創業者の増田義雄氏は1922年に板紙業を始め、戦前は今福製紙株式会社や昭栄製紙株式会社などの板紙工場を経営していた[1]。戦後、戦時中に鉄かぶと工場の用地として大同製鋼株式会社が買収していた美作製紙株式会社杭瀬工場を、同社から譲り受けた[2]。1947年11月28日、黄板紙と段ボール中芯原紙の製造を目的に、資本金500万円を全額払い込んで摂津板紙を設立した[3][4]。本社は本社工場を併設した尼崎市杭瀬字中ノ島1に置き[5]、社章には戦前に同じ場所で操業していた美作製紙が使っていたマークをそのまま引き継いだ[6]。
設立当初の製品は馬ふん紙で、黄色く、馬ふんを固めたような紙は小学校の手工やメンコなどに使われた[7]。この馬ふん紙製造の最大手は当時北越製紙で[8]、1940年代後半は板紙の売れない時期でもあり、大手の製紙会社は板紙にも馬ふん紙にも手を出さず、格の低い商売だという見方が業界に広がっていた[9]。摂津板紙が抄く紙は、設立の目的に掲げた黄板紙と段ボール中芯原紙の2品目に絞られ[10]、大手と同じ品目には向かわなかった。1948年4月には杭瀬の本社工場で第1号抄紙機を完成させ、大手の来ない段ボール中芯原紙の抄造に入った[11]。
設立当時の板紙市場では、一般紙函用の厚板紙の需要が盛んで、業界は好況にあった[12]。これに対し、段ボール用の黄中芯原紙は利潤が比較的薄く、生産は軽視されており、摂津板紙がこの分野へ進んだ時期は悪かった[13]。ところが占領米軍が資材を段ボール箱で持ち込んだことから、それまでの木箱に代わって段ボール箱が急速に普及しはじめ、需要側の変化によって板紙、とくに段ボール用の板紙は前途洋々だと言われるようになった[14]。軽視されていた品目の需要はその後10年にわたって伸び、段ボールは1955年から1965年まで年28%の伸びを記録した[15]。
段ボール用中芯原紙への進出の遅さは、のちに利点へ変わった[16]。厚板紙の好況を追った各社が中芯原紙に設備を割かなかったため、需要が増えたときに供給できる会社は限られ、摂津板紙は段ボール用中芯原紙で独占商品の地位を得て[17]、この品目が会社の収益を支えた[18]。参入時に薄いとされた利潤を数量の伸びが埋め、売上高は1957年3月期の10.9億円から1958年3月期には12.8億円へ、1年で1.9億円増えた[19]。設立から10年あまりで、摂津板紙は大手が手を出さなかった2品目の紙だけで年商10億円台の会社になった[20]。
抄紙機は毎年のように増え、1949年4月に第2号抄紙機を完成して紙函用の黄板紙の抄造を始め[21][22]、1950年5月には第3号抄紙機でルーフイング原紙を加えた[23]。1951年1月には摂津紙業と相互紙器の2社を吸収合併し、資本金は750万円になった[24]。1952年3月に第4号抄紙機を新設して中芯原紙を増産し[25]、1953年7月の第5号抄紙機ではチツプボールの抄造に入り[26]、1956年10月には第6号抄紙機を新設して黄中芯原紙を増産した[27]。生産品種と生産高は逐年増大し、1957年度の生産は42,590トンにのぼった[28]。
資本金も設備に合わせて積み上がり、1951年6月に1,000万円、1954年1月と6月には現物出資でそれぞれ4,000万円と7,000万円、同年9月に9,100万円、1955年9月には1億円へ増えた[29]。設立時の500万円から8年で20倍となった[30]。増田義雄社長は徹底的な機械化でコストを下げて能率を上げ、従業員1人当たりの売上高を他社の3倍にあたる65万円まで引き上げ、さらにその3倍の90万円を目標に置いた[31]。設備では我が国初のアスプルンド式CGPプラントをスウェーデンから輸入し、自社設計による世界一のヤンキードライヤーを備えた[32]。
増田義雄社長は朝出社するとすぐナツパ服に着換えて仕事場へ出向き、工員は役職名ではなくオヤジサンと呼び[33]、夜も一人で7時8時まで設計図に向かった[34]。摂津板紙に労働組合は組織されておらず、工員と同じ場所で働くことがその一因とみられていたが[35]、増田義雄社長は組合をはきちがえないなら大いに賛成だと述べた[36]。基本方針は2割安く作って1割安く売ることに置き、経営者と従業員とマーケットの三者がそろえば製品は自然に売れるという考えと結びついていた[37]。1958年、増田義雄社長は企業百年の計という大目的を立て、体質改善を進めた[38]。
