神崎製紙の工場は、洋紙業の先覚者である真島襄一郎氏[1]が1894年4月に兵庫県川辺郡小田村常光寺へ開いた真島製紙所[2]に始まる。真島襄一郎氏は1875年に大阪中之島で蓬莱社の製紙部門を任され、日本最初の洋式抄紙機で操業を始めた[3]人物で、その後は富士製紙の入山瀬工場長を務めていた[4]。神崎へ工場を建てる動機は、1893年末に神戸の友人から受けた『マッチ紙を安くしたいが、マッチの廃材からパルプを製造して、紙を抄くことはできないのか』[引用元]という相談にある。当時の神戸はマッチ製造の本場で、毎日出る廃材を焼き捨てていた[5]。マッチの廃材は普通のチップより蒸煮しやすく大規模な設備を必要としない[6]ため、真島襄一郎氏は富士製紙の職を辞して自分の工場を建てた。
工場は日清戦争のさなかに建てられ、稼働まで1年半[7]を要した。真島襄一郎氏は機械設備を国産機にする方針を立てて大阪の岡本鉄工所などに注文した[8]が、直径4尺の大型ドライヤーをつくれるところがなく、大阪砲兵工廠に頼んだ[9]。その工廠でも鋳直すたびに鬆ばかりできて使えるものができず[10]、しかも日清戦争が始まると民間の仕事を断ってきた。そこで空地に放置されていた鋳物のなかから使えそうなものを拾い出し、空孔にセメントを埋めて[11]4〜5本を間に合わせた。据え付けられた設備は72インチ丸網抄紙機2台と円型木釜1基[12]だった。1895年10月に資本金10万円の合資会社となり[13]、土佐から竹簀編みの職人を雇って丸網抄紙機に竹簀を取り付け、簀目入りの模造紙を抄いた。社史はこれを『わが国の機械漉和紙生産の先駆工場』[引用元]と記している。
1898年6月、事業拡張のため大阪の富豪である野田吉兵衛氏の出資を得て大阪製紙となり[14]、64インチ丸網抄紙機2台を増設して中国向けの模造紙を輸出した[15]。日露戦争に伴う紙類の需要増で好景気を迎えたが、戦後の1906年ごろから中国向けの滞貨が激増して輸出が途絶えた[16]。内地向けに振り替えるためアメリカのクローソン社製88インチ長網抄紙機1台を増設[17]し、旧式の丸網抄紙機2台を解体して杉浦製作所のワイヤー・パートを取り付け75インチの長網抄紙機に模様替えした。社史はこれを『わが国で製作された最初の国産長網ワイヤーパート』[引用元]と書いている。それでも不況は深刻で、1909年6月に資本金46万円を20万円へ減資[18]しても経営不振を打開できず、1910年6月に大阪製紙は解散した。工場は債権者の野田吉兵衛氏が取得して野田製紙所と改称された[19]。
1915年11月、野田製紙所は当時わが国最大の製紙会社であった富士製紙に買収され、富士製紙神崎工場となった[20]。創業者の真島襄一郎氏は1913年12月に大阪の緒方病院で亡くなっており[21]、自ら建てた工場が大手の傘下に入るのを見てはいない。買収した富士製紙は第一次世界大戦の好況に乗って社業を伸ばし、1919年6月には樺太工業社長の大川平三郎氏を社長に迎えた[22]。神崎工場に高級印刷紙のアート紙加工設備を新設する決定が下りたのは1922年4月で、社史は『当時、日本加工製紙と密接な関係のあった大川平三郎氏の意向によるもの』[引用元]と伝えている。同年6月に米国のジョンワルドロン社から幅65インチと53インチのブラッシュ式塗工機2台を輸入し、8月に初めてアート紙を生産した[23]。この一手が神崎工場の性格を決めた。
1929年5月、王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が紙類の抄造制限協定を結び[24]、王子製紙と樺太工業はクラフト紙やコーテッド紙を抄かないと取り決めた。これで富士製紙の神崎工場は3社唯一のアート紙工場として認められた[25]。1933年5月には3社が合併し、王子製紙を存続会社として資本金1億4,998万円、所属工場34、全国紙パルプ生産高の90%以上[26]を占める会社が生まれた。合併比率は王子製紙100に対し富士製紙140、樺太工業245[27]である。神崎工場は王子製紙神崎工場と[28]なった。この合併に際して富士製紙と樺太工業の経理内容を調べ上げ、合併比率決定の基礎をつくったのが、藤原銀次郎氏の特命を受けた加藤藤太郎氏[29]だった。加藤藤太郎氏は15年後に神崎製紙の初代社長となる[30]。
王子製紙神崎工場のアート紙は伸びた[31]。1937年の神崎工場は全生産高こそ1933年比で2割弱の伸びにとどまったが、アート紙だけは2倍半に伸びて[32]戦前の最高記録をつくり、アート紙全国総生産量の46.3%[33]を占めた。日本加工製紙十条工場の38.2%、三菱製紙の高砂・中川両工場の15%[34]を引き離す水準である。ところが戦時体制に入るとアート紙は不要不急品として生産を中止させられ、1945年6月の空襲で神崎工場は大半が焼失した。焼け残ったのは塗工部門とボイラー室、用水設備だけだった[35]。工場の敷地には背丈ほどの雑草が生い茂り、構内を巡視していた社員が2匹のキツネを見つけた[36]と社史は書いている。
