1949年8月1日、過度経済力集中排除法にもとづく王子製紙の三分割[1]によって本州製紙が発足した。同じ日に生まれた三社のうち、苫小牧製紙は資本金4億円[2]で苫小牧工場を、十条製紙は資本金2億8,000万円[3]で十条・釧路・伏木・都島・小倉・八代・坂本の各工場を継いだ。本州製紙の資本金は2億5,000万円[4]で三社のなかで最も小さく、江戸川・富士・岩淵・中津・淀川・熊野の六製紙工場と名古屋化学工場[5]、それに潤井川電気事務所を引き継いだ。初代社長には旧王子製紙副社長の田辺武次氏[6]が就いた。本社は東京都中央区銀座東五丁目の貸ビル[7]に置き、9月に明け渡しを受けてここを本拠とした。
三社の分け方は工場だけでなく原料の裏づけ[8]にも及び、苫小牧製紙は旧王子で最大の苫小牧工場を、十条製紙は新聞用紙の量産型工場を受け取り、いずれも工場の原木消費能力に見合う山林を割り当てられた[9]。これに対し本州製紙が譲り受けた社有林は、奈良県吉野郡の大台、山梨県の奈良田と佐野の三か所[10]、合わせて1,204町余[11]にとどまった。発足から1950年半ばまでの原木所要量は年間65万石[12]で、その半分は社外からの買入れ材に頼らざるを得なかった[13]。関東以西に散らばる工場はいずれも原木を遠方から運ぶことになり、原木高という条件を初めから背負った[14]。
発足直後の本州製紙が主力に据えたのは、高級板紙・上質紙・薄葉紙・特殊紙[15]だった。1950年3月に米チャンピオン社からマシンコーチングの特許実施権を譲り受け[16]、同年10月には江戸川工場の一号抄紙機と富士工場の五号抄紙機[17]に設備を取り付けて、国内で最初のMCペーパーを市場へ送り出した[18]。江戸川の製品は雑誌の口絵に、富士の製品は日本専売公社のたばこの紙箱用紙に採用された[19]。同じ1950年10月には江戸川工場内に中央研究所を開設した[20]。分割で旧王子の研究部門が十条製紙へ移ったため、それまで東京大学農学部の木材化学教室に間借りして研究を続けていた[21]。
朝鮮動乱の特需は製紙業に二つの相反する作用[22]をもたらし、パルプの逼迫で輸入パルプはトン当たり100ドル以下から180ドル以上へ急騰した[23]一方、紙の値上がりと生産の増強がこれを上回った。本州製紙は1951年上期に約13億円の利益を計上して年4割の配当を実施[24]し、下期も10億円余の利益で年3割を配当した[25]。資本の増強も続き、1950年11月に倍額増資で資本金を5億円とし[26]、1951年12月には固定資産再評価積立金の一部を組み入れる無償増資で10億円[27]とした。1951年8月には旧王子製紙の歴代社長である藤原銀次郎氏、高島菊次郎氏、足立正氏の三氏を社賓に迎えた[28]。
動乱の終結とともに反動[29]が来て、1952年5月の紙価は前年6月に比べて上質紙で3割余[30]、更紙で2割余下がり、同じ時期の在庫は1951年3月の3.5倍に膨らんだ[31]。原木はこれと逆に[32]動き、1951年7月に公布された改正森林法が伐採を制限し[33]、1953年秋の相次ぐ風水害が拍車をかけて、赤松の石当たり価格は1954年初頭に発駅で2,000円を突破した[34]。本州製紙の設備では原木が石当たり100円上がるとSPはポンド当たり80銭、GPは40銭のコスト増[35]になった。社史は当時の業界を『原価は約二割しか下がらないのに、売価が四割も下がった』[引用元]と記した。全国のメーカーは600社を超えていた[36]。
値下がりの幅は品種によって[37]違い、上質紙は1953年10月にポンド当たり60円だったものが1954年6月に50円、8月には40円[38]まで落ちた。同じ期間に中質紙は52円から39円へ、新聞用紙は30円から27円へ下がった[39]。下落率が最も大きかったのは上質紙[40]であり、それを主力としていたのが本州製紙だった。社史は『新聞紙の王子、中質紙の十条、上質紙の本州』[引用元]と三社の分担を書いたうえで、1954年9月期についに三社の較差が表面化した[41]と記す。本州製紙は年2割としてきた株主配当を1割2分に引き下げた[42]。1955年下期にはこれをさらに8分[43]まで下げた。
手を打たなかったわけ[44]ではなく、1955年2月に広葉樹利用委員会を設けて[45]原料構成の切り替えを検討し、同年11月25日には紙パルプ業界で初めてデミング賞実施賞を受賞した[46]。1953年11月からは富士・中津の両工場を皮切りに、二週間を一周期として13日操業する隔週休日制[47]を実施し、コスト切り下げの手段とした。それでも収益は戻らず[48]、1956年4月の定例取締役会で、山内聰副社長と五十嵐勇、福山榮、福原千二の三専務[49]が業績不振の責任をとって退任し[50]、発足以来の経営首脳が、分割から七年[51]で入れ替わった。
