神崎製紙 の歴史

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創業
創業者
創業地
創業・決断・現況・競合について
創業
1894年4月、洋紙業の先覚者である真島襄一郎氏が兵庫県川辺郡小田村に真島製紙所を開設した。神戸のマッチ工場が毎日焼き捨てていた廃材は普通のチップより蒸煮しやすく、大きな設備を要さなかったためである。この工場は1898年6月に大阪製紙、1910年6月の解散後に野田製紙所、1915年11月に富士製紙神崎工場と持ち主を替え、1922年にアート紙の塗工設備を得て性格が定まった。1933年5月の3社合併で王子製紙神崎工場となったが、1945年6月の空襲で塗工部門とボイラー室、用水設備だけを残して焼失する。1948年9月20日、追放で王子製紙を去った元副社長の加藤藤太郎氏が、この焼け跡を資本金1,000万円で引き受け、神崎製紙を設立した。
決断
アート紙を先に作り、原紙とパルプは後から遡って建てた。払込資本金1,000万円は全額が王子製紙への工場代金に消え、設備投資も運転資金も借入に依るほかなかった。そこで加藤藤太郎社長は、原料でも原紙でもなく付加価値の最も高いアート紙から始め、その資金で抄紙、次にパルプへ下る順序を決める。創立の1カ月後にあたる1948年10月20日に最初のアート紙を巻き取り、1949年11月にはアート紙の全国生産量の50%を占めた。原紙を自給する抄紙機がそろったのは1950年3月、原木からパルプを作るSP設備の完成は1951年4月で、無一文からの出発から2年8カ月で一貫工場ができている。最終製品を先に持ったことで、原紙を待つあいだも現金が入り、次の設備の担保になった。
現況
財務体質が業界1位と評された会社が、規模の差だけで合併へ動いた。1991年度の売上高は1,437億円で、王子製紙の4,759億円のおよそ3割にとどまる。1992年の紙・板紙生産量では業界12位、シェア2.5%の中堅だった。遠藤福雄社長のもとで1966年4月から事業所別採算制を敷き、収益力は抜群と評されながら、コート紙と情報用紙という限られた品種で規模までは作れなかった。1993年1月29日に発表された王子製紙との合併は救済型の再編ではなく体質の強い企業同士の結合と説明され、同年10月1日に新王子製紙が発足して45年の歴史が閉じた。消えたのは社名と上場であり、感熱紙をはじめとする情報用紙は新王子製紙が米国・ドイツ・フィンランドで作り続けた。
競合
王子系3社の合併には加わらず、輸入の窓口だけを共有した。1967年12月、王子製紙・十条製紙・本州製紙と神崎製紙の4社は均等出資で王子連合通商を設立し、輸入の窓口を一本化する。その3カ月後、王子系3社は合併を公正取引委員会へ申請したが、高級印刷紙のシェアが68%に達するとして同年10月に取り下げ、以後は同業を一社ずつ吸収する路線へ移った。神崎製紙はこの合併の局外にあり、以後も自社の利益に合う場合だけ行動をともにする立場を保った。アート紙では三菱製紙と日本加工製紙が先発で、1959年から日本加工製紙がキャスト・コーテッド紙で競合すると、チャンピオン社から得た専用実施権をもとに提訴し、1967年6月の東京地裁の決定で相手の設備を封印させた。品種を絞ったからこそ特許で守れたが、その品種の外へは出られなかった。
長期業績の推移 1951〜1993年
神崎製紙:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1957年3月期1985年3月期

