セッツ の歴史

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創業 1947年
創業者 増田義雄
創業地 兵庫県尼崎市
創業
1947年11月、増田義雄氏が兵庫県尼崎市杭瀬で摂津板紙を設立した。1922年から板紙業を営み、戦前は今福製紙などの工場を経営した末に、戦時中に大同製鋼が買収していた美作製紙杭瀬工場を譲り受けて出発した。資本金500万円、製造の目的は黄板紙と段ボール中芯原紙の2品目だけだった。当時の板紙は紙函用の厚板紙が好況で、段ボール用の黄中芯原紙は利潤が薄いと軽視されており、参入の時期は悪かった。ただし占領米軍が資材を段ボール箱で持ち込んだことから木箱からの置き換えが始まり、レンゴーの前身が明治末に国産化したこの品目の需要は、その後10年にわたって伸びた。
決断
大手が捨てた原料と品目に張り付き、その先を自前で持った。1958年度から原料から紙器までを自社で通す計画に入り、1959年4月にケミグランドパルプの生産、8月に大阪工場のコルゲートマシンで段ボール加工へ入り、1960年6月のライナー抄造で一貫体制が揃った。資金は22億円である。ただしパルプの自製を本格化する計画は中止し、故紙と廃材を主原料に据えたまま加工度を上げる方針へ切り替えた。1976年、不況のどん底で尼崎工場に80億円の合理化を決めたのも同じで、故紙の集荷に恵まれた立地の会社だけが取れる原価の設計だった。
現況
セッツという会社はもう無い。1986年10月に商号を摂津板紙からセッツへ改めたが、原紙が主で加工が従という形は変わらず、最後に確認できる1985年3月期の売上高632億円は板紙83.9%、段ボール16.1%だった。1998年8月にレンゴーと合併契約を結び、1999年3月に段ボール部門をセッツカートンとして分社したうえで上場を廃止し、翌4月にレンゴーに吸収合併された。法人も社名も残らなかったが、創業時に譲り受けた杭瀬の工場はレンゴーの尼崎工場、八潮の工場は同社の八潮工場として現在も板紙を抄き、段ボールは伊丹のセッツカートンが継いでいる。
競合
競った相手が、最後にこの会社を吸収した。大手製紙が板紙も馬ふん紙も格の低い商売と見て手を出さず、摂津板紙は故紙を主原料とする下級板紙で第1位を取り、系列にも属さず住友商事三菱商事を窓口にした。加工の側では原紙から製品までを一つの会社へ統合したレンゴーが先行し、1980年3月期にはレンゴーの第3位株主が摂津板紙で7.93%、1985年3月期には摂津板紙の第6位株主がレンゴーだった。屑紙も板紙メーカーだけのものではなくなり、大手が新聞用紙に約20%混ぜ始める。1996年の王子製紙と本州製紙の合併に続く再編が来たとき、安く集めた故紙で下級板紙を抄くという足場は、もう競争力ではなくなっていた。
長期業績の推移 1949〜1999年
セッツ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1957年3月期1985年3月期

創業ストーリー 大手が軽視した段ボール中芯原紙と年産42,590トンの足場 (1947年〜)

大手が軽視した段ボール中芯原紙と年産42,590トンの足場

創業ストーリー(1)

美作製紙杭瀬工場を譲り受けた資本金500万円の出発

創業者の増田義雄氏は1922年に板紙業を始め、戦前は今福製紙株式会社や昭栄製紙株式会社などの板紙工場を経営していた[1]。戦後、戦時中に鉄かぶと工場の用地として大同製鋼株式会社が買収していた美作製紙株式会社杭瀬工場を、同社から譲り受けた[2]。1947年11月28日、黄板紙と段ボール中芯原紙の製造を目的に、資本金500万円を全額払い込んで摂津板紙を設立した[3][4]。本社は本社工場を併設した尼崎市杭瀬字中ノ島1に置き[5]、社章には戦前に同じ場所で操業していた美作製紙が使っていたマークをそのまま引き継いだ[6]

  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [1]増田義雄は1922年に板紙業を始め、戦前は今福製紙株式会社、昭栄製紙株式会社などの板紙工場を経営していた
    • [2]戦後、戦時中に鉄かぶと工場用地として大同製鋼株式会社が買収していた美作製紙株式会社杭瀬工場を同社から譲り受けた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [3]1947年11月28日に黄板紙と段ボール中芯原紙の製造を目的として資本金500万円(全額払込済)で摂津板紙を設立した
    • [5]本社は尼崎市杭瀬字中ノ島1にあり、本社工場を併設していた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
    • [4]摂津板紙は1947年11月に資本金500万円で設立された
    • [6]戦前に現本社所在地にあった美作製紙が使用していたマークをそのまま使用している

設立当初の製品は馬ふん紙で、黄色く、馬ふんを固めたような紙は小学校の手工やメンコなどに使われた[7]。この馬ふん紙製造の最大手は当時北越製紙で[8]、1940年代後半は板紙の売れない時期でもあり、大手の製紙会社は板紙にも馬ふん紙にも手を出さず、格の低い商売だという見方が業界に広がっていた[9]。摂津板紙が抄く紙は、設立の目的に掲げた黄板紙と段ボール中芯原紙の2品目に絞られ[10]、大手と同じ品目には向かわなかった。1948年4月には杭瀬の本社工場で第1号抄紙機を完成させ、大手の来ない段ボール中芯原紙の抄造に入った[11]

  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [7]当初の製品は馬ふん紙で、黄色い、馬ふんを固めたような紙。小学校の手工やメンコなどに使われた
    • [8]当時の馬ふん紙製造の最大手は北越製紙だった
    • [9]1940年代後半は板紙の売れない時期で、大手製紙会社は板紙・馬ふん紙に手を出さず、下級な商売だという見方が一般的だった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [10]摂津板紙は黄板紙と段ボール中芯原紙の製造を目的として設立された
    • [11]1948年4月に第1号抄紙機を完成し、段ボール中芯原紙の抄造を開始した
  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [1]増田義雄は1922年に板紙業を始め、戦前は今福製紙株式会社、昭栄製紙株式会社などの板紙工場を経営していた
    • [2]戦後、戦時中に鉄かぶと工場用地として大同製鋼株式会社が買収していた美作製紙株式会社杭瀬工場を同社から譲り受けた
    • [7]当初の製品は馬ふん紙で、黄色い、馬ふんを固めたような紙。小学校の手工やメンコなどに使われた
    • [8]当時の馬ふん紙製造の最大手は北越製紙だった
    • [9]1940年代後半は板紙の売れない時期で、大手製紙会社は板紙・馬ふん紙に手を出さず、下級な商売だという見方が一般的だった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [3]1947年11月28日に黄板紙と段ボール中芯原紙の製造を目的として資本金500万円(全額払込済)で摂津板紙を設立した
    • [5]本社は尼崎市杭瀬字中ノ島1にあり、本社工場を併設していた
    • [10]摂津板紙は黄板紙と段ボール中芯原紙の製造を目的として設立された
    • [11]1948年4月に第1号抄紙機を完成し、段ボール中芯原紙の抄造を開始した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
    • [4]摂津板紙は1947年11月に資本金500万円で設立された
    • [6]戦前に現本社所在地にあった美作製紙が使用していたマークをそのまま使用している
創業ストーリー(2)

