本州製紙 の歴史

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創業 1949年
母体 王子製紙の3分割により発足
創業地 東京都中央区
創業
1949年8月1日、過度経済力集中排除法にもとづく王子製紙の三分割で本州製紙が発足した。資本金2億5,000万円は苫小牧製紙の4億円、十条製紙の2億8,000万円を下回って三社で最も小さく、江戸川・富士・岩淵・中津・淀川・熊野の六製紙工場と名古屋化学工場を引き継いだ。本社は東京都中央区銀座東五丁目の貸ビルに置き、初代社長には旧王子製紙副社長の田辺武次が就任した。ただし譲り受けた社有林は大台・奈良田・佐野の三か所で1,204町余にとどまり、原木の半分を社外からの買入れに依存する条件で始まっている。
決断
王子・十條が抄かない紙を選ぶことを、新工場の条件に組み込んだ。1956年5月に王子製紙副社長の木下又三郎を取締役へ迎え、同年11月には社長に据えている。木下は新工場の製品を、市場性・原料の安定・新技術・公共性・他社に計画がなく無用の競争が避けられることの五条件で選び、残ったのが段ボール原紙だった。1957年1月、既設工場の合理化と釧路への段ボール原紙工場の新設を同時に決めた。原料は帯広営林局が有償処分先を探していた道東の低品位広葉樹に求め、建設資金80億円余は資本金20億円の会社がほぼ全額を借入金で調達した。北海道東北開発公庫の10億円が口火を切り、市中の五大銀行と生命保険三社が続いている。
現況
主力工場を子会社へ譲渡し、合併の直前に自ら取得し直している。四次にわたる釧路への増設と1978年・1983年の二度の設備処理は、借入金として残った。1988年、本州製紙は釧路工場を子会社へ1,198億円で譲渡して借入金の返済に充当した。それでも1995年9月末の借入金は2,855億円あり、1996年3月期の売上高経常利益率は2.2%の見通しにとどまる。米澤義信会長は釧路を戻すまでは合併はできないと語り、合併に先立つ1996年、876億円で釧路工場を子会社から取得し直した。同年10月1日、新王子製紙と合併して47年ぶりに王子製紙の商号が戻り、1949年8月の分割から47年で上場が終わった。
競合
三分割で山林を割り当てられなかった一社が、先に減配へ追い込まれた。苫小牧製紙は原木消費能力に見合う山林を、十条製紙は新聞用紙の量産型工場を受け取っている。原木を遠方から運ぶ本州製紙が主力に据えた上質紙は、朝鮮動乱後の値崩れで下落率が最も大きく、1953年10月のポンド当たり60円が1954年8月には40円まで低下した。1954年9月期に三社の較差が表面化し、年2割の配当は1割2分、1955年下期には8分へ下がる。1968年3月には三社が合併の覚書に調印したものの公正取引委員会に認められず、王子側は同業を一社ずつ吸収する路線へ切り替えている。原木を買い入れる立場と山林を持つ立場の差が、上質紙の値崩れを三社の較差へ変えた。
本州製紙:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1956年3月期1985年3月期

設立ストーリー 七つの工場を継ぎ、山林を持たずに始まった会社 (1949年〜)

七つの工場を継ぎ、山林を持たずに始まった会社

三社のうち最も小さい資本金で発足した

1949年8月1日、過度経済力集中排除法にもとづく王子製紙の三分割[1]によって本州製紙が発足した。同じ日に生まれた三社のうち、苫小牧製紙は資本金4億円[2]で苫小牧工場を、十条製紙は資本金2億8,000万円[3]で十条・釧路・伏木・都島・小倉・八代・坂本の各工場を継いだ。本州製紙の資本金は2億5,000万円[4]で三社のなかで最も小さく、江戸川・富士・岩淵・中津・淀川・熊野の六製紙工場と名古屋化学工場[5]、それに潤井川電気事務所を引き継いだ。初代社長には旧王子製紙副社長の田辺武次氏[6]が就いた。本社は東京都中央区銀座東五丁目の貸ビル[7]に置き、9月に明け渡しを受けてここを本拠とした。

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第一章「発足期」
    • [1]1949年8月1日に過度経済力集中排除法による王子製紙三分割で本州製紙が設立された
    • [2]苫小牧製紙の資本金は4億円で所属工場は苫小牧工場のみだった
    • [3]十条製紙の資本金は2億8,000万円で十条・釧路・伏木・都島・小倉・八代・坂本の七工場を継いだ
    • [4]本州製紙の資本金は2億5,000万円で三社中最小だった
    • [7]本社は東京都中央区銀座東五丁目の貸ビルに置かれ1949年9月に明け渡しを受けた
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「本州製紙」の項
    • [5]江戸川・富士・岩淵・中津・淀川・熊野の六製紙工場と名古屋化学工場を引き継いだ
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「本州製紙」の項
    • [6]初代社長には旧王子製紙副社長の田辺武次が就任した

三社の分け方は工場だけでなく原料の裏づけ[8]にも及び、苫小牧製紙は旧王子で最大の苫小牧工場を、十条製紙は新聞用紙の量産型工場を受け取り、いずれも工場の原木消費能力に見合う山林を割り当てられた[9]。これに対し本州製紙が譲り受けた社有林は、奈良県吉野郡の大台、山梨県の奈良田と佐野の三か所[10]、合わせて1,204町余[11]にとどまった。発足から1950年半ばまでの原木所要量は年間65万石[12]で、その半分は社外からの買入れ材に頼らざるを得なかった[13]。関東以西に散らばる工場はいずれも原木を遠方から運ぶことになり、原木高という条件を初めから背負った[14]

  • 日経ビジネス 1975年2月17日号
    • [8]王子製紙の三分割は工場の配分だけでなく山林の配分にも及んだ
    • [9]王子と十条は工場の原木消費能力に見合う山林の割り当てを受けた
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第一章「発足期」
    • [10]本州製紙が譲り受けた社有林は大台・奈良田・佐野の三か所だった
    • [11]譲受社有林の面積は合計1,204町余にとどまった
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第二章「激動期」
    • [12]発足から1950年半ばまでの原木所要量は年間65万石だった
    • [13]必要原木の半分は社外からの買入れ材で賄っていた
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「本州製紙」の項
    • [14]引き継いだ工場は関東以西に位置し原木高という条件を負っていた
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第一章「発足期」
    • [1]1949年8月1日に過度経済力集中排除法による王子製紙三分割で本州製紙が設立された
    • [2]苫小牧製紙の資本金は4億円で所属工場は苫小牧工場のみだった
    • [3]十条製紙の資本金は2億8,000万円で十条・釧路・伏木・都島・小倉・八代・坂本の七工場を継いだ
    • [4]本州製紙の資本金は2億5,000万円で三社中最小だった
    • [7]本社は東京都中央区銀座東五丁目の貸ビルに置かれ1949年9月に明け渡しを受けた
    • [10]本州製紙が譲り受けた社有林は大台・奈良田・佐野の三か所だった
    • [11]譲受社有林の面積は合計1,204町余にとどまった
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「本州製紙」の項
    • [5]江戸川・富士・岩淵・中津・淀川・熊野の六製紙工場と名古屋化学工場を引き継いだ
    • [14]引き継いだ工場は関東以西に位置し原木高という条件を負っていた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「本州製紙」の項
    • [6]初代社長には旧王子製紙副社長の田辺武次が就任した
  • 日経ビジネス 1975年2月17日号
    • [8]王子製紙の三分割は工場の配分だけでなく山林の配分にも及んだ
    • [9]王子と十条は工場の原木消費能力に見合う山林の割り当てを受けた
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第二章「激動期」
    • [12]発足から1950年半ばまでの原木所要量は年間65万石だった
    • [13]必要原木の半分は社外からの買入れ材で賄っていた

