王子ホールディングス旧王子3社の合併覚書の取り下げと、同業を一社ずつ吸収する路線への転換

1968年取り下げ・路線転換

分割前の姿へ一括で戻すか、一社ずつ束ね直すか——独占禁止政策が決めた四半世紀の遠回り

時期 1968年3月
意思決定者(推定) 中島慶次 会長
論点 戦後分割の復元と独占禁止政策
概要
1968年3月21日、戦後の企業分割で生まれた王子製紙・十條製紙・本州製紙の旧王子3社が合併覚書に調印し、同年9月、公正取引委員会の事前審査を前に覚書を取り下げた経営判断。分割前への一括復元を断念した王子は、以後は同業を一社ずつ吸収する路線へ切り替えた。
背景
1949年の過度経済力集中排除法で旧王子製紙は3社に分けられ、苫小牧製紙は1工場からの再出発を強いられた。資本自由化を控えた1960年代後半、3社を合わせても世界最大手の半分に満たない規模と、設備過剰・過当競争の循環が業界共通の課題になっていた。
内容
覚書は王子の中島慶次会長と旧王子の長老である加藤藤太郎氏が主導し、3社の社長にも事前に相談せずまとまった。同年4月に八幡製鉄と富士製鉄の合併構想が公表されると世論が沸騰し、公取委の態度も厳しさを増した。否認の見通しが伝わった9月、3社首脳は覚書の取り下げを決めた。調印から183日後であった。
含意
一括復元をあきらめた王子は、独占禁止法上の論点を一件ずつ個別審査で片付けられる相手を選ぶ手法に移った。北日本製紙・日本パルプ工業・東洋パルプ・神崎製紙・本州製紙と四半世紀かけて重ねた合併も、2006年の北越製紙への敵対的TOBも、この転換の延長線上にある。
筆者の見解

一括の復元から、一件ずつの審査へ

中島慶次会長が公取委から引き出した「まあ、出してごらんなさいよ」という一言は、183日後には何の保証にもならなかった。同じ1968年4月に八幡製鉄と富士製鉄の合併構想が公表され、個別企業の統合ではなく大型合併そのものが国政の論点に変わったためである。取り下げの席で王子が選んだのは、訴訟でも2社への縮小でもなく、審査にかける単位を小さくすることであった。相手を一社に絞れば、シェアの論点は品種ごとに分解され、独占禁止法の壁は一件ずつの高さに下がる。この置き換えが、以後四半世紀の合併の型を決めたとみることができる。

ただ、遠回りの代償は小さくなかった。田中文雄氏が1979年に、王子3社が合併しても業界はよくならないと語ったとおり、設備過剰と市況の乱れは3社合併の頓挫と関係なく続き、1990年代まで持ち越された。一社ずつの吸収は品種の厚みをもたらした一方で、規模の回復には四半世紀を要し、その到達点は国内需要が縮み始める時期と重なることになる。1968年の183日は、復元の機会を逃した半年であると同時に、合併の型を身につけた半年でもあったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

1工場からの再出発と、資本自由化を前にした国際比較

1949年8月、過度経済力集中排除法によって旧王子製紙は3社に分けられた。工場の配分は苫小牧製紙が1、十條製紙が7、本州製紙が7で、社員の希望も上質紙で最も稼いでいた本州に集まり、苫小牧を志望する者が最も少なかった。苫小牧製紙は1952年6月に王子製紙工業、1960年12月に王子製紙へと社名を戻したが、分割前に擁した工場群とは比べようもなかった。この一片からの再出発が、以後の合併戦略のすべての前提になっていた[1][2]

規模の乏しさは数字に表れていた。本州製紙専務の栖原亮氏は1970年の講演で、1966年の世界最大手インターナショナル・ペーパーの売上高5,220億円に対し、東京証券取引所一部上場の紙パルプ約20社の売上高合計が5,048億円にとどまり、王子・十條・本州を合わせても同社の半分以下、純益では8分の1以下であったと述べている。設備の新設、過剰設備、過当競争、製品価格の下落という循環が、企業の安定成長を妨げていた[3][4]

決断

覚書調印までの電撃

合併を動かしたのは、分割前の旧王子製紙で最後の社長を務め、当時は王子製紙会長であった中島慶次氏と、旧王子の長老である加藤藤太郎氏であった。3社の社長にも事前に相談することなく話は進んだ。中島氏がある人を介して公正取引委員会に極秘裏に打診したところ、「まあ、出してごらんなさいよ」というきわめて手ごたえのある反応が返ってきたことが、調印の引き金になっている[5][6]