大手が軽視した段ボール用黄中芯原紙という選択

設立当時の板紙市場では、一般紙函用の厚板紙の需要が盛んで、業界は好況にあった[12]。これに対し、段ボール用の黄中芯原紙は利潤が比較的薄く、生産は軽視されており、摂津板紙がこの分野へ進んだ時期は悪かった[13]。ところが占領米軍が資材を段ボール箱で持ち込んだことから、それまでの木箱に代わって段ボール箱が急速に普及しはじめ、需要側の変化によって板紙、とくに段ボール用の板紙は前途洋々だと言われるようになった[14]。軽視されていた品目の需要はその後10年にわたって伸び、段ボールは1955年から1965年まで年28%の伸びを記録した[15]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
    • [12]設立当時は一般紙函用厚板紙の需要が盛んで好況だった
    • [13]比較的利潤の薄い段ボール用黄中芯原紙の生産は軽視されており、同社の同分野進出のタイミングは悪かった
  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [14]占領米軍が段ボール箱で資材を持ち込んだことから、それまでの木箱に代わって段ボール箱が急速に普及しはじめ、板紙、とくに段ボール用の板紙は前途洋々たるものと言われるようになった
    • [15]段ボールは1955年から1965年までは28%の高成長を続けた

段ボール用中芯原紙への進出の遅さは、のちに利点へ変わった[16]。厚板紙の好況を追った各社が中芯原紙に設備を割かなかったため、需要が増えたときに供給できる会社は限られ、摂津板紙は段ボール用中芯原紙で独占商品の地位を得て[17]、この品目が会社の収益を支えた[18]。参入時に薄いとされた利潤を数量の伸びが埋め、売上高は1957年3月期の10.9億円から1958年3月期には12.8億円へ、1年で1.9億円増えた[19]。設立から10年あまりで、摂津板紙は大手が手を出さなかった2品目の紙だけで年商10億円台の会社になった[20]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
    • [16]段ボール用黄中芯原紙の生産が軽視されていたことが後に利点となった
    • [17]段ボール用中芯原紙に関して独占商品の地位を得た
    • [18]段ボール用中芯原紙の独占商品の地位によって同社の基礎が固まった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [19]売上高は1957年3月期10.9億円、1958年3月期12.8億円だった
    • [20]1947年11月設立の摂津板紙の売上高は1958年3月期で12.8億円だった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
    • [12]設立当時は一般紙函用厚板紙の需要が盛んで好況だった
    • [13]比較的利潤の薄い段ボール用黄中芯原紙の生産は軽視されており、同社の同分野進出のタイミングは悪かった
    • [16]段ボール用黄中芯原紙の生産が軽視されていたことが後に利点となった
    • [17]段ボール用中芯原紙に関して独占商品の地位を得た
    • [18]段ボール用中芯原紙の独占商品の地位によって同社の基礎が固まった
  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [14]占領米軍が段ボール箱で資材を持ち込んだことから、それまでの木箱に代わって段ボール箱が急速に普及しはじめ、板紙、とくに段ボール用の板紙は前途洋々たるものと言われるようになった
    • [15]段ボールは1955年から1965年までは28%の高成長を続けた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [19]売上高は1957年3月期10.9億円、1958年3月期12.8億円だった
    • [20]1947年11月設立の摂津板紙の売上高は1958年3月期で12.8億円だった
創業ストーリー(3)

抄紙機6台と従業員1人当たり売上高65万円

抄紙機は毎年のように増え、1949年4月に第2号抄紙機を完成して紙函用の黄板紙の抄造を始め[21][22]、1950年5月には第3号抄紙機でルーフイング原紙を加えた[23]。1951年1月には摂津紙業と相互紙器の2社を吸収合併し、資本金は750万円になった[24]。1952年3月に第4号抄紙機を新設して中芯原紙を増産し[25]、1953年7月の第5号抄紙機ではチツプボールの抄造に入り[26]、1956年10月には第6号抄紙機を新設して黄中芯原紙を増産した[27]。生産品種と生産高は逐年増大し、1957年度の生産は42,590トンにのぼった[28]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [21]1949年4月に第2号抄紙機を完成し、黄板紙(紙函用)の抄造を開始した
    • [23]1950年5月に第3号抄紙機を完成し、ルーフイング原紙の抄造を開始した
    • [24]1951年1月に摂津紙業と相互紙器を吸収合併し、資本金は750万円になった
    • [25]1952年3月に第4号抄紙機を新設し、中芯原紙を増産した
    • [26]1953年7月に第5号抄紙機を新設し、チツプボールの抄造を開始した
    • [27]1956年10月に第6号抄紙機を新設し、黄中芯原紙を増産した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
    • [22]第2号抄紙機の完成により紙函用の黄板紙の抄造を開始した
    • [28]1950年から1956年にかけて第3号から第6号抄紙機を逐次増設した結果、生産品種・生産高は逐年増大し、1957年度には42,590トンに達した

資本金も設備に合わせて積み上がり、1951年6月に1,000万円、1954年1月と6月には現物出資でそれぞれ4,000万円と7,000万円、同年9月に9,100万円、1955年9月には1億円へ増えた[29]。設立時の500万円から8年で20倍となった[30]。増田義雄社長は徹底的な機械化でコストを下げて能率を上げ、従業員1人当たりの売上高を他社の3倍にあたる65万円まで引き上げ、さらにその3倍の90万円を目標に置いた[31]。設備では我が国初のアスプルンド式CGPプラントをスウェーデンから輸入し、自社設計による世界一のヤンキードライヤーを備えた[32]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [29]資本異動は1951年6月1日1,000万円、1954年1月1日4,000万円(現物出資)、1954年6月1日7,000万円(現物出資)、1954年9月1日9,100万円、1955年9月1日1億円
    • [30]資本金は1947年11月の設立時500万円から1955年9月1日に1億円になった
  • 野田経済 1960年8月8日号
    • [31]徹底的な機械化でコストの引き下げと能率の向上を図り、従業員1人当たりの売上高は65万円と他社の3倍で、今後は3倍の90万円を目標にしていた
    • [32]我が国初のアスプルンド式CGPプラントをスウェーデンから輸入し、自社設計による世界一のヤンキードライヤーを持っていた