上質紙と高級板紙で立ち上がった最初の三年

発足直後の本州製紙が主力に据えたのは、高級板紙・上質紙・薄葉紙・特殊紙[15]だった。1950年3月に米チャンピオン社からマシンコーチングの特許実施権を譲り受け[16]、同年10月には江戸川工場の一号抄紙機と富士工場の五号抄紙機[17]に設備を取り付けて、国内で最初のMCペーパーを市場へ送り出した[18]。江戸川の製品は雑誌の口絵に、富士の製品は日本専売公社のたばこの紙箱用紙に採用された[19]。同じ1950年10月には江戸川工場内に中央研究所を開設した[20]。分割で旧王子の研究部門が十条製紙へ移ったため、それまで東京大学農学部の木材化学教室に間借りして研究を続けていた[21]

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第一章「発足期」
    • [15]本州製紙は高級板紙・上質紙・薄葉紙・特殊紙を主力として発足した
    • [17]江戸川工場一号抄紙機と富士工場五号抄紙機にMC設備を取り付けた
    • [19]江戸川の製品は雑誌の口絵に富士の製品は専売公社のたばこ紙箱用紙に採用された
    • [20]1950年10月に江戸川工場内へ中央研究所を開設した
    • [21]旧王子の研究部門は分割で十条製紙に所属し本州は東大農学部に間借りしていた
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)年表
    • [16]1950年3月に米チャンピオン社とマシンコーチング特許の実施権譲渡契約を結んだ
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「本州製紙」の項
    • [18]1950年10月に国内で最初のMCペーパーを発売した

朝鮮動乱の特需は製紙業に二つの相反する作用[22]をもたらし、パルプの逼迫で輸入パルプはトン当たり100ドル以下から180ドル以上へ急騰した[23]一方、紙の値上がりと生産の増強がこれを上回った。本州製紙は1951年上期に約13億円の利益を計上して年4割の配当を実施[24]し、下期も10億円余の利益で年3割を配当した[25]。資本の増強も続き、1950年11月に倍額増資で資本金を5億円とし[26]、1951年12月には固定資産再評価積立金の一部を組み入れる無償増資で10億円[27]とした。1951年8月には旧王子製紙の歴代社長である藤原銀次郎氏、高島菊次郎氏、足立正氏の三氏を社賓に迎えた[28]

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第一章「発足期」
    • [22]朝鮮動乱はパルプ高騰と紙価上昇という相反する影響を製紙業へ与えた
    • [23]朝鮮動乱で輸入パルプはトン当たり100ドル以下から180ドル以上へ急騰した
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第二章「激動期」
    • [24]1951年上期に約13億円の利益を計上し年4割を配当した
    • [25]1951年下期は10億円余の利益で年3割を配当した
    • [27]1951年12月に再評価積立金の資本組入れによる無償増資で資本金10億円とした
    • [28]1951年8月に藤原銀次郎・高島菊次郎・足立正の三氏を社賓に推戴した
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)年表
    • [26]1950年11月の倍額増資で資本金は5億円になった
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第一章「発足期」
    • [15]本州製紙は高級板紙・上質紙・薄葉紙・特殊紙を主力として発足した
    • [17]江戸川工場一号抄紙機と富士工場五号抄紙機にMC設備を取り付けた
    • [19]江戸川の製品は雑誌の口絵に富士の製品は専売公社のたばこ紙箱用紙に採用された
    • [20]1950年10月に江戸川工場内へ中央研究所を開設した
    • [21]旧王子の研究部門は分割で十条製紙に所属し本州は東大農学部に間借りしていた
    • [22]朝鮮動乱はパルプ高騰と紙価上昇という相反する影響を製紙業へ与えた
    • [23]朝鮮動乱で輸入パルプはトン当たり100ドル以下から180ドル以上へ急騰した
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)年表
    • [16]1950年3月に米チャンピオン社とマシンコーチング特許の実施権譲渡契約を結んだ
    • [26]1950年11月の倍額増資で資本金は5億円になった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「本州製紙」の項
    • [18]1950年10月に国内で最初のMCペーパーを発売した
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第二章「激動期」
    • [24]1951年上期に約13億円の利益を計上し年4割を配当した
    • [25]1951年下期は10億円余の利益で年3割を配当した
    • [27]1951年12月に再評価積立金の資本組入れによる無償増資で資本金10億円とした
    • [28]1951年8月に藤原銀次郎・高島菊次郎・足立正の三氏を社賓に推戴した

原料高・製品安が上質紙の会社を先に襲った

動乱の終結とともに反動[29]が来て、1952年5月の紙価は前年6月に比べて上質紙で3割余[30]、更紙で2割余下がり、同じ時期の在庫は1951年3月の3.5倍に膨らんだ[31]。原木はこれと逆に[32]動き、1951年7月に公布された改正森林法が伐採を制限し[33]、1953年秋の相次ぐ風水害が拍車をかけて、赤松の石当たり価格は1954年初頭に発駅で2,000円を突破した[34]。本州製紙の設備では原木が石当たり100円上がるとSPはポンド当たり80銭、GPは40銭のコスト増[35]になった。社史は当時の業界を『原価は約二割しか下がらないのに、売価が四割も下がった』[引用元]と記した。全国のメーカーは600社を超えていた[36]

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第二章「激動期」
    • [29]朝鮮動乱の終結後に紙市況は反動安へ転じた
    • [30]1952年5月の紙価は前年6月比で上質紙が3割余下がった
    • [31]1952年5月の在庫は1951年3月の3.5倍に増加した
    • [32]紙価が下がる一方で原木価格は上昇を続けた
    • [33]1951年7月公布の改正森林法が適正伐期齢級による伐採制限を課した
    • [34]赤松の石当たり価格は1954年初頭に発駅で2,000円を突破した
    • [35]原木が石当たり100円上がるとSPはポンド当たり80銭GPは40銭のコスト増になった
    • [36]全国の製紙メーカーは600社を超えていた

値下がりの幅は品種によって[37]違い、上質紙は1953年10月にポンド当たり60円だったものが1954年6月に50円、8月には40円[38]まで落ちた。同じ期間に中質紙は52円から39円へ、新聞用紙は30円から27円へ下がった[39]。下落率が最も大きかったのは上質紙[40]であり、それを主力としていたのが本州製紙だった。社史は『新聞紙の王子、中質紙の十条、上質紙の本州』[引用元]と三社の分担を書いたうえで、1954年9月期についに三社の較差が表面化した[41]と記す。本州製紙は年2割としてきた株主配当を1割2分に引き下げた[42]。1955年下期にはこれをさらに8分[43]まで下げた。

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第三章「苦難期」
    • [37]紙の値下がり幅は品種ごとに差があった
    • [38]上質紙は1953年10月のポンド当たり60円から1954年8月に40円まで下落した
    • [39]同期間に中質紙は52円から39円へ新聞用紙は30円から27円へ下がった
    • [40]下落率が最大だったのは本州製紙の主力である上質紙だった
    • [41]1954年9月期に旧王子三社の業績較差が表面化した
    • [42]株主配当を年2割から1割2分へ引き下げた
    • [43]1955年下期にさらに配当を年8分へ引き下げた

手を打たなかったわけ[44]ではなく、1955年2月に広葉樹利用委員会を設けて[45]原料構成の切り替えを検討し、同年11月25日には紙パルプ業界で初めてデミング賞実施賞を受賞した[46]。1953年11月からは富士・中津の両工場を皮切りに、二週間を一周期として13日操業する隔週休日制[47]を実施し、コスト切り下げの手段とした。それでも収益は戻らず[48]、1956年4月の定例取締役会で、山内聰副社長と五十嵐勇、福山榮、福原千二の三専務[49]が業績不振の責任をとって退任し[50]、発足以来の経営首脳が、分割から七年[51]で入れ替わった。

