1949年〜 七つの工場を継ぎ、山林を持たずに始まった会社
- 1949年 過度経済力集中排除法による王子製紙の3分割で発足
- 1949年 本州製紙労働組合が結成
- 1950年 米チャンピオン社とマシンコーチング特許の実施権譲渡契約を締結
- 1950年 国内初のMCペーパーを発売
- 1955年 デミング賞実施賞を受賞
- 1956年 副社長と3人の専務が一斉に辞任
- 1956年 木下又三郎氏が社長に就任し田辺武次氏は会長へ
三社のうち最も小さい資本金で発足した
1949年8月1日、過度経済力集中排除法にもとづく王子製紙の三分割[1]によって本州製紙が発足した。同じ日に生まれた三社のうち、苫小牧製紙は資本金4億円[2]で苫小牧工場を、十条製紙は資本金2億8,000万円[3]で十条・釧路・伏木・都島・小倉・八代・坂本の各工場を継いだ。本州製紙の資本金は2億5,000万円[4]で三社のなかで最も小さく、江戸川・富士・岩淵・中津・淀川・熊野の六製紙工場と名古屋化学工場[5]、それに潤井川電気事務所を引き継いだ。初代社長には旧王子製紙副社長の田辺武次氏[6]が就いた。本社は東京都中央区銀座東五丁目の貸ビル[7]に置き、9月に明け渡しを受けてここを本拠とした。
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第一章「発足期」
- [1]1949年8月1日に過度経済力集中排除法による王子製紙三分割で本州製紙が設立された
- [2]苫小牧製紙の資本金は4億円で所属工場は苫小牧工場のみだった
- [3]十条製紙の資本金は2億8,000万円で十条・釧路・伏木・都島・小倉・八代・坂本の七工場を継いだ
- [4]本州製紙の資本金は2億5,000万円で三社中最小だった
- [7]本社は東京都中央区銀座東五丁目の貸ビルに置かれ1949年9月に明け渡しを受けた
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「本州製紙」の項
- [5]江戸川・富士・岩淵・中津・淀川・熊野の六製紙工場と名古屋化学工場を引き継いだ
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「本州製紙」の項
- [6]初代社長には旧王子製紙副社長の田辺武次が就任した
三社の分け方は工場だけでなく原料の裏づけ[8]にも及び、苫小牧製紙は旧王子で最大の苫小牧工場を、十条製紙は新聞用紙の量産型工場を受け取り、いずれも工場の原木消費能力に見合う山林を割り当てられた[9]。これに対し本州製紙が譲り受けた社有林は、奈良県吉野郡の大台、山梨県の奈良田と佐野の三か所[10]、合わせて1,204町余[11]にとどまった。発足から1950年半ばまでの原木所要量は年間65万石[12]で、その半分は社外からの買入れ材に頼らざるを得なかった[13]。関東以西に散らばる工場はいずれも原木を遠方から運ぶことになり、原木高という条件を初めから背負った[14]。
- 日経ビジネス 1975年2月17日号「本州製紙。収穫遅れる理詰めの経営スタディ」
- [8]王子製紙の三分割は工場の配分だけでなく山林の配分にも及んだ
- [9]王子と十条は工場の原木消費能力に見合う山林の割り当てを受けた
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第一章「発足期」
- [10]本州製紙が譲り受けた社有林は大台・奈良田・佐野の三か所だった
- [11]譲受社有林の面積は合計1,204町余にとどまった
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第二章「激動期」
- [12]発足から1950年半ばまでの原木所要量は年間65万石だった
- [13]必要原木の半分は社外からの買入れ材で賄っていた
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「本州製紙」の項
- [14]引き継いだ工場は関東以西に位置し原木高という条件を負っていた
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第一章「発足期」
- [1]1949年8月1日に過度経済力集中排除法による王子製紙三分割で本州製紙が設立された
- [2]苫小牧製紙の資本金は4億円で所属工場は苫小牧工場のみだった
- [3]十条製紙の資本金は2億8,000万円で十条・釧路・伏木・都島・小倉・八代・坂本の七工場を継いだ
