本州製紙主力・釧路工場の子会社への譲渡と、譲渡代金1,198億円の借入金返済への充当

会社を作り替えた設備を守るか、財務を軽くするか——借入金を抱えた本州製紙が選んだ形

時期 1988年
意思決定者(推定) 取締役会
論点 財務再建と主力設備の帰属
概要
1988年、本州製紙が主力の釧路工場を子会社へ1,198億円で譲渡し、代金を借入金の返済にあてた経営判断。1959年に会社の立て直しを賭けて建て、四次の増設で日産2,000トンに育てた設備を、本体の帳簿から外した。同じ1988年6月には、釧路工場の製造部長を務めた米澤義信氏が社長に就いている。
背景
釧路工場の建設資金80億円余はほぼ全額が借入金で、その後の四次の増設と、1978年・1983年の二度の設備処理が借入金として残った。1982年には子会社を統括する関連事業部に関係会社の再編成の指導権を与え、子会社群を経営の一部として扱う体制を整えていた。
内容
釧路工場を子会社へ譲渡し、譲渡価額1,198億円を借入金の返済にあてた。工場の操業も製品もそのままで、設備の所有だけが本体から子会社へ移った。段ボール原紙で国内首位を占める設備を、財務上の措置として本体の外へ出した形である。
含意
上質紙の会社を産業用紙の会社に作り替えた設備を、財務のために手放した判断であった。譲渡の翌年から始まった増設ラッシュと市況の下落で財務は軽くならず、1995年9月末の借入金は2,855億円、1996年3月期の売上高経常利益率は2.2%の見通しにとどまった。
筆者の見解

売った工場が、会社を作り替えた工場であったこと

1959年に大楽毛の原野へ建てた工場は、上質紙で王子・十條に押された会社を、段ボール原紙の会社に作り替えた設備であった。資本金20億円で80億円を借りて建て、四次の増設で日産2,000トンにまで育てたその工場を、本州製紙は1,198億円で子会社へ渡し、代金を借入金の返済にあてた。同じ場所で同じ紙を作り続けながら、所有だけを内から外へ移す。設備の重さに耐えかねた会社に残された手として、現実的な形であったとみることができる。

ただ、身軽にした分だけ会社が強くなったわけではない。1995年9月末の借入金はなお2,855億円あり、1996年3月期の売上高経常利益率は2.2%の見通しにとどまった。譲渡の翌年から始まった増設ラッシュと市況の下落が、返済で得た余裕を削った。その間に株式は仕手集団の標的になり、経営陣は本業の外で防戦に回っている。設備を手放しても市況産業であることは変わらず、栖原亮氏が1970年に述べた性格は、釧路を譲った後もこの会社に残ったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

資本金20億円の会社が80億円を借りて建てた工場

釧路工場は、上質紙の値崩れで行き詰まった[1]本州製紙が、会社の立て直しを賭けて建てた工場であった。用地は釧路市郊外の大楽毛[2]に求め、1957年に固めた計画の建設資金は80億円余に上る[3]。資本金20億円の会社が、そのほとんどを借入金で調達する計画であった。社史はこの資金計画を一大冒険と振り返っている[4]。1958年7月に鍬入式を行い、1959年10月、国内で最初のクラフトライナー工場として竣工した[5]

工場は建てた後も膨らみ続けた。1961年に第二期の中芯設備、1965年に第三期工事を終え[6]、1974年の第四期工事では日産700トンの抄紙機を加えて日産2,000トン体制[7]となった。第四期だけで約200億円を投じている[8]。1970年3月期には産業用紙の売上構成比が80%を超え[9]、専務の栖原亮氏は同年の講演で、パルプを製造している工場は釧路だけである[10]と述べた。製紙設備の中心は、この一工場に集まっていた。

二度の設備処理と、子会社を経営の一部に組み込んだ組織

二度の石油危機の後、紙パルプ業界は需給の調整に追われた。板紙は1978年に特定産業安定臨時措置法で能力の15%程度を廃棄[11]し、1983年には特定産業構造改善臨時措置法の指定を受けて、現有設備の19.8%を1987年6月末までに処理する計画[12]をまとめた。四次にわたる釧路への投資と二度の設備処理は、借入金として帳簿に残った[13]。会長の栖原亮氏は1983年、ノスタルジーではメシは食えないと語り、大企業の体裁を気にしていては何もできない[14]と続けた。

子会社の扱いも1980年代に変わった。1982年6月末、本州製紙は10年続いた製品別事業本部制を廃止し[15]、財務部の一課だった関連事業室を関連事業部へ格上げする。低成長のなかでは子会社群の収益力こそが本体の経営を決めるという判断[16]からで、新しい関連事業部には関係会社の再編成に関する指導権[17]も与えられた。当時、経営支配権の及ぶ子会社は42社[18]、その総売上高は4,000億円を超えていた。

決断

動いている主力工場を、帳簿の外へ出す

1988年、本州製紙は釧路工場を子会社へ譲渡した。譲渡価額は1,198億円で[19]、代金は借入金の返済にあてられた[20]。売ったのは不採算の設備ではない。1959年の操業以来、四次の増設を重ねて日産2,000トンに育てた主力[21]であり、自社で唯一パルプまで一貫して製造していた工場[22]である。工場は動き続け、そこで働く人も、そこで抄く紙も変わらない。変わったのは、その設備が本州製紙の帳簿に載っているかどうかであった。

