大王製紙の設立は戦時下の産業統制による[1]ものである。1940年4月[2]、井川伊勢吉氏が丸菱製紙所の経営権を譲り受け、機械による製紙を始めた。3年後の1943年5月5日[3]、商工省の示した製紙工業企業整備要綱[4]に基づいて井川伊勢吉氏の経営する企業を主体に四国の14事業所が合同[5]し、資本金217万5,000円[6]で大王製紙が発足した。当初の事業は丸網抄紙機による和紙の製造販売[7]で、設立と同時に東京と大阪へ出張所を置いた[8]。統制は乱立した中小の製紙業者を1社にまとめる政策[9]であり、四国の紙産地にはこの1社が残った。
戦後の需要は和紙ではなく洋紙にあった[10]。同社は1945年12月に生産設備を伊予三島の三島工場へ集め[11]、1946年10月に洋紙とグラウンドパルプの製造設備を新設して翌年末から生産に入り[12]、1947年には新聞用紙の製造販売を始めた[13]。当時の紙市場は、統制の枠外にあった仙花紙が飛ぶように売れる異常な活況[14]にあり、その波に乗って大昭和製紙・中越パルプ・高崎製紙といった新興の中小メーカー[15]が相次いで規模を伸ばした。大王製紙もその一社であり、王子製紙が3社に分割された後の空白[16]へ入り込んだ新興勢力にあたる。
洋紙へ移った同社が次に抱えた課題は、原料パルプを外部から買っていた[17]ことにある。1950年11月に子会社の西日本パルプを設立してサルファイトパルプを確保[18]し、1954年4月に未晒クラフトパルプ、1955年11月に晒クラフトパルプの製造設備を三島工場へ新設[19]した。ここで原木からパルプ、紙までの一貫生産体制[20]ができた。四国では唯一の晒クラフトパルプ設備[21]であり、従来のサルファイトパルプをこれに切り替えて原価を下げた。1955年時点の本社は大阪市北区にあり[22]、生産の中心は愛媛県の三島工場にあった。
パルプの自給は、損益を[23]はっきり動かした。パルプを外部に頼っていた1952年10月期から1954年4月期までの4期で、同社は7,936万円の赤字[24]を計上した。未晒クラフトパルプ設備が動いた1954年10月期に業績は好転[25]し、1955年4月期には純利益5,700万円をあげて繰越欠損を一掃[26]した。1957年4月期の売上高は12億82万円、純利益は1億6,036万円[27]で、売上高に対する純利益率は1955年10月期の10.9%から13.8%まで上がった[28]。原料を自ら作れるかどうかが製紙会社の採算を決める[29]という、この業種の基本がそのまま数字になった。
生産能力と市場での地位も同じ時期に[30]固まった。1956年4月に銅山川製紙から工場設備を買い取って川之江工場とし[31]、三島工場と近接した2工場に生産を集めた。株式は1956年8月に大阪証券取引所へ、1957年7月に東京証券取引所へ上場[32]した。主力は洋紙で、なかでも新聞用紙は総生産量のおよそ半分を占め、その8割を朝日新聞社・毎日新聞社・読売新聞社の3社へ納めた[33]。上質紙と筋入クラフト紙は東南アジアやエジプトへ輸出[34]し、1956年4月期には売上高の25.4%を輸出が占めた[35]。主力の三島工場は88吋長網抄紙機ほか7台の抄紙機[36]とパルプ設備を備えて総生産量の約8割を作り、川之江工場は74吋と60吋の長網抄紙機でクラフトライナーと温床用紙を作った。
一貫生産の完成後、同社は増産へ資金を振り向けた[37]。1957年10月期の末に新聞用紙の月産能力を250万封度から900万封度へ引き上げる大幅高速抄紙機[38]の完成を控えており、段ボール原紙の製造販売も同年10月に始めた[39]。1960年にはパルプ設備と段ボール原紙抄紙機の改造・新設を実施[40]した。紙の需要が急速に拡大した1955年からの数年間、紙パルプ各社はそろって設備を増強[41]しており、同社の投資もその流れの中にある。1961年10月[42]には大阪・東京両証券取引所の市場第一部へ移った。もっとも1957年4月期の固定比率は199.6%[43]と高く、設備投資に追われて増設資産の償却による内部蓄積が十分に進まない状態にあった。
