日露戦争後の1907年2月、日清紡績株式会社が東京の亀戸に誕生した。[1][2]設立年月日は1907年2月5日、資本金1,000万円(払込250万円)で[3]、初代会長には平沼専蔵氏が就任している[4]。綿糸の輸入代替が国策とされた明治後期の紡績勃興期にあって、同社は会社設立後ただちに第一期紡機59,028錘を建設し、翌41年6月に操業を開始した[5]。43年3月には京都の帝国製絲(13,000錘)を買収[6]して拡大策をとったが、続く反動期には関東地方の大洪水で本社工場が被害を受け[7]、創業まもない同社は早くも苦境に立たされた。
苦境を脱する転機となったのが、1914年8月に専務として迎え入れた宮島清次郎氏である。[8]宮島氏は大正4年に高岡紡績(10,000錘)、大正8年には岡崎紡績[9](16,000錘)を買収し、同年に青島工場(20,000錘)・名古屋工場(110,000錘)を新設、大正10年には六工場・紡機23万錘・織機1,215[10]台を擁する一大紡績メーカーへ育てた。大正8年9月に社長へ昇格した宮島氏は、昭和8年2月に人造糸へ進出するため日清レイヨンを創設[11]して糸から綿布加工までの一貫体制を築いている。もっとも昭和10年以降の戦時体制のもとで保有機の供出や外地への設備移駐を命ぜられて設備が激減し、太平洋戦争の敗戦により同社は設備の約80%を喪失、終戦時には紡機17万9,000[12]錘にまで減少した。宮島社長は昭和15年12月に会長へ退き、社長は鷲尾勇平氏[13]を経て昭和20年12月に桜田武氏へ引き継がれた。
終戦後の日清紡績は戦前の保有設備の回復に努め、1955年までに紡織関係工場10・綿紡機53万8,000錘・織機6,752台へと復興拡大した。[14]さらに繊維部門にとどまらず化成品・工作・製紙・印刷といった非繊維部門にも進出し[15]、経営の多角化を推し進めている。1958年6月の徳島工場(現・徳島事業所)新設、1961年10月の東京証券取引所市場第一部への指定、1966年1月の藤枝工場(現・藤枝事業所)新設と[16]、生産拠点の拡張を続け、1972年12月にはブラジルにNISSHINBO DO[17] BRASIL INDUSTRIA TEXTIL LTDA.を設立して海外生産拠点の確保にも着手した。1973年10月の第一次石油危機を境に、原油高と韓国・台湾勢の台頭で日本繊維業界が構造的な競争力低下に直面すると、日清紡績は繊維以外の領域を拡げた。1981年11月に館林化成工場(現・館林事業所)を新設[18]して化成品事業を本格化、1986年4月に美合工機工場、1987年1月に浜北精機工場を新設[19]して精密機器事業を始めるなど、『紡績』を社名に冠しながらも化成品・精密機器・自動車関連へ業域を分散させる構造変化が1980年代後半までに進んだ。
1989年1月のKOHBUNSHI(THAILAND)LTD.(タイ、後にNISSHINBO MECHATRONICS(THAILAND)LTD.へ改称)設立から[20]、海外子会社の連続設立が始まった。1992年7月に千葉工場(現・旭事業所)を新設[21]、1993年4月に本社を東京都中央区日本橋人形町二丁目に移転[22]、同年7月には浦東高分子(上海)有限公司を中国に設立した[23]。1996年6月にはNISSHINBO SOMBOON AUTOMOTIVE CO., LTD.をタイに設立[24]、1997年3月にはNISSHINBO AUTOMOTIVE MANUFACTURING INC.を米国に設立[25]、1998年4月にはPT.GISTEX NISSHINBO[26] INDONESIA(後にPT.NISSHINBO INDONESIA)をインドネシアに設立、1999年3月にはSAERON[27] AUTOMOTIVE CORPORATIONを韓国に設立した。