王子製紙は1946年1月に制限会社、同年12月に持株会社、1948年2月に過度経済力集中排除法の指定会社[37]となった。GHQ経済科学局の反トラスト・カルテル課長ウェルシュ氏は1947年7月に9分割を口頭で指示し[38]、王子製紙は同年9月に7分割案を提出する。この7分割案のなかで神崎工場は清算工場とされ、その土地は都島・淀川・熊野の各工場からなる大阪地区の新会社に所属させる[39]という扱いだった。その後の折衝を通じて、神崎工場が王子製紙との関係を断ち切って完全に独立するのであれば分離独立を認める[40]、という回答をGHQから得た。王子製紙自体は1949年8月に苫小牧製紙・十条製紙・本州製紙の3社に分割[41]される。
引き受け手を用意したのは、追放で隠棲していた元王子製紙社長の藤原銀次郎氏[42]だった。1948年の年明け早々、藤原銀次郎氏は同じくA号追放に該当して王子製紙を去っていた元副社長の加藤藤太郎氏を自宅に呼び[43]、『これからはアート紙がいるが、いまの状態からすれば、王子の手で神崎工場を復旧できるとは思えない。王子でできないなら、君がひとつ復旧を引受けてみてはどうか』[引用元]と勧めた。当時の加藤藤太郎氏は追放該当者で退職慰労金もなく、東京の自宅は戦災で家財のすべてを焼いていた[44]。加藤藤太郎氏はこれを受け、『会社は小さくていい。そこに働く人びとが、日本一しあわせである、そんな会社にしてみせる』[引用元]と心に誓ったという。この言葉はのちに労働協約の前文となり、社是となり、工場正門前の記念碑に刻まれる[45]。
加藤藤太郎氏は新会社に必要な人材を王子製紙に求めた[46]。社長の中島慶次氏を説いて、40歳代と30歳代の社員を1人ずつ譲り受け[47]ている。総務部副部長兼秘書課長から参事に転じて戦災工場の管理に当たっていた広瀬藤四郎氏と、苫小牧工場の厚生課長だった遠藤福雄氏[48]である。両氏はのちに神崎製紙の社長と副社長になった[49]。1948年9月18日、東京都中央区銀座の大日本図書内に置かれた創立事務所で創立総会が開かれ[50]、代表取締役会長に大野竜太氏、代表取締役社長に加藤藤太郎氏が選任された[51]。加藤藤太郎氏は追放該当者だったため発起人には名を連ねていない[52]。9月20日に資本金1,000万円で設立登記が完了[53]した。
神崎製紙は資本金1,000万円で発足したが、手元に運転資金は残らなかった[54]。工場の敷地・建物・機械を王子製紙から譲り受ける価格は帳簿価格の31万円とする了解を中島慶次社長から得ていた[55]ところ、制限会社の指定を受けていた王子製紙は資産を自由に処分できず、持株会社整理委員会の審議とGHQの認可が必要だった[56]。GHQは帳簿価格ではなく時価によることを命じ、日本興業銀行の公式鑑定では神崎工場の評価額は帳簿価格の100倍にあたる3,000万円[57]になった。しかもGHQは譲渡価格の3分の1を現金で支払うよう命じた[58]。払込まれた資本金1,000万円はそのまま王子製紙への支払代金となり[59]、設立以後の設備投資も運転資金もすべて借入金でまかなうほかなくなった。
資金は加藤藤太郎社長の個人的な信用が引いてきた[60]。加藤社長は王子製紙時代に経理担当重役として計数に明るいと定評があった[61]が、懇意にしていた銀行家の多くは追放で銀行を去っていた。加藤社長は東京商大の同窓で親交の厚かった元帝国銀行常務の小平省三氏の縁をたどり、その部下だった第一銀行の荻野頭取を訪ねて援助を求めた[62]。荻野頭取は2,000万円の貸出しを即座に承諾し、さらに500万円の追加にも応じた[63]。この融資で神崎製紙は1949年3月末までに土地200万円・建物700万円・機械装置700万円など合計3,100万円の投資[64]を行なうことができた。小平省三氏はのちに神崎製紙の顧問に就任している[65]。
神崎製紙は工場再開の第一目標を、原料でも原紙でもなく最終製品のアート紙に置いた[66]。集排法による王子製紙の分割で生まれる各社との競合を避け、加工紙の特殊分野で発展をはかるという加藤社長の意向[67]による。付加価値の高いアート紙を早くつくり出せば資金づくりが容易になり[68]、工場建設を軌道に乗せるうえで有利だという判断でもあった。順序はアート紙を生産し、それで得た資金で抄紙部門を建設し、さらにパルプ部門を建設する[69]、と決められた。焼け残った事務所の1階を建設本部、2階を宿舎とし[70]、広瀬藤四郎専務以下が泊まり込んで突貫工事に取り組んだ。塗工機の稼働目標は1948年10月20日と定められ、当日の午前11時すぎ[71]、全従業員が見守るなかで最初のアート紙が巻き取られた。会社創立からわずか1カ月[72]である。
最初の塗工機はブラッシュ・コーターで、塗料をハケで塗ってさらにハケで均一にならし、懸垂乾燥させて仕上げるもので、最高速度は毎分50メートルにすぎなかった[73]。塗料の粘度や流動性を測る機器がなく、手ですくった塗料の流れ落ちる具合で良否を決めた[74]。製品の表面強度は指でもんで落ちるコート層の多少ではかり[75]、紙の白さや光沢も標準紙と見比べて決めるなど、経験と勘に頼らざるをえなかった。原料の不足も深刻で、アート紙の粘着剤であるカゼインは入手できず、当初は太平洋戦争末期に王子製紙神崎工場で研究されていたニカワ・アイシングラスを使った[76]。それでも1948年11月に2号塗工機、1950年3月に3号塗工機が稼働し[77]、生産は伸びた。1949年11月にはアート紙の全国生産総量の50%[78]を占めるに至った。
