戦前の日本の製紙業は、洋紙のおよそ9割を王子製紙1社が抄き、残る1割を他の洋紙メーカー数社が分け合う構造にあった。静岡や四国に密集していた製紙工場は、ごく少数の板紙工場を除けばすべて和紙の機械抄きで、洋紙とは別の市場にいた。1942年9月4日付の商工省通牒が示した製紙工業整備要綱は、全国に460社あった製紙業者を66社へ合同させ、1944年春には、古い工場のスクラップ化・軍需工場への転用・製紙工場としての存続の3つへ仕分ける措置が続いた。原料と電力の割当は細り、従業員は軍需産業へ徴用されていった。四国の和紙業者が1社へ束ねられたのは、この仕分けの只中である。
大王製紙の設立は戦時下の産業統制によるものである。1940年4月、井川伊勢吉氏が丸菱製紙所の経営権を譲り受け、機械による製紙を始めた。3年後の1943年5月5日、商工省の示した製紙工業企業整備要綱に基づいて井川伊勢吉氏の経営する企業を主体に四国の14事業所が合同し、資本金217万5,000円で大王製紙が発足した。井川伊勢吉氏は設立と同時に社長へ就任し、以後40年にわたってその職にあった。当初の事業は丸網抄紙機による和紙の製造販売で、設立と同時に東京と大阪へ出張所を開設した。統制は乱立した中小の製紙業者を1社にまとめる政策であり、四国の紙産地にはこの1社が残った。
戦後の需要は和紙ではなく洋紙にあった。同社は1945年12月に生産設備を伊予三島の三島工場へ集め、1946年10月に洋紙とグラウンドパルプの製造設備を新設して翌年末から生産に入り、1947年には新聞用紙の製造販売を開始した。当時の紙市場は、統制の枠外にあった仙花紙が飛ぶように売れる異常な活況にあり、その波に乗って大昭和製紙・中越パルプ・高崎製紙といった新興の中小メーカーが相次いで規模を伸ばした。大王製紙もその一社であり、王子製紙が3社に分割された後の空白へ入り込んだ新興勢力にあたる。
旧和紙会社のうち、洋紙に向かいながら経営者も会社もそのまま生き残ったのは大王製紙1社だけだったと、井川伊勢吉氏はのちの講演で振り返っている。終戦後に残っていた66社は、ほとんどがそろって洋紙かそれに近い紙を目指した。集中排除法で王子製紙が3社に分けられた前後は、新聞用紙も印刷用紙も足りなかった。センカ紙と呼ばれる粗い紙はカストリ雑誌などの用途でよく売れ、設備の増強につながった。しかし1951年に王子製紙が愛知県春日井市に春日井工場を建てたころには、質の劣るセンカ紙の売れ行きは止まり、こうした会社は相次いで倒れるか、分割されて経営者が入れ替わった。大王製紙は1947年、三島工場に本物の洋紙を抄ける新聞用紙抄紙機を1台据え、1952年に2台を増やして、四国・中国・九州の新聞社に納入した。
洋紙へ移った同社が次に抱えた課題は、原料パルプを外部から買っていたことにある。1950年11月に子会社の西日本パルプを設立してサルファイトパルプを確保し、1954年4月に未晒クラフトパルプ、1955年11月に晒クラフトパルプの製造設備を三島工場へ新設した。ここで原木からパルプ、紙までの一貫生産体制ができた。四国では唯一の晒クラフトパルプ設備であり、従来のサルファイトパルプをこれに切り替えて原価を下げた。1955年時点の本社は大阪市北区にあり、生産の中心は愛媛県の三島工場にあった。
パルプの自給は、損益をはっきり動かした。パルプを外部に頼っていた1952年10月期から1954年4月期までの4期で、同社は7,936万円の赤字を計上した。未晒クラフトパルプ設備が動いた1954年10月期に業績は好転し、1955年4月期には純利益5,700万円をあげて繰越欠損を一掃した。1957年4月期の売上高は12億82万円、純利益は1億6,036万円で、売上高に対する純利益率は1955年10月期の10.9%から13.8%まで上がった。原料を自ら作れるかどうかが製紙会社の採算を決めるという、この業種の基本がそのまま数字になった。