第1章 1894年〜 マッチの廃材から始まり、アート紙の工場になるまで

1894年〜神戸のマッチ廃材から始めた工場が、大阪製紙となり解散するまで

神崎製紙の工場は、洋紙業の先覚者である真島襄一郎氏が1894年4月に兵庫県川辺郡小田村常光寺へ開いた真島製紙所に始まる。真島襄一郎氏は1875年に大阪中之島で蓬莱社の製紙部門を任され、日本最初の洋式抄紙機で操業を開始した人物で、その後は富士製紙の入山瀬工場長を務めていた。神崎へ工場を建設する動機は、1893年末に神戸の友人から受けた『マッチ紙を安くしたいが、マッチの廃材からパルプを製造して、紙を抄くことはできないのか』という相談にある。当時の神戸はマッチ製造の本場で、毎日出る廃材を焼き捨てていた。マッチの廃材は普通のチップより蒸煮しやすく大規模な設備を必要としないため、真島襄一郎氏は富士製紙の職を辞して自分の工場を建設した。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
    • [1]真島襄一郎は日本の洋紙業確立に尽くした先覚者の一人であった
    • [2]1894年4月に兵庫県川辺郡小田村常光寺へ真島製紙所が設立された
    • [3]真島襄一郎は蓬莱社の製紙経営を委ねられ大阪中之島に工場を建て1875年2月に操業を開始した
    • [4]真島襄一郎は富士製紙入山瀬(富士第一)工場の初代工場長を務めた
    • [5]当時の神戸はマッチ製造の本場で毎日出る廃材を無駄に焼き捨てていた
    • [6]マッチの廃材は普通のチップよりも蒸煮しやすく設備も大規模なものを必要としなかった

工場は日清戦争のさなかに建てられ、稼働まで1年半を要した。真島襄一郎氏は機械設備を国産機にする方針を立てて大阪の岡本鉄工所などに注文したが、直径4尺の大型ドライヤーをつくれるところがなく、大阪砲兵工廠に頼んだ。その工廠でも鋳直すたびに鬆ばかりできて使えるものができず、しかも日清戦争が始まると民間の仕事を断ってきた。そこで空地に放置されていた鋳物のなかから使えそうなものを拾い出し、空孔にセメントを埋めて4〜5本を間に合わせた。据え付けられた設備は72インチ丸網抄紙機2台と円型木釜1基だった。1895年10月に資本金10万円の合資会社となり、土佐から竹簀編みの職人を雇って丸網抄紙機に竹簀を取り付け、簀目入りの模造紙を抄いた。社史はこれを『わが国の機械漉和紙生産の先駆工場』と記している。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
    • [7]日清戦争勃発直前の設立で機械類の調達が進まず工場稼働まで1年半を要した
    • [8]機械設備を国産機とする方針で大阪の岡本鉄工所などに注文製作させた
    • [9]直径4尺の大型ドライヤーを製造できる工場がなく大阪砲兵工廠に依頼した
    • [10]大阪砲兵工廠でも鋳直すたびに鬆ばかりできて使えるものができなかった
    • [11]放置されていた鋳物の空孔にセメントを埋めて大型ドライヤーを間に合わせた
    • [12]設備の主なものは72インチ丸網抄紙機2台と円型木釜1基であった
    • [13]1895年10月に資本金10万円の合資会社となった

1898年6月、事業拡張のため大阪の富豪である野田吉兵衛氏の出資を得て大阪製紙となり、64インチ丸網抄紙機2台を増設して中国向けの模造紙を輸出した。日露戦争に伴う紙類の需要増で好景気を迎えたが、戦後の1906年ごろから中国向けの滞貨が激増して輸出が途絶えた。内地向けに振り替えるためアメリカのクローソン社製88インチ長網抄紙機1台を増設し、旧式の丸網抄紙機2台を解体して杉浦製作所のワイヤー・パートを取り付け75インチの長網抄紙機に模様替えした。社史はこれを『わが国で製作された最初の国産長網ワイヤーパート』と書いている。それでも不況は深刻で、1909年6月に資本金46万円を20万円へ減資しても経営不振を打開できず、1910年6月に大阪製紙は解散した。工場は債権者の野田吉兵衛氏が取得して野田製紙所と改称された

