本州製紙第一次・第二次合理化工事の決定と、釧路への段ボール原紙工場の新設
既設七工場の手直しか、北海道での新設か——二度の減配を経た再建計画の組み立て
- 概要
- 1949年の王子製紙分割で発足した本州製紙が、原料高と製品安による二度の減配と1956年4月の経営首脳の退陣を経て、1957年1月に工事資金約16億円の第一次合理化工事計画、3月に約13億円の第二次、あわせて釧路への段ボール原紙工場の新設を決めた再建計画。
- 背景
- 分割で継いだ社有林は1,204町余にとどまり、原木の半分を社外からの買入れに頼った。主力の上質紙はポンド当たり60円から40円まで下げ、1954年9月期に王子・十条との較差が表面化した。
- 内容
- 既設七工場の設備改善を二次にわたる合理化工事で進めるかたわら、広葉樹を原料とするクラフト段ボール原紙の新工場を釧路市郊外の大楽毛に建設した。所要資金80億円余のほとんどを借入金で賄った。
- 含意
- 手直しと新設を同時に走らせた。1957年上期と1962年上期を比べると売上高は二倍となり、薄葉紙を合わせた産業用紙の比率は33%から70%へ動いた。
手直しを急ぎながら、別の柱を建てた
木下氏が本州製紙で最初に測ったのは、既設七工場の伸びしろであった。明治時代の機械がなお動く工場を、16億円と13億円の二度の工事で手直しはする。ただしそれは当面の補強にとどまると見切り、同じ1957年1月に釧路の第一期工事へ入っている。手直しか新設かを選ぶのではなく、手直しを急ぎながら別の柱を建てる二重の投資を、二度減配したばかりの会社が決めた点に、この再建計画の性格が表れている。
もっとも、この組み立ては当時の相場観からは無理があった。資本金20億円の会社が80億円余をほぼ全額借入で調達する計画は社外から冒険性をいさめられ、金融引き締めのなかで一度は延期に追い込まれている。木箱で荷を包む習慣が残る国では、段ボール原紙の需要の読みが外れる余地も大きかった。実際に売れ始めたのは稼働から二年ほど後で、再建の成否は工場が動いた時点ではまだ決まっていなかったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
上質紙に偏った品種と、山林を持たない原料調達
本州製紙が1949年の分割で引き継いだ社有林は、奈良県吉野郡の大台と山梨県の奈良田・佐野の三か所、合わせて1,204町余にとどまった[1]。原木の所要量の半分は社外からの買入れに頼り、関東以西に散る工場へ遠方から運んだ。業界の原木使用量は1956年度に3,200万石と1949年度の四倍[2]に達し、赤松の宝庫と呼ばれた中国・四国・九州で各社が原木の争奪を繰り広げていた。木材業者の売り値は天井知らずの高値を呼んだ。
打撃は品種の構成から来た。上質紙は1953年10月にポンド当たり60円だったものが1954年6月に50円[3]、夏枯れの8月には40円まで落ちた。同じ期間に中質紙は52円から39円、新聞用紙は30円から27円へ下がっており、下げ幅は上質紙が最も大きい。社史は三社の分担を新聞紙の王子、中質紙の十条、上質紙の本州と書いたうえで、1954年9月期についに三社の較差が表面化した[4]と記す。原木の高値と製品の値下がりが同時に効いた。
二度の減配と、経営首脳の総退陣
1954年上期の業績低下を受けて、本州製紙は年2割としてきた株主配当を1割2分へ引き下げた[5]。1956年に入っても紙業界は過剰設備を抱え、値崩れを恐れた一部の会社が換金のためのダンピングに走り、需要家の当用小口買いを招いた。上質紙と板紙を主力とする本州製紙の営業収益は再び悪化し、1955年下期に配当を8分まで下げた[6]。近い将来の根本的な収益対策工事に備えて社内に資金を厚く残す判断も、そこに添えられていた。
1956年4月の定例取締役会で、山内聰副社長と五十嵐勇・福山榮・福原千二の三専務[7]が業績不振の責任をとって退いた。分割から七年で、発足以来の経営首脳が入れ替わった。翌5月、王子製紙副社長の木下又三郎氏が本州製紙の取締役に就いた。木下氏は旧王子の長老である藤原銀次郎氏から中島慶次社長を通じて要請を受けたと後年に書き、友人からは火中の栗を拾うより王子の副社長でいた方がよい[8]と言われていた。
決断
難破船という見立てと、二次にわたる合理化工事
