日清紡ホールディングス公開買付による新日本無線の連結子会社化

資産を抱えた老舗紡績は、含み益を守るのか、半導体の経営権を取りにいくのか

時期 2005年12月
意思決定者(推定) 日清紡績 取締役会
論点 事業構造の転換と株主対応
概要
2005年12月、日清紡績が公開買付によって新日本無線の株式を追加取得し、通信用半導体・電子部品を主力とする同社を連結子会社にした経営判断。日本無線が保有していた新日本無線株をめぐり、投資ファンドとの競合を経ている。
背景
繊維の本業は韓国・台湾・中国勢との競合で苦しく、保有株式の含み益は540億円に達する一方、PBRは1倍を割り込んでいた。換金性資産を抱えた低株価の会社として、日清紡績は買収の標的になりうる立場に置かれていた。
内容
公開買付で新日本無線株を買い増して連結子会社化し、翌2006年6月には投資ファンド側が保有していた274万2,000株を取得して議決権比率を約6割へ引き上げた。上場は維持したまま、半導体を戦略事業に据えた。
含意
資産の含み益で株主に報いる経営から、稼ぐ事業を買って組み替える経営への転換点にあたる。この攻防が持株会社化の検討につながり、日本無線の子会社化、日立国際電気の取得を経て、無線・通信が最大の稼ぎ手となる構造へ至った。
筆者の見解

守るための買収から、組み替えるための買収へ

2005年の公開買付は、半導体という事業を得た取引であると同時に、会社が自らの立ち位置を選び直した場面でもあった。含み益540億円とPBR1倍割れという組み合わせは、資産を持つほど狙われるという居心地の悪さを日清紡績に突きつけていた。狙われる側にとどまれば、いずれ資産の使い道を他人に決められる。手元の現金を使って稼ぐ事業の経営権を取りにいった選択は、その順序を自分の側へ引き戻す試みだったとみることができる。

もっとも、半導体を取り込んで収益がすぐに立ったわけではない。マイクロデバイスは20年後の今も営業損失を抱え、稼ぎ手はむしろ後から加わった無線・通信へ移った。買った事業が思惑どおりに育つとは限らず、育った事業が当初の狙いどおりとも限らない。それでも、資産の含み益を守る経営から事業を入れ替える経営へと軸が動いた点で、この攻防は後続の判断の前提を作ったといえる。買収を重ねるほど、次にどれを手放すかという問いが重くなる——その循環の入口が2005年にあった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

含み益540億円と、1倍を割ったPBR

2001年末、日清紡績の懐具合が誌面に取り上げられた。保有株式の含み益は540億円。保有有価証券の大半は約半世紀前に取得したもので、会社の首脳は「日経平均株価が4000円にでもならない限り、含み損にはならない」と語っていた。この含み益によって自己資本は同年3月期末比で311億円ふくらんでいる。株価の下落で評価損に泣く企業が並んだ時期にあって、1907年創業の老舗が抱えた資産の厚みが際立つ格好であった[1]

しかし本業は振るわなかった。繊維の苦戦に加え、無線通信機などの連結子会社・関連会社がIT不況で業績を落とし、その期の中間決算は最終赤字に沈んだ。株価は冴えず、PBRは長らく1倍を割り込んだままであった。投資有価証券を含めた手元資産は1,398億円、総資産の36%にのぼる。当時すでに村上世彰氏の率いるファンドなどが動いており、換金性資産を抱えた低株価の会社は、経営権を握って解体すれば現金を手にできる相手とみられていた。会社側も「買収は頭の痛い問題。株価を上げたいところだが、業績が厳しくて……」と漏らしている[2]

無線通信との古い縁

半導体は、日清紡績にとってまったくの飛び地ではなかった。終戦後、旧大倉財閥の依頼で無線通信機器メーカーの日本無線グループへ出資した経緯があり、新日本無線はその系列に属する会社であった。新日本無線は通信用半導体・電子部品を主力とし、日清紡績は長く少数株主としてこれに連なっていた。繊維の技術と資本を別の産業へ差し向ける動きは、戦後の非繊維部門への進出以来くり返されており、無線もその一本にあたる[3][4]