アート原紙は王子製紙の小倉工場と伏木工場から供給を受けていた[79]が、当時は紙の絶対量が不足しており、上質紙はそのままで引っ張りだこだったから確保は難しかった。出荷通知を受けても到着期限は当てにならず、社員は尼崎駅で待たずに岡山や米原の国鉄貨物操車場まで出向き、アート原紙を積んだ貨車を見つけて[80]一番早い貨物列車につけてもらうよう頼み込んだ。そこで神崎製紙は抄紙部門の建設に踏み切る[81]。1949年9月20日に2号抄紙機(72インチ丸網)[82]、同年11月11日に1号抄紙機(85インチ長網)を復旧させ[83]、1950年3月25日には創業以来初めての購入機械による3号抄紙機を運転した[84]。これでアート原紙を自給できる体制が整った[85]。
残るはパルプだった。パルプ専業会社は国策パルプ・東北パルプ・山陽パルプ・日本パルプ・興国人絹パルプの5社[86]にすぎず、いずれもパルプ部門から製紙部門へ進出して一貫体制を築く方向に動き出していたから、神崎製紙が求めるパルプを供給する余力は早晩なくなると見られた。1950年にGHQがSP設備の新設を許可すると[87]、神崎製紙もこれに乗り出した。難関は敷地で、王子製紙から譲渡された約7万平方メートルでは貯木場を含むパルプ部門を建設できない[88]。隣接する東洋紡績神崎工場の敷地を譲ってもらう折衝を行ない、第一銀行の早川文造氏や通産省紙業課長の佐橋滋氏の尽力で8万9,100平方メートルの買入れが実現した[89]。1950年5月に月産1,000トンの木釜2基からなるSP設備に着工[90]し、1951年1月26日に第1回の蒸解を行なった。
1951年4月にSP工場が全面完成し[91]、神崎製紙は原木からパルプをつくり、そのパルプで紙を抄き、さらに加工してアート紙をつくる一貫工場を手にした。社史はこれを日本で唯一の完全一貫工場[92]と記している。同年5月18日の完成記念式典に集まった全従業員は413名[93]だった。無一文から出発して2年8カ月[94]である。証券取引所への上場もこの時期に重なる。資本金が1億円となった直後の1951年5月に東京証券市場の店頭取引銘柄となり、同年7月25日に東京証券取引所へ上場[95]、1952年6月には大阪証券取引所にも上場した[96]。上場当日の株価は138円[97]をつけている。
朝鮮戦争の特需で紙業界は潤い、神崎製紙の1951年上期の売上高は11億1,906万円と初めて10億円台に乗せ[98]、税込利益は3億7,064万円、売上利益率33%、配当は4割8分に達した[99]。資本金も3年続けて増え、1950年10月に3,000万円、1951年5月に1億円、1952年6月に2億5,000万円となった[100]。紙の統制が全廃されて自由競争の時代を迎えると、各社は戦前の登録商標を復活させたり新銘柄を設けたり[101]して製品の持ち味を打ち出すようになる。神崎製紙は全従業員から商品名を募り、アート紙の『金藤』『銀藤』などの銘柄を設定して[102]1952年9月から新商標で販売を開始した[103]。『金藤』はこのあと40年にわたって同社を代表する銘柄になる。
増資のたびに実施された第三者割当ては、社員への株式割当てを意味していた[104]。加藤社長は株主総会で『戦後の無一文の会社がここまでになりましたのは、従業員の努力に負うところが大きいと存じます』[引用元]と訴えて特別議決を得た。1951年5月の第2回増資では増資株数140万株のうち株主への割当てが90万株、共済会である興和会へ15万株、従業員へ16万株[105]が割り当てられた。買占め防止の安定株主対策として社員持株制度を採る会社とは、発想が根本から違っていた[106]。1956年6月時点で発行済株式数1,000万株のうち興和会が94万株で9.4%を保有して筆頭株主となり、社員の持株334万株33.4%と合わせて42.8%[107]を社員と興和会が所有した。
労働条件でも同じ考え方が貫かれた。1954年8月に12時間2交替制から8時間3交替制へ移行する[108]にあたり、労働時間短縮による賃金の減少分は基準内賃金の引上げで補い、実質的な収入減にしないことを労使で決めた[109]。同年10月29日には加藤藤太郎社長と組合長の藤井浩氏との間で新労働協約が結ばれ[110]、その前文に『われわれの念願する幸福は、この事業の繁栄に源を発し事業の繁栄は又われわれの幸福に帰せられるべきものである』[引用元]と創業の理想が成文化された。同時に就業規則を王子製紙準拠から自前のものに改め、55歳定年制の条項を削って定年制のない会社となった[111]。退職金規定も支給額と支給年齢で当時の水準を上回るものに改めている[112]。
アート紙の先発メーカーは三菱製紙と日本加工製紙の2社で、神崎製紙の参入で戦前のアート紙メーカーが全部出そろい[113]、需給もバランスした。3社の競争はそのまま品質競争に跳ね返った[114]。神崎製紙は原色版印刷でクリスタリゼーション・トラブルを起こしていた顔料の改良に取り組み、1952年3月にサチンホワイトの改質に成功して同年12月に『神白』と命名し自家供給を始めた[115]。1953年6月には塗料を微小な穴から高速で吹きつけるエアーナイフ・コーターを導入し、塗布ムラをほぼなくした[116]。顔料でも1955年に勝光山鉱業所と共同でKクレーを、1956年に五島鉱山とGクレーを開発し[117]、国内産の鉱山を押さえることでのちの量的発展に備えた[118]。