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
    • [14]1898年6月に野田吉兵衛の出資を得て大阪製紙となった
    • [15]64インチ丸網抄紙機2台を増設し中国向け模造紙を輸出した
    • [16]日露戦争後の1906年ごろから中国向けの滞貨が激増し輸出が途絶えた
    • [17]米クローソン社製88インチ長網抄紙機1台を増設し旧式丸網抄紙機2台を75インチ長網抄紙機に模様替えした
    • [18]1909年6月に資本金46万円を20万円に減資した
    • [19]1910年6月に大阪製紙は解散し工場は債権者の野田吉兵衛が取得して野田製紙所と改称された
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
    • [1]真島襄一郎は日本の洋紙業確立に尽くした先覚者の一人であった
    • [2]1894年4月に兵庫県川辺郡小田村常光寺へ真島製紙所が設立された
    • [3]真島襄一郎は蓬莱社の製紙経営を委ねられ大阪中之島に工場を建て1875年2月に操業を開始した
    • [4]真島襄一郎は富士製紙入山瀬(富士第一)工場の初代工場長を務めた
    • [5]当時の神戸はマッチ製造の本場で毎日出る廃材を無駄に焼き捨てていた
    • [6]マッチの廃材は普通のチップよりも蒸煮しやすく設備も大規模なものを必要としなかった
    • [7]日清戦争勃発直前の設立で機械類の調達が進まず工場稼働まで1年半を要した
    • [8]機械設備を国産機とする方針で大阪の岡本鉄工所などに注文製作させた
    • [9]直径4尺の大型ドライヤーを製造できる工場がなく大阪砲兵工廠に依頼した
    • [10]大阪砲兵工廠でも鋳直すたびに鬆ばかりできて使えるものができなかった
    • [11]放置されていた鋳物の空孔にセメントを埋めて大型ドライヤーを間に合わせた
    • [12]設備の主なものは72インチ丸網抄紙機2台と円型木釜1基であった
    • [13]1895年10月に資本金10万円の合資会社となった
    • [14]1898年6月に野田吉兵衛の出資を得て大阪製紙となった
    • [15]64インチ丸網抄紙機2台を増設し中国向け模造紙を輸出した
    • [16]日露戦争後の1906年ごろから中国向けの滞貨が激増し輸出が途絶えた
    • [17]米クローソン社製88インチ長網抄紙機1台を増設し旧式丸網抄紙機2台を75インチ長網抄紙機に模様替えした
    • [18]1909年6月に資本金46万円を20万円に減資した
    • [19]1910年6月に大阪製紙は解散し工場は債権者の野田吉兵衛が取得して野田製紙所と改称された

1915年〜富士製紙から王子製紙へ、唯一のアート紙工場となり焼けた

1915年11月、野田製紙所は当時わが国最大の製紙会社であった富士製紙に買収され、富士製紙神崎工場となった。創業者の真島襄一郎氏は1913年12月に大阪の緒方病院で亡くなっており、自ら建てた工場が大手の傘下に入るのを見てはいない。買収した富士製紙は第一次世界大戦の好況に乗って社業を伸ばし、1919年6月には樺太工業社長の大川平三郎氏を社長に迎えた。神崎工場に高級印刷紙のアート紙加工設備を新設する決定が下りたのは1922年4月で、社史は『当時、日本加工製紙と密接な関係のあった大川平三郎氏の意向によるもの』と伝えている。同年6月に米国のジョンワルドロン社から幅65インチと53インチのブラッシュ式塗工機2台を輸入し、8月に初めてアート紙を生産したこの一手が神崎工場の性格を決めた。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
    • [20]1915年11月に野田製紙所は富士製紙に買収され富士製紙神崎工場となった
    • [21]真島襄一郎は1913年12月に大阪の緒方病院で死去した
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」2「戦前のアート紙の生産」
    • [22]富士製紙は1919年6月に樺太工業社長の大川平三郎を社長に迎えた
    • [23]1922年6月に米ジョンワルドロン社から幅65インチと53インチのブラッシュ式塗工機2台を輸入し同年8月に初めてアート紙を生産した

1929年5月、王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が紙類の抄造制限協定を締結し王子製紙と樺太工業はクラフト紙やコーテッド紙を抄かないと取り決めた。これで富士製紙の神崎工場は3社唯一のアート紙工場として認められた。1933年5月には3社が合併し、王子製紙を存続会社として資本金1億4,998万円、所属工場34、全国紙パルプ生産高の90%以上を占める会社が生まれた。合併比率は王子製紙100に対し富士製紙140、樺太工業245である。神崎工場は王子製紙神崎工場となった。この合併に際して富士製紙と樺太工業の経理内容を調べ上げ、合併比率決定の基礎をつくったのが、藤原銀次郎氏の特命を受けた加藤藤太郎氏だった。加藤藤太郎氏は15年後に神崎製紙の初代社長となる