生産能力と市場での地位も同じ時期に固まった。1956年4月に銅山川製紙から工場設備を買い取って川之江工場とし、三島工場と近接した2工場に生産を集めた。株式は1956年8月に大阪証券取引所へ、1957年7月に東京証券取引所へ上場した。主力は洋紙で、なかでも新聞用紙は総生産量のおよそ半分を占め、その8割を朝日新聞社・毎日新聞社・読売新聞社の3社へ納めた。上質紙と筋入クラフト紙は東南アジアやエジプトへ輸出し、1956年4月期には売上高の25.4%を輸出が占めた。主力の三島工場は88吋長網抄紙機ほか7台の抄紙機とパルプ設備を備えて総生産量の約8割を作り、川之江工場は74吋と60吋の長網抄紙機でクラフトライナーと温床用紙を作った。
上場で集めた資金は、そのまま次の設備へ向かった。1957年、神武景気と呼ばれた時期に、同社は本格的な新聞用紙抄紙機を三島工場へ据えた。最高速度は分速1,700尺、およそ500メートルに達する。木箱の時代から段ボール箱の時代に移ると読んで、同じ時期に段ボール原紙ライナーの抄紙機も新たに設けた。期末に完成する予定の高速抄紙機が稼働すれば、新聞用紙の月産能力は250万封度から900万封度に伸びる見通しだった。当時国内のライナーは古紙を再生したものだったが、この機械は原料を木材パルプだけとするクラフト・ライナーを国内で初めて抄いた。段ボール原紙の製造と販売は1957年10月に始まった。
同社にはまだ腕の立つ技術者が育っておらず、据え付けを担った機械メーカーも扱いに慣れていなかったため、この抄紙機は動かし始めから不調で、トラブルが絶えなかった。資金面でも1957年4月期の固定比率は199.6%に上り、建設途中で設備投資に追われていたため、増設資産の償却を通じた内部蓄積は十分でなかった。原料の自給で採算を立て直すと、その利益をすぐ次の設備に投じた格好である。神武景気のうちに設備は据え終わったが、それを回収し続ける需要が保証されていたわけではない。
紙の需要は1955年以降急速に伸び、紙パルプ業界の各社はそろって設備を増やしていた。神武景気が終わるとすぐ反動が来て、三島工場の高速抄紙機が不調から抜け出せないなか、1958年6月ごろから同社の経営は行き詰まり始めた。1959年から1960年にかけての岩戸景気で多少持ち直すと、抄紙機をもっと生かすためにクラフトパルプとセミケミカルパルプの設備を増やし、1960年にはパルプ設備と段ボール原紙抄紙機の改造・新設にも手をつけた。同社の増設は単独の決断というより、業界全体の流れに沿ったものだった。
1961年10月、同社は大阪・東京両証券取引所の市場第一部に上場した。それより前、このパルプ設備が仕上がったころに木材は異常な高値となり、建築用材にも事欠くほどで、池田勇人首相が河野一郎農相に命じて全国の国有林の払い下げを進めさせ、林道づくりも急がせて値上がりを抑えようとした。神武・岩戸景気の反動で紙の値は下がったが、原木の高値は収まらなかった。1960年秋から1962年春まで続いた原木価格の異常な高騰、過剰生産による製品安、設備投資で膨らんだ借入金の金利がのしかかり、同社は上場の裏で資金繰りに行き詰まっていた。金融引き締めのあおりが、逼迫に拍車をかけた。
1961年の年末をどう越すかという状態になった。当時の資本金は24億円、半期の売上高は40億円ほどである。井川伊勢吉氏が手を尽くして資金を集めても、5月7日に期日を迎える1億6,900万円の手形には3,900万円が足りなかった。破綻を免れるため、伊勢吉氏は取引先の伊藤忠商事に救いを求め、見返りとして経営陣の総退陣と一族持株の全面的な譲渡を差し出した。伊藤忠商事は伊豫銀行・江商という大口債権者と交渉を続け、1962年5月4日には3社が朝から晩まで協議した。しかし、再建資金をどこがどれだけ持つかで合意には至らなかった。5月に会社更生手続の開始が申し立てられ、6月に開始決定が下りている。