摂津板紙は1958年度から、原紙を抄いて売るだけの会社から、原料の調達と最終製品の加工までを自社で通す会社へ組み替えるため、原料パルプから段ボール紙器に至る一貫体制を確立する計画を立てた[39]。1959年4月、原料の自給体制の一環としてケミグランドパルプ(CGP)の生産を始め[40]、同年7月には第7号抄紙機を新設して、このCGPを使ったパルプ中芯原紙の抄造に入った[41]。同年8月には大阪工場にコルゲートマシンを新設して段ボールの分野へ進出した[42]。この大阪工場は、1955年に大極東製紙から買収した設備である[43]。
1960年6月、大阪工場に抄紙機2台を新設して耐火ボード原紙の抄造を始めた[44]。同じ月に本社工場の従来の3号抄紙機を撤去し、大型の新3号機を据えて段ボールライナーの抄造を開始し、原料パルプから最終製品のパッキングケースまでの一貫体制を確立した[45]。体質改善は2期に分かれ、第1期は1960年5月に段ボールライナーの抄造を始めて一貫体制が揃った時点で終わり、所要資金は22億円にのぼった[46]。第2期は1961年6月から着手し、段ボール工場を新設し、装置を据え付け、抄紙機を改造して本社工場内に鉄筋4階建ての設備を建て、月産能力を当時の倍の3,000トンに引き上げる内容で、所要資金は10億円だった[47]。
1961年4月、摂津板紙は既存の生産設備を拡充・合理化する工事に着手し、生産量を増やすとともに製品の等級を上げた[48]。1962年3月には段ボール中芯原紙とライナーからパッキングケースまでを一貫して生産する目的で兵庫県伊丹に伊丹工場を着工し[49]、前後して埼玉県八潮でも東京工場の建設に入った[50]。伊丹工場は1963年4月に完成し、大阪工場の段ボール設備を移設してただちに操業を開始した[51]。1963年4月末の事業所は本社工場、大阪工場、伊丹工場、東京工場の4か所で[52]、段ボール原紙を抄く尼崎の本社工場が319名、耐火ボード原紙の大阪工場が57名、段ボールの伊丹工場が148名、東京工場は建設中だった[53]。
摂津板紙は、パルプから造る高級板紙を避け、もっぱら故紙を利用する下級板紙に重点を置いた[54]。故紙を主原料とし、そこへ自社で生産するケミグランドパルプやセミケミカルパルプを補助として加える、故紙の再生会社である[55]。戦後の新興会社でありながら板紙業界の中堅どころに伸び、下級板紙の分野では第1位を占めた[56]。得意商品はチップボールと耐火ボード原紙で[57]、1962年3月期の製品別売上構成は、チップボール25.2%、表ライナー21.0%、パルプ中芯原紙14.9%、段ボール14.4%、黄中芯原紙9.6%、耐火ボード原紙9.1%となった[58]。
摂津板紙には本格的なパルプからの一貫生産という計画もあったが、これを中止し、あくまで特色を生かして今後は加工度を上げる方針に切り替えた[59]。廃物である故紙と廃材の利用に妙味を発揮し、工場立地のよいことを強みとした[60]。故紙の集荷という点で立地条件のよい工場を持つことが、成長の原動力として働いた[61]。加工度を上げる方針は製品構成に表れ、1970年3月期の売上構成は段ボール原紙パルプ芯33.8%、段ボール21.2%、段ボール原紙ライナー10.1%、チップボール8.3%、白ボール8.0%、耐火ボード原紙7.6%、紙管原紙7.1%となった[62]。
摂津板紙はどの系列にも属さなかったが、住友商事と三菱商事が大株主に加わり、この2社が販売の大きな窓口になっていた[63]。とくに住友との関係が深く、主取引銀行には住友、興銀、神戸、長銀、三和が並んだ[64]。1963年3月末の大株主は、創業者の増田義雄氏が2,269,440株で16.2%、住友商事が1,590,000株で11.4%、大同生命が945,000株で6.8%、三菱商事が300,000株で2.1%を占めた[65]。住友、三菱という有力なバックがあり、金融と販売の両面で不安がないと評され[66]、1963年には、数期にわたり無配を続けていた日本製紙の再建に増田義雄社長が乗り出すとみられると報じられた[67]。