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第三章「苦難期」
    • [44]会社は原料転換と品質管理により対策を講じていた
    • [45]1955年2月に広葉樹利用委員会を設置した
    • [46]1955年11月25日に紙パルプ業界で初のデミング賞実施賞を受賞した
    • [47]1953年11月から二週間を一周期とする13日操業の隔週休日制を実施した
    • [48]対策を講じても収益は回復しなかった
    • [49]1956年4月に山内聰副社長と五十嵐勇・福山榮・福原千二の三専務が退任した
    • [50]退任の理由は業績不振であり発足以来の経営首脳が交代した
    • [51]1949年の分割から1956年の経営陣交代まで七年が経過した
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第二章「激動期」
    • [29]朝鮮動乱の終結後に紙市況は反動安へ転じた
    • [30]1952年5月の紙価は前年6月比で上質紙が3割余下がった
    • [31]1952年5月の在庫は1951年3月の3.5倍に増加した
    • [32]紙価が下がる一方で原木価格は上昇を続けた
    • [33]1951年7月公布の改正森林法が適正伐期齢級による伐採制限を課した
    • [34]赤松の石当たり価格は1954年初頭に発駅で2,000円を突破した
    • [35]原木が石当たり100円上がるとSPはポンド当たり80銭GPは40銭のコスト増になった
    • [36]全国の製紙メーカーは600社を超えていた
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第三章「苦難期」
    • [37]紙の値下がり幅は品種ごとに差があった
    • [38]上質紙は1953年10月のポンド当たり60円から1954年8月に40円まで下落した
    • [39]同期間に中質紙は52円から39円へ新聞用紙は30円から27円へ下がった
    • [40]下落率が最大だったのは本州製紙の主力である上質紙だった
    • [41]1954年9月期に旧王子三社の業績較差が表面化した
    • [42]株主配当を年2割から1割2分へ引き下げた
    • [43]1955年下期にさらに配当を年8分へ引き下げた
    • [44]会社は原料転換と品質管理により対策を講じていた
    • [45]1955年2月に広葉樹利用委員会を設置した
    • [46]1955年11月25日に紙パルプ業界で初のデミング賞実施賞を受賞した
    • [47]1953年11月から二週間を一周期とする13日操業の隔週休日制を実施した
    • [48]対策を講じても収益は回復しなかった
    • [49]1956年4月に山内聰副社長と五十嵐勇・福山榮・福原千二の三専務が退任した
    • [50]退任の理由は業績不振であり発足以来の経営首脳が交代した
    • [51]1949年の分割から1956年の経営陣交代まで七年が経過した

王子の副社長を迎え、釧路に社運を賭ける

本州製紙百年のためと述べた新しい社長

1956年5月、王子製紙副社長の木下又三郎氏[52]が本州製紙の取締役に就いた。就任にあたって木下氏は三つの方針[53]を述べた。技術と経営は不可分であること[54]、計画は目前の小利にとらわれず長期的観点に立つこと、そして良質な原料パルプを最も低廉に自給するには、低廉かつ高歩留りの広葉樹の地域を確保し、これを基地とする恒久的なパルプ製造施設を持つこと[55]が重要な問題であること。三つめが後の釧路工場[56]につながった。木下氏は基本計画の遂行には鉄の闘志と莫大な資金が要り、難事中の難事である[57]とも付け加えた。友人からは、火中の栗を拾うより王子の副社長でいた方がよい[58]と言われていた。

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第四章「再建第一期」
    • [52]1956年5月に王子製紙副社長の木下又三郎が本州製紙取締役に就任した
    • [53]木下又三郎は取締役就任にあたり三つの方針を表明した
    • [54]就任時の方針の第一は技術と経営が不可分であることだった
    • [55]低廉かつ高歩留りの広葉樹地域を確保し恒久的パルプ製造施設を持つことを重要問題に挙げた
    • [57]基本計画の遂行には鉄の闘志と莫大な資金が必要で難事中の難事であると述べた
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [56]広葉樹地域を基地とする恒久的パルプ製造施設の構想が釧路工場となった
  • 私の履歴書 経済人12「木下又三郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [58]木下又三郎は友人から火中の栗を拾うより王子の副社長でいた方がよいと言われていた

木下氏は就任直後に七つの工場を回り[59]、所見を残した。現場の従業員が会社の危機を認識して再建に努めており、この情熱に正しい基本方針を与えれば数年のうちに王子・十条と比肩できる[60]と書いたうえで、現在二社に比して劣勢にある会社[61]を一日も早く昔日以上の優良会社にしなければならないと記した。1956年8月21日、ライン業務から離れた企画スタッフによる臨時総合企画室[62]を設けた。同年11月26日の役員会で木下氏が代表取締役社長に就き[63]、田辺武次氏は会長へ退いた。王子製紙取締役技術部長の堀義雄氏、北日本製紙常務の森田亀雄氏ら五人の新役員[64]を社内外から迎え、木下氏自身も王子製紙副社長の職を投げうって本州の再建に専念した[65]

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第四章「再建第一期」
    • [59]木下は就任直後に直轄七工場を視察し所見を残した
    • [60]木下は工場視察の所見で情熱に基本方針を与えれば王子十条と比肩できると述べた
    • [61]木下は現在二社に比して劣勢にある会社という認識を示した
    • [62]1956年8月21日に臨時総合企画室を設置した
    • [63]1956年11月26日の役員会で木下又三郎が代表取締役社長に就任し田辺武次は会長になった
    • [64]王子製紙取締役技術部長の堀義雄と北日本製紙常務の森田亀雄ら五人の新役員を迎えた
    • [65]木下は王子製紙副社長の職を辞して本州製紙の再建に専念した

1957年1月、工事資金約16億円を投じる第一次合理化工事計画[66]が決まった。続いて3月には約13億円の第二次合理化工事計画が決まり、江戸川工場に日産70トンのSCP設備[67]を新設した。この二つの工事で主製品を板紙と薄葉紙に移し、原料を針葉樹から広葉樹へ切り替えて[68]コストを下げた。工事は1958年9月までにすべて完了[69]した。もっとも社史は、既設工場の合理化にはおのずから限界があってそれだけでは会社の基礎が恒久的に安定するとはいえない[70]と書き、第一次合理化工事はあくまでも当面の補強策にすぎない[71]と位置づけた。