増田義雄社長は朝出社するとすぐナツパ服に着換えて仕事場へ出向き、工員は役職名ではなくオヤジサンと呼び[33]、夜も一人で7時8時まで設計図に向かった[34]。摂津板紙に労働組合は組織されておらず、工員と同じ場所で働くことがその一因とみられていたが[35]、増田義雄社長は組合をはきちがえないなら大いに賛成だと述べた[36]。基本方針は2割安く作って1割安く売ることに置き、経営者と従業員とマーケットの三者がそろえば製品は自然に売れるという考えと結びついていた[37]。1958年、増田義雄社長は企業百年の計という大目的を立て、体質改善を進めた[38]

  • 野田経済 1960年8月8日号
    • [33]平常は朝来ると早速ナツパ服に着換えて仕事場に出向き、工員は専務と呼ばずに「オヤジサン」と呼んでいた
    • [34]夜も一人で7時8時まで設計図に向かっていた
    • [35]工員と共に働き、夜も一人で設計図に向かっていることが、摂津板紙に組合のない原因ともなっていると評されていた
    • [36]増田義雄は、組合をはきちがえないようだったら大いに賛成だと述べた
    • [37]基本方針は「二割安く作つて一割安く売る」で、経営者と従業員とマーケットの三者がそろえば製品は自然に売れるという考えと結びついていた
    • [38]1958年から「企業百年の計」という大目的を立てて体質改善を進めていた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [21]1949年4月に第2号抄紙機を完成し、黄板紙(紙函用)の抄造を開始した
    • [23]1950年5月に第3号抄紙機を完成し、ルーフイング原紙の抄造を開始した
    • [24]1951年1月に摂津紙業と相互紙器を吸収合併し、資本金は750万円になった
    • [25]1952年3月に第4号抄紙機を新設し、中芯原紙を増産した
    • [26]1953年7月に第5号抄紙機を新設し、チツプボールの抄造を開始した
    • [27]1956年10月に第6号抄紙機を新設し、黄中芯原紙を増産した
    • [29]資本異動は1951年6月1日1,000万円、1954年1月1日4,000万円(現物出資)、1954年6月1日7,000万円(現物出資)、1954年9月1日9,100万円、1955年9月1日1億円
    • [30]資本金は1947年11月の設立時500万円から1955年9月1日に1億円になった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
    • [22]第2号抄紙機の完成により紙函用の黄板紙の抄造を開始した
    • [28]1950年から1956年にかけて第3号から第6号抄紙機を逐次増設した結果、生産品種・生産高は逐年増大し、1957年度には42,590トンに達した
  • 野田経済 1960年8月8日号
    • [31]徹底的な機械化でコストの引き下げと能率の向上を図り、従業員1人当たりの売上高は65万円と他社の3倍で、今後は3倍の90万円を目標にしていた
    • [32]我が国初のアスプルンド式CGPプラントをスウェーデンから輸入し、自社設計による世界一のヤンキードライヤーを持っていた
    • [33]平常は朝来ると早速ナツパ服に着換えて仕事場に出向き、工員は専務と呼ばずに「オヤジサン」と呼んでいた
    • [34]夜も一人で7時8時まで設計図に向かっていた
    • [35]工員と共に働き、夜も一人で設計図に向かっていることが、摂津板紙に組合のない原因ともなっていると評されていた
    • [36]増田義雄は、組合をはきちがえないようだったら大いに賛成だと述べた
    • [37]基本方針は「二割安く作つて一割安く売る」で、経営者と従業員とマーケットの三者がそろえば製品は自然に売れるという考えと結びついていた
    • [38]1958年から「企業百年の計」という大目的を立てて体質改善を進めていた

故紙の再生から段ボール箱まで、22億円で通した一貫生産

創業ストーリー(4)

1960年に完成した原料パルプからパッキングケースまで

摂津板紙は1958年度から、原紙を抄いて売るだけの会社から、原料の調達と最終製品の加工までを自社で通す会社へ組み替えるため、原料パルプから段ボール紙器に至る一貫体制を確立する計画を立てた[39]。1959年4月、原料の自給体制の一環としてケミグランドパルプ(CGP)の生産を始め[40]、同年7月には第7号抄紙機を新設して、このCGPを使ったパルプ中芯原紙の抄造に入った[41]。同年8月には大阪工場にコルゲートマシンを新設して段ボールの分野へ進出した[42]。この大阪工場は、1955年に大極東製紙から買収した設備である[43]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
    • [39]摂津板紙は1958年度から原料パルプから段ボール紙器に至る一貫体制確立の計画を立てた
    • [43]大阪工場は1955年に大極東製紙から買収した工場である
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [40]1959年4月に原料自給体制の一環としてケミグランドパルプ(CGP)の生産を開始した
    • [41]1959年7月に第7号抄紙機を新設しCGPを使用してパルプ中芯原紙の抄造を開始した
    • [42]1959年8月に大阪工場にコルゲートマシンを新設し段ボール分野に進出した

1960年6月、大阪工場に抄紙機2台を新設して耐火ボード原紙の抄造を始めた[44]。同じ月に本社工場の従来の3号抄紙機を撤去し、大型の新3号機を据えて段ボールライナーの抄造を開始し、原料パルプから最終製品のパッキングケースまでの一貫体制を確立した[45]。体質改善は2期に分かれ、第1期は1960年5月に段ボールライナーの抄造を始めて一貫体制が揃った時点で終わり、所要資金は22億円にのぼった[46]。第2期は1961年6月から着手し、段ボール工場を新設し、装置を据え付け、抄紙機を改造して本社工場内に鉄筋4階建ての設備を建て、月産能力を当時の倍の3,000トンに引き上げる内容で、所要資金は10億円だった[47]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [44]1960年6月に大阪工場に抄紙機2台を新設し耐火ボード原紙の抄造を開始した
    • [45]1960年6月に本社工場の3号機を撤去して新3号抄紙機を新設し段ボールライナーの抄造を開始、原料パルプよりパッキングケースまでの一貫体制を確立した
  • 野田経済 1961年10月9日号
    • [46]体質改善計画の第一期工事は1960年5月に段ボールライナーの抄造を始めて一貫体制を確立したところで終わり、所要資金は22億円だった
    • [47]第二期工事は1961年6月から着手し、段ボール工場の新設・装置・抄紙機の改造で本社工場内に鉄筋4階建ての設備を作り月産能力を倍の3,000トンにする内容で、所要資金は10億円だった