摂津板紙の株式が東京の店頭で公開されたのは1961年1月4日で、それ以前は大阪の店頭にあった[68]。同年10月2日には大阪証券取引所第2部へ上場し[69]、第1部への指定替えは1963年2月1日に決まった[70]。設備投資と歩調を合わせて売上高も伸び、1959年3月期の11.2億円から1960年3月期18.3億円、1961年3月期25.1億円へ増え[71]、1962年3月期は34.0億円で当期純利益1.4億円、1963年3月期は38.4億円で当期純利益1.7億円だった[72]。1963年3月期の従業員は529名、平均年齢は28.3歳で、労働組合は組織されていなかった[73]。
売上高は1964年3月期に49.4億円、1965年3月期に59.6億円へ伸びたが、1966年3月期は56.5億円に減り、営業利益4.6億円に対して経常利益は1.3億円、当期純利益は0.9億円にとどまった[74]。1966年に紙の市況が悪化して業績が落ち、市況の回復とともに上向いたため、摂津板紙は利益剰余金の積み増しを最優先に据えた[75]。1966年3月期の従業員は758名で[76]、1968年時点の資本金は10億5,000万円、従業員は798名に増えた[77]。東京工場には段ボール用の中芯原紙マシンを増設して順調に動かし[78]、家電業界の好況などで段ボールの需要は旺盛だった[79]。
1970年3月期の売上高は146.9億円、営業利益22.9億円、経常利益14.7億円、当期純利益8.0億円で、従業員は806名だった[80]。1974年3月期には売上高352.3億円、経常利益49.1億円、当期純利益22.7億円に達し、売上高は1970年3月期の2.4倍に伸びた[81]。1975年3月期は売上高312.7億円、経常利益26.7億円、当期純利益13.4億円へ落ち、従業員は743名に減った[82]。段ボール原紙のメーカーは1973年の第1次石油ショックの後に大変な苦しみを受け、高成長のころから激化していた過当競争のとがめもあって、同業者のなかには債務超過に陥る会社も出た[83]。
主工場の尼崎工場の合理化を摂津板紙が計画したのは、不況のどん底だった1976年で[84]、総額80億円を投じて1979年上半期までにすべて完了した[85]。次の課題は、1973年以降は設備投資も合理化も行っていない埼玉県の東京工場の最新鋭化[86]。摂津板紙は隣接地に工場を建てて生産性の高い機械を入れる計画を立て、総額100億円ほどを見込み、1981年ごろに始めて1982年いっぱいで完成させる予定を置いた[87]。増田芳久社長は、設備投資はリズムをとりタイミングよくやることが大事であり、そうしないと技術者などの気持ちを殺し工場が死んでしまう[88]ため、操業率が低いときでもやるべき時期にはやらなければならないと述べた[89]。
従業員数は1974年3月期の850人から1980年3月期の726人へ減り[90]、同じ6年で売上高は352億円から506億円へ72%伸び[91]、資本金は18億7,000万円から35億円へ87%増えた[92]。自己資本も120億円から206億円へ72%増え[93]、自己資本比率は26.2%から34.1%へ高まった[94]。生産量は20%伸び、従業員1人当たりの売上高は4,100万円から7,000万円となった[95]。増田芳久社長は、損益分岐点は現状で50%操業でもまだ十分やっていける水準にあるとし[96]、板紙は市況の変動が激しいため情勢の先行きを的確にとらえて素早く対応することが大事であり、なによりも柔軟性が必要だとも語った[97]。
摂津板紙は日本の製紙会社のうち、売上高で12番目、生産販売量で7番目に付けた[98]。原料には屑紙を大量に使い、板紙工場が東京と大阪という屑紙の二大発生地に立地していたため、集荷に恵まれていた[99]。1979年度に摂津板紙が使った屑紙は45万トンにのぼって世界一にあたり[100]、これに対しウッドチップの使用量は20万トンで、屑紙の半分以下にとどまった[101]。屑紙はもともと板紙メーカーだけが使う原料だったが、新聞用紙にも約20%混入するなど大手製紙メーカーもかなり使うようになり、増田芳久社長は楽観はできないとした[102]。
増田芳久社長は、日本の製紙業がまったく国際競争力を持たないことを問題として挙げ[103]、紙については国産品価格との比較で1ドル360円の為替レートでちょうどよいくらいだと述べた[104]。一方で、日本は紙の消費地として世界で2番目を占めていた[105]。産業構造審議会のデータでも、1979年の消費量1,800万トンが10年後には2,700万トンになるとされ、その約45%が板紙だった[106]。摂津板紙の製品別売上は1985年3月期で板紙が530.29億円、段ボールが102.09億円で、板紙が83.9%、段ボールが16.1%を占めた[107]。