管財人が着任するまでの2か月間、工場を動かし続けてほしい――申請したその日の夕方、井川伊勢吉氏は会社と労働組合の幹部を呼び寄せてこう求めた。その間の賃金・給料は私財から出し、退職金については工場の資材を差し押さえて担保に充ててよいと伊勢吉氏は申し出た。資金の手当てこそ断ったものの、新聞社や段ボール会社といった取引先は紙の購入を続けると約束した。労組もこの申し出を快く受け入れ、24時間回る工場が止まることは一度もなかった。更生法を申請してからも操業は途切れず、7月、つまり申請から2か月後には減価償却を済ませたうえで利益が出る状態になった。更生手続が始まると同時に伊勢吉氏は社長を退き、取締役の一人にとどまっている。
代償は会社の外側で払われた。大王製紙の手形を裏書きしていた子会社の愛媛製紙と大津板紙は連鎖倒産した。この年に入社した長男の井川高雄氏は愛媛製紙へ資材部長として派遣され、債権を棚上げしてもらったうえで、同じ相手から引き続き原料を入れてもらう仕事に就いた。頭を下げれば棚上げは頼めるが、その相手から原料が入らなければ工場が動かない。翌1963年3月には、同じく連鎖倒産した大津板紙へ再出向し、悪質金融業者に流れた手形の回収と、故紙業者からライナーの原料を入れてもらう交渉に当たった。株式は1963年12月に大阪・東京両証券取引所で上場廃止となり、翌1964年1月に日本証券業協会大阪地区協会の店頭登録銘柄へ移った。
原木価格は1962年6月から7月ごろにようやく下がり始め、秋に新聞用紙が値上げされたことも重なって、同社は立ち直るきっかけをつかんだ。原木が落ち着き製品の値も安定すると、業績は確実に持ち直した。1964年4月に更生計画案の認可を得て、1965年4月には更生手続終結の決定が下りた。開始決定からの期間は2年10か月である。終結と同時に、伊勢吉氏は地元と労働組合から請われる形で社長に戻った。再建の決め手は、市況が向きを変えたことだった。行き詰まりの原因が需要の消滅ではなく資金繰りにあったからこそ、工場を止めないという選択がそのまま再建の速さになったのだろう。
更生終結の翌月、同社は第1回の元利金6億9,000万円を支払った。それでもある程度の資金が残ったため、これを基に三島工場へ新聞用紙抄紙機を1台増設した。製作は三菱重工業が米国のベロイト社と提携して行ったもので、続く3年間に川之江工場へライナー抄紙機1台、三島工場へ新聞抄紙機2台を加え、パルプ設備も広げた。更生手続終結後の事業の柱は新聞用紙と段ボール原紙だった。配当も1970年12月の決算期から再開し、1970年から1971年ごろには国内製紙業界の中堅どころとして一人前の姿になった。
生産の場所そのものを作り直す構想が、これと並行して進んでいた。1965年の更生終結と同時に、同社は愛媛県と伊予三島市へ工場用地の造成を願い出て、三島工場の地先海面に埋立地を完成させた。1971年から新工場の建設にかかり、1973年に完成する。生産品種は新聞用紙とライナーで、投下資金は400億円、完成すれば生産能力は一気に倍増する規模だった。大型インバーホーム・クラフト・ライナー抄紙機2台と、世界最大級の新聞用紙抄紙機1台を据えている。1973年10月には新1号ライナー抄紙機・新2号ライナー抄紙機・新3号新聞用紙抄紙機を増設している。落成式は、第1次石油危機の発端となった中東戦争の勃発から6日後の10月12日だった。
同社はこの事業拡張を、自社の手形を振り出さずに賄っている。1962年の経営行き詰まりは、資金逼迫から支払手形を乱発したことに原因があった。同じ過ちを避ける狙いから、運転資金のうち短期分は金融機関からの借り入れで賄い、長期の設備資金には商社金融による延べ払いを利用し、資材や原料の支払いには製品を商社に卸して受け取った手形を充てる方式へ改めている。1974年10月に需要が急停止し、直近1年の引き合いが石油ショックの長期化を見越した仮の需要だったと判明したとき、頼みの綱になったのは手厚く持っていた手持ち資金だった。1970年4月には、更生債務を最終弁済期日より3年7か月前倒しして完済した。1974年に中質紙と出版用紙の製造販売を始め、1977年8月には新4号新聞用紙抄紙機を増設した。二度目の破綻を避けるための資金の組み方が、増設を続ける体力そのものになった。