拡大の前提は3年で[44]崩れた。1960年秋から1962年春にかけて原木価格が異常な高騰を示し[45]、同時に過剰生産で製品価格が下落した。そこへ設備投資に伴う借入金の金利負担が重なり[46]、同社は資金繰りに行き詰まった。1962年5月に会社更生法の適用を申請し、翌6月に更生手続の開始が決定[47]した。上場から5年、市場第一部への昇格からは7か月[48]しか経っていなかった。1963年12月には大阪・東京両証券取引所で上場が廃止[49]され、翌1964年1月に日本証券業協会大阪地区協会の店頭登録銘柄へ移された[50]。更生手続の下でも営業は続き、1962年10月には名古屋出張所を開いた[51]。
更生手続の間に、経営を圧迫していた外部条件は反転した[52]。原木価格が沈静化し、製品価格も安定したため業績は回復[53]に向かった。1964年4月に更生計画が認可され[54]、1965年4月には更生手続の終結決定[55]を受けた。更生手続の開始から終結までは2年10か月[56]で、同社が申請に至った理由は販売力や製品の競争力ではなく、需要拡大期の設備投資と原料市況の急変が重なった点にあった。1965年7月には福岡出張所を開いて営業網の整備を再開し[57]、1973年10月には新1号・新2号ライナー抄紙機と新3号新聞用紙抄紙機の3台を同時に増設した[58]。
回復の速さは弁済にも[59]表れた。1970年4月、同社は更生債務を更生計画に基づく最終弁済期日より3年7か月繰り上げて弁済[60]し、債務は予定より早く消えた[61]。以後の同社は新聞用紙と段ボール原紙を中心に事業を進め[62]、1974年には中質紙と出版用紙の製造販売を加えた[63]。1975年以降は印刷用紙を中心に品目の多様化[64]を進めた。1977年8月には新4号新聞用紙抄紙機を増設し[65]、1978年7月には東京紙パルプ交易を設立した[66]。1979年1月[67]には日本証券業協会大阪地区協会の店頭登録銘柄へ再指定された。1978年に設立した東京紙パルプ交易は、現在も持分法適用の関連会社である[68]。
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|---|---|---|---|---|
| 1940〜1957年和紙14事業所の合同から洋紙の一貫生産体制へ(1940〜1957) | 四国紙業など14企業の合同により大王製紙を設立 | ★★★ | ||
| 生産設備を三島工場に集約 | ★★ | |||
| 銅山川製紙から設備を買収し川之江工場を開設 | ★★ | |||
| 大阪証券取引所に上場 | ★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 1957〜1974年設備拡大の反動と会社更生法の適用(1957〜1974) | 大阪・東京両証券取引所の市場第一部に上場 | ★ | ||
| 会社更生法の適用申請と、三島工場の操業を止めない更生手続 1962年5月、大王製紙が会社更生法の適用を申請し、翌6月に更生手続の開始決定を受けた経営判断。原木価格の高騰と製品価格の下落に設備投資の借入金利が重なって資金繰りに窮したもので、井川伊勢吉社長は取引先の伊藤忠商事による救済協議が決裂した3日後に法的整理へ切り替えた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 名古屋出張所の開設 | ★ | |||
| 大阪・東京両証券取引所で上場廃止 | ★★ | |||
| 日本証券業協会大阪地区協会の店頭登録銘柄に指定 | ★ | |||
| 更生計画の認可 | ★★ | |||
| 会社更生手続の終結 | ★★ | |||
| 福岡出張所の開設 | ★ | |||
| 新1・2号ライナー抄紙機と新3号新聞用紙抄紙機を増設 | ★ | |||
| 1974〜2006年エリエールによる家庭紙参入と再上場後の拡大(1974〜2006) | 新4号新聞用紙抄紙機の増設 | ★ | ||
| 東京紙パルプ交易の設立 | ★ | |||
| 日本証券業協会大阪地区協会の店頭登録銘柄に再指定 | ★ | |||
| ティシューペーパー「エリエール」による家庭紙市場への参入と紙おむつ・ナプキンへの品目拡大 1979年4月、大王製紙がティシューペーパーの製造販売を開始し、ブランド『エリエール』で家庭紙市場へ参入した経営判断。新聞用紙と段ボール原紙の専業メーカーが、初めて一般消費者に選ばれる品目を持った。以後トイレットペーパー、紙おむつ、生理用ナプキンへ品目を広げ、参入は営業を統括していた井川高雄氏の発想によるものであった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 大阪証券取引所市場第二部に再上場 | ★ | |||