1961年4月、摂津板紙は既存の生産設備を拡充・合理化する工事に着手し、生産量を増やすとともに製品の等級を上げた[48]。1962年3月には段ボール中芯原紙とライナーからパッキングケースまでを一貫して生産する目的で兵庫県伊丹に伊丹工場を着工し[49]、前後して埼玉県八潮でも東京工場の建設に入った[50]。伊丹工場は1963年4月に完成し、大阪工場の段ボール設備を移設してただちに操業を開始した[51]。1963年4月末の事業所は本社工場、大阪工場、伊丹工場、東京工場の4か所で[52]、段ボール原紙を抄く尼崎の本社工場が319名、耐火ボード原紙の大阪工場が57名、段ボールの伊丹工場が148名、東京工場は建設中だった[53]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [48]1961年4月に既存生産設備の拡充・合理化工事に着手し、生産の増加と製品の高級化を図った
    • [49]1962年3月に段ボール中芯原紙・ライナーからパッキングケースまでの一貫生産を目的に兵庫県伊丹で伊丹工場の建設に着手した
    • [50]伊丹工場と前後して埼玉県八潮に東京工場の建設に着手した
    • [51]1963年4月に伊丹工場を完成し、大阪工場の段ボール設備を移設して直ちに操業を開始した
    • [52]1963年4月末の事業所は本社工場・大阪工場・伊丹工場・東京工場の4か所だった
    • [53]本社工場(尼崎市・段ボール原紙・319名)、大阪工場(耐火ボード原紙・57名)、伊丹工場(伊丹市・段ボール・148名)、東京工場(埼玉県・建設中)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
    • [39]摂津板紙は1958年度から原料パルプから段ボール紙器に至る一貫体制確立の計画を立てた
    • [43]大阪工場は1955年に大極東製紙から買収した工場である
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [40]1959年4月に原料自給体制の一環としてケミグランドパルプ(CGP)の生産を開始した
    • [41]1959年7月に第7号抄紙機を新設しCGPを使用してパルプ中芯原紙の抄造を開始した
    • [42]1959年8月に大阪工場にコルゲートマシンを新設し段ボール分野に進出した
    • [44]1960年6月に大阪工場に抄紙機2台を新設し耐火ボード原紙の抄造を開始した
    • [45]1960年6月に本社工場の3号機を撤去して新3号抄紙機を新設し段ボールライナーの抄造を開始、原料パルプよりパッキングケースまでの一貫体制を確立した
    • [48]1961年4月に既存生産設備の拡充・合理化工事に着手し、生産の増加と製品の高級化を図った
    • [49]1962年3月に段ボール中芯原紙・ライナーからパッキングケースまでの一貫生産を目的に兵庫県伊丹で伊丹工場の建設に着手した
    • [50]伊丹工場と前後して埼玉県八潮に東京工場の建設に着手した
    • [51]1963年4月に伊丹工場を完成し、大阪工場の段ボール設備を移設して直ちに操業を開始した
    • [52]1963年4月末の事業所は本社工場・大阪工場・伊丹工場・東京工場の4か所だった
    • [53]本社工場(尼崎市・段ボール原紙・319名)、大阪工場(耐火ボード原紙・57名)、伊丹工場(伊丹市・段ボール・148名)、東京工場(埼玉県・建設中)
  • 野田経済 1961年10月9日号
    • [46]体質改善計画の第一期工事は1960年5月に段ボールライナーの抄造を始めて一貫体制を確立したところで終わり、所要資金は22億円だった
    • [47]第二期工事は1961年6月から着手し、段ボール工場の新設・装置・抄紙機の改造で本社工場内に鉄筋4階建ての設備を作り月産能力を倍の3,000トンにする内容で、所要資金は10億円だった
創業ストーリー(5)

故紙を主原料とする下級板紙で第1位

摂津板紙は、パルプから造る高級板紙を避け、もっぱら故紙を利用する下級板紙に重点を置いた[54]。故紙を主原料とし、そこへ自社で生産するケミグランドパルプやセミケミカルパルプを補助として加える、故紙の再生会社である[55]。戦後の新興会社でありながら板紙業界の中堅どころに伸び、下級板紙の分野では第1位を占めた[56]。得意商品はチップボールと耐火ボード原紙で[57]、1962年3月期の製品別売上構成は、チップボール25.2%、表ライナー21.0%、パルプ中芯原紙14.9%、段ボール14.4%、黄中芯原紙9.6%、耐火ボード原紙9.1%となった[58]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [54]パルプから造る高級板紙を避け、もっぱら故紙利用の下級板紙に重点を置いた
    • [55]故紙を主原料とし自社生産のケミグランドパルプやセミケミカルパルプを補助に加える故紙の再生会社である
    • [56]戦後の新興会社だが板紙業界の中堅どころに発展し、とくに下級板紙の分野では第1位である
    • [57]製品のなかでもチップボールや耐火ボード原紙が得意商品である
  • 会社年鑑(1963年版)
    • [58]1962年3月期の製品別売上構成はチップボール25.2%、表ライナー21.0%、パルプ中芯原紙14.9%、段ボール14.4%、黄中芯原紙9.6%、耐火ボード原紙9.1%だった

摂津板紙には本格的なパルプからの一貫生産という計画もあったが、これを中止し、あくまで特色を生かして今後は加工度を上げる方針に切り替えた[59]。廃物である故紙と廃材の利用に妙味を発揮し、工場立地のよいことを強みとした[60]。故紙の集荷という点で立地条件のよい工場を持つことが、成長の原動力として働いた[61]。加工度を上げる方針は製品構成に表れ、1970年3月期の売上構成は段ボール原紙パルプ芯33.8%、段ボール21.2%、段ボール原紙ライナー10.1%、チップボール8.3%、白ボール8.0%、耐火ボード原紙7.6%、紙管原紙7.1%となった[62]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [59]本格的パルプからの一貫生産という計画を中止し、特色を生かして加工度をあげてゆくことを経営の方針とした
    • [60]廃物(故紙・廃材)利用に妙味を発揮し、工場立地のよいことが強みである
    • [61]故紙の集荷という点で立地条件のよい工場を持つことが成長の原動力である
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [62]1970年3月期の製品別構成は段ボール原紙パルプ芯33.8%、段ボール21.2%、段ボール原紙ライナー10.1%、チップボール8.3%、白ボール8.0%、耐火ボード原紙7.6%、紙管原紙7.1%だった