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|---|---|---|---|---|
| 1940〜1957年原料自給による洋紙への業態転換 | 四国紙業など14企業の合同により大王製紙を設立 | ★★★ | ||
| 生産設備を三島工場に集約 | ★★ | |||
| 銅山川製紙から設備を買収し川之江工場を開設 | ★★ | |||
| 大阪証券取引所に上場 | ★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 1958〜1978年会社更生手続からの再建 | 大阪・東京両証券取引所の市場第一部に上場 | ★ | ||
| 会社更生法の適用申請と、操業を止めないままの再建手続 1962年5月、大王製紙が会社更生法の適用を申請し、翌6月に更生手続の開始決定を受けた経営判断。原木価格の高騰と製品価格の下落に設備投資の借入金利が重なって資金繰りに窮したもので、井川伊勢吉社長は取引先の伊藤忠商事による救済協議が決裂した3日後に法的整理へ切り替えた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 名古屋出張所の開設 | ★ | |||
| 大阪・東京両証券取引所で上場廃止 | ★★ | |||
| 日本証券業協会大阪地区協会の店頭登録銘柄に指定 | ★ | |||
| 更生計画の認可 | ★★ | |||
| 会社更生手続の終結 | ★★ | |||
| 福岡出張所の開設 | ★ | |||
| 新1・2号ライナー抄紙機と新3号新聞用紙抄紙機を増設 | ★ | |||
| 新4号新聞用紙抄紙機の増設 | ★ | |||
| 東京紙パルプ交易の設立 | ★ | |||
| 1979〜2010年エリエールで家庭紙に参入し、再上場と新聞用紙抄紙機の増設を重ねた時代 | 日本証券業協会大阪地区協会の店頭登録銘柄に再指定 | ★ | ||
| ティシューペーパーを起点とした紙おむつ・ナプキンへの品目拡大 1979年4月、大王製紙がティシューペーパーの製造販売を開始し、ブランド"エリエール"で家庭紙市場へ参入した経営判断。新聞用紙と段ボール原紙の専業メーカーが、初めて一般消費者に選ばれる品目を持った。以後トイレットペーパー、紙おむつ、生理用ナプキンへ品目を拡大し、参入は営業を統括していた井川高雄氏の発想によるものであった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 大阪証券取引所市場第二部に再上場 | ★ | |||
| 丸紅から名古屋パルプを買収 | ★★ | |||
| 大阪証券取引所市場第一部銘柄に指定 | ★ | |||
| 新5号新聞用紙抄紙機の増設 | ★ | |||
| 燃料転換のための大型石炭燃焼設備が完成 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に再上場 | ★ | |||
| 新7号新聞用紙抄紙機の増設 | ★ | |||
| 東京支社を東京本社に昇格させ二本社制へ移行 | ★★ | |||
| 新8号コート原紙抄紙機の増設 | ★ | |||
| フォレスタル・アンチレの設立 | ★ | |||
| 新6号新聞用紙抄紙機の増設 | ★ | |||
| いわき大王製紙の設立 | ★ | |||
| 二神勝利 | 名古屋パルプを吸収合併し可児工場へ改組 | ★★ | ||
| 井川意高 | 米P&Gから大人用紙おむつ「アテント」事業を譲受 | ★★ | ||
| 井川意高 | 新10号塗工紙抄紙機の増設 | ★ | ||
| 2011〜2026年創業家会長への貸付金問題を越え、衛生用品の海外展開と買収に向かう | 井川意高 | エリエール・インターナショナル・タイランドの設立 | ★ | |