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」3「大王子製紙の誕生」
    • [24]1929年5月に王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が紙類の抄造制限協定を結んだ
    • [25]協定により富士製紙の神崎工場は3社唯一のアート紙工場として認知された
    • [26]1933年5月の3社合併で資本金1億4,998万円・所属工場34・全国紙パルプ生産高の90%以上を占める会社が生まれた
    • [27]合併比率は王子製紙100に対し富士製紙140・樺太工業245であった
    • [28]1933年5月の3社合併により神崎工場は王子製紙神崎工場となった
    • [29]加藤藤太郎は藤原銀次郎の特命で富士製紙と樺太工業の経理内容を調査し合併比率決定の基礎をつくった
    • [30]加藤藤太郎は1948年に神崎製紙の初代社長となった

王子製紙神崎工場のアート紙は伸びた。1937年の神崎工場は全生産高こそ1933年比で2割弱の伸びにとどまったが、アート紙だけは2倍半に伸びて戦前の最高記録をつくり、アート紙全国総生産量の46.3%を占めた。日本加工製紙十条工場の38.2%、三菱製紙の高砂・中川両工場の15%を引き離す水準である。ところが戦時体制に入るとアート紙は不要不急品として生産を中止させられ、1945年6月の空襲で神崎工場は大半が焼失した。焼け残ったのは塗工部門とボイラー室、用水設備だけだった。工場の敷地には背丈ほどの雑草が生い茂り、構内を巡視していた社員が2匹のキツネを見つけたと社史は書いている。

  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」3「大王子製紙の誕生」
    • [31]王子製紙神崎工場のアート紙生産は1933年から1937年にかけて2倍半に伸びた
    • [32]1937年の神崎工場は全生産高が1933年比で2割弱の伸びにとどまる一方アート紙だけは2倍半に伸びた
    • [33]1937年の神崎工場はアート紙全国総生産量の46.3%を占めた
    • [34]同年の日本加工製紙十条工場は38.2%・三菱製紙の高砂と中川両工場は15%であった
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」
    • [35]1945年6月の戦災で神崎工場は工場の大半を焼失し塗工部門とボイラー室・用水設備だけが類焼を免れた
    • [36]復旧が止まった工場では背丈ほどの雑草が繁茂し構内巡視中の社員が2匹のキツネを見つけた
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
    • [20]1915年11月に野田製紙所は富士製紙に買収され富士製紙神崎工場となった
    • [21]真島襄一郎は1913年12月に大阪の緒方病院で死去した
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」2「戦前のアート紙の生産」
    • [22]富士製紙は1919年6月に樺太工業社長の大川平三郎を社長に迎えた
    • [23]1922年6月に米ジョンワルドロン社から幅65インチと53インチのブラッシュ式塗工機2台を輸入し同年8月に初めてアート紙を生産した
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」3「大王子製紙の誕生」
    • [24]1929年5月に王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が紙類の抄造制限協定を結んだ
    • [25]協定により富士製紙の神崎工場は3社唯一のアート紙工場として認知された
    • [26]1933年5月の3社合併で資本金1億4,998万円・所属工場34・全国紙パルプ生産高の90%以上を占める会社が生まれた
    • [27]合併比率は王子製紙100に対し富士製紙140・樺太工業245であった
    • [28]1933年5月の3社合併により神崎工場は王子製紙神崎工場となった
    • [29]加藤藤太郎は藤原銀次郎の特命で富士製紙と樺太工業の経理内容を調査し合併比率決定の基礎をつくった
    • [30]加藤藤太郎は1948年に神崎製紙の初代社長となった
    • [31]王子製紙神崎工場のアート紙生産は1933年から1937年にかけて2倍半に伸びた
    • [32]1937年の神崎工場は全生産高が1933年比で2割弱の伸びにとどまる一方アート紙だけは2倍半に伸びた
    • [33]1937年の神崎工場はアート紙全国総生産量の46.3%を占めた
    • [34]同年の日本加工製紙十条工場は38.2%・三菱製紙の高砂と中川両工場は15%であった
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」
    • [35]1945年6月の戦災で神崎工場は工場の大半を焼失し塗工部門とボイラー室・用水設備だけが類焼を免れた
    • [36]復旧が止まった工場では背丈ほどの雑草が繁茂し構内巡視中の社員が2匹のキツネを見つけた

第2章 1949-1956 SP工場で開いたアート紙の一貫生産と東証上場、金藤とミラーコート

この章はまだ書いていません。気が向いたときに書き足しますね!