段ボール原紙や白板紙といった産業用紙は、栖原亮氏が1970年の講演で述べたとおり、文化用紙と違って景気に左右されやすい市況産業である[23]。設備を自ら抱えたまま市況の谷を迎えれば、借入金の重みはそのまま損益に出る。その六年前、1982年に子会社を統括する部門へ関係会社の再編成の指導権を与えていた[24]ことが、この譲渡の下ごしらえになった。主力設備を子会社の側に置き、本体からは借入金を減らす組み替えであった。

釧路を知る技術者と、財務を担う実務家

譲渡と同じ1988年の6月、米澤義信氏が社長に就いた[25]。1924年に大阪府で生まれ、1947年9月に京都大学工学部繊維化学科を出て同年10月に王子製紙へ入社し[26]、1949年8月の三分割で本州製紙へ移った世代である。八代・富士・釧路と工場を渡り歩き、1967年には釧路工場の製造部長を務めた[27]。現場では部下をよく怒鳴り、バカヤローの米澤という異名[28]をとっている。釧路を最もよく知る技術者が、釧路を手放した後の会社を率いた。

財務の側にも人を置いている。米澤氏が工場から生産技術本部長として本社へ戻った際、釧路工場の洋紙転換という案件をめぐって社内の根回しを企画部の大坪孝雄氏に相談[29]し、的確な助言を得た。米澤氏はこれで大坪氏を使える男と認め、社長就任にあたって社長室長に起用する[30]。大坪氏は1951年に東京大学経済学部を出て入社した経理・財務畑[31]で、1988年に専務社長室長となった。技術と財務の二人が、譲渡の後の会社を担った。

結果

増設ラッシュと市況の下落が続いた七年

譲渡の翌年から、業界は増設の反動に入った。1988年から4年間の増設ラッシュで主要品種の供給力は30%から60%増え[32]、1989年から市況が下落して戦後最悪といわれる不況になる。1993年4月に十條製紙と山陽国策パルプが合併して日本製紙が、同年10月に王子製紙と神崎製紙が合併して新王子製紙が発足[33]し、業界は大手五社の時代に入った。1992年の紙・板紙の生産シェアは新王子が11.9%、日本製紙が10.2%[34]であった。

本州製紙の財務は、譲渡から七年を経ても軽くならなかった。1995年9月末の借入金は2,855億円[35]で、同じ時点の新王子製紙の1,782億円を上回っている。1996年3月期の売上高経常利益率は、新王子の8%に対して2.2%の見通し[36]であった。売上高も新王子の3分の2弱にとどまる[37]。譲渡代金1,198億円は借入金を確かに減らしたものの、その後の市況の下落と増設の負担が効果を削ったとみられる。

本業の外で防戦に回った年

身軽にしたはずの会社は、別の場所で人手を割いた。1990年から1991年にかけて本州製紙の株式は買い集めの標的になり[38]、仕手集団の旧誠備グループに加えて、東急電鉄株相場の買いを主導した広域暴力団稲川会の石井進前会長や地産グループが参加[39]する。シンガポールの実業家との間で結ばれた買い取りオプション契約の価格は一株3,000円で、当時の株価は2,200円前後[40]であった。

財務担当専務だった大坪孝雄氏は、正式な株主ではないので交渉に応じない[41]としてこれを退けた。株の買い戻しをまとめたとして弁護士が弁護士法違反の容疑で逮捕され、疑惑は秋の政局にも波及するとみられていた[42]。主力工場を手放して財務を整えたはずの会社が、本業の外で時間を使う年が続く。大坪氏は1994年6月に社長へ就き[43]、1996年10月、本州製紙は新王子製紙と合併して社名と上場を終えた[44]

出典・参考
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第三章「苦難期」・第五章「再建第二期」・年表
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号「紙パルプ業界と本州製紙――その現状と将来――」栖原亮
  • 日経ビジネス 1975年2月17日号「本州製紙。収穫遅れる理詰めの経営スタディ」
  • 日経ビジネス 1982年7月12日号「子会社群再編の前ぶれか 本州製紙、関連事業室格上げ」
  • 日経ビジネス 1983年9月5日号「栖原亮[本州製紙会長]ノスタルジーではメシ食えない」
  • 日経ビジネス 1989年1月2日号「米澤義信氏(本州製紙)登場」
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号「本州製紙株問題、秋の政局に波乱も」
  • 日経ビジネス 1995年4月3日号「大坪孝雄氏[本州製紙]登場 しんの強さと“柔らかさ”の調和」
  • 日経ビジネス 1996年4月8日号「新王子製紙 連続合併で見せた『王子』の意地」
  • 日本産業史 第3巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-不況カルテルから設備廃棄へ」
  • 日本産業史 第4巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-増設ラッシュで不況に」
  • 週刊東洋経済 2004年10月9日号「苛烈! ティッシュ&トイレットペーパー泥沼消耗戦の行方」

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