自動車部品への進出は平坦な道ではなかった。1967年夏、当時常務の幕内氏は業界誌の座談で、部品メーカーは品質と値段でしか勝負できず、自動車メーカーから年二度の値引き要求に応じ続けてきたがもう限界に近いと述べ、開発費や試験費の負担が価格に認められない現実を訴えた。[28]生き残る条件は技術革新と、それを支える資本力に尽きるという見立てである。[29]紡績の収益で部品事業を支えた同社の選択は、この認識と重なる。1990年代後半に集中した海外子会社設立は、自動車ブレーキ事業のグローバル供給網構築を主目的とした投資である。紡績の技術蓄積が摩擦材製造に転用されるという技術系譜が、日清紡績を綿紡績会社から自動車部品メーカーへと業態変化させる土台となった。
2000年12月にはコンチネンタル・テーベス株式会社を設立し[30]、ドイツの自動車部品大手コンチネンタル社との合弁でブレーキ事業の競争力強化を狙った。2000年12月にはPT.NIKAWA TEXTILE[31] INDUSTRY(インドネシア)の株式追加取得も実施し、繊維事業の海外生産拠点も並行して整備した。1990年代から2000年代初頭にかけての日清紡績は、繊維・自動車ブレーキ・化成品・精密機器という4本柱で構成される複合事業会社へと変貌を遂げた。創業から1世紀近くを経た同社にとって、綿紡績の専業企業から複合企業へという構造変化は、繊維不況への対応策として進めた多角化が逐次的に蓄積された結果だった。
大正8年9月に社長へ昇格した宮島清次郎氏は、機械設備の近代化と糸から綿布加工までの一貫体制づくりで日清紡績の事業基盤を固めた。宮島氏は昭和15年12月に会長へ退き、社長は鷲尾勇平氏を経て昭和20[32]年12月に桜田武氏へ受け継がれている。概略書『企業の歴史 : 明治百年』は、戦後の日清紡績が『徹底した自由主義経済理念による経営と経営の合理化』[引用元]を最大の特色とし、その合理主義経営が宮島清次郎・桜田武・露口達の各社長[33]によって推し進められてきたと記している。同社は斜陽といわれた紡績業界にあって異色の高収益と堅実性を誇り、昭和39年10月期以降は配当14%を継続し、業績不安[34]から減配したことはなかった。この時期の日清紡績は、綿紡績の収益で足場を固めながら、財界に重きをなす経営者を輩出し、紡績会社の枠を超えた地位を維持していた。
桜田氏の系譜を継いだ露口達氏が社長を担った時期、日清紡績[35]は繊維にとどまらない多角化を一段と進めた。1966年末には東邦レーヨンの再建に着手し、自社常務であった真船清蔵氏を同社社長に送り込んでいる。[36]同社設立から60年を数えた創立60周年時点の概略書によれば、戦後9回の増資を経て資本金は40億円、年間売上高は約480億円・利益約15億円、13工場に従業員約1万名[37]を擁し、紡績会社から出発しながら合理的な多角経営会社へ脱皮した姿が描かれている。露口氏は1975年に[38]『首切りなどしてなくても済むように、いつも不況を頭に入れた経営をやってきました』[引用元]と語っており、好不況を通じて堅実を貫く経営方針が高度成長期にも維持されたことがうかがえる。1973年の石油危機以降に繊維業界全体が構造不況へ陥るなかで、日清紡績は紡績以外に収益源を求める必要に迫られ、1980年代以降に化成品・精密機器・自動車関連へ業域を拡張した。
1980年代半ばに社長を担った望月朗宏氏、1990年代に社長を務めた指田禎一氏、2000年代に社長を務めた岩下俊士氏が順次経営を引き継ぐなかで、日清紡績の事業ポートフォリオは組み替えられた。1981年の館林化成工場、1986年の美合工機工場[39]、1987年の浜北精機工場と、1980年代に立て続けに新設された工場群は、いずれも繊維以外の事業領域に属する生産拠点である。同社の多角化は、繊維事業の縮小と非繊維事業の拡張を逐次的に積み重ねる形で進められたが、その意思決定の背後には戦後の歴代経営者が共有していた『複合化への必要性』という認識があった。1907年の創業から100年を迎える前後の時期に、日清紡績は綿紡績の枠を超える複合企業へと変貌するための基盤を整えた。
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|---|---|---|---|---|
| 1907〜1999年渋沢栄一系列の紡績会社から複合事業会社への助走 | 日清紡績を設立 | ★★ | ||
