神崎製紙の歴史
沿革
1894年に真島襄一郎氏が兵庫県小田村に開設した真島製紙所が起源。
1948年に加藤藤太郎氏が王子製紙神崎工場の焼け跡を引き受けて設立し、1949年にはアート紙の全国生産量の50%を占めた。コート紙と情報用紙に強い製紙会社だったが、1993年に王子製紙と合併した。
創業期
1894年〜真島製紙所の創業とアート紙の生産開始
- 真島襄一郎が兵庫県小田村常光寺に真島製紙所を設立[1]
- 野田吉兵衛の出資を受け大阪製紙へ改組[1]
- 資本金46万円を20万円に減資[1]
- 大阪製紙の解散と野田吉兵衛氏による工場の取得[1]
- 創業者の真島襄一郎氏が死去[1]
- 富士製紙による買収と富士製紙神崎工場への編入[1]
- 富士製紙が大川平三郎氏を社長に迎える[2]
- ブラッシュ式塗工機2台の輸入によりアート紙の生産開始[3]
- 王子・富士・樺太3社の合併による王子製紙神崎工場への編入[4]
- 戦災で神崎工場の大半を焼失[5]
- 王子製紙が制限会社に指定[5]
- GHQのウェルシュ氏が王子製紙に9分割を口頭で指示[5]
- 王子製紙が神崎工場を清算工場とする7分割案を提出[5]
- 王子製紙の過度経済力集中排除法による指定会社への指定[6]
- 第1回設立発起人会を開催[5]
- 神崎製紙を設立し資本金1,000万円で神崎工場を継承[6]
- 1号塗工機の復旧によるアート紙の生産開始[6]
- 2号塗工機が操業を開始[7]
売上高
- 売上高
神崎製紙売上高—
成長期
1949年〜SP工場によるアート紙一貫生産と「金藤」の誕生
- アート原紙確保のため抄紙部門の建設を決断[8]
- 2号抄紙機の稼働によるアート原紙の自給着手[6]
- アート紙の全国生産総量の50%を占める[9]
- 900馬力のGP設備が完成[9]
- 3号抄紙機の運転を開始[9]
- 資本金を3,000万円に増資[10]
- SP工場の完成によるパルプからアート紙までの一貫生産体制確立[11]
- 資本金1億円への増資と初めての株式従業員割当て[6]
- 東京証券取引所への株式上場[12]
- 資本金を2億5,000万円に増資[13]
- 4号塗工機を新設[10]
- 銘柄「金藤」「銀藤」の誕生[6]
- 菅野谷浅吉らの第1次海外技術調査団を米国へ派遣[10]
- 国内初のラテックス配合塗料によるアート紙の試作成功[6]
- 面長2メートルのドラムドライヤーを備えたキャスト塗工機設備が完成[10]
- SCP設備の稼働による広葉樹パルプの生産成功[14]
- 新製品「ミラーコート」の生産開始[15]
- 阿南に富岡工場建設[14]
売上高
- 売上高
神崎製紙売上高—
安定成長期
1957年〜富岡工場の稼働とノーカーボン複写紙「KSコピー」
- チャンピオン社の技術導入[6]
- 第2工場の建設地を徳島県阿南市豊益町に決定[14]
- 富岡工場1号抄紙機の稼働開始[6]
- 国内初のオンマシンダブルコーテッド紙「トップコート」の生産開始[6]
- 富岡工場1号キャストコーターの稼働[6]
- ノーカーボン複写紙「KSコピー」の生産販売開始[6]
売上高経常利益率
- 売上高
- 経常利益率
神崎製紙1963年3月期売上高113.6億円売上高経常利益率1.3%
転換期
1964年〜広瀬藤四郎の社長就任から王子製紙との合併まで
- 加藤藤太郎の会長就任と広瀬藤四郎の社長就任[6]
- プラスチック容器「クリーンパック」の生産開始[6]
- 事業所別損益管理制度の実施[6]
- 神崎工場の縮小と連続一貫工程の新工場建設を決定[6]
- 王子系4社による輸入窓口機関・王子連合通商の設立[6]
- 第3工場1号抄紙機の完成[6]
- 米USPC社とのパルプ・製材15年長期輸入契約の締結[6]
- 王子系4社による副社長会の設置[16]
- 王子製紙との合併の発表[17]
- 王子製紙との合併による新王子製紙の発足と45年の歴史の幕[17]
売上高当期純利益率
- 売上高
- 当期純利益率
神崎製紙1985年3月期売上高1,413.68億円売上高当期純利益率3.3%