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第四章「再建第一期」
    • [66]1957年1月に工事資金約16億円の第一次合理化工事計画を決定した
    • [67]1957年3月に約13億円の第二次合理化工事計画を決定し江戸川工場に日産70トンのSCP設備を設けた
    • [68]二つの合理化工事で主製品を板紙と薄葉紙に移し原料を針葉樹から広葉樹へ切り替えた
    • [69]合理化工事は1958年9月までにすべて完了した
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [70]社史は既設工場の合理化には限界があり会社の基礎が恒久的に安定するとはいえないと記した
    • [71]社史は第一次合理化工事を当面の補強策にすぎないと位置づけた
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第四章「再建第一期」
    • [52]1956年5月に王子製紙副社長の木下又三郎が本州製紙取締役に就任した
    • [53]木下又三郎は取締役就任にあたり三つの方針を表明した
    • [54]就任時の方針の第一は技術と経営が不可分であることだった
    • [55]低廉かつ高歩留りの広葉樹地域を確保し恒久的パルプ製造施設を持つことを重要問題に挙げた
    • [57]基本計画の遂行には鉄の闘志と莫大な資金が必要で難事中の難事であると述べた
    • [59]木下は就任直後に直轄七工場を視察し所見を残した
    • [60]木下は工場視察の所見で情熱に基本方針を与えれば王子十条と比肩できると述べた
    • [61]木下は現在二社に比して劣勢にある会社という認識を示した
    • [62]1956年8月21日に臨時総合企画室を設置した
    • [63]1956年11月26日の役員会で木下又三郎が代表取締役社長に就任し田辺武次は会長になった
    • [64]王子製紙取締役技術部長の堀義雄と北日本製紙常務の森田亀雄ら五人の新役員を迎えた
    • [65]木下は王子製紙副社長の職を辞して本州製紙の再建に専念した
    • [66]1957年1月に工事資金約16億円の第一次合理化工事計画を決定した
    • [67]1957年3月に約13億円の第二次合理化工事計画を決定し江戸川工場に日産70トンのSCP設備を設けた
    • [68]二つの合理化工事で主製品を板紙と薄葉紙に移し原料を針葉樹から広葉樹へ切り替えた
    • [69]合理化工事は1958年9月までにすべて完了した
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [56]広葉樹地域を基地とする恒久的パルプ製造施設の構想が釧路工場となった
    • [70]社史は既設工場の合理化には限界があり会社の基礎が恒久的に安定するとはいえないと記した
    • [71]社史は第一次合理化工事を当面の補強策にすぎないと位置づけた
  • 私の履歴書 経済人12「木下又三郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [58]木下又三郎は友人から火中の栗を拾うより王子の副社長でいた方がよいと言われていた

他社が手をつけていない紙を選んだ理由

1956年6月、木下氏は麹町三番町の本州荘に原料担当の吉見敏夫取締役と長井山林副部長を招き[72]、五項目を命じた。新設工場の優良立地を早急に調査すること、原料に関し恒久的な競争力を持つこと、第二期・第三期の増設拡充の負担に耐えうる原料対策を考えること[73]、立地は北海道と東北を目標とするがさらに適地があれば国内いずれの地でもよい[74]こと、そして立地調査は絶対に秘密を守ることである。調査担当者は変名の名刺をこしらえて現地に入った[75]。北見・釧路・函館・八雲・留萠の五地区[76]を回り、広葉樹が針葉樹ともに内地より石当たり300円安い[77]ことを確かめた。

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [72]1956年6月に木下は本州荘で吉見敏夫取締役と長井山林副部長に五項目を命じた
    • [73]第三項は第二期第三期の増設拡充の負担に耐えうる原料対策を考えることだった
    • [74]立地は北海道と東北を目標とするが適地があれば国内どこでもよいとした
    • [75]立地調査は秘密保持が命じられ調査担当者は変名の名刺を用意して現地へ入った
    • [76]候補地は北見・釧路・函館・八雲・留萠の五地区だった
    • [77]北海道の原木は針広葉樹とも発駅渡しで内地価格より石当たり300円安かった

製品の選定には五つの基準[78]を置いた。市場性の大きいもの、原料の安定したもの、新技術を取り入れたもの、公共性の大きいもの[79]、そして他社に計画がなく無用の競争が避けられるもの[80]である。新聞巻取・上質印刷紙・重包装紙・クラフト段ボール原紙を比べた[81]結果、五項目を満たすのは段ボール原紙だけだった[82]。木下氏は後年、業界の競合を避けるため他社が手をつけていない紙、将来無限の発展性があり、しかも大企業化していない紙[83]を選んだと総括した。分割で分けられた王子・十條と同じ土俵に立たないことが、この選択の条件[84]に組み込まれていた。

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [78]新工場の製品選定には五つの基準が置かれた
    • [79]製品選定の五基準は市場性・原料の安定・新技術・公共性・競争回避だった
    • [80]第五の基準は他社に計画がなく無用の競争が避けられるものだった
    • [81]新聞巻取・上質印刷紙・重包装紙・クラフト段ボール原紙を比較検討した
    • [82]五項目を満たす製品は段ボール原紙のみだった
    • [83]木下は業界の競合を避けるため他社が手をつけていない紙を選んだと総括した
    • [84]競争回避が製品選定基準の一項目として明記されていた

市場の読みは米国の先例[85]に拠った。すなわち米国では故紙を原料とするジュートライナーから長網式によるクラフトライナーへの移行が決定的となった1940年ごろ[86]を境に、段ボール箱が潜在需要を掘り起こして木箱をほとんど駆逐していた[87]。日本で木箱が支配的なままなのは、ライナーが故紙原料で品質と強度が足りないから[88]だと社史は書く。強いライナーを安く作ることがすべてを解決する鍵[89]であり、企画室は広葉樹でも蒸煮と叩解に新技術を取り入れれば優良なライナーを低コストで作れる[90]という確信を高めていた。1956年の閣議決定『木材資源利用合理化方策』が木箱から段ボール箱への転換を促していた[91]ことも、公共性という基準にかなった。

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [85]需要予測は米国の段ボール普及の歴史を根拠とした
    • [86]米国では1940年ごろにジュートライナーからクラフトライナーへの移行が決定的になった
    • [87]米国では段ボール箱が木箱をほとんど駆逐した
    • [88]日本で木箱が支配的なのはライナーが故紙原料で品質と強度が不足するためだった
    • [89]社史は強いライナーを安く作ることがすべてを解決する鍵だと記した
    • [90]企画室は広葉樹でも蒸煮と叩解の新技術で優良なライナーを低コストで作れると判断した
    • [91]1956年の閣議決定である木材資源利用合理化方策が木箱から段ボール箱への転換を促していた
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [72]1956年6月に木下は本州荘で吉見敏夫取締役と長井山林副部長に五項目を命じた
    • [73]第三項は第二期第三期の増設拡充の負担に耐えうる原料対策を考えることだった
    • [74]立地は北海道と東北を目標とするが適地があれば国内どこでもよいとした
    • [75]立地調査は秘密保持が命じられ調査担当者は変名の名刺を用意して現地へ入った
    • [76]候補地は北見・釧路・函館・八雲・留萠の五地区だった
    • [77]北海道の原木は針広葉樹とも発駅渡しで内地価格より石当たり300円安かった
    • [78]新工場の製品選定には五つの基準が置かれた
    • [79]製品選定の五基準は市場性・原料の安定・新技術・公共性・競争回避だった
    • [80]第五の基準は他社に計画がなく無用の競争が避けられるものだった
    • [81]新聞巻取・上質印刷紙・重包装紙・クラフト段ボール原紙を比較検討した
    • [82]五項目を満たす製品は段ボール原紙のみだった
    • [83]木下は業界の競合を避けるため他社が手をつけていない紙を選んだと総括した
    • [84]競争回避が製品選定基準の一項目として明記されていた
    • [85]需要予測は米国の段ボール普及の歴史を根拠とした
    • [86]米国では1940年ごろにジュートライナーからクラフトライナーへの移行が決定的になった
    • [87]米国では段ボール箱が木箱をほとんど駆逐した
    • [88]日本で木箱が支配的なのはライナーが故紙原料で品質と強度が不足するためだった
    • [89]社史は強いライナーを安く作ることがすべてを解決する鍵だと記した
    • [90]企画室は広葉樹でも蒸煮と叩解の新技術で優良なライナーを低コストで作れると判断した
    • [91]1956年の閣議決定である木材資源利用合理化方策が木箱から段ボール箱への転換を促していた

資本金20億円の会社が80億円を借りた

原料の裏づけは行政[92]から取った。北海道では帯広営林局長の安岡博氏は、不良広葉樹の有効利用ができない限り北海道の更新は不可能だ[93]として、王子製紙苫小牧工場や国策パルプ旭川工場など道内四社に雑木の利用を勧めていた[94]。この構想を傍系の北見パルプ経由で掴んだ木下氏は、他社との競合が生じる前に手を打つと決め、1956年12月27日の帯広営林局の御用納めの日に担当者を現地へ派遣[95]し、道東地区の不良広葉樹の利用を本州製紙に一任してほしいと申し入れた。帯広営林局管内の国有林からは低品位の雑木が年間約100万石増産される見通し[96]で、安岡氏は有償処分の確実な相手方を求めていた[97]。翌1957年1月には木下氏自身が林野庁[98]を訪ねた。

