木下又三郎氏が本州製紙で最初に測ったのは、既設七工場の成長余地であった。明治時代の機械がなお動く工場を、16億円と13億円の二度の工事で手直しはする。ただしそれは当面の補強にとどまると見切り、同じ1957年1月に釧路の第一期工事へ入っている。手直しか新設かを選ぶのではなく、手直しを急ぎながら別の事業を興す二重の投資を、二度減配したばかりの会社が決めた点に、この再建計画の性格が表れている。
もっとも、この組み立ては当時の相場観からは無理があった。資本金20億円の会社が80億円余をほぼ全額借入で調達する計画は社外から冒険性をいさめられ、金融引き締めのなかで一度は延期に追い込まれている。木箱で荷を包む習慣が残る国では、段ボール原紙の需要の読みが外れる余地も大きかった。実際に売れ始めたのは稼働から二年ほど後で、再建の成否は工場が動いた時点ではまだ決まっていなかったといえる。