神崎製紙は1952年から1956年にかけて3度の技術調査団を米国とヨーロッパに送った[119]。第1次調査団はチャンピオン・インターナショナル社で2カ月間の実習を行なった[120]のち、チャンピオン・ペーパー社やウエアハウザー社などを回っている。菅野谷浅吉氏はこの派遣を『同社の実習を通して神崎製紙を知ってもらい、そこから他の製紙会社を紹介してもらったのだが、これがのちにかずかずの技術導入の足がかりになった』[引用元]と振り返っている。1956年4月の第3次調査団は、米国ではアート紙がオンマシン・コーテッド紙とキャスト・コーテッド紙に挟まれて伸び悩んでいるという観察[121]を持ち帰った。研究所副所長の藤井浩氏は翌1957年10月の技術講演会で『アート紙は鉄道ほどの斜陽産業ではないが、午後2時ぐらいの産業に思われた』[引用元]と述べている。
この見通しがキャスト・コーテッド紙の開発を急がせた[122]。塗料を塗った紙を湿ったままクロームメッキした加熱ドラムに押しあて、乾燥後に剥離すれば平滑で光沢のある紙面が得られるという加工法は理論としては知られていたが、工業化した国内メーカーはなかった[123]。1952年の塩化ビニール・ラテックス試作の過程で、常温では成膜せず加熱すると金属面からきれいに剥離する塗料が得られたことが実質的な第一歩となった[124]。東亜合成化学工業との共同研究でエマルジョン組成の数百種の組合せを検討し、1954年10月に新合成樹脂塗料『X-38』の開発に成功[125]する。同年11月に日本で初めての面長2メートルのドラムドライヤーを持つキャスト塗工機設備が完成し[126]、翌1955年春からグラビア印刷用紙『ミラーコート』の生産を始めた[127]。
神崎製紙のパルプ原料は当初もっぱら赤松など針葉樹だったが、針葉樹の宝庫だった樺太を失ったうえ各社の生産拡大が重なって[128]手当てが難しくなった。赤松材の価格は1950年ごろの1立方メートル1,450円が1952年秋に2,700円、1953年には3,900円へと上がった[129]。広葉樹は薪炭用に使われる程度の未利用資源で、繊維長が短く紙力を下げる難点はあった[130]が、価格が安く確保も容易だった。神崎製紙は満永道夫氏らの研究をもとに、SCP法なら3段晒しで高白色度まで漂白でき、赤松SPに劣らない紙力を持つ[131]ことを確かめ、1954年夏にSCP設備の新設を決めた。1955年3月16日にパンディヤ社の連続蒸解装置を備えたSCP設備が稼働し[132]、広葉樹パルプを上質紙やアート原紙に30%配合した。晒しパルプとしてのSCPを高級印刷紙に使ったのは日本では神崎製紙が最初[133]である。
『ミラーコート』を生産していた神崎製紙が、あえて米チャンピオン社の技術を導入したのは、コストと独占の二つの理由による[134]。チャンピオン・プロセスは顔料とカゼインを主成分とするキャスト塗料を使い、離型剤でドラム面に薄い油膜をつくって高能率に生産する方法で、日本特許第202,421号を持ち[135]、合成樹脂配合量の多い神崎方式より生産コストが安かった[136]。加えて主力のアート紙は3社独占が崩れるのが時間の問題と見られており[137]、成長商品と目されたキャスト・コーテッド紙で『ミラーコート』を独占商品として維持することが必要だった。1957年5月に管理部副部長の蓮見勝氏と研究所副所長の藤井浩氏が渡米して仮調印[138]し、正式契約は同年9月27日付けで結ばれた。対価はイニシャル25万ドル、ロイヤリティは販売量1トンにつき25ドル、期間は10年[139]である。
藤井浩氏は交渉の経緯を『調べたところチャンピオン社の特許をコピーしたものではなく、品質的にはむしろすぐれてさえいた』[引用元]と語っている。自前の技術で相手と対等に近いところまで来ていた[140]ことが、かえって交渉を進めやすくした。契約は1958年3月27日付けで外資法にもとづく政府の承認を得て[141]効力を発した。神崎製紙が外国の紙パルプメーカーと結んだ最初の技術提携[142]である。1959年1月にチャンピオン社から重量32トン・直径3メートル70・面長2メートル50のキャスト・コーター・ドラムが神戸港に到着し[143]、阪急今津線のガード下との差がわずか80センチという難所を4時間半かけて工場まで運んだ。1959年6月に新キャスト・コーターが本運転に入り[144]、月産250トンの『ミラーコートK』の生産を始めた。同年8月には国産のキャスト・コーターもチャンピオン方式に改造され[145]、神崎製紙のキャスト設備はすべて導入方式に切り替わった。