摂津板紙はどの系列にも属さなかったが、住友商事三菱商事が大株主に加わり、この2社が販売の大きな窓口になっていた[63]。とくに住友との関係が深く、主取引銀行には住友、興銀、神戸、長銀、三和が並んだ[64]。1963年3月末の大株主は、創業者の増田義雄氏が2,269,440株で16.2%、住友商事が1,590,000株で11.4%、大同生命が945,000株で6.8%、三菱商事が300,000株で2.1%を占めた[65]。住友、三菱という有力なバックがあり、金融と販売の両面で不安がないと評され[66]、1963年には、数期にわたり無配を続けていた日本製紙の再建に増田義雄社長が乗り出すとみられると報じられた[67]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [63]系列に属さないが住友商事と三菱商事が大株主に加わり、この2社が販売の大きな窓口になっていた
    • [64]とくに住友との関係が深く、主取引銀行は住友・興銀・神戸・長銀・三和である
    • [65]1963年3月末の大株主は増田義雄2,269,440株(16.2%)、住友商事1,590,000株(11.4%)、大同生命945,000株(6.8%)、三菱商事300,000株(2.1%)だった
  • 野田経済 1961年10月9日号
    • [66]住友、三菱という有力なバックがあり、金融・販売面ともに不安がないと評された
  • 野田経済 1963年3月18日号
    • [67]1963年、数期にわたり無配を続けていた日本製紙の再建に摂津板紙の増田社長が乗り出すことになったとみられると報じられた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [54]パルプから造る高級板紙を避け、もっぱら故紙利用の下級板紙に重点を置いた
    • [55]故紙を主原料とし自社生産のケミグランドパルプやセミケミカルパルプを補助に加える故紙の再生会社である
    • [56]戦後の新興会社だが板紙業界の中堅どころに発展し、とくに下級板紙の分野では第1位である
    • [57]製品のなかでもチップボールや耐火ボード原紙が得意商品である
    • [59]本格的パルプからの一貫生産という計画を中止し、特色を生かして加工度をあげてゆくことを経営の方針とした
    • [60]廃物(故紙・廃材)利用に妙味を発揮し、工場立地のよいことが強みである
    • [61]故紙の集荷という点で立地条件のよい工場を持つことが成長の原動力である
    • [63]系列に属さないが住友商事と三菱商事が大株主に加わり、この2社が販売の大きな窓口になっていた
    • [64]とくに住友との関係が深く、主取引銀行は住友・興銀・神戸・長銀・三和である
    • [65]1963年3月末の大株主は増田義雄2,269,440株(16.2%)、住友商事1,590,000株(11.4%)、大同生命945,000株(6.8%)、三菱商事300,000株(2.1%)だった
  • 会社年鑑(1963年版)
    • [58]1962年3月期の製品別売上構成はチップボール25.2%、表ライナー21.0%、パルプ中芯原紙14.9%、段ボール14.4%、黄中芯原紙9.6%、耐火ボード原紙9.1%だった
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [62]1970年3月期の製品別構成は段ボール原紙パルプ芯33.8%、段ボール21.2%、段ボール原紙ライナー10.1%、チップボール8.3%、白ボール8.0%、耐火ボード原紙7.6%、紙管原紙7.1%だった
  • 野田経済 1961年10月9日号
    • [66]住友、三菱という有力なバックがあり、金融・販売面ともに不安がないと評された
  • 野田経済 1963年3月18日号
    • [67]1963年、数期にわたり無配を続けていた日本製紙の再建に摂津板紙の増田社長が乗り出すことになったとみられると報じられた
創業ストーリー(6)

大阪証券取引所第1部への指定替えと352億円の売上高

摂津板紙の株式が東京の店頭で公開されたのは1961年1月4日で、それ以前は大阪の店頭にあった[68]。同年10月2日には大阪証券取引所第2部へ上場し[69]、第1部への指定替えは1963年2月1日に決まった[70]。設備投資と歩調を合わせて売上高も伸び、1959年3月期の11.2億円から1960年3月期18.3億円、1961年3月期25.1億円へ増え[71]、1962年3月期は34.0億円で当期純利益1.4億円、1963年3月期は38.4億円で当期純利益1.7億円だった[72]。1963年3月期の従業員は529名、平均年齢は28.3歳で、労働組合は組織されていなかった[73]

  • 野田経済 1961年10月9日号
    • [68]摂津板紙が東京店頭に公開されたのは1961年1月4日で、その前は大阪店頭にあった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [69]1961年10月2日に大阪証券取引所第2部に上場した
    • [70]1963年2月1日に大阪証券取引所第1部に指定替えした
    • [72]1962年3月期の売上高34.0億円・当期純利益1.4億円、1963年3月期の売上高38.4億円・当期純利益1.7億円
    • [73]1963年3月期の従業員は529名、平均年齢28.3歳で、労働組合は組織されていなかった
  • 会社年鑑(1963年版)
    • [71]売上高は1959年3月期11.2億円、1960年3月期18.3億円、1961年3月期25.1億円だった

売上高は1964年3月期に49.4億円、1965年3月期に59.6億円へ伸びたが、1966年3月期は56.5億円に減り、営業利益4.6億円に対して経常利益は1.3億円、当期純利益は0.9億円にとどまった[74]。1966年に紙の市況が悪化して業績が落ち、市況の回復とともに上向いたため、摂津板紙は利益剰余金の積み増しを最優先に据えた[75]。1966年3月期の従業員は758名で[76]、1968年時点の資本金は10億5,000万円、従業員は798名に増えた[77]。東京工場には段ボール用の中芯原紙マシンを増設して順調に動かし[78]、家電業界の好況などで段ボールの需要は旺盛だった[79]

  • 会社年鑑(1967年版)
    • [74]売上高は1964年3月期49.4億円、1965年3月期59.6億円、1966年3月期56.5億円で、1966年3月期は営業利益4.6億円・経常利益1.3億円・当期純利益0.9億円だった
    • [76]1966年3月期の従業員は758名だった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
    • [75]1966年に紙の市況悪化で業績は悪化したが市況回復とともに上向き、利益剰余金の改善を最優先に体質強化中だった
    • [77]1968年時点の資本金は10億5,000万円、従業員は798名だった
    • [78]東京工場に段ボール用中芯原紙マシンを増設し稼働は順調だった
    • [79]家電業界のブームなどで段ボール需要は旺盛だった