- [4]本州製紙の資本金は2億5,000万円で三社中最小だった
- [7]本社は東京都中央区銀座東五丁目の貸ビルに置かれ1949年9月に明け渡しを受けた
- [10]本州製紙が譲り受けた社有林は大台・奈良田・佐野の三か所だった
- [11]譲受社有林の面積は合計1,204町余にとどまった
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「本州製紙」の項
- [5]江戸川・富士・岩淵・中津・淀川・熊野の六製紙工場と名古屋化学工場を引き継いだ
- [14]引き継いだ工場は関東以西に位置し原木高という条件を負っていた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「本州製紙」の項
- [6]初代社長には旧王子製紙副社長の田辺武次が就任した
- 日経ビジネス 1975年2月17日号「本州製紙。収穫遅れる理詰めの経営スタディ」
- [8]王子製紙の三分割は工場の配分だけでなく山林の配分にも及んだ
- [9]王子と十条は工場の原木消費能力に見合う山林の割り当てを受けた
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第二章「激動期」
- [12]発足から1950年半ばまでの原木所要量は年間65万石だった
- [13]必要原木の半分は社外からの買入れ材で賄っていた
上質紙と高級板紙で立ち上がった最初の三年
発足直後の本州製紙が主力に据えたのは、高級板紙・上質紙・薄葉紙・特殊紙[15]だった。1950年3月に米チャンピオン社からマシンコーチングの特許実施権を譲り受け[16]、同年10月には江戸川工場の一号抄紙機と富士工場の五号抄紙機[17]に設備を取り付けて、国内で最初のMCペーパーを市場へ送り出した[18]。江戸川の製品は雑誌の口絵に、富士の製品は日本専売公社のたばこの紙箱用紙に採用された[19]。同じ1950年10月には江戸川工場内に中央研究所を開設した[20]。分割で旧王子の研究部門が十条製紙へ移ったため、それまで東京大学農学部の木材化学教室に間借りして研究を続けていた[21]。
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第一章「発足期」
- [15]本州製紙は高級板紙・上質紙・薄葉紙・特殊紙を主力として発足した
- [17]江戸川工場一号抄紙機と富士工場五号抄紙機にMC設備を取り付けた
- [19]江戸川の製品は雑誌の口絵に富士の製品は専売公社のたばこ紙箱用紙に採用された
- [20]1950年10月に江戸川工場内へ中央研究所を開設した
- [21]旧王子の研究部門は分割で十条製紙に所属し本州は東大農学部に間借りしていた
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)年表
- [16]1950年3月に米チャンピオン社とマシンコーチング特許の実施権譲渡契約を結んだ
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「本州製紙」の項
- [18]1950年10月に国内で最初のMCペーパーを発売した
朝鮮動乱の特需は製紙業に二つの相反する作用[22]をもたらし、パルプの逼迫で輸入パルプはトン当たり100ドル以下から180ドル以上へ急騰した[23]一方、紙の値上がりと生産の増強がこれを上回った。本州製紙は1951年上期に約13億円の利益を計上して年4割の配当を実施[24]し、下期も10億円余の利益で年3割を配当した[25]。資本の増強も続き、1950年11月に倍額増資で資本金を5億円とし[26]、1951年12月には固定資産再評価積立金の一部を組み入れる無償増資で10億円[27]とした。1951年8月には旧王子製紙の歴代社長である藤原銀次郎氏、高島菊次郎氏、足立正氏の三氏を社賓に迎えた[28]。
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第一章「発足期」
- [22]朝鮮動乱はパルプ高騰と紙価上昇という相反する影響を製紙業へ与えた
- [23]朝鮮動乱で輸入パルプはトン当たり100ドル以下から180ドル以上へ急騰した
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第二章「激動期」
- [24]1951年上期に約13億円の利益を計上し年4割を配当した
- [25]1951年下期は10億円余の利益で年3割を配当した