提携で得た独占実施権は、のちに法廷で争われる[146]ことになる。1959年夏ごろから日本加工製紙がキャスト・コーテッド紙を『クリスタル・コート』の商品名で市販し[147]、国内外で『ミラーコート』と競合した。特許権者のスイス・チャンピオン社は1963年9月に製造販売禁止と損害賠償を求めて東京地方裁判所に提訴し[148]、神崎製紙も1967年1月に専用実施権の侵害行為差止めを求めて訴えた。同年6月の東京地裁の決定で日本加工製紙王子工場のキャスト・コーター全機と在庫全製品が封印され[149]、生産販売は事実上停止した。同年11月22日、日本加工製紙が示談金を支払い以後は本特許権と専用実施権を尊重するという内容で和解が成立し、4年2カ月にわたった裁判が終わった[150]。賠償請求額は一部請求で約4億円に達し、社史は紙パルプ業界で未曽有の大事件だった[151]と記している。
神崎製紙は1956年春、徳島県に新工場を建てる決断[152]を下した。神崎工場は用地と工業用水の面から大拡張が望めず[153]、1社1工場の小規模生産では規模の利益を追う各社に対抗できないという判断である。だが必要な資金は用地買収費を含めて概算100億円だった[154]。当時の資本金は1956年6月に倍額増資したばかりの5億円、半期売上高は23億円、総資産は41億円余[155]にすぎない。総資産の2倍を超える投資であり、社史はこれを大きなカケ[156]と書いている。決定の経緯について蓮見勝常務は『新工場を建設する技術的な裏づけは十分であったし、そこにこの社員の団結が加われば、多少の困難はあっても必ずやり抜けるであろう。そういう加藤社長の社員に対する絶大な信頼が、この社運をかけた大事業に踏み切ることになった最大の理由だった』[引用元]と語っている。
用地の選定は難航[157]した。1956年10月に遠藤福雄常務らが徳島県に赴き、那賀川の先端に位置して取水が至便な富岡町の辰巳新田を候補に決め[158]、同年11月25日に徳島県知事あて照会状を出した。県と富岡町は誘致を決議して1957年1月23日に正式回答を寄せた[159]が、辰巳新田は国有の干拓地で、農林省は『農地として国が造成したばかりの土地を工場に転用させることはできない』[引用元]として転用を認めなかった。行き詰まりが解けたのは1958年8月9日で、県と市が辰巳新田の代替として豊益・眉毛の2地区を提案してきた[160]。同月21日に調査した結果、富岡港の対岸にあたる豊益は浚渫が容易で船舶が接岸しやすく、台風の影響も辰巳より受けにくい[161]など、むしろ優れた条件を備えていた。
1958年9月1日、加藤藤太郎社長の名で徳島県と阿南市に工場設置奨励条例による工場指定申請書を提出[162]した。申請した用地は陸面98,575坪・海面23,003坪で、1日10万トンの工業用水と完成後11,000キロワットの電力の確保[163]を県市に求めている。同年10月9日に原菊太郎知事・沢田紋阿南市長と加藤社長との間で契約書が結ばれ、同年11月17日には阿南市が最初の誘致工場であるとの理由で工場用地40ヘクタールを無償提供した[164]。漁業補償は1961年2月に8,350万円で解決し[165]、約70人に及んだ農地買収は1958年11月27日に妥結した。建設着手は1959年1月で、着工から数カ月後の同年8月[166]には1号抄紙機の運転を開始している。1960年4月には広葉樹利用のクラフトパルプ設備が稼働[167]し、KPから加工紙までの一貫工場が完成した。
富岡工場の建設費は4号抄紙機を含めて100億円に達し、そのうち60億円を長期の銀行借入れ[168]、残りを自己資金で調達する計画だった。しかし自己資金の調達は思うように進まず、不足分を銀行借入れに頼ったため、支払利息の激増と償却費の増大が重なった[169]。神崎製紙は価格変動準備金などを取り崩して決算を行なう[170]ところまで追い込まれる。時期も悪く、1962年4月に紙が、同年10月にパルプが輸入自由化され[171]、1951年から1962年にかけて紙パルプ各社の供給能力はパルプが3.9倍、抄紙が4.9倍になり、アート紙にも国策パルプや日本パルプなど後発メーカーが進出して供給量は7.2倍[172]に跳ね上がっていた。主力のアート紙の下落幅は大きく、富岡工場の収益寄与が期待された矢先に会社創立以来の最悪の事態[173]を迎えた。
打開策は二つの方向で進んだ。ひとつは神崎工場の体質改善[174]である。最新設備の富岡工場でシェアを確保しながら、神崎工場のスクラップ・アンド・ビルドを進める体制[175]ができていた。1964年9月15日には老朽化した2号板紙抄紙機に代わる7号板紙抄紙機が稼働し[176]、『藤ポスト』『ミラーポスト』など神崎のアキレス腱[177]とまでいわれた高級コーテッド板紙が需要家の要望に応えられる品質に達した。パルプ設備では1965年3月22日にカルシウムベースのSPから2段蒸解ソーダベースのSPへの転換を完了し、パルプ歩留りは42%から53%へ上がった[178]。その後、公害対策の投資効果が薄いと判断され、富岡工場に新KPプラントを設置するかたちで、1969年5月に神崎工場のパルプ設備は姿を消した[179]。
もうひとつは印刷用加工紙の外に出ることだった。1962年11月に発売したノーカーボン感圧複写紙『KSコピー』[180]は、事務の合理化と機械化の流れに乗って伝票類やテレタイプ用紙の需要をつかんだ。開発は1956年に京都大学の小田良平教授の指導で始まり[181]、米NCR社のコアセルベーション法を避けて独自の製法を採る方針だったが、市場競争が激しくなったため1965年6月に方針を転換し、同年10月からコアセルベーション方式へ全面的に切り替えた[182]。同じ1962年11月には気化性防錆紙『KS-VCI』の生産販売も始まっている[183]。こちらは米ドーバート・ケミカル社の『ノックスラスト』を技術導入したもの[184]で、1968年末には先発の日本加工製紙のVPI紙と市場を二分するまでになった[185]。社史はこれをアート紙以来の第3のピーク[186]と位置づけている。