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [92]原木の確保は林野庁と営林局との折衝によって進められた
    • [93]帯広営林局長の安岡博は不良広葉樹の利用なしに北海道の更新は不可能だとしていた
    • [94]安岡は王子製紙苫小牧工場や国策パルプ旭川工場など道内四社に雑木利用を勧めていた
    • [95]1956年12月27日の帯広営林局御用納めの日に担当者を派遣し一任を申し入れた
    • [96]帯広営林局管内の国有林から低品位の雑木が年間約100万石増産される見通しだった
    • [97]安岡は有償処分のできる確実な相手方を求めていた
    • [98]1957年1月に木下自身が林野庁を訪問した

建設資金は80億円余[99]に上った。1953年10月にようやく20億円へ増資したばかり[100]の会社にとって、その調達は容易ではない。社史は、所要資金のほとんど全額を借入金で賄わなければならない計画はいかに考えても一大冒険であったといわざるを得ない[101]と記す。1957年後半には政府の金融引き締めが強まり、日銀の窓口指導もあって三井・勧銀・住友・長期信用銀行など主力銀行の要請で新工場建設は一時延期[102]に追い込まれた。突破口は北海道東北開発公庫[103]で、松田令輔総裁以下が協力を惜しまず[104]、これをきっかけに市中各行も内諾した。さらに1957年9月には第一生命・三井生命・日本生命の三社へ説明会を開き、資金需給計画の30%余を引き受けてもらった[105]

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [99]釧路工場の建設資金は80億円余に上った
    • [100]1953年10月に増資した資本金は20億円だった
    • [101]社史はほぼ全額借入で賄う計画を一大冒険であったといわざるを得ないと記した
    • [102]1957年後半に日銀の窓口指導と主力銀行の要請で新工場建設は一時延期となった
    • [103]資金調達の突破口は北海道東北開発公庫からの融資だった
    • [104]北海道東北開発公庫の松田令輔総裁以下が協力し市中各行の内諾につながった
    • [105]1957年9月に生保三社が資金需給計画の30%余を引き受けた

用地は釧路市郊外の大楽毛[106]に求め、1957年3月に佐熊宏平市長が単身上京して木下社長に会い[107]、会社側は工場用地60万坪の提供、操業後5年間の市町村税免除[108]、水利と排水の処置という三条件を示した。市議会は4月に全員賛同し、5月17日の覚書を経て7月14日に正式契約を結んだ[109]。1958年7月31日に鍬入式を行い[110]、盛土と整地を含む建設開始からわずか1年半で工場が完成する。1959年6月に運転を開始し、9月15日に建設部を解散して釧路工場が発足[111]した。竣工式は10月7日、会社創立十周年[112]と同じ年である。日産150トンのKP連続蒸解設備二基と208吋抄紙機一台を備え、段ボール箱の原紙を年間約10万トン生産する計画[113]だった。

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [106]新工場の用地は釧路市郊外の大楽毛に求めた
    • [107]1957年3月に釧路市の佐熊宏平市長が単身上京して木下社長に面会した
    • [108]会社側は工場用地60万坪の提供と操業後5年間の市町村税免除を条件に示した
    • [109]1957年5月17日に覚書を結び7月14日に正式契約を締結した
    • [110]1958年7月31日に鍬入式を行った
    • [111]1959年6月に運転を開始し9月15日に建設部を解散して釧路工場が発足した
    • [112]竣工式は1959年10月7日で会社創立十周年と重なった
    • [113]日産150トンのKP連続蒸解設備二基と208吋抄紙機一台で年産約10万トンを計画した
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [92]原木の確保は林野庁と営林局との折衝によって進められた
    • [93]帯広営林局長の安岡博は不良広葉樹の利用なしに北海道の更新は不可能だとしていた
    • [94]安岡は王子製紙苫小牧工場や国策パルプ旭川工場など道内四社に雑木利用を勧めていた
    • [95]1956年12月27日の帯広営林局御用納めの日に担当者を派遣し一任を申し入れた
    • [96]帯広営林局管内の国有林から低品位の雑木が年間約100万石増産される見通しだった
    • [97]安岡は有償処分のできる確実な相手方を求めていた
    • [98]1957年1月に木下自身が林野庁を訪問した
    • [99]釧路工場の建設資金は80億円余に上った
    • [100]1953年10月に増資した資本金は20億円だった
    • [101]社史はほぼ全額借入で賄う計画を一大冒険であったといわざるを得ないと記した
    • [102]1957年後半に日銀の窓口指導と主力銀行の要請で新工場建設は一時延期となった
    • [103]資金調達の突破口は北海道東北開発公庫からの融資だった
    • [104]北海道東北開発公庫の松田令輔総裁以下が協力し市中各行の内諾につながった
    • [105]1957年9月に生保三社が資金需給計画の30%余を引き受けた
    • [106]新工場の用地は釧路市郊外の大楽毛に求めた
    • [107]1957年3月に釧路市の佐熊宏平市長が単身上京して木下社長に面会した
    • [108]会社側は工場用地60万坪の提供と操業後5年間の市町村税免除を条件に示した
    • [109]1957年5月17日に覚書を結び7月14日に正式契約を締結した
    • [110]1958年7月31日に鍬入式を行った
    • [111]1959年6月に運転を開始し9月15日に建設部を解散して釧路工場が発足した
    • [112]竣工式は1959年10月7日で会社創立十周年と重なった
    • [113]日産150トンのKP連続蒸解設備二基と208吋抄紙機一台で年産約10万トンを計画した

産業用紙の本州製紙と呼ばれるまでの五年

文化用紙の会社が五年で入れ替わった

転換は数字に[114]表れており、1957年上期に売上の16%だった板紙系統は1962年上期に56%となり[115]、薄葉紙を合わせた産業用紙は33%から70%へ増えた[116]。同じ五年で売上高は2倍[117]になった。社史はこの期間を、1957年1月に会社再建にふみ切って以来の苦節五カ年[118]と表現した。1962年末の国内シェアはKライナーが90%強[119]、セミ中芯が48%、グラシンペーパーが57%、コンデンサペーパーが75%[120]で、いずれも業界第一位である。生産量は1950年の69,099トンから1961年には406,337トン[121]へ増えた。上質紙で王子・十條と競っていた会社は、五年でまったく違う品目の会社[122]になった。

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第六章「発展期」
    • [114]製品構成の転換は売上構成比の数値に表れた
    • [115]板紙系統の売上構成比は1957年上期の16%から1962年上期の56%へ上昇した
    • [116]薄葉紙を含む産業用紙の構成比は33%から70%へ増えた
    • [117]1957年上期から1962年上期の五年で売上高は2倍になった
    • [118]社史は1957年1月に会社再建にふみ切って以来の苦節五カ年と記した
    • [119]1962年末のKライナー国内シェアは90%強で業界第一位だった
    • [120]セミ中芯48%グラシンペーパー57%コンデンサペーパー75%でいずれも第一位だった
    • [121]生産量は1950年の69,099トンから1961年の406,337トンへ増加した
    • [122]上質紙中心の会社は五年で産業用紙中心の会社に変わった