1956年5月、王子製紙副社長の木下又三郎氏[52]が本州製紙の取締役に就いた。就任にあたって木下氏は三つの方針[53]を述べた。技術と経営は不可分であること[54]、計画は目前の小利にとらわれず長期的観点に立つこと、そして良質な原料パルプを最も低廉に自給するには、低廉かつ高歩留りの広葉樹の地域を確保し、これを基地とする恒久的なパルプ製造施設を持つこと[55]が重要な問題であること。三つめが後の釧路工場[56]につながった。木下氏は基本計画の遂行には鉄の闘志と莫大な資金が要り、難事中の難事である[57]とも付け加えた。友人からは、火中の栗を拾うより王子の副社長でいた方がよい[58]と言われていた。
木下氏は就任直後に七つの工場を回り[59]、所見を残した。現場の従業員が会社の危機を認識して再建に努めており、この情熱に正しい基本方針を与えれば数年のうちに王子・十条と比肩できる[60]と書いたうえで、現在二社に比して劣勢にある会社[61]を一日も早く昔日以上の優良会社にしなければならないと記した。1956年8月21日、ライン業務から離れた企画スタッフによる臨時総合企画室[62]を設けた。同年11月26日の役員会で木下氏が代表取締役社長に就き[63]、田辺武次氏は会長へ退いた。王子製紙取締役技術部長の堀義雄氏、北日本製紙常務の森田亀雄氏ら五人の新役員[64]を社内外から迎え、木下氏自身も王子製紙副社長の職を投げうって本州の再建に専念した[65]。
1957年1月、工事資金約16億円を投じる第一次合理化工事計画[66]が決まった。続いて3月には約13億円の第二次合理化工事計画が決まり、江戸川工場に日産70トンのSCP設備[67]を新設した。この二つの工事で主製品を板紙と薄葉紙に移し、原料を針葉樹から広葉樹へ切り替えて[68]コストを下げた。工事は1958年9月までにすべて完了[69]した。もっとも社史は、既設工場の合理化にはおのずから限界があってそれだけでは会社の基礎が恒久的に安定するとはいえない[70]と書き、第一次合理化工事はあくまでも当面の補強策にすぎない[71]と位置づけた。
1956年6月、木下氏は麹町三番町の本州荘に原料担当の吉見敏夫取締役と長井山林副部長を招き[72]、五項目を命じた。新設工場の優良立地を早急に調査すること、原料に関し恒久的な競争力を持つこと、第二期・第三期の増設拡充の負担に耐えうる原料対策を考えること[73]、立地は北海道と東北を目標とするがさらに適地があれば国内いずれの地でもよい[74]こと、そして立地調査は絶対に秘密を守ることである。調査担当者は変名の名刺をこしらえて現地に入った[75]。北見・釧路・函館・八雲・留萠の五地区[76]を回り、広葉樹が針葉樹ともに内地より石当たり300円安い[77]ことを確かめた。
製品の選定には五つの基準[78]を置いた。市場性の大きいもの、原料の安定したもの、新技術を取り入れたもの、公共性の大きいもの[79]、そして他社に計画がなく無用の競争が避けられるもの[80]である。新聞巻取・上質印刷紙・重包装紙・クラフト段ボール原紙を比べた[81]結果、五項目を満たすのは段ボール原紙だけだった[82]。木下氏は後年、業界の競合を避けるため他社が手をつけていない紙、将来無限の発展性があり、しかも大企業化していない紙[83]を選んだと総括した。分割で分けられた王子・十條と同じ土俵に立たないことが、この選択の条件[84]に組み込まれていた。
市場の読みは米国の先例[85]に拠った。すなわち米国では故紙を原料とするジュートライナーから長網式によるクラフトライナーへの移行が決定的となった1940年ごろ[86]を境に、段ボール箱が潜在需要を掘り起こして木箱をほとんど駆逐していた[87]。日本で木箱が支配的なままなのは、ライナーが故紙原料で品質と強度が足りないから[88]だと社史は書く。強いライナーを安く作ることがすべてを解決する鍵[89]であり、企画室は広葉樹でも蒸煮と叩解に新技術を取り入れれば優良なライナーを低コストで作れる[90]という確信を高めていた。1956年の閣議決定『木材資源利用合理化方策』が木箱から段ボール箱への転換を促していた[91]ことも、公共性という基準にかなった。
