王子ホールディングス本州製紙との合併と、47年ぶりの「王子製紙」への社名復帰
戦後分割の解消は何をもたらしたか——十條を除く2社の再統合と、直後に訪れた国内需要の頭打ち
- 概要
- 1996年3月29日、新王子製紙が板紙最大手の本州製紙との合併を発表した経営判断。同年10月1日に合併し、社名は1949年の分割で失った「王子製紙」へ戻った。1993年の神崎製紙との合併に続く連続合併で、十條を除く旧王子2社の再統合が成った。
- 背景
- 1993年4月に十條製紙と山陽国策パルプが合併して日本製紙が発足し、売上高で業界首位に立った。王子は同年10月に神崎製紙と合併して新王子製紙となったが、直後に旧神崎の75億円の財テク損失が露見し、新会社は出はなをくじかれていた。
- 内容
- 合併比率は本州株6株に対し新王子株5株。本州は合併に先立ち、1988年に子会社へ譲渡していた主力の釧路工場を876億円で買い戻すことを決めた。存続会社は新王子で、社名を「王子製紙」に戻すことも発表時に決まっていた。
- 含意
- 合併後の連結売上高は1兆1,332億円となり、日本の紙パルプ産業で初めて1兆円を超えた。ただし国内需要は頭打ちに向かい、2000年には日本製紙と大昭和製紙の統合で首位を明け渡す。経営課題は規模の回復から規模の使い道へ移った。
名跡を取り戻した年に始まったこと
本州製紙が876億円を投じて釧路工場を買い戻すと決めた時点で、この合併の条件は整った。米澤義信会長が釧路を戻すまでは合併できないと語っていた以上、王子にできたのは相手の事情が変わる時機を待つことだけであった。1993年の神崎合併で露見した75億円の損失問題が旧神崎勢の力を削ぎ、社内の意思決定が早くに一本化していたことも、次の交渉に集中できる条件になっている。大国昌彦氏が就任から9カ月で発表にこぎ着けられたのは、この二つが重なったからだとみられる。
ただ、47年かけて取り戻した規模が、そのまま収益に結びついたわけではない。合併の3年半後には日本製紙と大昭和製紙の統合で首位を明け渡し、王子は2001年にアジアで年産300万トンという計画を掲げて国外へ向かう。洋紙と板紙という重複の少ない組み合わせが市況の安定勢力にはならないことも、同時代から見えていた。戦後分割の解消は王子にとって到達点であると同時に、国内で規模を追う戦略の終点でもあったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
兄弟会社に抜かれた首位と、神崎合併の代償
1993年4月、十條製紙と山陽国策パルプが合併して日本製紙が発足し、売上高で業界首位、紙・板紙生産で2位の会社が生まれた。十條は1968年に王子・本州との合併契約に調印しながら公正取引委員会の壁に阻まれ、第二次石油ショック後にも王子との合併を寸前で逃しており、三度目にしてようやく実を結んだ合併であった。王子製紙は同年10月に神崎製紙と合併して新王子製紙となり、板紙を除くあらゆる品種を抱える会社になったが、首位を奪い返すには届かなかった[1][2]。
新王子製紙は発足から半月余りで出はなをくじかれる。旧神崎製紙の取締役財務部長が発足前の半年間に簿外で株式の先物・オプション取引を進め、75億円の損失を出していたことが判明した。副社長の河西広氏は「信頼関係が逆にアダになってしまった」と語り、行動を確かめる仕組みの欠如を認めている。責任を取って旧神崎社長の河村俊彦会長が代表権のない相談役に退き、旧神崎勢の力は急速に衰えた[3][4][5]。
決断
就任9カ月での発表
1995年6月、大国昌彦氏が新王子製紙の社長に就いた。1953年に東京大学工学部機械工学科を卒業して王子製紙工業に入り、中越パルプ工業への9年半の出向と東洋パルプの社長を経た、120年余りの王子の歴史で初めての技術者出身の社長であった。日経ビジネスは就任にあたって「再建の名手」と評し、本人が掲げたのは意思決定の速さであった。年功序列に慣れきった業界最古参の体質へ手を入れる意図が、就任時から示されていた[6][7]。
就任から9カ月後の1996年3月29日、新王子製紙は本州製紙との合併を発表した。合併期日は同年10月1日、存続会社は新王子で、社名を「王子製紙」に戻すことも発表と同時に決まっていた。合併比率は本州株6株に対し新王子株5株である。本州の売上高は新王子の3分の2弱にとどまり、売上高経常利益率も新王子の8%に対し2.2%と開きがあったから、この比率は本州側への配慮を含んでいた[8][9]。
