日本瓦斯新日本瓦斯を設立し関東の中堅都市ガス事業者を傘下に収める都市ガス事業への進出

容器で運ぶガスか、導管で送るガスか——首都圏の外周を面で押さえるための選択

時期 1966年6月
意思決定者(推定) 本山修策 社長
論点 都市ガス事業への進出と関東エリアの面的な確保
概要
1966年6月、家庭用LPガスの専業会社として出発した日本瓦斯が、新日本瓦斯株式会社を設立して都市ガス事業へ入った経営判断。翌1967年2月の我孫子ガスへの経営参加を皮切りに、小山都市瓦斯・取手ガス・久喜都市ガスと関東各都市の小規模事業者を相次いで設立・傘下化し、1973年には都市ガス6社を持つ体制となった。
背景
1955年設立の日本瓦斯は、1956年に配管によるLPガスの集中供給方式を実用化し、団地単位でまとまった戸数へガスを送る仕組みを持っていた。1960年代の首都圏では衛星都市が中核都市へ育ち、団地単位の集中供給では追いつかない規模の需要が郊外に生まれていた。
内容
新日本瓦斯は埼玉県北本市に拠点を置き、日本瓦斯の都市ガス部門として創立された。供給区域の許可を新たに取る道と、既存の中堅事業者へ資本参加する道を並行して使い、1971年までに関東各都市へ子会社網を敷いた。営業所と車両、工事・運輸の子会社を都市ガス会社と共用する設計であった。
含意
本山修策社長は1973年の講演で、東京を中心とした35キロから50キロ圏内を都市ガス会社で取り巻く戦略を語っている。区域が守られていた時代の合理にもとづく設計で、1997年のLPガス登録制移行と2017年の都市ガス全面自由化を経て、子会社群は本体へ畳み直された。
筆者の見解

面で押さえるという設計の寿命

この決断は、容器でガスを配る会社が、性質の異なる装置産業へ自ら入る選択であった。容器で運ぶガスは区域に縛られない代わりに、顧客は1戸ずつしか増えない。導管で送るガスは区域の許可と設備の重さを引き受ける代わりに、区域内の家庭をまとめて抱えられる。本山社長が語った35キロから50キロ圏という言い方には、東京ガスの区域の外側を、二つの燃料の使い分けで埋めていくという地理的な発想がうかがえる。

ただし、面で押さえる設計は、区域が守られている間だけ働くものであった。1997年にLPガス小売が登録制へ移り、2017年に都市ガス小売が全面自由化されると、区域の内と外を分けていた線そのものが薄れた。2019年4月に新日本瓦斯のLPガス事業と新都市ガス事業が本体へ移り、2020年10月には東彩ガスが新日本瓦斯を吸収合併して、1966年に生まれた会社の商号は消えた。関東の地図を子会社で埋めた54年の設計は、区域を単位としない一つの会社へ畳み直された。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

家庭用LPガス専業として関東に広げた顧客網

日本瓦斯は1955年7月、資本金250万円・社員5人で東京に設立された家庭用LPガスの専業会社であった。初代社長の本山修策氏は設立の当初から工事部を置き、配管の設計と施工まで自社で抱える責任施工の体制を組んだ。1956年には配管によるLPガスの集中供給方式を日本で初めて実用化し、団地単位でまとまった戸数へガスを送る仕組みを手にした。1959年12月に田無工場、1960年8月に町田工場と充填基地を整え、首都圏西郊に配送の足場を置いた[1][2]

事業の伸びは、首都圏の人口と住宅の伸びとほぼ重なっていた。1965年7月期の単体売上高は10億円、翌1966年7月期は11億円で、経常利益は1億円に満たない規模にとどまっていた。本山社長は後年の講演で、東京・神奈川・埼玉・千葉の総人口が2,400万人、茨城・栃木・群馬を加えれば約3,000万人になると述べ、開発の中心が東京から40キロ圏より外へ移ると見ていた。顧客がどこで増えるかという読みが、供給方式の選び方を決めた[3][4]

容器で運ぶガスと、導管で送るガス

LPガスは1立方メートルあたり約2万5,000キロカロリーと、都市ガスの5,000キロカロリーの5倍の熱量を持ち、液化すれば体積は250分の1に縮む。容器に詰めてどこへでも動かせる性質が、導管網に縛られない販売を許していた。これに対して都市ガスは、供給区域ごとに導管を敷いて事業の許可を得る装置産業で、いったん敷けば区域内の需要家を面で抱えられる。同じ家庭用の燃料でありながら、事業としての性格は違っていた[5]