1970年3月期の売上高は146.9億円、営業利益22.9億円、経常利益14.7億円、当期純利益8.0億円で、従業員は806名だった[80]。1974年3月期には売上高352.3億円、経常利益49.1億円、当期純利益22.7億円に達し、売上高は1970年3月期の2.4倍に伸びた[81]。1975年3月期は売上高312.7億円、経常利益26.7億円、当期純利益13.4億円へ落ち、従業員は743名に減った[82]。段ボール原紙のメーカーは1973年の第1次石油ショックの後に大変な苦しみを受け、高成長のころから激化していた過当競争のとがめもあって、同業者のなかには債務超過に陥る会社も出た[83]

  • 会社年鑑(1971年版)
    • [80]1970年3月期の売上高146.9億円、営業利益22.9億円、経常利益14.7億円、当期純利益8.0億円、従業員806名
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [81]1974年3月期の売上高352.3億円、経常利益49.1億円、当期純利益22.7億円
    • [82]1975年3月期の売上高312.7億円、経常利益26.7億円、当期純利益13.4億円、従業員743名
  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [83]段ボール原紙メーカーは1973年の第1次石油ショック後に大変な苦しみを受け、高成長時から激化した過当競争のとがめもあって同業者の多くが傷つき債務超過の会社もいくつか出た
  • 野田経済 1961年10月9日号
    • [68]摂津板紙が東京店頭に公開されたのは1961年1月4日で、その前は大阪店頭にあった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
    • [69]1961年10月2日に大阪証券取引所第2部に上場した
    • [70]1963年2月1日に大阪証券取引所第1部に指定替えした
    • [72]1962年3月期の売上高34.0億円・当期純利益1.4億円、1963年3月期の売上高38.4億円・当期純利益1.7億円
    • [73]1963年3月期の従業員は529名、平均年齢28.3歳で、労働組合は組織されていなかった
  • 会社年鑑(1963年版)
    • [71]売上高は1959年3月期11.2億円、1960年3月期18.3億円、1961年3月期25.1億円だった
  • 会社年鑑(1967年版)
    • [74]売上高は1964年3月期49.4億円、1965年3月期59.6億円、1966年3月期56.5億円で、1966年3月期は営業利益4.6億円・経常利益1.3億円・当期純利益0.9億円だった
    • [76]1966年3月期の従業員は758名だった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
    • [75]1966年に紙の市況悪化で業績は悪化したが市況回復とともに上向き、利益剰余金の改善を最優先に体質強化中だった
    • [77]1968年時点の資本金は10億5,000万円、従業員は798名だった
    • [78]東京工場に段ボール用中芯原紙マシンを増設し稼働は順調だった
    • [79]家電業界のブームなどで段ボール需要は旺盛だった
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [80]1970年3月期の売上高146.9億円、営業利益22.9億円、経常利益14.7億円、当期純利益8.0億円、従業員806名
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [81]1974年3月期の売上高352.3億円、経常利益49.1億円、当期純利益22.7億円
    • [82]1975年3月期の売上高312.7億円、経常利益26.7億円、当期純利益13.4億円、従業員743名
  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [83]段ボール原紙メーカーは1973年の第1次石油ショック後に大変な苦しみを受け、高成長時から激化した過当競争のとがめもあって同業者の多くが傷つき債務超過の会社もいくつか出た

不況を合理化に使い、屑紙45万トンで世界一へ

創業ストーリー(7)

不況のどん底の1976年に決めた80億円の尼崎工場合理化

主工場の尼崎工場の合理化を摂津板紙が計画したのは、不況のどん底だった1976年で[84]、総額80億円を投じて1979年上半期までにすべて完了した[85]。次の課題は、1973年以降は設備投資も合理化も行っていない埼玉県の東京工場の最新鋭化[86]。摂津板紙は隣接地に工場を建てて生産性の高い機械を入れる計画を立て、総額100億円ほどを見込み、1981年ごろに始めて1982年いっぱいで完成させる予定を置いた[87]。増田芳久社長は、設備投資はリズムをとりタイミングよくやることが大事であり、そうしないと技術者などの気持ちを殺し工場が死んでしまう[88]ため、操業率が低いときでもやるべき時期にはやらなければならないと述べた[89]

  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [84]摂津板紙は主工場の尼崎工場の合理化を不況のどん底であった1976年に計画した
    • [85]尼崎工場の合理化は総額80億円を投じ1979年上半期までにすべて完了した
    • [86]埼玉県の東京工場では1973年以降は設備投資も合理化も行っておらず、その最新鋭化が次の課題だった
    • [87]東京工場の最新鋭化は隣接地に工場を建てて生産性の高い機械を入れる計画で、総額100億円ぐらい、1981年ごろから始めて1982年いっぱいで完成の予定だった
    • [88]増田芳久社長は設備投資はリズムをとりタイミングよくやることが大事で、そうしないと技術者などの気持ちを殺し工場が死んでしまうと述べた
    • [89]増田芳久社長は操業率が低いときでもやるべき時期には設備投資をやらなければならないと述べた

従業員数は1974年3月期の850人から1980年3月期の726人へ減り[90]、同じ6年で売上高は352億円から506億円へ72%伸び[91]、資本金は18億7,000万円から35億円へ87%増えた[92]。自己資本も120億円から206億円へ72%増え[93]、自己資本比率は26.2%から34.1%へ高まった[94]。生産量は20%伸び、従業員1人当たりの売上高は4,100万円から7,000万円となった[95]。増田芳久社長は、損益分岐点は現状で50%操業でもまだ十分やっていける水準にあるとし[96]、板紙は市況の変動が激しいため情勢の先行きを的確にとらえて素早く対応することが大事であり、なによりも柔軟性が必要だとも語った[97]