釧路工場という条件
合併の時機を決めたのは、むしろ本州側の事情であった。本州は1988年に北海道の釧路工場を子会社へ1,198億円で譲渡し、その資金で借入金の返済とグループ企業の立て直しを進めていた。窮余の策で手放した主力工場を本体に戻すことは首脳陣の悲願で、米澤義信会長は「釧路(工場)を戻すまでは合併はできない」と語っていた。洋紙市況の回復で釧路の抄紙機3台が利益を上げるようになり、その見通しがついた[10]。
本州は合併に先立ち、876億円で釧路工場を子会社から買い戻すことを決めた。米澤会長は「合併はもう2、3年先と思っていたが、経営環境の変化が速かった」と述べている。相手側の条件が整った機を逃さず合併をまとめた形であった。旧神崎との合併から2年半で次の合併に動けた背景には、75億円の損失問題を経て新王子の経営が旧王子主導で一本化し、次の相手との融和に専念できる状態になっていたという事情もあった[11][12]。
結果
1兆円企業の誕生と、社名の回収
1996年10月1日、合併が完了して社名は「王子製紙」に戻った。1949年8月の分割から47年である。1997年3月期の連結売上高は1兆1,332億円となり、日本の紙パルプ産業で初めて1兆円を超えた会社になった。合併会社の社名を早々に元へ戻すと決めたことについて、新王子側は本州も元をたどれば王子製紙であり違和感はないと説明したが、神崎との合併を表した「新」の字を落とすことに旧神崎の幹部からは不満も出ていた[13][14][15][16]。
もっとも、この合併は同時期の再編とは性格が違った。洋紙が主力の新王子と板紙中心の本州は生産品種がほとんど重なっておらず、長引く市況低迷を立て直すための組み合わせにはならない。両社が効果として挙げたのは、海外植林の資金力の拡充と原料調達のスケールメリットであった。合併の3年後には中央板紙を傘下に収め、王子は板紙の再編でも主役の位置に立った[17][18]。
規模の復元から、規模の使い道へ
2000年3月、日本製紙と大昭和製紙が共同持株会社による経営統合を発表した。統合後の洋紙シェアは32.2%、連結売上高は1兆2,174億円で、王子を鼻の差でかわして首位に立つ計算であった。それでも世界では7位にすぎず、国内2社による寡占が強まる一方で、規模の競争は国境の外へ移りつつあった。分割の解消から3年半で、王子は国内首位の座を再び手放した[19]。
2001年6月、大国昌彦氏から社長を引き継いだ鈴木正一郎氏は、当時年間5万トン程度だったアジアでの現地生産を5年後に100万トン、10年後に300万トンへ引き上げる中長期計画を打ち出した。国内生産一辺倒の路線を大きく修正する内容である。伸びの見込めない内需に対し、アジア市場を取り込まなければ成長は図れないという判断であった。規模の復元を終えた王子の課題は、規模の使い道へと移っていた[20][21]。
- 日経ビジネス 1993年11月29日号「旧神崎の財テク損失露見 『信頼』の風土がアダに」
- 日経ビジネス 1995年12月25日号「大国昌彦氏[新王子製紙]再建の名手、『日本的経営』に新風」
- 日経ビジネス 1996年4月8日号「新王子製紙 連続合併で見せた『王子』の意地」
- 日本経済新聞「3月29日 新王子製紙と本州製紙が合併発表、国内トップに」
- 週刊東洋経済 1999年5月22日号「再編成 王子製紙が中央板紙を傘下に、板紙業界再編 次の焦点はどこか」
- 週刊東洋経済 2000年4月8日号「再編 日本製紙と大昭和製紙が持株会社で経営を統合 どう出る王子、大王製紙」
- 週刊東洋経済 2001年7月7日号「紙パ アジアで300万トン生産。野心的な中長期計画打ち出す 王子製紙の本音は首位奪還?」
- 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-増設ラッシュで不況に」
- 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
- 王子製紙 会社年鑑(連結業績)