摂津板紙は以前からシンガポールの木材団地の真ん中にチップ工場を作り、南方材を導入していた[108]。これに加えて着手したのが、ノース・ボルネオのブルネイでの資源開発で[109]、同国との付き合いは15年ほど前から続いた[110]。産油国でありながらいずれ石油がなくなったらどうしようかと考えていた同国に、増田芳久社長は植林して木を育てパルプ・紙にするリサイクル体制をとるようすすめた[111]。基本的な同意を得たのは1974年で[112]、その後の不況で話は中断したが、1980年7月に増田芳久社長が同国を訪ね、1981年あたりからの具体化を見込んだ[113]。
計画の第一段階は、ブルネイから譲り受けた20万エーカーのコンセッションの木を伐り、良いところは製材し、廃材をチップにして日本の工場へ持ち帰ることに置いた[114]。摂津板紙は伐採と並行して植林も指導し[115]、試験植林に使ったのはジャイアント・イピルイピルという豆科の植物で、この木は5年間でパルプ用材として適正に育つ[116]。資金計画は最初の段階で20億円ほどで、摂津板紙はそのうち6億円を出した[117]。海外ではこのほか、アメリカの製紙会社から日本市場に紙を売るために提携したいという申し入れを受け、検討していた[118]。
増田芳久社長は当面の目標として年間売上高1,000億円、経常利益100億円を掲げ[119]、1981年3月期については通期の売上高670〜680億円、順調なら700億円超、経常利益40億円以上を見込んだ[120]。実際の売上高は1980年3月期の505.7億円から1981年3月期601.3億円、1985年3月期632.4億円へ伸びた[121]。経常利益は同じ3期で22.4億円、81.0億円、75.6億円と動き[122]、1985年3月期の従業員は743名を数えた[123]。同期の大株主は大和証券14,282千株、大同生命8,074千株、住友銀行7,057千株、住友信託6,885千株で、1975年3月期に5,968千株で筆頭だった増田義雄氏の名は上位から消えた[124][125]。
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|---|---|---|---|---|
| 1947〜1958年大手が軽視した段ボール中芯原紙と年産42,590トンの足場 | 増田義雄 | 摂津板紙を設立 | ★★ | |
| 増田義雄 | 段ボール中芯原紙の抄造を開始 | ★★ | ||
| 増田義雄 | 黄板紙の抄造を開始 | ★ | ||
| 増田義雄 | 摂津紙業と相互紙器を吸収合併 | ★★ | ||
| 増田義雄 | チップボールの抄造を開始 | ★ | ||
| 1959〜1975年故紙の再生から段ボール箱まで、22億円で通した一貫生産 | 増田義雄 | ケミグランドパルプの生産を開始 | ★★ | |
| 増田義雄 | コルゲートマシンの新設で段ボール事業に参入 | ★★★ | ||
| 増田義雄 | 段ボールライナーの抄造を開始 | ★★ | ||
| 増田義雄 | 原料パルプから包装ケースまでの一貫体制を確立 | ★★★ | ||
| 増田義雄 | 大阪証券取引所第2部に上場 | ★ | ||
| 増田義雄 | 東京工場の建設に着手 | ★ | ||
| 増田義雄 | 伊丹工場の建設に着手 | ★ | ||
| 増田義雄 | 大阪証券取引所第1部に指定替え | ★ | ||
| 増田義雄 | 伊丹工場が完成 | ★ | ||
| 1976〜1987年不況を合理化に使い、屑紙45万トンで世界一へ | 増田芳久 | セッツに商号変更 | ★★ | |
| レンゴーとの合併契約書に調印 | ★★★ | |||
| 段ボール部門をセッツカートンとして分社 | ★★ | |||
| 株式が上場廃止 | ★ | |||
| レンゴーに吸収合併され社名消滅 | ★★★ |
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事実根拠:出所(セッツ)