- [27]1951年12月に再評価積立金の資本組入れによる無償増資で資本金10億円とした
- [28]1951年8月に藤原銀次郎・高島菊次郎・足立正の三氏を社賓に推戴した
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)年表
- [26]1950年11月の倍額増資で資本金は5億円になった
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第一章「発足期」
- [15]本州製紙は高級板紙・上質紙・薄葉紙・特殊紙を主力として発足した
- [17]江戸川工場一号抄紙機と富士工場五号抄紙機にMC設備を取り付けた
- [19]江戸川の製品は雑誌の口絵に富士の製品は専売公社のたばこ紙箱用紙に採用された
- [20]1950年10月に江戸川工場内へ中央研究所を開設した
- [21]旧王子の研究部門は分割で十条製紙に所属し本州は東大農学部に間借りしていた
- [22]朝鮮動乱はパルプ高騰と紙価上昇という相反する影響を製紙業へ与えた
- [23]朝鮮動乱で輸入パルプはトン当たり100ドル以下から180ドル以上へ急騰した
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)年表
- [16]1950年3月に米チャンピオン社とマシンコーチング特許の実施権譲渡契約を結んだ
- [26]1950年11月の倍額増資で資本金は5億円になった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「本州製紙」の項
- [18]1950年10月に国内で最初のMCペーパーを発売した
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第二章「激動期」
- [24]1951年上期に約13億円の利益を計上し年4割を配当した
- [25]1951年下期は10億円余の利益で年3割を配当した
- [27]1951年12月に再評価積立金の資本組入れによる無償増資で資本金10億円とした
- [28]1951年8月に藤原銀次郎・高島菊次郎・足立正の三氏を社賓に推戴した
原料高・製品安が上質紙の会社を先に襲った
動乱の終結とともに反動[29]が来て、1952年5月の紙価は前年6月に比べて上質紙で三割余[30]、更紙で二割余下がり、同じ時期の在庫は1951年3月の3.5倍に膨らんだ[31]。原木はこれと逆に[32]動き、1951年7月に公布された改正森林法が伐採を制限し[33]、1953年秋の相次ぐ風水害が拍車をかけて、赤松の石当たり価格は1954年初頭に発駅で2,000円を突破した[34]。本州製紙の設備では原木が石当たり100円上がるとSPはポンド当たり80銭、GPは40銭のコスト増[35]になった。社史は当時の業界を「原価は約二割しか下がらないのに、売価が四割も下がった[36]」と記した。全国のメーカーは600社を超えていた[37]。
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第二章「激動期」
- [29]朝鮮動乱の終結後に紙市況は反動安へ転じた
- [30]1952年5月の紙価は前年6月比で上質紙が三割余下がった
- [31]1952年5月の在庫は1951年3月の3.5倍に増加した
- [32]紙価が下がる一方で原木価格は上昇を続けた
- [33]1951年7月公布の改正森林法が適正伐期齢級による伐採制限を課した
- [34]赤松の石当たり価格は1954年初頭に発駅で2,000円を突破した
- [35]原木が石当たり100円上がるとSPはポンド当たり80銭GPは40銭のコスト増になった
- [36]業界では原価が二割下がる間に売価が四割下がった
- [37]全国の製紙メーカーは600社を超えていた
値下がりの幅は品種によって[38]違い、上質紙は1953年10月にポンド当たり60円だったものが1954年6月に50円、8月には40円[39]まで落ちた。同じ期間に中質紙は52円から39円へ、新聞用紙は30円から27円へ下がった[40]。下落率が最も大きかったのは上質紙[41]であり、それを主力としていたのが本州製紙だった。社史は「新聞紙の王子、中質紙の十条、上質紙の本州[42]」と三社の分担を書いたうえで、1954年9月期についに三社の較差が表面化した[43]と記す。本州製紙は年2割としてきた株主配当を1割2分に引き下げた[44]。1955年下期にはこれをさらに8分[45]まで下げた。