原料の裏づけは行政[92]から取った。北海道では帯広営林局長の安岡博氏は、不良広葉樹の有効利用ができない限り北海道の更新は不可能だ[93]として、王子製紙苫小牧工場や国策パルプ旭川工場など道内四社に雑木の利用を勧めていた[94]。この構想を傍系の北見パルプ経由で掴んだ木下氏は、他社との競合が生じる前に手を打つと決め、1956年12月27日の帯広営林局の御用納めの日に担当者を現地へ派遣[95]し、道東地区の不良広葉樹の利用を本州製紙に一任してほしいと申し入れた。帯広営林局管内の国有林からは低品位の雑木が年間約100万石増産される見通し[96]で、安岡氏は有償処分の確実な相手方を求めていた[97]。翌1957年1月には木下氏自身が林野庁[98]を訪ねた。
建設資金は80億円余[99]に上った。1953年10月にようやく20億円へ増資したばかり[100]の会社にとって、その調達は容易ではない。社史は、所要資金のほとんど全額を借入金で賄わなければならない計画はいかに考えても一大冒険であったといわざるを得ない[101]と記す。1957年後半には政府の金融引き締めが強まり、日銀の窓口指導もあって三井・勧銀・住友・長期信用銀行など主力銀行の要請で新工場建設は一時延期[102]に追い込まれた。突破口は北海道東北開発公庫[103]で、松田令輔総裁以下が協力を惜しまず[104]、これをきっかけに市中各行も内諾した。さらに1957年9月には第一生命・三井生命・日本生命の三社へ説明会を開き、資金需給計画の30%余を引き受けてもらった[105]。
用地は釧路市郊外の大楽毛[106]に求め、1957年3月に佐熊宏平市長が単身上京して木下社長に会い[107]、会社側は工場用地60万坪の提供、操業後5年間の市町村税免除[108]、水利と排水の処置という三条件を示した。市議会は4月に全員賛同し、5月17日の覚書を経て7月14日に正式契約を結んだ[109]。1958年7月31日に鍬入式を行い[110]、盛土と整地を含む建設開始からわずか1年半で工場が完成する。1959年6月に運転を開始し、9月15日に建設部を解散して釧路工場が発足[111]した。竣工式は10月7日、会社創立十周年[112]と同じ年である。日産150トンのKP連続蒸解設備二基と208吋抄紙機一台を備え、段ボール箱の原紙を年間約10万トン生産する計画[113]だった。
転換は数字に[114]表れており、1957年上期に売上の16%だった板紙系統は1962年上期に56%となり[115]、薄葉紙を合わせた産業用紙は33%から70%へ増えた[116]。同じ五年で売上高は2倍[117]になった。社史はこの期間を、1957年1月に会社再建にふみ切って以来の苦節五カ年[118]と表現した。1962年末の国内シェアはKライナーが90%強[119]、セミ中芯が48%、グラシンペーパーが57%、コンデンサペーパーが75%[120]で、いずれも業界第一位である。生産量は1950年の69,099トンから1961年には406,337トン[121]へ増えた。上質紙で王子・十條と競っていた会社は、五年でまったく違う品目の会社[122]になった。
釧路が伸びる裏で内地の工場は作るものを変え[123]、1961年1月に富士工場の七号抄紙機を新聞用紙から白板紙抄造へ改造[124]し、熊野工場の一号機と中津工場の三号機は停抄した[125]。中津工場は薄葉紙とコンデンサ用紙の専門工場へ、熊野工場は上質紙から低圧コンデンサペーパーへ体質を改めた[126]。1961年末から1962年後半にかけては、富士・中津のSP設備10基のうち8基とGP5台を止め[127]、割高な自製パルプを輸入パルプに切り替えた。余った人員は配置転換[128]で吸収した。釧路第二期のCGP中芯設備は工費約50億円をかけて1960年3月に着工し、着工から10か月で1961年1月に完成[129]した。
段ボール原紙の会社になっても原木の問題[130]は消えず、1964年8月に釧路第三期工事を起工し、1965年9月に完成させて[131]能力を積み増す一方、原料の調達先を海外へ広げた。カナダのブリティッシュコロンビア州では、三菱商事とともにクレストブルック・フォレスト・インダストリーズへ出資し、日本側が52%を握って[132]日産450トンの晒クラフトパルプ工場を建設した。パルププラントに130億円、製材工場二か所に約17億円、合計約150億円[133]を全額日本側で調達した。米国サクラメントからは25,000トン型の専用船で針葉樹チップを年間30万立方メートル[134]釧路工場へ運び、パプアニューギニアでは広葉樹の一年間の調査を終えて年間30万立方メートルのチップ調達[135]に入った。