釧路が伸びる裏で内地の工場は作るものを変え[123]、1961年1月に富士工場の七号抄紙機を新聞用紙から白板紙抄造へ改造[124]し、熊野工場の一号機と中津工場の三号機は停抄した[125]。中津工場は薄葉紙とコンデンサ用紙の専門工場へ、熊野工場は上質紙から低圧コンデンサペーパーへ体質を改めた[126]。1961年末から1962年後半にかけては、富士・中津のSP設備10基のうち8基とGP5台を止め[127]、割高な自製パルプを輸入パルプに切り替えた。余った人員は配置転換[128]で吸収した。釧路第二期のCGP中芯設備は工費約50億円をかけて1960年3月に着工し、着工から10か月で1961年1月に完成[129]した。

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [123]釧路の拡張と並行して内地各工場の抄造品目を転換した
    • [125]熊野工場一号機と中津工場三号機を停抄した
    • [128]設備転換で生じた余剰人員は配置転換で吸収した
    • [129]釧路第二期のCGP中芯設備は工費約50億円で1960年3月着工1961年1月完成だった
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)年表
    • [124]1961年1月に富士工場七号抄紙機を新聞用紙から白板紙抄造へ改造した
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号 栖原亮
    • [126]中津工場は薄葉紙とコンデンサ用紙へ熊野工場は低圧コンデンサペーパーへ転換した
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第六章「発展期」
    • [127]1961年末から1962年後半に富士・中津のSP設備10基中8基とGP5台を停止した
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第六章「発展期」
    • [114]製品構成の転換は売上構成比の数値に表れた
    • [115]板紙系統の売上構成比は1957年上期の16%から1962年上期の56%へ上昇した
    • [116]薄葉紙を含む産業用紙の構成比は33%から70%へ増えた
    • [117]1957年上期から1962年上期の五年で売上高は2倍になった
    • [118]社史は1957年1月に会社再建にふみ切って以来の苦節五カ年と記した
    • [119]1962年末のKライナー国内シェアは90%強で業界第一位だった
    • [120]セミ中芯48%グラシンペーパー57%コンデンサペーパー75%でいずれも第一位だった
    • [121]生産量は1950年の69,099トンから1961年の406,337トンへ増加した
    • [122]上質紙中心の会社は五年で産業用紙中心の会社に変わった
    • [127]1961年末から1962年後半に富士・中津のSP設備10基中8基とGP5台を停止した
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [123]釧路の拡張と並行して内地各工場の抄造品目を転換した
    • [125]熊野工場一号機と中津工場三号機を停抄した
    • [128]設備転換で生じた余剰人員は配置転換で吸収した
    • [129]釧路第二期のCGP中芯設備は工費約50億円で1960年3月着工1961年1月完成だった
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)年表
    • [124]1961年1月に富士工場七号抄紙機を新聞用紙から白板紙抄造へ改造した
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号 栖原亮
    • [126]中津工場は薄葉紙とコンデンサ用紙へ熊野工場は低圧コンデンサペーパーへ転換した

原料と市場を海外に求めた1960年代後半

段ボール原紙の会社になっても原木の問題[130]は消えず、1964年8月に釧路第三期工事を起工し、1965年9月に完成させて[131]能力を積み増す一方、原料の調達先を海外へ広げた。カナダのブリティッシュコロンビア州では、三菱商事とともにクレストブルック・フォレスト・インダストリーズへ出資し、日本側が52%を握って[132]日産450トンの晒クラフトパルプ工場を建設した。パルププラントに130億円、製材工場二か所に約17億円、合計約150億円[133]を全額日本側で調達した。米国サクラメントからは25,000トン型の専用船で針葉樹チップを年間30万立方メートル[134]釧路工場へ運び、パプアニューギニアでは広葉樹の一年間の調査を終えて年間30万立方メートルのチップ調達[135]に入った。

  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号 栖原亮
    • [130]産業用紙へ転換した後も原木確保は経営課題であり続けた
    • [132]カナダのクレストブルックに三菱商事とともに出資し日本側が52%を保有した
    • [133]日産450トンの晒クラフトパルプ工場でパルププラント130億円製材17億円の合計約150億円を要した
    • [134]米国サクラメントから25,000トン型専用船で年間30万立方メートルのチップを釧路へ運んだ
    • [135]パプアニューギニアで年間30万立方メートルのチップ調達に入った
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)年表
    • [131]1964年8月に釧路第三期工事を起工し1965年9月に完成した

規模の差は縮まら[136]なかった。すなわち1966年に世界最大の製紙会社である米インターナショナル・ペーパーの売上高は5,220億円[137]で、同じ年の東京証券取引所一部上場の紙パルプ約20社の売上高合計5,048億円[138]を上回っていた。王子・十条・本州の三社を足してもIPの半分に届かず、純益では8分の1以下だった[139]。1968年3月、三社は合併の覚書に調印して公正取引委員会に事前審査を申し入れたが、認められずに断念[140]した。旧王子を三つに割った国が、19年後に三つを一つに戻すことを認めなかった[141]。専務取締役の栖原亮氏は1970年の講演で、日本の紙パルプ産業の国際競争力にはいろいろ問題がある[142]と述べた。

  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号 栖原亮
    • [136]日本の製紙各社と米国大手との規模差は縮小しなかった
    • [137]1966年の米インターナショナル・ペーパーの売上高は5,220億円だった
    • [138]同年の東証一部上場の紙パルプ約20社の売上高合計は5,048億円だった
    • [139]王子十条本州の三社合計でもIPの売上高の半分に届かず純益は8分の1以下だった
    • [142]栖原亮専務は1970年の講演で日本の紙パルプ産業の国際競争力に問題があると述べた
  • 日本産業史 第4巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-増設ラッシュで不況に」
    • [140]1968年3月に三社は合併覚書へ調印し公正取引委員会に事前審査を申し入れたが断念した
    • [141]1949年に三分割を命じた国は1968年の三社合併を認めなかった
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号 栖原亮
    • [130]産業用紙へ転換した後も原木確保は経営課題であり続けた
    • [132]カナダのクレストブルックに三菱商事とともに出資し日本側が52%を保有した
    • [133]日産450トンの晒クラフトパルプ工場でパルププラント130億円製材17億円の合計約150億円を要した
    • [134]米国サクラメントから25,000トン型専用船で年間30万立方メートルのチップを釧路へ運んだ
    • [135]パプアニューギニアで年間30万立方メートルのチップ調達に入った
    • [136]日本の製紙各社と米国大手との規模差は縮小しなかった
    • [137]1966年の米インターナショナル・ペーパーの売上高は5,220億円だった
    • [138]同年の東証一部上場の紙パルプ約20社の売上高合計は5,048億円だった
    • [139]王子十条本州の三社合計でもIPの売上高の半分に届かず純益は8分の1以下だった
    • [142]栖原亮専務は1970年の講演で日本の紙パルプ産業の国際競争力に問題があると述べた
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)年表
    • [131]1964年8月に釧路第三期工事を起工し1965年9月に完成した
  • 日本産業史 第4巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-増設ラッシュで不況に」
    • [140]1968年3月に三社は合併覚書へ調印し公正取引委員会に事前審査を申し入れたが断念した
    • [141]1949年に三分割を命じた国は1968年の三社合併を認めなかった

不況カルテルと設備廃棄に追われた十年

1974年、釧路工場は第四期工事で日産700トンの抄紙機を加え[143]、単一の製紙工場として世界最大規模の日産2,000トンに達した。第四期だけで約200億円[144]を投じた。同じ1974年11月に栖原亮氏が社長[145]へ就いた。しかし二度の石油危機の後、紙パルプ業界は需給ギャップの調整に明け暮れる[146]。1977年9月に段ボール原紙業界が不況カルテルを結成し、1978年末にはクラフト紙[147]が続いた。1983年には板紙が特定産業構造改善臨時措置法の指定を受け、現有設備の19.8%を1987年6月末までに処理する計画[148]をまとめた。板紙は1978年にも特定産業安定臨時措置法で能力の15%程度を廃棄[149]しており、1980年代に二度の設備処理を行った。