1968年3月21日、王子の中島慶次会長、十條の西済会長、本州の木下又三郎社長ら3社の首脳6人が合併覚書に調印した。副社長の田中文雄氏がこの計画を知らされたのは公表のわずか2日前である。新会社は年間売上高約1,800億円、18工場、従業員約1万8,700人を見込んだが、それでも世界の紙パルプ業界では13位にすぎなかった。通産省は国際競争力の強化と業界の体質改善に役立つとみて後押しし、成否の鍵は公正取引委員会が握っていた[7][8]

調印から183日での取り下げ

公正取引委員会の反応は当初きわめて好意的で、新聞用紙のシェアが60%に達する点についても、資本自由化への体制固めという説明に理解を示していた。ところが1968年4月16日に八幡製鉄と富士製鉄の合併構想が公表されると、事態は一変する。大型合併の是非をめぐって世論が沸騰し、公取委の態度もにわかに厳しさを増した。6月半ばには近代経済学者90人からなる独占禁止政策懇談会が、安易な合併は競争制限の機運を誘発するとの声明を出している[9][10]

3社首脳の合同審議会に、公取委が一両日中に3社合併否認の結論を出すらしいとの内部報告が届いた。席上、これ以上の事前審査は不利だとして取り下げが決まる。覚書の調印から183日目であった。行政訴訟で合併を強行する案も、3社を2社に切り替える案もあったが、訴訟に勝てる見込みはなく、負ければ再度の申請が困難になるとの見方が大勢を占めた。公取委の周辺から伝わった王子と本州、十條と本州という2社案にも、中島会長は首を縦に振らなかった[11][12]

結果

審査の単位を小さくするという手法

王子は1970年9月に北日本製紙、1979年3月に日本パルプ工業と合併した。日本パルプ工業との合併を目前にした1979年、社長の田中文雄氏は、1968年には同業者やユーザーから反対意見が書類で出され、鉄と紙の大型合併申請が二つ重なって論議が沸騰したのに対し、「今度はそうした反対は一つもありませんでした。小型合併だったせいもあるでしょう」と語っている。合併でシェアが25%を超える品種はなかった[13][14]

同じ場で田中氏は、旧王子グループの大合同が実現する可能性を問われ、「これは不可能でしょう」と答えている。理由は独占禁止法の解釈だけではなかった。製紙業界は構造的にぜい弱で市況は絶えず乱れ、設備は過剰であり、王子3社が合併しても事態はよくならないというのが当事者の見立てであった。分割前の姿を取り戻すことと、業界の過当競争を鎮めることは、この時点で別の問題になっていた[15]

再結集の意志と、四半世紀後の到達

一括復元の意志そのものは消えていなかった。1981年、王子製紙・本州製紙・十條製紙・神崎製紙の4社は、それまでの社長会に加えて副社長会を設け、企画管理・販売流通・原材料・研究技術などの専門部会を置いた。日経ビジネスはこれを「"紙の新日鉄"めざし再結集へ」と報じている。八幡・富士の合併は新日本製鉄として認められ、製紙3社の合併は認められなかったという対比が、13年を経てなお業界の言葉に残っていた[16]

その後、王子は1989年4月に東洋パルプ、1993年10月に神崎製紙と合併し、1996年10月には本州製紙との合併で社名を「王子製紙」に戻した。覚書の取り下げから28年である。一社ずつ呑み込む遠回りは、相手の工場群と品種を順に引き受ける形になり、印刷情報用紙・特殊紙・板紙という品種の厚みを王子に残した。2006年の北越製紙への敵対的TOBも、審査の単位を一社に絞るこの手法の延長線上にあった[17][18]

出典・参考
  • 私の履歴書 経済人22「田中文雄」(日本経済新聞社、1987年/日本経済新聞1983年10月連載)
  • 証券アナリストジャーナル 1970年 第8巻第9号「紙パルプ業界と本州製紙――その現状と将来――」(本州製紙 栖原亮 講演)
  • 日経ビジネス 1979年2月26日号「資源がないのにムダな競争は禁物」
  • 日経ビジネス 1981年10月19日号「“紙の新日鉄”めざし再結集へ 王子系4社が新たに副社長会」
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-増設ラッシュで不況に」
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】

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