大王製紙会社更生法の適用申請と、三島工場の操業を止めない更生手続
伊藤忠商事による救済か、法的整理か——原木高と設備投資の借入に挟まれた新興製紙の再建
- 概要
- 1962年5月、大王製紙が会社更生法の適用を申請し、翌6月に更生手続の開始決定を受けた経営判断。原木価格の高騰と製品価格の下落に設備投資の借入金利が重なって資金繰りに窮したもので、井川伊勢吉社長は取引先の伊藤忠商事による救済協議が決裂した3日後に法的整理へ切り替えた。
- 背景
- 1955年に原木からパルプ、紙までの一貫生産を整えた同社は、抄紙機とパルプ設備の増強を借入で賄っていた。1957年4月期の固定比率は199.6%、負債比率は197.0%で、増設資産の償却による内部蓄積が追いついていない。そこへ1960年秋からの原木高と製品安が重なった。
- 内容
- 申請当日の夕方、井川伊勢吉社長は会社幹部と労働組合幹部に対し、管財人が来るまでの2か月間は工場を止めないよう要望し、その間の賃金と給料は自分個人ででも出すと述べた。労働組合が同調して24時間操業は途切れず、新聞社や段ボール会社も資金の援助はできないが紙は買うと応じた。
- 含意
- 1964年4月に更生計画が認可され、1965年4月に手続が終結した。開始決定から2年10か月である。1970年4月には更生債務を最終弁済期日より3年7か月繰り上げて弁済した。一方で1963年12月に上場は廃止され、大阪証券取引所への再上場は1982年11月であった。
更生法は次善の策であった
井川伊勢吉社長が最初に選んだのは更生法ではなく、経営陣の総退陣と一族株式の全部譲渡を条件とする伊藤忠商事の救済であった。経営権を手放す条件を示してなお資金の出し手が決まらなかったところに、借入負担の重さがうかがえる。原木からパルプ、紙までを自社で持つ体制は、購入パルプに頼っていた時期の弱さを消す代わりに、原木価格が上がれば製造原価がそのまま上がる構造をつくった。そこへ増設分の借入金利が重なれば、販売力や製品の優劣とは別のところで資金は詰まる。
原木価格が下がり始めたのは申請の1、2か月後で、新聞用紙の値上げはその秋であった。2年10か月での終結と3年7か月の繰上弁済を、経営の手際だけに帰すのは難しい。市況が反転しなければ、同じ速度で終わった保証はない。会社が自ら握っていたのは2つである。朝日・毎日・読売への納入と、止めなかった三島工場であった。更生手続はこの2つが残っていたから成り立ったとみられる。失ったものも小さくない。上場廃止から大阪証券取引所への再上場までには19年を要している。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
パルプの外部購入から、原木の自社調達へ
大王製紙が原料の自給に踏み切ったのは、購入パルプへの依存で業績を痛めたためであった。1950年11月に子会社の西日本パルプを設立し、1954年4月に未晒クラフトパルプ、1955年11月に晒クラフトパルプの設備を三島工場へ新設して、原木からパルプ、紙までの一貫生産を整えた。それ以前は購入パルプが消費量の相当部分を占め、1952年10月期から1954年4月期までに7,936万円の赤字を出している。自給後は売上高純利益率が上がり、1957年4月期には13.8%に達した[1][2]。
一貫生産は、原料調達の対象をパルプから原木へ移す転換でもあった。戦後の森林資源は面積で戦前の半分、蓄積量で7割に落ち込み、そこへ建築用材とパルプ用材の需要が重なって、木材価格は卸売物価から離れて上がり続けた。1951年には戦前基準で卸売物価342倍、木材343倍とほぼ並んでいたものが、1955年には卸売物価343倍に対して木材は510倍へ跳ね上がっている。パルプを買わずに済むようになった代わりに、同社は原木相場の振れを自社の原価で直に受け止めた[3][4]。
借入で積み上げた抄紙機と、新聞3社という販路
設備の増強は、その大半を借入で賄っていた。1957年4月期の流動比率は92.1%まで戻ったものの、固定比率は199.6%、負債比率は197.0%で、建設途上にあって設備投資に追われ、増設資産の償却による内部蓄積が十分に進んでいなかった。同じ期末には新聞用紙の月産能力を250万封度から900万封度へ引き上げる大幅高速抄紙機の完成を控えており、1960年にはパルプ設備と段ボール原紙抄紙機の改造・新設が続いた[5][6][7]。