  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [90]従業員数は1974年3月期の850人から1980年3月期には726人へ減少した
    • [91]売上高は1974年3月期の352億円から1980年3月期の506億円へ72%伸びた
    • [92]資本金は18億7,000万円から35億円へ87%増加した
    • [93]自己資本は120億円から206億円へ72%増加した
    • [94]自己資本比率は26.2%から34.1%へ高まった
    • [95]生産量は20%伸び、従業員1人当たりの売上高は4,100万円が7,000万円となった
    • [96]増田芳久社長は損益分岐点について現状なら50%操業でもまだ十分やっていけると答えた
    • [97]増田芳久社長は板紙は市況の変動が激しいので情勢の先行きを的確にとらえて素早く対応することが大事で、なによりも柔軟性が必要だと述べた
  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [84]摂津板紙は主工場の尼崎工場の合理化を不況のどん底であった1976年に計画した
    • [85]尼崎工場の合理化は総額80億円を投じ1979年上半期までにすべて完了した
    • [86]埼玉県の東京工場では1973年以降は設備投資も合理化も行っておらず、その最新鋭化が次の課題だった
    • [87]東京工場の最新鋭化は隣接地に工場を建てて生産性の高い機械を入れる計画で、総額100億円ぐらい、1981年ごろから始めて1982年いっぱいで完成の予定だった
    • [88]増田芳久社長は設備投資はリズムをとりタイミングよくやることが大事で、そうしないと技術者などの気持ちを殺し工場が死んでしまうと述べた
    • [89]増田芳久社長は操業率が低いときでもやるべき時期には設備投資をやらなければならないと述べた
    • [90]従業員数は1974年3月期の850人から1980年3月期には726人へ減少した
    • [91]売上高は1974年3月期の352億円から1980年3月期の506億円へ72%伸びた
    • [92]資本金は18億7,000万円から35億円へ87%増加した
    • [93]自己資本は120億円から206億円へ72%増加した
    • [94]自己資本比率は26.2%から34.1%へ高まった
    • [95]生産量は20%伸び、従業員1人当たりの売上高は4,100万円が7,000万円となった
    • [96]増田芳久社長は損益分岐点について現状なら50%操業でもまだ十分やっていけると答えた
    • [97]増田芳久社長は板紙は市況の変動が激しいので情勢の先行きを的確にとらえて素早く対応することが大事で、なによりも柔軟性が必要だと述べた
創業ストーリー(8)

屑紙45万トンとウッドチップ20万トンの原料構成

摂津板紙は日本の製紙会社のうち、売上高で12番目、生産販売量で7番目に付けた[98]。原料には屑紙を大量に使い、板紙工場が東京と大阪という屑紙の二大発生地に立地していたため、集荷に恵まれていた[99]。1979年度に摂津板紙が使った屑紙は45万トンにのぼって世界一にあたり[100]、これに対しウッドチップの使用量は20万トンで、屑紙の半分以下にとどまった[101]。屑紙はもともと板紙メーカーだけが使う原料だったが、新聞用紙にも約20%混入するなど大手製紙メーカーもかなり使うようになり、増田芳久社長は楽観はできないとした[102]

  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [98]摂津板紙は日本の製紙会社のうち売上高で12番目、生産販売量で7番目だった
    • [99]摂津板紙の板紙工場は東京・大阪という屑紙の二大発生地に立地しており屑紙の集荷に恵まれていた
    • [100]1979年度に使用した屑紙は45万トンで世界一だった
    • [101]ウッドチップの使用量は20万トンで屑紙の半分以下だった
    • [102]屑紙はもともと板紙メーカーだけで使っていたが新聞用紙にも約20%混入するなど大手製紙メーカーもかなり使うようになったので楽観はできないと増田芳久社長は述べた

増田芳久社長は、日本の製紙業がまったく国際競争力を持たないことを問題として挙げ[103]、紙については国産品価格との比較で1ドル360円の為替レートでちょうどよいくらいだと述べた[104]。一方で、日本は紙の消費地として世界で2番目を占めていた[105]。産業構造審議会のデータでも、1979年の消費量1,800万トンが10年後には2,700万トンになるとされ、その約45%が板紙だった[106]。摂津板紙の製品別売上は1985年3月期で板紙が530.29億円、段ボールが102.09億円で、板紙が83.9%、段ボールが16.1%を占めた[107]

  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [103]増田芳久社長は日本の製紙業がまったく国際競争力がないことを問題として挙げた
    • [104]増田芳久社長は紙に関しては国産品価格との比較で1ドル360円の為替レートでちょうどよいくらいだと述べた
    • [105]日本は紙の消費地として世界で2番目だった
    • [106]産業構造審議会のデータでは1979年の紙消費量1,800万トンが10年後には2,700万トンになるとされ、その約45%が板紙だった
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [107]1985年3月期の製品別売上は板紙530.29億円(83.9%)、段ボール102.09億円(16.1%)だった
  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [98]摂津板紙は日本の製紙会社のうち売上高で12番目、生産販売量で7番目だった
    • [99]摂津板紙の板紙工場は東京・大阪という屑紙の二大発生地に立地しており屑紙の集荷に恵まれていた
    • [100]1979年度に使用した屑紙は45万トンで世界一だった
    • [101]ウッドチップの使用量は20万トンで屑紙の半分以下だった
    • [102]屑紙はもともと板紙メーカーだけで使っていたが新聞用紙にも約20%混入するなど大手製紙メーカーもかなり使うようになったので楽観はできないと増田芳久社長は述べた
    • [103]増田芳久社長は日本の製紙業がまったく国際競争力がないことを問題として挙げた
    • [104]増田芳久社長は紙に関しては国産品価格との比較で1ドル360円の為替レートでちょうどよいくらいだと述べた
    • [105]日本は紙の消費地として世界で2番目だった
    • [106]産業構造審議会のデータでは1979年の紙消費量1,800万トンが10年後には2,700万トンになるとされ、その約45%が板紙だった
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [107]1985年3月期の製品別売上は板紙530.29億円(83.9%)、段ボール102.09億円(16.1%)だった
創業ストーリー(9)

ブルネイの20万エーカーと年商1,000億円の目標

摂津板紙は以前からシンガポールの木材団地の真ん中にチップ工場を作り、南方材を導入していた[108]。これに加えて着手したのが、ノース・ボルネオのブルネイでの資源開発で[109]、同国との付き合いは15年ほど前から続いた[110]。産油国でありながらいずれ石油がなくなったらどうしようかと考えていた同国に、増田芳久社長は植林して木を育てパルプ・紙にするリサイクル体制をとるようすすめた[111]。基本的な同意を得たのは1974年で[112]、その後の不況で話は中断したが、1980年7月に増田芳久社長が同国を訪ね、1981年あたりからの具体化を見込んだ[113]

  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [108]摂津板紙は以前からシンガポールの木材団地の真ん中にチップ工場を作って南方材を導入していた
    • [109]摂津板紙はノース・ボルネオのブルネイで資源開発を進めていた
    • [110]ブルネイとは15年ほど前からの付き合いだった
    • [111]産油国だがいずれ石油がなくなったらどうしようかと思っているブルネイに植林して木を育てパルプ・紙にするリサイクル体制をとるようすすめた
    • [112]ブルネイから基本的な同意を得たのは1974年だった
    • [113]その後の不況で話を中断していたが1980年7月に増田芳久社長が同国を訪ね1981年あたりから具体化することになった