| 佐光正義 | 創業家との資本関係の解消と、関連会社等株式の買い戻し 2011年度の第2四半期に判明した元会長への貸付金問題を受け、大王製紙が創業家との資本関係を解消し、2012年6月26日の取締役会決議に基づいて同年8月15日付で北越紀州製紙から関連会社等株式を取得した経営判断。創業家に代わって北越紀州製紙が19.59%を持つ筆頭株主となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 佐光正義 | 連結子会社を37社から8社に変更 | ★★ | ||
| 佐光正義 | エリエール・インターナショナル・コリアの設立 | ★ | ||
| 佐光正義 | 連結子会社を8社から19社に変更 | ★ | ||
| 佐光正義 | 連結子会社を19社から43社に変更 | ★ | ||
| 佐光正義 | 大王(南通)生活用品の設立 | ★ | ||
| 佐光正義 | エリエール・インターナショナル・トレーディング・インドネシアの設立 | ★ | ||
| 佐光正義 | 同一事業の子会社間合併で連結子会社を35社に集約 | ★ | ||
| 佐光正義 | 段ボールの取引をめぐる命令を争わず、審判請求を見送った判断 2014年6月19日、連結子会社の大王パッケージが、段ボールシート及び段ボールケースの取引に関して、公正取引委員会から独占禁止法に基づく排除措置命令及び課徴金納付命令に係る通知書を受領した。命令の内容には大王製紙グループと公正取引委員会の間で一部見解の相違があったが、両社は命令を受け入れ、公正取引委員会に対する審判請求の申立てを行わないこととした。 支払見込額としての課徴金引当金212百万円は、命令書(案)の受領に伴い2014年3月期の特別損失へ計上されている。 詳細を読む | |||
| 佐光正義 | エリエール・インターナショナル・マニュファクチャリング・インドネシアの設立 | ★ | ||
| 佐光正義 | 段ボール事業の子会社間合併で連結子会社を29社に集約 | ★ | ||
| 佐光正義 | 東京本社と関連部門を千代田区富士見に移転・集約 | ★ | ||
| 佐光正義 | 日清紡ホールディングスから日清紡ペーパープロダクツの全株式を取得 | ★★ | ||
| 佐光正義 | 三浦印刷の取得 | ★ | ||
| 佐光正義 | 川之江工場で衛生用紙の新マシンが稼働 | ★ | ||
| 佐光正義 | 千明社を設立しSMSから印刷事業等を譲受 | ★ | ||
| 佐光正義 | トルコの衛生用品メーカー、ウゼンの全株式を取得 | ★★ | ||
| 佐光正義 | ブラジルの衛生用品メーカー、サンテルの株式51%を取得 | ★★ | ||
| 若林賴房 | 三島工場でペーパータオル専抄マシンが稼働 | ★ | ||
| 若林賴房 | 川之江工場で2台目の衛生用紙マシンが稼働 | ★ | ||
| 若林賴房 | 子会社5社の合併によりダイオーミウラを設立 | ★ | ||
| 若林賴房 | 東京証券取引所プライム市場へ移行 | ★ | ||
| 若林賴房 | ペット用品製造の大貴の全株式を取得 | ★★ | ||
| 若林賴房 | エリエール・インターナショナル・ベトナムの設立 | ★ | ||
| 若林賴房 | 監督と執行を分け、取締役会を中長期の戦略の議論に寄せる選択 2025年6月26日開催の第114回定時株主総会における承認をもって、監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行した。掲げた理由は、取締役会が中長期の経営戦略等を議論・決定することに重点を置き、監督機能の強化を通じて一層のコーポレート・ガバナンスの充実を図るとともに、権限委譲を行うことにより意思決定の更なる迅速化を図ることにある。 取締役は移行直前の10名から15名へ、うち独立社外取締役は4名から7名へ増えた。 詳細を読む | |||
| 若林賴房 | トルコの衛生用品子会社の全株式を譲渡 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(大王製紙)