| 宮島清次郎氏による同業紡績の連続買収と大規模工場の新設 1914年に専務として招かれた宮島清次郎氏が、1915年の高岡紡績買収から1919年の岡崎紡績買収・青島工場と名古屋工場の新設までを続けざまに実行し、日清紡績を大正10年時点で六工場・紡機23万錘を擁する紡績会社へ拡げた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 東亜実業を設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 徳島工場を新設 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に指定 | ★ | |||
| 藤枝工場を新設 | ★ | |||
| NISSHINBO DO BRASIL INDUSTRIA TEXTIL LTDA.を設立 | ★ | |||
| 館林化成工場を新設 | ★ | |||
| 美合工機工場を新設 | ★ | |||
| 浜北精機工場を新設 | ★ | |||
| KOHBUNSHI(THAILAND)LTD.を設立 | ★ | |||
| 千葉工場を新設 | ★ | |||
| 浦東高分子(上海)有限公司を設立 | ★ | |||
| NISSHINBO SOMBOON AUTOMOTIVE CO.,LTD.を設立 | ★ | |||
| NISSHINBO AUTOMOTIVE MANUFACTURING INC.を設立 | ★ | |||
| SAERON AUTOMOTIVE CORPORATIONを設立 | ★ | |||
| 2000〜2017年持株会社化と日本無線・TMD買収による事業領域の大改編 | インドネシアPT.NIKAWA TEXTILE INDUSTRYを子会社化 | ★ | ||
| コンチネンタル・テーベスを設立 | ★ | |||
| 岩下俊士 | SAERON AUTOMOTIVE CORPORATIONが韓国取引所に上場 | ★ | ||
| 岩下俊士 | 公開買付による新日本無線の連結子会社化 2005年12月、日清紡績が公開買付によって新日本無線の株式を追加取得し、通信用半導体・電子部品を主力とする同社を連結子会社にした経営判断。日本無線が保有していた新日本無線株をめぐり、投資ファンドとの競合を経ている。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 鵜澤静 | 持株会社制に移行し日清紡HDに商号変更 | ★★ | ||
| 鵜澤静 | 公開買付により日本無線を子会社化 | ★★ | ||
| 鵜澤静 | 欧州ブレーキ摩擦材大手TMD Frictionの全株式取得 2011年9月26日に発表し同年11月に完了した、ルクセンブルク籍のTMD FRICTION GROUP S.A.の全株式取得。買収額は約4億4,000万ユーロで、欧州を主力市場とするブレーキ摩擦材メーカーを完全子会社とし、日清紡ホールディングスは世界シェア約15%で首位に立った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 河田正也 | 南部化成の全株式を取得 | ★ | ||
| 河田正也 | 日清紡ペーパー プロダクツ等の紙製品事業を譲渡 | ★★ | ||
| 2018〜2025年決算期変更と事業ポートフォリオの最終再編 | 河田正也 | リコー電子デバイスの株式を取得 | ★★ | |
| 村上雅洋 | 新日本無線がリコー電子デバイスを吸収合併し日清紡マイクロデバイスに商号変更 | ★ | ||
| 村上雅洋 | NISSHINBO COMPREHENSIVE PRECISION MACHINING (GURGAON) PRIVATE LTD.を設立 | ★ | ||
| 村上雅洋 | ルクセンブルクTMD FRICTION GROUPの全株式を譲渡 | ★★ | ||
| 村上雅洋 | HVJHDの全株式を取得し日立国際電気を子会社化 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日清紡ホールディングス)