計画の第一段階は、ブルネイから譲り受けた20万エーカーのコンセッションの木を伐り、良いところは製材し、廃材をチップにして日本の工場へ持ち帰ることに置いた[114]。摂津板紙は伐採と並行して植林も指導し[115]、試験植林に使ったのはジャイアント・イピルイピルという豆科の植物で、この木は5年間でパルプ用材として適正に育つ[116]。資金計画は最初の段階で20億円ほどで、摂津板紙はそのうち6億円を出した[117]。海外ではこのほか、アメリカの製紙会社から日本市場に紙を売るために提携したいという申し入れを受け、検討していた[118]

  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [114]20万エーカーのコンセッションをブルネイから譲り受け、木を伐って良いところは製材し廃材をチップにして日本に持ち帰ることからスタートする計画だった
    • [115]ブルネイでは伐採と同時に植林も指導した
    • [116]試験植林をしていたジャイアント・イピルイピルという豆科の植物は5年間でパルプ用材として適正に育つ
    • [117]ブルネイ事業の資金計画は最初の段階で20億円ぐらいで、摂津板紙から6億円ほど出していた
    • [118]アメリカの製紙会社から日本市場に紙を売るために提携したいという申し入れを受け検討中だった

増田芳久社長は当面の目標として年間売上高1,000億円、経常利益100億円を掲げ[119]、1981年3月期については通期の売上高670〜680億円、順調なら700億円超、経常利益40億円以上を見込んだ[120]。実際の売上高は1980年3月期の505.7億円から1981年3月期601.3億円、1985年3月期632.4億円へ伸びた[121]。経常利益は同じ3期で22.4億円、81.0億円、75.6億円と動き[122]、1985年3月期の従業員は743名を数えた[123]。同期の大株主は大和証券14,282千株、大同生命8,074千株、住友銀行7,057千株、住友信託6,885千株で、1975年3月期に5,968千株で筆頭だった増田義雄氏の名は上位から消えた[124][125]

  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [119]増田芳久社長は当面は年間売上高1,000億円、経常利益100億円を目標とすると述べた
    • [120]1981年3月期の見通しは通期売上高670〜680億円、順調なら700億円を超え、経常利益も40億円以上になることを期待していた
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [121]売上高は1980年3月期505.7億円、1981年3月期601.3億円、1985年3月期632.4億円だった
    • [122]経常利益は1980年3月期22.4億円、1981年3月期81.0億円、1985年3月期75.6億円だった
    • [123]1985年3月期の従業員数は743名だった
    • [124]1985年3月期の大株主は大和証券14,282千株、大同生命8,074千株、住友銀行7,057千株、住友信託6,885千株だった
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [125]1975年3月期の筆頭株主は増田義雄で5,968千株だった
  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
    • [108]摂津板紙は以前からシンガポールの木材団地の真ん中にチップ工場を作って南方材を導入していた
    • [109]摂津板紙はノース・ボルネオのブルネイで資源開発を進めていた
    • [110]ブルネイとは15年ほど前からの付き合いだった
    • [111]産油国だがいずれ石油がなくなったらどうしようかと思っているブルネイに植林して木を育てパルプ・紙にするリサイクル体制をとるようすすめた
    • [112]ブルネイから基本的な同意を得たのは1974年だった
    • [113]その後の不況で話を中断していたが1980年7月に増田芳久社長が同国を訪ね1981年あたりから具体化することになった
    • [114]20万エーカーのコンセッションをブルネイから譲り受け、木を伐って良いところは製材し廃材をチップにして日本に持ち帰ることからスタートする計画だった
    • [115]ブルネイでは伐採と同時に植林も指導した
    • [116]試験植林をしていたジャイアント・イピルイピルという豆科の植物は5年間でパルプ用材として適正に育つ
    • [117]ブルネイ事業の資金計画は最初の段階で20億円ぐらいで、摂津板紙から6億円ほど出していた
    • [118]アメリカの製紙会社から日本市場に紙を売るために提携したいという申し入れを受け検討中だった
    • [119]増田芳久社長は当面は年間売上高1,000億円、経常利益100億円を目標とすると述べた
    • [120]1981年3月期の見通しは通期売上高670〜680億円、順調なら700億円を超え、経常利益も40億円以上になることを期待していた
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [121]売上高は1980年3月期505.7億円、1981年3月期601.3億円、1985年3月期632.4億円だった
    • [122]経常利益は1980年3月期22.4億円、1981年3月期81.0億円、1985年3月期75.6億円だった
    • [123]1985年3月期の従業員数は743名だった
    • [124]1985年3月期の大株主は大和証券14,282千株、大同生命8,074千株、住友銀行7,057千株、住友信託6,885千株だった
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [125]1975年3月期の筆頭株主は増田義雄で5,968千株だった

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沿革年表 1947〜1999年

セッツの沿革1947〜1999年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1947〜1958年大手が軽視した段ボール中芯原紙と年産42,590トンの足場増田義雄摂津板紙を設立★★
増田義雄段ボール中芯原紙の抄造を開始★★
増田義雄黄板紙の抄造を開始
増田義雄摂津紙業と相互紙器を吸収合併★★
増田義雄チップボールの抄造を開始
1959〜1975年故紙の再生から段ボール箱まで、22億円で通した一貫生産増田義雄ケミグランドパルプの生産を開始★★
増田義雄コルゲートマシンの新設で段ボール事業に参入★★★
増田義雄段ボールライナーの抄造を開始★★
増田義雄原料パルプから包装ケースまでの一貫体制を確立★★★
増田義雄大阪証券取引所第2部に上場
増田義雄東京工場の建設に着手
増田義雄伊丹工場の建設に着手
増田義雄大阪証券取引所第1部に指定替え
増田義雄伊丹工場が完成
1976〜1987年不況を合理化に使い、屑紙45万トンで世界一へ増田芳久セッツに商号変更★★
レンゴーとの合併契約書に調印★★★
段ボール部門をセッツカートンとして分社★★
株式が上場廃止
レンゴーに吸収合併され社名消滅★★★
出典・参考 11件
出典・参考
  • 会社年鑑(1963年版)
  • 会社年鑑(1967年版)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「摂津板紙」
  • 会社年鑑(1971年版)
  • 会社年鑑(1976年版)
  • 会社年鑑(1986年版)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「摂津板紙」
  • 証券アナリストジャーナル 1980年8月号(増田芳久・講演要旨)
  • 野田経済 1960年8月8日号
  • 野田経済 1961年10月9日号
  • 野田経済 1963年3月18日号

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