  • 日経ビジネス 1975年2月17日号
    • [143]1974年の釧路第四期工事で日産700トンの抄紙機を加え日産2,000トンに達した
    • [144]第四期工事には約200億円を投じた
  • 日経ビジネス 1975年1月6日号
    • [145]1974年11月に栖原亮が社長に就任した
  • 日本産業史 第3巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-不況カルテルから設備廃棄へ」
    • [146]二度の石油危機後の紙パルプ業界は需給ギャップの調整に追われた
    • [147]1977年9月に段ボール原紙業界が不況カルテルを結成し1978年末にクラフト紙が続いた
    • [148]1983年に板紙が産構法の指定を受け現有設備の19.8%を1987年6月末までに処理する計画をまとめた
    • [149]板紙は1978年にも特安法で能力の15%程度を廃棄していた

業界再編のなかで本州製紙も規模[150]を足し、1983年4月に福岡製紙と東信製紙[151]を合併した。1982年6月末には10年続いた製品別事業本部制をやめ、子会社を統括する関連事業室を関連事業部へ格上げ[152]した。当時、支配力の及ぶ子会社は42社、その総売上高は4,000億円を超えていた[153]。会長となった栖原亮氏は1983年、ノスタルジーではメシは食えない[154]と語り、紙だけに寄りかからない事業構成を求めた。紙以外の事業を伸ばす一方で、四次にわたる釧路への投資と二度の設備処理[155]は借入金として帳簿に残った。洋紙大手七社の売上高経常利益率は1980年度から1981年度に1%前後まで落ち、需要が戻った1983年度に4.7%、1984年度に5.7%[156]へ回復した。

  • 日本産業史 第3巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-不況カルテルから設備廃棄へ」
    • [150]1980年代の業界再編で本州製紙も同業を合併した
    • [151]1983年4月に福岡製紙と東信製紙を合併した
    • [156]洋紙大手七社の売上高経常利益率は1983年度4.7%1984年度5.7%へ回復した
  • 日経ビジネス 1982年7月12日号
    • [152]1982年6月末に製品別事業本部制を廃止し関連事業室を関連事業部へ格上げした
    • [153]支配力の及ぶ子会社は42社で総売上高は4,000億円を超えていた
  • 日経ビジネス 1983年9月5日号
    • [154]会長の栖原亮は1983年にノスタルジーではメシは食えないと語った
  • 日経ビジネス 1989年1月2日号
    • [155]釧路への連続投資と設備処理により借入金が残った
  • 日経ビジネス 1975年2月17日号
    • [143]1974年の釧路第四期工事で日産700トンの抄紙機を加え日産2,000トンに達した
    • [144]第四期工事には約200億円を投じた
  • 日経ビジネス 1975年1月6日号
    • [145]1974年11月に栖原亮が社長に就任した
  • 日本産業史 第3巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-不況カルテルから設備廃棄へ」
    • [146]二度の石油危機後の紙パルプ業界は需給ギャップの調整に追われた
    • [147]1977年9月に段ボール原紙業界が不況カルテルを結成し1978年末にクラフト紙が続いた
    • [148]1983年に板紙が産構法の指定を受け現有設備の19.8%を1987年6月末までに処理する計画をまとめた
    • [149]板紙は1978年にも特安法で能力の15%程度を廃棄していた
    • [150]1980年代の業界再編で本州製紙も同業を合併した
    • [151]1983年4月に福岡製紙と東信製紙を合併した
    • [156]洋紙大手七社の売上高経常利益率は1983年度4.7%1984年度5.7%へ回復した
  • 日経ビジネス 1982年7月12日号
    • [152]1982年6月末に製品別事業本部制を廃止し関連事業室を関連事業部へ格上げした
    • [153]支配力の及ぶ子会社は42社で総売上高は4,000億円を超えていた
  • 日経ビジネス 1983年9月5日号
    • [154]会長の栖原亮は1983年にノスタルジーではメシは食えないと語った
  • 日経ビジネス 1989年1月2日号
    • [155]釧路への連続投資と設備処理により借入金が残った

主力の釧路を手放し、47年で王子製紙に還る

主力工場を子会社へ譲った1988年

1988年、本州製紙は釧路工場を子会社へ1,198億円で譲渡[157]した。1959年に社運を賭けて建てた工場であり、四次の増設を重ねて日産2,000トンに育てた主力[158]である。譲渡は借入金の返済にあてるための財務上の措置[159]で、会社は主力工場を自社の帳簿から外した。同じ1988年6月、京都大学工学部を出て釧路工場の製造部長を務めた米澤義信氏が社長に就いた[160]。米澤氏は1947年10月に王子製紙へ入社し、翌1949年8月の分割で本州製紙へ移った[161]世代にあたる。釧路を知る技術者が、釧路を手放した後の会社[162]を率いた。

  • 日経ビジネス 1996年4月8日号
    • [157]1988年に釧路工場を子会社へ1,198億円で譲渡した
    • [159]譲渡代金は借入金の返済とグループ企業の経営改善にあてられた
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [158]釧路工場は1959年に建設され四次の増設で日産2,000トンに達した主力工場だった
  • 日経ビジネス 1989年1月2日号
    • [160]1988年6月に釧路工場製造部長を務めた米澤義信が社長に就任した
    • [161]米澤義信は1947年10月に王子製紙へ入社し1949年8月の分割で本州製紙へ移った
    • [162]釧路工場製造部長を務めた米澤義信が釧路譲渡後の社長となった

1990年から1991年にかけて、本州製紙の株式は仕手集団の標的[163]になった。買い集めには広域暴力団の関係者や不動産会社の系列が加わり、シンガポールの実業家との間で一株3,000円の買い取りオプション契約[164]が結ばれた。当時の株価は2,200円前後[165]である。会社側で財務を担当していた専務の大坪孝雄氏は、正式な株主でないので交渉に応じないとして突っぱねた[166]。事件は政界にも波及して報じられ[167]、会社は本業とは別のところで防戦に人手を割いた。大坪氏は1928年に生まれ、1951年に本州製紙へ入社[168]した経理・財務畑の役員だった。

  • 日経ビジネス 1991年9月16日号
    • [163]1990年から1991年にかけて本州製紙株が仕手集団の買い集めの標的になった
    • [164]シンガポールの実業家との間で一株3,000円の買い取りオプション契約が結ばれた
    • [165]当時の本州製紙の株価は2,200円前後だった
    • [167]事件は政界にも波及して報じられた
  • 日経ビジネス 1995年4月3日号
    • [166]財務担当専務の大坪孝雄は正式な株主でないとして交渉を拒んだ
    • [168]大坪孝雄は1928年生まれで1951年に本州製紙へ入社した
  • 日経ビジネス 1996年4月8日号
    • [157]1988年に釧路工場を子会社へ1,198億円で譲渡した
    • [159]譲渡代金は借入金の返済とグループ企業の経営改善にあてられた
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [158]釧路工場は1959年に建設され四次の増設で日産2,000トンに達した主力工場だった
  • 日経ビジネス 1989年1月2日号
    • [160]1988年6月に釧路工場製造部長を務めた米澤義信が社長に就任した
    • [161]米澤義信は1947年10月に王子製紙へ入社し1949年8月の分割で本州製紙へ移った
    • [162]釧路工場製造部長を務めた米澤義信が釧路譲渡後の社長となった
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号
    • [163]1990年から1991年にかけて本州製紙株が仕手集団の買い集めの標的になった
    • [164]シンガポールの実業家との間で一株3,000円の買い取りオプション契約が結ばれた
    • [165]当時の本州製紙の株価は2,200円前後だった
    • [167]事件は政界にも波及して報じられた
  • 日経ビジネス 1995年4月3日号
    • [166]財務担当専務の大坪孝雄は正式な株主でないとして交渉を拒んだ
    • [168]大坪孝雄は1928年生まれで1951年に本州製紙へ入社した