1960年代の首都圏では、衛星都市が東京から独立した中核都市へ育ち、住宅の建設が郊外へ広がった。ベッドタウン化の速い地域では、団地単位のLPガス集中供給では追いつかない密度の需要が生まれ、区域全体を導管で覆う都市ガス事業の許可を誰が取るかが、その土地の家庭用エネルギーの担い手を決めた。のちに新日本瓦斯の本拠となる埼玉県北本市の周辺も、昭和40年代に入って住宅化が急速に進み、エネルギー問題の解決が地域の課題となっていた[6][7]

決断

1966年6月、新日本瓦斯の設立

1966年6月、日本瓦斯は新日本瓦斯株式会社を設立し、都市ガス事業へ入った。新会社は埼玉県北本市に拠点を置き、日本瓦斯の都市ガス部門として創立された。容器の配送で伸びてきた専業会社が、供給区域と導管という重い資産をともなう事業を自ら抱える判断であった。設立の翌1967年2月に我孫子ガスへ経営参加し、同年9月に小山都市瓦斯、1968年6月に取手ガス、1971年1月に久喜都市ガスと、関東各都市の小規模事業者を相次いで設立・傘下化した[8][9]

地方の都市ガス事業者は、区域の人口に見合う小規模な経営で、単独では導管の更新や保安の投資を吸収しきれない構造を抱えていた。日本瓦斯の側から見れば、調達・保安・工事の機能はすでに本体と子会社に揃っており、それを複数の区域で使い回せば1社あたりの費用は下がる。新設と資本参加を並行させたのは、区域の許可を自ら取る道と、既存事業者を傘下に収める道の双方を同時に使ったためであった[10][11]

東京を50キロ圏で取り巻くという構想

本山社長は1973年3月の講演で、この一連の動きを一つの構想として説明している。自社開発として配管によるLPガスの集中供給方式、大規模配管による都市ガスの大型供給方式、LPガス自動車用気化器の国産化の三つを挙げ、都市ガス会社の経営について、これをもっと拡大して東京を中心とした35キロから50キロ圏内をがっちり取り巻いてしまう戦略を立てていると述べた。個々の会社を買い集める話ではなく、首都圏の外周を面で覆う設計であった[12]

構想を支えたのは、営業所と車両の配置であった。1973年の時点で日本瓦斯は東京都内に8、神奈川に13、埼玉に7、千葉に4、茨城に2の計34営業所を置き、関係会社を含めて200数両の車両を持ち、我孫子・取手・小山・久喜・北本・桶川・鶴ケ島の6都市の都市ガス会社を基地としていた。都市ガス会社は区域の需要家を抱えるだけでなく、周辺のLPガス配送の中継点も兼ねた。二つの燃料を同じ営業網に載せられる点が、この進出の実利であった[13]

結果

顧客12万戸のうち3万5,000戸

1973年時点の日本瓦斯の得意先は、個別のボンベ配送が約5万戸、小型の団地が約1万戸、簡易ガス事業が3万戸、そして都市ガス6社で3万5,000戸の、計約12万4,000戸から5,000戸であった。都市ガスは全体の3割弱を占め、設立から7年で本体のLPガスと並ぶ柱に育った。同じ1973年2月に日本瓦斯は東京証券取引所市場第二部へ上場し、1979年1月に第一部へ指定替えとなった。1984年7月には鹿沼ガスへ経営参加し、関東の中堅都市ガス事業者を傘下に加えた[14][15]

傘下に置いた会社は、その後それぞれの顔を資本市場に持った。1998年3月に新日本瓦斯が日本証券業協会へ株式を店頭登録し、2001年12月には東証第二部へ上場する。同年6月の講演で新日本瓦斯の福江忠夫社長は、北本・桶川・鴻巣の一部で3万1,000戸へ都市ガスを供給し、ガス売上高上位20社のなかで4番目に安い料金であると説明した。1966年に切り出した部門が、32年後には自らの料金と利益率を投資家へ語る公開会社になっていた[16][17]

出典・参考

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