もっとも、繊維から半導体へ入った同業は次々に脱落していた。繊維産業から半導体素子・集積回路の生産へ参入した主要事例は6社を数えたが、片倉工業が1998年に、旧カネボウが2005年に撤退し、残るは4社。社内需要が支えとなるグンゼを除けば、外販メーカーは3社しか残らなかった。日清紡績が経営権の取得へ動いたのは、参入した各社が引き揚げていく最中であり、少数株主のまま持ち続ける選択との比較が迫られる場面でもあった[5]

決断

ファンドとの競合を押し切る

2005年12月、日清紡績は公開買付によって新日本無線の株式を追加取得し、同社を連結子会社とした。日本無線が保有していた新日本無線株の行方をめぐって投資ファンドと競り合った末の取得であった。のちに社長となる村上雅洋氏は、2018年の対談で「2005年に新日本無線のTOBをめぐり、あるファンドとのバトルがあったのが一つの刺激になっています[8]」と振り返っている。含み益を抱えて狙われる側にいた会社が、公開買付を仕掛ける側へ回った場面にあたる[6][7]

決着は翌年に持ち越された。2006年6月27日、日清紡績は村上世彰氏が率いたM&Aコンサルティングに関係する4つのファンドから新日本無線の普通株式274万2,000株を取得したと発表した。これで保有株は2,333万5,000株となり、議決権ベースの出資比率は59.64%に達している。新日本無線の上場は維持する方針も示された。競合相手の持ち分をそのまま引き取ることで、経営権をめぐる争いに区切りをつけた形であった[9]

「変化なくして成長なし」

攻防のさなかの2006年、社長には岩下俊士氏が就いた。岩下氏は繊維部門の原料課から経理、国内子会社、自動車部品のABS事業、メカトロニクス事業まで社内を渡り歩き、45歳のときには単身オランダへ渡って子会社を立ち上げた人物である。同年の誌面で岩下氏は「この数年だけでも、電子部品の新日本無線、シャツ卸のCHOYA、建材の岩尾など数々の買収」を挙げ、M&Aによる事業分野の拡大を今後も視野に入れると述べた。尊敬する人物として、多種多様な事業を抱えたGEを率いたジャック・ウェルチ氏の名を挙げている[10]

その年度から始まる中期計画のキーワードは「変化への挑戦」であった。岩下氏は「世の中のあらゆる動きのスピードが増している今日、自らの変化なくしては、安定も成長もない。立ち止まることは、後退を意味する。前例踏襲では絶対いけない」と語り、繊維の会社という枠を外して事業を選び直す方針を掲げた。村上雅洋氏はのちに「2006年ごろ、ホールディングス化を考えはじめたときが変化点だったと思います」と述べており、新日本無線をめぐる攻防が持株会社化の検討へつながった経緯がうかがえる[11][12]

結果

半導体から無線通信へ、柱の置き換え

2009年4月、日清紡績は持株会社制へ移り、商号を日清紡ホールディングスへ改めた。同時に新設分割で日清紡ブレーキ・日清紡メカトロニクス・日清紡ケミカル・日清紡テキスタイル・日清紡ペーパープロダクツの5社を設け、繊維・自動車ブレーキ・化成品・精密機器・紙製品を独立した事業会社として並べ直している。翌2010年12月には公開買付で日本無線と長野日本無線を連結子会社とした。2011年3月期の連結売上高3,255億円のうちエレクトロニクス事業が1,128億円・営業利益61億円を占め、持株会社化2年目で構成の変化が数字に表れた[13][14]

取り込んだ会社はその後まとめ直された。2018年9月に新日本無線を株式交換で完全子会社とし、2022年1月には新日本無線がリコー電子デバイスを吸収合併して日清紡マイクロデバイスへ商号を変更している。2023年12月にはHVJホールディングスの全株式を取得して日立国際電気を傘下に収めた。2024年12月期には無線・通信セグメントが売上2,345億円・営業利益76億円となり、連結営業利益166億円のうち最大の稼ぎ手となっている。一方でマイクロデバイスは2025年12月期に売上624億円・営業損失55億円と苦戦が続いた[15][16]

出典・参考

免責事項およびポリシー