木下氏は就任早々に直轄七工場と傍系四社を回った。設備は旧式のものが多く、明治時代の機械がなお実働し[9]、工場が古いために従業員は老齢化して士気も落ちていた。後年の回想で木下氏はこの会社を沈みかけた難破船と呼び、応急修理をすれば部分的に能率は上がる[10]が、ほころびをつくろっているだけでは一度高い波が来ればたちまち沈むと書いている。1956年8月21日、ライン業務から離れた企画スタッフによる臨時総合企画室を設けた[11]。
1956年11月26日の役員会で木下氏が代表取締役社長に就き、田辺武次氏は会長へ退いた[12]。王子製紙取締役技術部長の堀義雄氏ら五人の新役員を社内外から迎え、木下氏自身も王子製紙副社長の職を投げうっている。1957年1月、工事資金約16億円の第一次合理化工事計画が決まり、3月には約13億円[13]の第二次が続いた。第二次は江戸川工場が中心で、日産70トンのSCP設備と最新式の40トンボイラー一基を新設した[14]。
他社が手をつけていない紙と、80億円余の借入
新工場の製品に木下氏が選んだのはクラフト段ボール原紙だった。業界の競合を避けるため他社が手をつけていない紙、将来無限の発展性があり[15]、しかも大企業化していない紙を作ることが本州のためには最良の案だと、1958年5月の株主総会にあわせた談話で説明している。原料には北海道の広葉樹を据えた。用地は釧路市郊外の大楽毛の原野に定め、社長就任から三か月目の1957年1月に第一期工事へ入った[16]。
所要資金は80億円余に達した。1953年10月に資本金を20億円へ増やしたばかりの会社が、そのほとんど全額を借入金で賄う計画で、社史はこれをいかに考えても一大冒険であった[17]と書く。1957年後半には金融引き締めが強まり、日銀の窓口指導もあって三井・勧銀・住友など主力銀行の要請から新工場は一時延期[18]に追い込まれた。突破口は北海道東北開発公庫で、松田令輔総裁が10億円を貸し、市中の五大銀行がこれに続いた[19]。
結果
合理化工事の完了と、釧路の稼働
合理化工事は計画の発表と同時に着工した。熊野から移設した江戸川工場の四号抄紙機と熊野工場の二号抄紙機の薄物転換が1957年11月に操業へ入り、1958年3月には江戸川工場のSCP設備が運転を始めた[20]。全工場にわたる抄紙機の改良を含む一連の工事は1958年9月までに完了した。主製品を板紙と薄葉紙へ寄せ、原料を針葉樹から広葉樹へ切り替えている。江戸川では排水をめぐる漁民との紛争が起こり、補償の妥結までに約10か月を要した[21]。
釧路工場は1959年6月に運転を開始し、10月7日に竣工式を行った[22]。年産10万トンのクラフトライナーを作る、日本で最初の工場であった。木箱で荷を包む習慣が残る国で新しい紙はすぐには売れず、木下氏は二年目ごろから羽がはえたように売れ始めた[23]と書いている。1963年1月には設備の近代化と資本構成の改善は経営における車の両輪であるとして、1953年以来10年ぶりの倍額増資で資本金を40億円とした[24]。
産業用紙の会社への入れ替わり
品種の構成は五年で入れ替わった。1957年上期と1962年上期を比べると売上高は二倍になり、板紙系統の比率は16%から56%へ、薄葉紙を合わせた産業用紙[25]は33%から70%へ動いた。かつて大きな比率を占めた新聞用紙・筆記図画用紙・上質紙はほとんど姿を消している。1962年末のKライナーの国内市場占有率は90%強、セミ中芯が48%[26]、グラシンペーパーが57%、コンデンサペーパーが75%で、いずれも業界の首位に立った。
1970年7月、栖原亮専務は証券アナリスト協会の企業分析部会で、1970年3月期の売上高385億円・税引利益6億6,000万円[27]を報告し、産業用紙が売上の80%以上を占めるまでになったと説明した。1957年9月期に60%以上あった文化用紙は20%以下へ退いている[28]。同じ席で栖原氏は、主力のダンボール原紙や白板紙は景気に左右されやすい市況産業[29]であり、繊維や弱電の不振で在庫が増える傾向にあるとも認めた。
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第一章「発足期」・第三章「苦難期」・第四章「再建第一期」・第五章「再建第二期」・第六章「発展期」
- 私の履歴書 経済人12(日本経済新聞社、1980年)「木下又三郎」
- 証券アナリストジャーナル 1970年9月号「紙パルプ業界と本州製紙——その現状と将来——」栖原亮