規模の差は縮まら[136]なかった。すなわち1966年に世界最大の製紙会社である米インターナショナル・ペーパーの売上高は5,220億円[137]で、同じ年の東京証券取引所一部上場の紙パルプ約20社の売上高合計5,048億円[138]を上回っていた。王子・十条・本州の三社を足してもIPの半分に届かず、純益では8分の1以下だった[139]。1968年3月、三社は合併の覚書に調印して公正取引委員会に事前審査を申し入れたが、認められずに断念[140]した。旧王子を三つに割った国が、19年後に三つを一つに戻すことを認めなかった[141]。専務取締役の栖原亮氏は1970年の講演で、日本の紙パルプ産業の国際競争力にはいろいろ問題がある[142]と述べた。
1974年、釧路工場は第四期工事で日産700トンの抄紙機を加え[143]、単一の製紙工場として世界最大規模の日産2,000トンに達した。第四期だけで約200億円[144]を投じた。同じ1974年11月に栖原亮氏が社長[145]へ就いた。しかし二度の石油危機の後、紙パルプ業界は需給ギャップの調整に明け暮れる[146]。1977年9月に段ボール原紙業界が不況カルテルを結成し、1978年末にはクラフト紙[147]が続いた。1983年には板紙が特定産業構造改善臨時措置法の指定を受け、現有設備の19.8%を1987年6月末までに処理する計画[148]をまとめた。板紙は1978年にも特定産業安定臨時措置法で能力の15%程度を廃棄[149]しており、1980年代に二度の設備処理を行った。
業界再編のなかで本州製紙も規模[150]を足し、1983年4月に福岡製紙と東信製紙[151]を合併した。1982年6月末には10年続いた製品別事業本部制をやめ、子会社を統括する関連事業室を関連事業部へ格上げ[152]した。当時、支配力の及ぶ子会社は42社、その総売上高は4,000億円を超えていた[153]。会長となった栖原亮氏は1983年、ノスタルジーではメシは食えない[154]と語り、紙だけに寄りかからない事業構成を求めた。紙以外の事業を伸ばす一方で、四次にわたる釧路への投資と二度の設備処理[155]は借入金として帳簿に残った。洋紙大手七社の売上高経常利益率は1980年度から1981年度に1%前後まで落ち、需要が戻った1983年度に4.7%、1984年度に5.7%[156]へ回復した。
1988年、本州製紙は釧路工場を子会社へ1,198億円で譲渡[157]した。1959年に社運を賭けて建てた工場であり、四次の増設を重ねて日産2,000トンに育てた主力[158]である。譲渡は借入金の返済にあてるための財務上の措置[159]で、会社は主力工場を自社の帳簿から外した。同じ1988年6月、京都大学工学部を出て釧路工場の製造部長を務めた米澤義信氏が社長に就いた[160]。米澤氏は1947年10月に王子製紙へ入社し、翌1949年8月の分割で本州製紙へ移った[161]世代にあたる。釧路を知る技術者が、釧路を手放した後の会社[162]を率いた。
1990年から1991年にかけて、本州製紙の株式は仕手集団の標的[163]になった。買い集めには広域暴力団の関係者や不動産会社の系列が加わり、シンガポールの実業家との間で一株3,000円の買い取りオプション契約[164]が結ばれた。当時の株価は2,200円前後[165]である。会社側で財務を担当していた専務の大坪孝雄氏は、正式な株主でないので交渉に応じないとして突っぱねた[166]。事件は政界にも波及して報じられ[167]、会社は本業とは別のところで防戦に人手を割いた。大坪氏は1928年に生まれ、1951年に本州製紙へ入社[168]した経理・財務畑の役員だった。
1990年代に入ると業界の構図[169]が動いた。まず1988年から4年間の増設ラッシュで主要品種の供給力が30%から60%増え[170]、1989年から市況が急落して戦後最悪といわれる不況になる。1993年4月に十條製紙と山陽国策パルプが合併して日本製紙[171]が、同年10月に王子製紙と神崎製紙が合併して新王子製紙が生まれた[172]。紙パルプ業界は日本製紙・新王子製紙・本州製紙・大昭和製紙・大王製紙の大手五社時代[173]に入った。1992年の紙・板紙の生産シェアは新王子製紙が11.9%、日本製紙が10.2%[174]で、この二社が業界安定の核と目された。1994年6月、東京大学経済学部を出て経理と財務を歩んだ大坪孝雄氏[175]が社長に就任した。