大手五社時代のなかで選んだ王子への合流

1990年代に入ると業界の構図[169]が動いた。まず1988年から4年間の増設ラッシュで主要品種の供給力が30%から60%増え[170]、1989年から市況が急落して戦後最悪といわれる不況になる。1993年4月に十條製紙と山陽国策パルプが合併して日本製紙[171]が、同年10月に王子製紙と神崎製紙が合併して新王子製紙が生まれた[172]。紙パルプ業界は日本製紙・新王子製紙・本州製紙・大昭和製紙・大王製紙の大手五社時代[173]に入った。1992年の紙・板紙の生産シェアは新王子製紙が11.9%、日本製紙が10.2%[174]で、この二社が業界安定の核と目された。1994年6月、東京大学経済学部を出て経理と財務を歩んだ大坪孝雄氏[175]が社長に就任した。

  • 日本産業史 第4巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-増設ラッシュで不況に」
    • [169]1990年代に紙パルプ業界の再編が進んだ
    • [170]1988年から4年間の増設で主要品種の供給力が30%から60%増えた
    • [171]1993年4月に十條製紙と山陽国策パルプが合併して日本製紙が発足した
    • [172]1993年10月に王子製紙と神崎製紙が合併して新王子製紙が発足した
    • [173]業界は日本製紙・新王子製紙・本州製紙・大昭和製紙・大王製紙の大手五社時代に入った
    • [174]1992年の紙板紙シェアは新王子11.9%日本製紙10.2%だった
  • 日経ビジネス 1995年4月3日号
    • [175]1994年6月に経理財務畑の大坪孝雄が社長に就任した

一方、1959年に大楽毛の原野へ建てたクラフトライナー工場は合併後の王子製紙の工場として動き続け[176][177]、段ボール原紙という事業も引き継がれた。木箱を段ボール箱へ置き換える側に回る[178]ことで、上質紙で敗れた会社は37年を生き延びた。合併によって王子製紙は板紙を含むほぼ全品種[179]を抱えることになり、製紙業界の再編は次の段階へ進んだ。

  • 日本産業史 第4巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-増設ラッシュで不況に」
    • [176]合併後も釧路工場と段ボール原紙事業は存続した
    • [177]釧路のクラフトライナー工場は合併後も王子製紙の工場として操業を続けた
    • [179]神崎に続く本州の合併で王子製紙は板紙を含む全品種を持つに至った
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [178]木箱から段ボール箱への転換を担うことで会社は存続した
  • 日本産業史 第4巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-増設ラッシュで不況に」
    • [169]1990年代に紙パルプ業界の再編が進んだ
    • [170]1988年から4年間の増設で主要品種の供給力が30%から60%増えた
    • [171]1993年4月に十條製紙と山陽国策パルプが合併して日本製紙が発足した
    • [172]1993年10月に王子製紙と神崎製紙が合併して新王子製紙が発足した
    • [173]業界は日本製紙・新王子製紙・本州製紙・大昭和製紙・大王製紙の大手五社時代に入った
    • [174]1992年の紙板紙シェアは新王子11.9%日本製紙10.2%だった
    • [176]合併後も釧路工場と段ボール原紙事業は存続した
    • [177]釧路のクラフトライナー工場は合併後も王子製紙の工場として操業を続けた
    • [179]神崎に続く本州の合併で王子製紙は板紙を含む全品種を持つに至った
  • 日経ビジネス 1995年4月3日号
    • [175]1994年6月に経理財務畑の大坪孝雄が社長に就任した
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [178]木箱から段ボール箱への転換を担うことで会社は存続した

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本州製紙の沿革1949〜1996年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1949〜1956年七つの工場を継ぎ、山林を持たずに始まった会社過度経済力集中排除法による王子製紙の3分割で発足★★★
本州製紙労働組合が結成
江戸川工場の戦災第一号抄紙機が復旧し運転開始
東京・大阪両証券取引所に株式を上場
米チャンピオン社とマシンコーチング特許の実施権譲渡契約を締結★★
国内初のMCペーパーを発売★★
倍額増資により資本金5億円
再評価積立金の資本組入れにより資本金10億円
倍額増資により資本金20億円
北見パルプへ経営参画
デミング賞実施賞を受賞★★
副社長と3人の専務が一斉に辞任★★
木下又三郎氏が社長に就任し田辺武次氏は会長へ★★
1956〜1961年王子の副社長を迎え、釧路に社運を賭ける第一次・第二次合理化工事の決定と、釧路への段ボール原紙工場の新設

1949年の王子製紙分割で発足した本州製紙が、原料高と製品安による二度の減配と1956年4月の経営首脳の退陣を経て、1957年1月に工事資金約16億円の第一次合理化工事計画、3月に約13億円の第二次、あわせて釧路への段ボール原紙工場の新設を決めた再建計画。

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★★★
釧路市と新工場建設の契約を締結★★
江戸川工場の排水に抗議した漁民が工場へ侵入★★
釧路工場を起工
国内初のクラフトライナー工場として釧路工場が竣工★★★
富士工場の新聞用紙抄紙機を白板紙抄造へ改造★★
六角形の鳩マークを社章に採用
1961〜1987年産業用紙の本州製紙と呼ばれるまでの五年エンジニアリングサービス部を設置し技術輸出を開始
倍額増資により資本金40億円
会長の田辺武次氏が死去
釧路工場第三期工事が完成★★
新社屋の本州ビルディングが完成
王子製紙・十條製紙との3社合併覚書に調印★★
カナダの合弁パルプ会社クレストブルックが操業開始★★
釧路工場第四期工事が完成し日産2,000トン体制へ★★
栖原亮氏が社長に就任
福岡製紙・東信製紙を合併★★
1988〜1996年主力の釧路を手放し、47年で王子製紙に還る主力・釧路工場の子会社への譲渡と、譲渡代金1,198億円の借入金返済への充当

1988年、本州製紙が主力の釧路工場を子会社へ1,198億円で譲渡し、代金を借入金の返済にあてた経営判断。1959年に会社の立て直しを賭けて建て、四次の増設で日産2,000トンに育てた設備を、本体の帳簿から外した。同じ1988年6月には、釧路工場の製造部長を務めた米澤義信氏が社長に就いている。

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★★★
米澤義信氏が社長に就任
仕手集団による株式の買い集めが表面化★★
大坪孝雄氏が社長に就任
本州製紙との合併と、47年ぶりの「王子製紙」への社名復帰

1996年3月29日、新王子製紙が板紙最大手の本州製紙との合併を発表した経営判断。同年10月1日に合併し、社名は1949年の分割で失った『王子製紙』へ戻った。1993年の神崎製紙との合併に続く連続合併で、十條を除く旧王子2社の再統合が成った。

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★★★
出典・参考
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第一章「発足期」
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第二章「激動期」
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)年表
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第三章「苦難期」
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第四章「再建第一期」
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第六章「発展期」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「本州製紙」の項
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「本州製紙」の項
  • 日本産業史 第4巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-増設ラッシュで不況に」
  • 日本産業史 第3巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-不況カルテルから設備廃棄へ」
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号 栖原亮
  • 日経ビジネス 1975年2月17日号
  • 日経ビジネス 1975年1月6日号
  • 日経ビジネス 1982年7月12日号
  • 日経ビジネス 1983年9月5日号
  • 日経ビジネス 1989年1月2日号
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号
  • 日経ビジネス 1995年4月3日号
  • 日経ビジネス 1996年4月8日号
  • 私の履歴書 経済人12「木下又三郎」(日本経済新聞社、1980年)

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