事業の現場を率いてきた中野光雄氏を第12代社長に登用、中期経営計画『変身06-10』を打ち出した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2005〜2025年持株会社化と研磨材事業主導による収益構造の組み替え | 中野光雄 | フジボウテキスタイルとフジボウファイバーを統合再編 | ★ | |
| 中野光雄 | 柳井化学工業が東洋紡から医薬・農薬中間体事業を会社分割により承継 | ★★ | ||
| 中野光雄 | フジボウ電子を解散 | ★ | ||
| 中野光雄 | 台湾富士紡精密材料股份有限公司を設立 | ★ | ||
| 中野光雄 | 化成品事業でのM&Aによる「第三の柱」づくり——東京金型・藤岡モールド・GFIホールディングス/IPM 富士紡ホールディングスが2018年から2023年にかけて、精密プラスチック金型の東京金型・藤岡モールド、金型設計・製作のGFIホールディングス/IPMを相次いで完全子会社化し、化成品事業に金型・射出成形分野を組み込んだ経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 中野光雄 | 富士紡(常州)服装有限公司を解散 | ★ | ||
| 中野光雄 | 藤岡モールドを完全子会社化 | ★ | ||
| 井上雅偉 | CMP研磨材のグローバルニッチトップ確立と生成AI特需への対応——井上雅偉社長体制のROIC経営 2022年6月、富士紡ホールディングスは16年間社長を務めた中野光雄氏から井上雅偉氏へ経営トップを交代し、ROIC経営の徹底と生成AI向け半導体需要の取り込みを両輪とする資本効率経営に着手した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 井上雅偉 | フジケミがフジボウテキスタイルから化成品部門を会社分割で承継 | ★ | ||
| 井上雅偉 | GFIHD・IPMを完全子会社化 | ★ | ||
| 井上雅偉 | IPMがGFIHDを吸収合併 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(富士紡ホールディングス)