1964年11月、第32期株主総会後の取締役会[187]で、創業社長の加藤藤太郎氏が社長を辞して会長に就き、副社長の広瀬藤四郎氏が後任に選ばれた[188]。副社長には専務の遠藤福雄氏が昇格し[189]、1948年の創立時に王子製紙から譲り受けた2人がそろって会社の先頭に立った。1963年末からの金融引締めのあと1964年半ばから進んだ不況は同年末にいっそう深まり、1965年5月には大手証券会社が経営に行き詰まって日本銀行が昭和初期の金融恐慌以来初めての特別融資[190]に踏み切っている。紙パルプ業界では1962年からの抄紙設備の規制が1969年度末まで延長され[191]、塗工設備も新たに規制の対象品種に加えられた。とくにコーテッド紙は東北パルプ・国策パルプ・山陽パルプの増設が相次ぎ[192]、供給圧力で価格は崩落状態に陥った。
新首脳が選んだ立て直しの道は、経費節減ではなく採算単位の分割[193]だった。首脳交代に先立つ1964年10月、水野勤労部長を中心に職務分析委員会が発足[194]し、職務ごとの重要度と困難度を洗い直した。この作業のなかで急を要するのは業務内容そのものの改革だと判明し、蓮見管理部長が別に業務全般の分析調査委員会をつくって1965年3月に報告書[195]をまとめた。骨子は営業部門の強化充実と事業所別採算制の導入の2点[196]で、冗費節約にとどまらず売上高を増やす積極策だった。1965年10月には営業部と技術部をそれぞれ本部に昇格させ[197]、利益計画と資金計画を統合して運用する管理部を設ける機構改革が実施され、1966年4月に事業所別採算制が動き出した[198]。関東・関西の両営業所と神崎・富岡の両工場をそれぞれ事業所とし、工場から営業へ引き渡す製品の基準原価を半年ごとに決め[199]、工場は基準原価以下に原価を下げて収益を確保する。
人事の側でも作業は並行し、1964年7月に一般職の技術員区分を廃して管理職6等級・一般職10等級の資格制度[200]を発足させたが、区分そのものが勤続と年功に沿わざるをえず[201]、給与や役職との対応は明確にならなかった。先の職務分析委員会は日本生産性本部方式の職務分類手法で職掌と職務を分類[202]し、職務ごとに職級をランクづける作業を進め、1966年8月に職務分類規程が労使間で合意[203]に達した。1967年5月、職務給の導入を骨子とする新人事制度が発足[204]し、給与に占める職務給は17%から始まっている。同年7月には3組3交替制に終止符を打って4組3交替制へ移り、年間休日は62日[205]になった。
紙の輸入は1962年9月の自由化後も急増しなかったが、1964年に設備調整の失敗で供給力が不足すると、紙輸入量は1963年の4,000トンから1964年の10万7,000トンへ跳ね上がった[206]。その後も輸入は増え、1968年には13万1,000トンに達している[207]。1967年9月、大昭和製紙が営業部門を独立させて大昭和商事を設立[208]し、輸入紙を含む拡販体制を整えて業界に波紋を投じた。これに対抗して、王子製紙・十条製紙・本州製紙に神崎製紙を加えた王子系4社は、1967年12月末に均等出資で資本金1億2,000万円の王子連合通商を設立[209]した。社長は王子製紙の和田貞一専務が兼任し、神崎製紙からは小笠原英男専務と平沢信一取締役[210]が役員に入っている。4社の輸入窓口を一本化する仕組みで、神崎製紙はここを通じてNKPを輸入したほか、富岡工場の新増設KP設備が本格稼働するまでLKPの輸入[211]を続けた。
王子連合通商の設立直後の1968年3月、王子製紙・十条製紙・本州製紙の王子系3社が公正取引委員会に合併を申請[212]した。公取委は高級印刷紙で新会社のシェアが68%に達し国内の有力な競争企業は大昭和製紙しかない[213]として競争制限の疑いを強め、王子3社は否認の結論を避けられないと判断して1968年10月に申請を取り下げた[214]。神崎製紙はこの合併の局外にあった[215]。取下げ後に王子3社の関係が微妙になり情報交換の場すら失われかねなくなったため、王子製紙が国策パルプ・北日本製紙に呼びかけた懇親会の趣旨に賛同し、日本パルプも加えた5社で1969年1月に常磐会を設けた[216]。常磐会は同年2月に販売連絡会議、3月に労務連絡会議を下部機構として置いたが、神崎製紙は業界や自社の利益に合う場合は行動をともにし、各社の特殊性を生かすうえで抵触することには拘束されないという立場を保った[217]。
