1873年に渋沢栄一氏が三井組・小野組・島田組に出資を勧めて発足させた抄紙会社が起源。
1875年に王子村で英国製の抄紙機を据えた工場を操業し、1889年には亜硫酸パルプを実用化して木材原料の洋紙製造を拡大した。
王子ホールディングスに次ぐ国内の製紙大手で、売上の7割強を国内が占める。
明治初年の日本は、紙幣や証券に使う洋紙を輸入に依存していた。1872年に井上馨氏・渋沢栄一氏・上野景範氏が製紙業の建設を建議し、国産化の動きは政府の内側から始まった。大蔵省の官吏だった渋沢栄一氏は同年11月、三井組・小野組・島田組の3家に出資を勧め、資本金15万円の抄紙会社を組織した。勧誘の言葉は『目前の利益は少なく、大資本を要するが、国家社会のために製紙業をおこすべし』というもの。抄紙会社は大蔵省紙幣寮の許可を受けて1873年2月12日に発足し、渋沢栄一氏は退官後の1874年1月に初代頭取に就任した。官が建議した事業を富豪の出資に委ねたのは、利益が出るまでの長い期間を持ちこたえる資力を民間に求めたためとみられる。
抄紙会社は最初の工場の地に東京府下王子村を選び、1875年6月に王子工場を完成させた。当時最大の網幅を持つ英国製78インチ抄紙機1台を据え、英国人技師のフランク・チースメン氏とトーマス・ボットムリー氏が運転を指導した。同年12月には新聞用紙を抄けるようになり、開業式を開催。国内に技術者がいなかったため、明治初期の製紙会社はどこも1〜3年契約で外国人技師を雇い、月給は200円から250円ほどに上った。渋沢栄一氏の甥で職工から入社した大川平三郎氏の初任給は5円である。設備も技術も輸入に依存した開業は、技術を国内の人材に移す課題を抄紙会社に残したのだろう。
開業後も販売は振るわず、抄紙会社は発足から1875年までに4万円を超える赤字を出した。1877年までに民間の1社と官営の抄紙局が相次いで操業を始め、洋紙の作り手が増えたことも経営を圧迫する要因となった。抄紙会社が社名を製紙会社に改めたのは1876年である。苦境を和らげたのは紙幣寮から受注した地券と印紙類の用紙で、この受注を境に創立以来の損失は少しずつ埋まった。西南戦争で印刷用紙の需要は急増したものの、1880年に地券紙を抄く特典がなくなると、製紙業の経営は再び苦しくなった。官の大口注文で稼働を支えた経験は、民間の需要だけでは工場を回せない当時の市場の薄さを映していたと思われる。
輸入紙に値段で対抗するため、製紙会社は1879年に大川平三郎氏を米国へ派遣し、欧米の新しい製紙の知識を探らせた。大川平三郎氏は抄紙機の故障が続くことを渋沢栄一氏が嘆くのをたびたび聞き、技術の習得に打ち込んでいた。当時の原料はボロで、工場はボロを集めやすい都市の周辺に置かれていた。欧米ではボロの調達が限界に達して値が急騰し、打開策として生まれたのが麦わらを混ぜる製法である。大川平三郎氏が持ち帰ったのはこの製法で、渋沢栄一氏は後年、当時の驚きを『わらが紙になるなどそれこそ切支丹の法かとその時分は思った』と振り返った。原料をボロから藁へ広げることは、紙価を輸入品の水準へ近づける前提だったと推察される。
大川平三郎氏は帰国後の1880年に稲藁を原料とする藁パルプを実用化し、製紙会社の原料をボロ以外へ広げた。同じ1880年、製紙業界は日本製紙聯合会を設け、輸入紙の時価を目安にした紙価の協定を締結。協定は3年後の1883年に廃止され、以後の製紙会社は原料費の切り下げで輸入紙に対抗した。明治10年代の洋紙需要は横ばいで、新たな製紙会社もほとんど生まれない時期にあたる。その中で製紙会社は整った会社組織と大きな資本、当時で最も幅の広い抄紙機を持ち、大川平三郎氏の技術を加えて業界で最も大きく発展した。藁パルプで原料費を下げた経験が、需要の戻る明治20年代に木材パルプへ進む土台になったと考えられる。
製紙会社は1889年、静岡県の天竜川流域に新設した気田工場で、木材による亜硫酸パルプ(SP)生産を始めた。欧米でも木材パルプの企業化は緒に就いたばかりで、気田のSPにより輸入紙と比べて遜色のない品質と原価が国内で確かなものになった。これに先立ち製紙会社は明治20年代、天竜川流域で山林を買収し、原料の木材を自ら押さえた。ボロの時代は都市の周辺に工場を置いたが、木材パルプでは近くに適材があり、動力源となる水量の多い川があることが立地の条件になった。明治20年代の業界では水力による自家発電と木材パルプの使用が広がった。川に寄せた立地は、のちに水害という別の危険を製紙会社に負わせた。
製紙会社は1893年、商号を王子製紙株式会社に改めた。経営の実権は発起人の渋沢栄一氏が握り、渋沢栄一氏の系列に属する大川平三郎氏が専務取締役へ昇進していた。大川平三郎氏は藁パルプの実用化と気田工場のSPを手がけた技術者で、十条製紙の社史は近代的な製紙技術の確立者と位置づけている。同じ頃、王子製紙は設備の大幅な拡張を計画し、主要な出資者の三井に増資を相談した。三井銀行では井上馨氏の推薦を受けて1891年に理事となった中上川彦次郎氏が不良貸金を整理し、前橋紡績所や芝浦製作所を傘下に収めていた。技術を担う大川平三郎氏と、資本を持ち経営の実権を求める三井との関係は、増資の相談を機に緊張をはらんでいった。
1896年、王子製紙は気田工場と同じ天竜川流域に中部工場を建てることを決め、資本金を50万円から110万円に増やす必要に迫られた。創業時からの株主で株式の60%を持つ三井が、増資を引き受ける条件として求めたのは経営への参加である。三井銀行の中上川彦次郎氏は三井の資金で工業化を進める考えを持ち、鐘紡や北炭を既に傘下に置いていた。三井が専務に送った藤山雷太氏と大川平三郎氏は激しく対立した。1898年8月に大川平三郎氏が取締役兼技師長へ降格されると、150余人の工員がストライキで抗議の声を上げた。争議は大川平三郎氏の退任で収まり、9月に会長の渋沢栄一氏も退任して、王子製紙の経営は三井の手に移った。
中部工場の開業は1899年1月で、設備は98インチの新聞用抄紙機2台である。良質な新聞用紙を抄くのに手間取り、天竜川の出水で操業停止や原木の流失が重なって、開業以来赤字が続いた。王子製紙は1904年上期まで無配の赤字決算を重ね、1903年には資本金200万円を50万円に減資したうえで200万円に増資した。1902年7月に専務へ就任した鈴木梅四郎氏は、同年に中部工場、翌年に気田工場が大きな水害を受けたため、両工場に見切りをつけた。鈴木梅四郎氏はエゾマツ・トドマツの原始林がある北海道に着目し、1904年に支笏湖の水利を確かめ、苫小牧を工場の建設地に選んだ。王子製紙は1906年に苫小牧での建設を正式に決め、資本金を600万円に引き上げて新聞用紙の大工場に備えた。
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事実根拠:出所(日本製紙)