| 丸紅から名古屋パルプを買収 | ★★ | |||
| 大阪証券取引所市場第一部銘柄に指定 | ★ | |||
| 新5号新聞用紙抄紙機の増設 | ★ | |||
| 燃料転換のための大型石炭燃焼設備が完成 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に再上場 | ★ | |||
| 新7号新聞用紙抄紙機の増設 | ★ | |||
| 東京支社を東京本社に昇格させ二本社制へ移行 | ★★ | |||
| 新8号コート原紙抄紙機の増設 | ★ | |||
| フォレスタル・アンチレの設立 | ★ | |||
| 新6号新聞用紙抄紙機の増設 | ★ | |||
| いわき大王製紙の設立 | ★ | |||
| 2007〜2025年創業家支配の終わりと北越紀州製紙の資本参加(2007〜2025) | 二神勝利 | 名古屋パルプを吸収合併し可児工場へ改組 | ★★ | |
| 井川意高 | 米P&Gから大人用紙おむつ「アテント」事業を譲受 | ★★ | ||
| 井川意高 | 新10号塗工紙抄紙機の増設 | ★ | ||
| 井川意高 | エリエール・インターナショナル・タイランドの設立 | ★ | ||
| 佐光正義 | 創業家との資本関係の解消と、北越紀州製紙を介した関連会社等株式の取得 2011年度の第2四半期に判明した元会長への貸付金問題を受け、大王製紙が創業家との資本関係を解消し、2012年6月26日の取締役会決議に基づいて同年8月15日付で北越紀州製紙から関連会社等株式を取得した経営判断。創業家に代わって北越紀州製紙が19.59%を持つ筆頭株主となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 佐光正義 | 連結子会社を37社から8社に変更 | ★★ | ||
| 佐光正義 | エリエール・インターナショナル・コリアの設立 | ★ | ||
| 佐光正義 | 連結子会社を8社から19社に変更 | ★ | ||
| 佐光正義 | 連結子会社を19社から43社に変更 | ★ | ||
| 佐光正義 | 大王(南通)生活用品の設立 | ★ | ||
| 佐光正義 | エリエール・インターナショナル・トレーディング・インドネシアの設立 | ★ | ||
| 佐光正義 | 同一事業の子会社間合併で連結子会社を35社に集約 | ★ | ||
| 佐光正義 | エリエール・インターナショナル・マニュファクチャリング・インドネシアの設立 | ★ | ||
| 佐光正義 | 段ボール事業の子会社間合併で連結子会社を29社に集約 | ★ | ||
| 佐光正義 | 東京本社と関連部門を千代田区富士見に移転・集約 | ★ | ||
| 佐光正義 | 日清紡ホールディングスから日清紡ペーパープロダクツの全株式を取得 | ★★ | ||
| 佐光正義 | 三浦印刷の取得 | ★ | ||
| 佐光正義 | 川之江工場で衛生用紙の新マシンが稼働 | ★ | ||
| 佐光正義 | 千明社を設立しSMSから印刷事業等を譲受 | ★ | ||
| 佐光正義 | トルコの衛生用品メーカー、ウゼンの全株式を取得 | ★★ | ||
| 佐光正義 | ブラジルの衛生用品メーカー、サンテルの株式51%を取得 | ★★ | ||
| 若林賴房 | 三島工場でペーパータオル専抄マシンが稼働 | ★ | ||
| 若林賴房 | 川之江工場で2台目の衛生用紙マシンが稼働 | ★ | ||
| 若林賴房 | 子会社5社の合併によりダイオーミウラを設立 | ★ | ||
| 若林賴房 | 東京証券取引所プライム市場へ移行 | ★ | ||
| 若林賴房 | ペット用品製造の大貴の全株式を取得 | ★★ | ||
| 若林賴房 | エリエール・インターナショナル・ベトナムの設立 | ★ | ||
| 若林賴房 | トルコの衛生用品子会社の全株式を譲渡 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(大王製紙)