加工紙で培った技術は紙の外にも向かい、1964年11月にスイスのハフコ社と特許3件を含む技術導入契約[218]を結び、1965年12月に資本金3,000万円を全額出資して神崎成形を設立[219]した。プラスチック製のワンウェイ容器は『クリーンパック』の名で1966年3月に生産が始まり[220]、1967年春に雪印乳業がサワー飲料を発売して乳業各社が続くと需要は一挙に拡大[221]し、1969年7月1日には八幡化学との合弁で九州クリーンパックを設立[222]している。包装紙では1966年7月に米ロー・ペーパー社と契約料4万ドル[223]でポリエチレン表面加工紙の技術導入契約を結び、1968年1月に『LPコート』を発売した[224]。情報通信の側では研究所の物性研究グループが静電記録紙を手がけ、1965年6月に試作の段階[225]へ届き、1967年3月に『K-18B』の製造が研究所から神崎工場へ移って同年5月に市販[226]が始まった。
神崎工場の体質改善には限界があった[227]。都市過密化で用水と排水の規制が厳しく、増設を重ねた工場のレイアウトは理想から遠く[228]、設備投資の効果は上がらなかった。1966年11月、広瀬藤四郎社長以下の首脳が全員出席した常務会[229]は、神崎工場を縮小して高級加工紙の専門工場とし、パルプから加工紙までの連続一貫工程からなる新工場を別に建てると決めた。設備規制下だったため、新工場は神崎工場のパルプ・抄紙・塗工の各設備を廃棄して更新するスクラップ・アンド・ビルド方式[230]で建てられた。用地の条件は20万から30万平方メートルの敷地、1日10万トン以上の用水[231]、大型船が接岸荷役できる港湾、公害の恐れがないことの4つで、和歌山・岡山・高知も検討ののち富岡工場周辺が第1候補になった。1967年3月、徳島県が阿南市への建設予定地選定を正式に回答[232]し、33万平方メートルの用地を買収造成して用地代を含め総額150億円[233]を投じる計画が固まった。
工事は2期に分けられた[234]。第1期は通産省の認可を受けていた8号抄紙機を新工場1号機として1968年2月の稼働を目標に着工[235]し、神崎工場のパルプ設備と1号・3号・6号の各抄紙機をスクラップにして、その代替設備の2号機と新KP設備を同年8月の稼働目標で進めるものだった。1969年4月4日には日産350トンのKP設備が動き[236]、2段蒸解とハイヒートウォッシング方式を採った同社最初のKP設備となった。同年5月に新工場は富岡工場へ統合され、富岡工場のパルプ生産は日産600トン、抄紙生産高は日産700トン[237]となって、単一工場としては全国屈指の規模に届いた。神崎工場のSP設備は同じ1969年5月に操業を停止[238]している。広瀬藤四郎社長は新工場建設のタイミングはまことに時宜を得たものだった[239]と述べ、稼働時に大型景気が到来して万国博需要が増産分を吸収したこと、そして神崎工場の体質改善を完遂させる余力を持てたこと[240]を挙げた。
原料の側では、アラスカに長期の足場を得た[241]。USPC社は1968年9月に米国森林局へ10万ドルの保証金を供託し、アラスカのジュノー地区で今後55年間に100万エーカー[242]の立木を伐採する契約を結んでいた。1968年12月に遠藤福雄副社長がニューヨークで仮契約に署名[243]し、王子製紙の連帯保証についての調整を終えたうえで、1969年2月にパルプと製材の15年にわたる長期輸入契約[244]を取り交わした。USPC社が建てる製材工場と未晒KP工場の全生産量を神崎製紙が引き取り、契約期間はパルプの商業生産が始まる1973年から15年[245]とする内容である。提携に伴って1969年6月1日に不二木材を神崎林業へ商号変更[246]した。1970年8月時点の神崎製紙は資本金11億円、従業員2,550人、半期売上高180億円[247]、利益金6億円で、月間生産高はアート・コート紙2万4,000トンで品種は11に達していた。
1970年代の神崎製紙は、旧王子系のなかで存在感を増した[248]。王子製紙自身の社史は、戦後30年の設備拡張と販売シェア争いの結末を1979年の会社別生産実績でみたうえで、王子製紙・十条製紙・本州製紙がシェアを失うなかで紙部門では神崎製紙の躍進が眼をひく[249]と書いている。1979年から1980年にかけての第二次石油ショックでは、経営不振に陥った大竹紙業の再建を山陽国策パルプ・十条製紙・本州製紙とともに支援[250]した。1981年、王子製紙・本州製紙・十条製紙・神崎製紙の4社は、それまでの社長会である二水会に加えて副社長会を設け[251]、企画管理・販売流通・原材料・研究技術などの専門部会を下部機構[252]に置いた。事務局を持たない懇親会だった社長会に比べ、組織だった体制ができた[253]と評されている。
当時の神崎製紙を、日経ビジネスは遠藤福雄社長の下で徹底した合理主義経営を貫き、収益力は抜群で財務体質は業界ナンバー1[254]と記した。同時に、それだけ業界協調になじまない面があり、4社提携への参加は同社のドル箱であるノーカーボン紙へ王子製紙が参入を断念した代償だとの説[255]も伝えている。それでも規模の差は動かず、1991年度の売上高は神崎製紙が1,437億円で王子製紙の4,759億円[256]のおよそ3割にとどまり、1992年の紙・板紙生産量では業界12位・シェア2.5%の中堅[257]だった。1993年1月29日に発表された王子製紙との合併[258]は、経営不振に陥った企業の救済型再編ではなく体質の強い企業同士の結合だった[259]。コート紙と情報用紙に強い神崎製紙を加えることで、新王子製紙は板紙を除くあらゆる品種を抱えるシェア11.9%のトップメーカー[260]となった。