一方、1959年に大楽毛の原野へ建てたクラフトライナー工場は合併後の王子製紙の工場として動き続け[176][177]、段ボール原紙という事業も引き継がれた。木箱を段ボール箱へ置き換える側に回る[178]ことで、上質紙で敗れた会社は37年を生き延びた。合併によって王子製紙は板紙を含むほぼ全品種[179]を抱えることになり、製紙業界の再編は次の段階へ進んだ。
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|---|---|---|---|---|
| 1949〜1956年七つの工場を継ぎ、山林を持たずに始まった会社 | 過度経済力集中排除法による王子製紙の3分割で発足 | ★★★ | ||
| 本州製紙労働組合が結成 | ★ | |||
| 江戸川工場の戦災第一号抄紙機が復旧し運転開始 | ★ | |||
| 東京・大阪両証券取引所に株式を上場 | ★ | |||
| 米チャンピオン社とマシンコーチング特許の実施権譲渡契約を締結 | ★★ | |||
| 国内初のMCペーパーを発売 | ★★ | |||
| 倍額増資により資本金5億円 | ★ | |||
| 再評価積立金の資本組入れにより資本金10億円 | ★ | |||
| 倍額増資により資本金20億円 | ★ | |||
| 北見パルプへ経営参画 | ★ | |||
| デミング賞実施賞を受賞 | ★★ | |||
| 副社長と3人の専務が一斉に辞任 | ★★ | |||
| 木下又三郎氏が社長に就任し田辺武次氏は会長へ | ★★ | |||
| 1956〜1961年王子の副社長を迎え、釧路に社運を賭ける | 第一次・第二次合理化工事の決定と、釧路への段ボール原紙工場の新設 1949年の王子製紙分割で発足した本州製紙が、原料高と製品安による二度の減配と1956年4月の経営首脳の退陣を経て、1957年1月に工事資金約16億円の第一次合理化工事計画、3月に約13億円の第二次、あわせて釧路への段ボール原紙工場の新設を決めた再建計画。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 釧路市と新工場建設の契約を締結 | ★★ | |||
| 江戸川工場の排水に抗議した漁民が工場へ侵入 | ★★ | |||
| 釧路工場を起工 | ★ | |||
| 国内初のクラフトライナー工場として釧路工場が竣工 | ★★★ | |||
| 富士工場の新聞用紙抄紙機を白板紙抄造へ改造 | ★★ | |||
| 六角形の鳩マークを社章に採用 | ★ | |||
| 1961〜1987年産業用紙の本州製紙と呼ばれるまでの五年 | エンジニアリングサービス部を設置し技術輸出を開始 | ★ | ||
| 倍額増資により資本金40億円 | ★ | |||
| 会長の田辺武次氏が死去 | ★ | |||
| 釧路工場第三期工事が完成 | ★★ | |||
| 新社屋の本州ビルディングが完成 | ★ | |||
| 王子製紙・十條製紙との3社合併覚書に調印 | ★★ | |||
| カナダの合弁パルプ会社クレストブルックが操業開始 | ★★ | |||
| 釧路工場第四期工事が完成し日産2,000トン体制へ | ★★ | |||
| 栖原亮氏が社長に就任 | ★ | |||
| 福岡製紙・東信製紙を合併 | ★★ | |||
| 1988〜1996年主力の釧路を手放し、47年で王子製紙に還る | 主力・釧路工場の子会社への譲渡と、譲渡代金1,198億円の借入金返済への充当 1988年、本州製紙が主力の釧路工場を子会社へ1,198億円で譲渡し、代金を借入金の返済にあてた経営判断。1959年に会社の立て直しを賭けて建て、四次の増設で日産2,000トンに育てた設備を、本体の帳簿から外した。同じ1988年6月には、釧路工場の製造部長を務めた米澤義信氏が社長に就いている。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 米澤義信氏が社長に就任 | ★ | |||
| 仕手集団による株式の買い集めが表面化 | ★★ | |||
| 大坪孝雄氏が社長に就任 | ★ | |||
| 本州製紙との合併と、47年ぶりの「王子製紙」への社名復帰 1996年3月29日、新王子製紙が板紙最大手の本州製紙との合併を発表した経営判断。同年10月1日に合併し、社名は1949年の分割で失った『王子製紙』へ戻った。1993年の神崎製紙との合併に続く連続合併で、十條を除く旧王子2社の再統合が成った。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(本州製紙)