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第三章「苦難期」
- [38]紙の値下がり幅は品種ごとに差があった
- [39]上質紙は1953年10月のポンド当たり60円から1954年8月に40円まで下落した
- [40]同期間に中質紙は52円から39円へ新聞用紙は30円から27円へ下がった
- [41]下落率が最大だったのは本州製紙の主力である上質紙だった
- [42]社史は三社の分担を新聞紙の王子・中質紙の十条・上質紙の本州と記している
- [43]1954年9月期に旧王子三社の業績較差が表面化した
- [44]株主配当を年2割から1割2分へ引き下げた
- [45]1955年下期にさらに配当を年8分へ引き下げた
手を打たなかったわけ[46]ではなく、1955年2月に広葉樹利用委員会を設けて[47]原料構成の切り替えを検討し、同年11月25日には紙パルプ業界で初めてデミング賞実施賞を受賞した[48]。1953年11月からは富士・中津の両工場を皮切りに、二週間を一周期として13日操業する隔週休日制[49]を実施し、コスト切り下げの手段とした。それでも収益は戻らず[50]、1956年4月の定例取締役会で、山内聰副社長と五十嵐勇、福山榮、福原千二の三専務[51]が業績不振の責任をとって退任し[52]、発足以来の経営首脳が、分割から七年[53]で入れ替わった。
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第三章「苦難期」
- [46]会社は原料転換と品質管理により対策を講じていた
- [47]1955年2月に広葉樹利用委員会を設置した
- [48]1955年11月25日に紙パルプ業界で初のデミング賞実施賞を受賞した
- [49]1953年11月から二週間を一周期とする13日操業の隔週休日制を実施した
- [50]対策を講じても収益は回復しなかった
- [51]1956年4月に山内聰副社長と五十嵐勇・福山榮・福原千二の三専務が退任した
- [52]退任の理由は業績不振であり発足以来の経営首脳が交代した
- [53]1949年の分割から1956年の経営陣交代まで七年が経過した
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第二章「激動期」
- [29]朝鮮動乱の終結後に紙市況は反動安へ転じた
- [30]1952年5月の紙価は前年6月比で上質紙が三割余下がった
- [31]1952年5月の在庫は1951年3月の3.5倍に増加した
- [32]紙価が下がる一方で原木価格は上昇を続けた
- [33]1951年7月公布の改正森林法が適正伐期齢級による伐採制限を課した
- [34]赤松の石当たり価格は1954年初頭に発駅で2,000円を突破した
- [35]原木が石当たり100円上がるとSPはポンド当たり80銭GPは40銭のコスト増になった
- [36]業界では原価が二割下がる間に売価が四割下がった
- [37]全国の製紙メーカーは600社を超えていた
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第三章「苦難期」
- [38]紙の値下がり幅は品種ごとに差があった
- [39]上質紙は1953年10月のポンド当たり60円から1954年8月に40円まで下落した
- [40]同期間に中質紙は52円から39円へ新聞用紙は30円から27円へ下がった
- [41]下落率が最大だったのは本州製紙の主力である上質紙だった
- [42]社史は三社の分担を新聞紙の王子・中質紙の十条・上質紙の本州と記している
- [43]1954年9月期に旧王子三社の業績較差が表面化した
- [44]株主配当を年2割から1割2分へ引き下げた
- [45]1955年下期にさらに配当を年8分へ引き下げた
- [46]会社は原料転換と品質管理により対策を講じていた
- [47]1955年2月に広葉樹利用委員会を設置した
- [48]1955年11月25日に紙パルプ業界で初のデミング賞実施賞を受賞した
- [49]1953年11月から二週間を一周期とする13日操業の隔週休日制を実施した
- [50]対策を講じても収益は回復しなかった
- [51]1956年4月に山内聰副社長と五十嵐勇・福山榮・福原千二の三専務が退任した
- [52]退任の理由は業績不振であり発足以来の経営首脳が交代した
- [53]1949年の分割から1956年の経営陣交代まで七年が経過した