同じ増設は業界全体で起きていた。紙需要は10年で3.3倍にふえ、各社は抄紙機の大型化と高速化、パルプから紙への一貫生産を競い、その競争が原料高・製品安に拍車をかけた結果、1962年末から行政指導による設備規制が敷かれた。この増設競争のなかで、同社だけが持っていた条件がある。1957年時点で洋紙総生産量の約5割を占める新聞用紙は、その80%を朝日、毎日、読売の3社へ納めている[8][9]。
決断
伊藤忠商事への救済要請と、5月4日の決裂
1961年の初めに岩戸景気のブームが去ると、紙は売れ行きが鈍って値を下げ、原木は高値のまま動かなかった。資本金24億円、半期売上高40億円ほどの規模で、同社は年末をどう越すかという状態に追い込まれた。井川伊勢吉社長がまず頼ったのは法的整理ではなく、取引先である伊藤忠商事の救済であった。経営陣が総退陣し、一族の持つ株式を全部譲るという条件を自ら示して支援を求めている[10]。
協議は資金の出し手をめぐって決裂した。1962年5月4日、伊藤忠商事は大口債権者である伊豫銀行、江商と終日話し合い、伊豫銀行に対して再建に必要な資金を全額出すよう求めた。伊豫銀行は全額は出せない、額を示してほしいと応じ、話はつかなかった。井川伊勢吉社長は連休の残る5日と6日で会社更生法の申請準備を進め、7日に申請している。救済の道が閉じたその週のうちに、法的整理へ切り替えた判断であった[11]。
管財人が来るまでの2か月、工場を止めない
管財人が選任されるまでのあいだ、会社の指揮系統には空白ができる。申請した日の夕方、井川伊勢吉社長は会社の幹部と労働組合の幹部を集めて事情を説明し、管財人が来るまでの2か月間は工場を止めないでほしいと要望した。「その間の賃金、給料は私個人ででも出せる」(証券アナリストジャーナル 1983/1)と述べ、退職金については工場の資材を差し押さえてでも操業を続けてほしいと頼んでいる。労働組合はこれに同調し、24時間操業の工場は休むことなく動き続けた[12]。
販売先も離れなかった。新聞社や段ボール会社は、資金の援助はできないが紙は買うと応じ、三島工場は1日も休まずに操業を続けた。更生手続の下でも営業は縮まず、1962年10月には名古屋出張所を開いている。申請の翌6月には更生手続の開始が決定し、以後の経営は管財人の下へ移った。1957年7月の東京証券取引所上場から5年、市場第一部への昇格からは1年半しか経っていない[13][14]。
結果
市況の反転と、2年11か月の終結
外部条件は申請の直後に反転した。1962年6月から7月にかけて原木価格が下がり始め、その秋には新聞用紙の値上げがあった。申請の直接の原因であった原料高と製品安は、手続の入口でほぼ解消したことになる。原木高の沈静化と製品価格の安定で業績は回復に向かい、1964年4月に更生計画が認可され、1965年4月には更生手続の終結決定が出た。1962年6月の開始決定から数えて2年11か月である[15][16]。
回復の代償として、株式市場からはいったん退いた。1963年12月に大阪・東京両証券取引所で上場が廃止され、翌1964年1月に日本証券業協会大阪地区協会の店頭登録銘柄へ移された。大阪証券取引所への再上場は1982年11月、東京証券取引所への復帰は1988年2月で、上場廃止からそれぞれ19年、24年を要している。一方で営業網の整備はすぐに再開し、1965年7月には福岡出張所を開いた[17][18]。
繰上弁済と、増設の再開
終結の翌月、同社は第1回の元利金6億9,000万円を支払った。それでも資金が残ったため、三島工場に新聞用紙抄紙機を1台増設している。三菱重工業が米ベロイト社と提携して製作した機械であった。以後の3年間で川之江工場にライナー抄紙機1台、三島工場に新聞用紙抄紙機2台を増設し、パルプ設備も拡充した。資金繰りを詰まらせた当の設備投資へ、終結の直後から戻っている[19]。
弁済も前倒しで進んだ。1970年4月、同社は更生債務を更生計画に基づく最終弁済期日より3年7か月繰り上げて弁済した。同年12月の決算期からは配当も復活している。更生手続の開始から8年で、債務も配当も申請前の状態へ戻した。1965年の終結と同時に愛媛県と伊予三島市へ工場用地の造成を依頼しており、三島工場の地先海面を埋め立てた新工場は1971年に着工して1973年に完成した[20][21]。