1993年10月1日、神崎製紙は王子製紙と合併して新王子製紙となり[261]、1948年9月の創立から45年で歴史を閉じた[262]。最後の社長だった河村俊彦氏は営業畑を歩いて世界を回り販路を広げた人[263]で、合併について『従業員の皆さんの幸せのためにも、この道を選んだ方がいい』[引用元]と語っていた。合併の直後に旧神崎製紙で75億円の財テク損失が明るみに出て[264]、新会社の門出はつまずいた。消えたのは社名と株式上場であり、残ったのは工場と、コート紙・情報用紙という品種[265]である。感熱紙をはじめとする情報用紙では、旧神崎製紙を引き継いだ新王子製紙が米国・ドイツ・フィンランドで生産を始めた[266]。1996年10月に新王子製紙は本州製紙と合併して社名を王子製紙に戻した[267]が、その決定には旧神崎の幹部から新をとるのはしゃくにさわるという不満も出た。
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|---|---|---|---|---|
| 1894〜1948年マッチの廃材から始まり、アート紙の工場になるまで | 真島襄一郎が兵庫県小田村常光寺に真島製紙所を設立 | ★★ | ||
| 野田吉兵衛の出資を受け大阪製紙へ改組 | ★ | |||
| 富士製紙による買収と富士製紙神崎工場への編入 | ★★ | |||
| ブラッシュ式塗工機2台の輸入によりアート紙の生産開始 | ★★ | |||
| 王子・富士・樺太3社の合併による王子製紙神崎工場への編入 | ★★ | |||
| 王子製紙の過度経済力集中排除法による指定会社への指定 | ★ | |||
| 神崎製紙を設立し資本金1,000万円で神崎工場を継承 | ★★★ | |||
| 1号塗工機の復旧によるアート紙の生産開始 | ★★ | |||
| 1948〜1956年無一文からの出発と、アート紙専業という選択 | 2号抄紙機の稼働によるアート原紙の自給着手 | ★★ | ||
| SP工場の完成によるパルプからアート紙までの一貫生産体制確立 | ★★ | |||
| 資本金1億円への増資と初めての株式従業員割当て | ★ | |||
| 東京証券取引所への株式上場 | ★ | |||
| 銘柄「金藤」「銀藤」の誕生 | ★★ | |||
| 菅野谷浅吉らの第1次海外技術調査団を米国へ派遣 | ★ | |||
| 国内初のラテックス配合塗料によるアート紙の試作成功 | ★★ | |||
| SCP設備の稼働による広葉樹パルプの生産成功 | ★★ | |||
| 新製品「ミラーコート」の生産開始 | ★★ | |||
| 徳島県阿南への富岡工場の建設と、広葉樹100%のパルプから加工紙までの一貫生産への移行 1948年に王子製紙の戦災工場を継いで発足した神崎製紙が、尼崎の1社1工場では規模の利益を追う各社に対抗できないとして、1956年春に徳島県への新工場建設を決めた投資。用地買収費を含む概算100億円は、当時の総資産41億円余の2倍を超えた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 1956〜1964年チャンピオン社との提携と、社運をかけた富岡工場 | 米チャンピオン社からのキャスト・コーティング技術の導入と、自社方式から相手方式への全面切替 1955年4月から自前の技術で『ミラーコート』を生産していた神崎製紙が、1957年9月27日付けで米チャンピオン社とキャスト・コーティングの技術提携を結び、日本特許第202,421号の専用実施権を得てキャスト設備をすべて相手方式へ切り替えた提携。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 第2工場の建設地を徳島県阿南市豊益町に決定 | ★★ | |||
| 富岡工場1号抄紙機の稼働開始 | ★★ | |||
| 国内初のオンマシンダブルコーテッド紙「トップコート」の生産開始 | ★★ | |||
| 富岡工場1号キャストコーターの稼働 | ★★ | |||
| ノーカーボン複写紙「KSコピー」の生産販売開始 | ★★ | |||
| 加藤藤太郎の会長就任と広瀬藤四郎の社長就任 | ★★ | |||
| 1964〜1993年事業所別採算と富岡新工場、そして王子製紙への合流 | プラスチック容器「クリーンパック」の生産開始 | ★★ | ||
| 事業所別損益管理制度の実施 | ★★ | |||
| 神崎工場の縮小と連続一貫工程の新工場建設を決定 | ★★ | |||
| 王子系4社による輸入窓口機関・王子連合通商の設立 | ★★ | |||
| 第3工場1号抄紙機の完成 | ★★ | |||
| 米USPC社とのパルプ・製材15年長期輸入契約の締結 | ★★ | |||
| 王子系4社による副社長会の設置 | ★★ | |||
| 王子製紙との合併の発表 | ★★ | |||
| 王子製紙との合併による新王子製紙の発足と45年の歴史の幕 | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(神崎製紙)