第3章 1957-1963 富岡工場の建設とキャストコート紙・ノーカーボン紙の国産化

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第4章 1964-1993 広瀬藤四郎社長下の新工場建設と王子系の連携から王子製紙との合併まで

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歴史年表 1894〜1993年

神崎製紙の沿革1894〜1993年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1894〜1948年マッチの廃材から始まり、アート紙の工場になるまで真島襄一郎が兵庫県小田村常光寺に真島製紙所を設立★★
野田吉兵衛の出資を受け大阪製紙へ改組
富士製紙による買収と富士製紙神崎工場への編入★★
ブラッシュ式塗工機2台の輸入によりアート紙の生産開始★★
王子・富士・樺太3社の合併による王子製紙神崎工場への編入★★
王子製紙の過度経済力集中排除法による指定会社への指定
神崎製紙を設立し資本金1,000万円で神崎工場を継承★★★
1号塗工機の復旧によるアート紙の生産開始★★
1949〜1956年SP工場で開いたアート紙の一貫生産と東証上場、金藤とミラーコート2号抄紙機の稼働によるアート原紙の自給着手★★
SP工場の完成によるパルプからアート紙までの一貫生産体制確立★★
資本金1億円への増資と初めての株式従業員割当て
東京証券取引所への株式上場
銘柄「金藤」「銀藤」の誕生★★
菅野谷浅吉らの第1次海外技術調査団を米国へ派遣
国内初のラテックス配合塗料によるアート紙の試作成功★★
SCP設備の稼働による広葉樹パルプの生産成功★★
新製品「ミラーコート」の生産開始★★
広葉樹100%のパルプから加工紙までの一貫生産への移行

1948年に王子製紙の戦災工場を継いで発足した神崎製紙が、尼崎の1社1工場では規模の利益を追う各社に対抗できないとして、1956年春に徳島県への新工場建設を決めた投資。用地買収費を含む概算100億円は、当時の総資産41億円余の2倍を超えた。

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★★★
1957〜1963年富岡工場の建設とキャストコート紙・ノーカーボン紙の国産化キャスト・コーティングでの自社方式から相手方式への全面切替

1955年4月から自前の技術で"ミラーコート"を生産していた神崎製紙が、1957年9月27日付けで米チャンピオン社とキャスト・コーティングの技術提携を締結し、日本特許第202,421号の専用実施権を得てキャスト設備をすべて相手方式へ切り替えた提携。

詳細を読む
★★★
第2工場の建設地を徳島県阿南市豊益町に決定★★
富岡工場1号抄紙機の稼働開始★★
国内初のオンマシンダブルコーテッド紙「トップコート」の生産開始★★
富岡工場1号キャストコーターの稼働★★
ノーカーボン複写紙「KSコピー」の生産販売開始★★
1964〜1993年広瀬藤四郎社長下の新工場建設と王子系の連携から王子製紙との合併まで加藤藤太郎の会長就任と広瀬藤四郎の社長就任★★
プラスチック容器「クリーンパック」の生産開始★★
事業所別損益管理制度の実施★★
神崎工場の縮小と連続一貫工程の新工場建設を決定★★
王子系4社による輸入窓口機関・王子連合通商の設立★★
第3工場1号抄紙機の完成★★
米USPC社とのパルプ・製材15年長期輸入契約の締結★★
王子系4社による副社長会の設置★★
王子製紙との合併の発表★★
王子製紙との合併による新王子製紙の発足と45年の歴史の幕★★★
出典・参考 4件
出典・参考
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」2「戦前のアート紙の生産」
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」3「大王子製紙の誕生」
  • 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」

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