日油連続赤字下での川崎・千鳥工場の新設と、石油化学への進出

石鹸原料に寄りかかった収益を、設備投資で組み替えられたか

時期 1961年
意思決定者(推定) 日本油脂 取締役会
論点 連続赤字からの再建と事業構成の組み替え
概要
1956年11月期から三期続けて当期損失を出した日本油脂は、赤字を抜けたのち、1961年に川崎市へ千鳥工場を新設して石油化学の分野へ進出した。油脂を出発点とする化学から石油系原料を扱う設備へ手を伸ばし、あわせて冶金機械・潤滑油添加剤・塗料にも投資を並べた再建であった。
背景
事業の源流は鈴木商店の魚油にあり、戦後は油脂・塗料・火薬・熔接棒の四部門を継承して1949年に再発足した。石鹸向けの原料供給に多くを負う収益構造が採算悪化を招き、1956年11月期から1957年11月期まで赤字が並んだ。
内容
1961年に川崎市の千鳥工場を新設して石油化学へ進出したほか、金属板の爆発成型事業で冶金機械へ入り、1964年には米ザ・ルーブリゾール・コーポレイションと合弁で潤滑油添加剤の会社を設立、同年8月に横浜市へ戸塚工場を建てた。
含意
業績は1958年5月期に黒字へ戻り、1961年11月期には売上85億円・当期純利益3.51億円まで回復した。ただし利益はそこが頂点で、1965年11月期には0.31億円まで細る。収益の形が変わるのは1965年の6事業部制からであった。
筆者の見解

設備は数年で建つが、組織は後から追う

連続赤字からの再建を石油化学への進出が救ったと読むのは、時間の順序を取り違えている。半期ごとの業績をたどると、1956年11月期から三期続いた赤字は1958年5月期に黒字へ戻り、千鳥工場を新設した1961年の11月期には当期純利益3.51億円と、回復の頂点に届いていた。塗料工場を構えていた川崎への投資は赤字を止めた手ではなく、止まったあとに次の停滞を見越して打った先回りの一手だったとみられる。

もっとも、その先回りが油脂偏重を解いたとはいえない。石油化学へ進んだのちも当期純利益は1962年11月期の1.82億円から1965年11月期の0.31億円まで細り、売上109億円に対する利益の薄さは、赤字が並んだ時期と質のうえで変わらなかった。収益の形が動くのは、6つの事業部を独立採算で走らせる組織へ組み替えてからである。設備は数年で建つが、それを利益に変える組織は後から追いつくほかない。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

四部門を継承した第二会社と、三期続いた赤字

現在の日本油脂が法人として発足したのは1949年7月であった。日産化学工業の企業再建整備計画に基づき、油脂・塗料・火薬・熔接棒の四部門を継承する第二会社として設立されている。事業の源流は1908年に鈴木商店が魚油の集荷販売を手がけたことにさかのぼり、1916年の兵庫工場と翌年の王子製油所で国内最初の硬化油事業を始めた。1955年の資本金は10億円で、会長は苫米地義三氏、社長は大橋退治氏が務めていた[1][2]

1955年5月期の売上は52億1千万円であったが、その後の数期で採算が崩れた。会社年鑑がまとめた半期ごとの単体業績では、1956年11月期に1.65億円の当期損失を計上し、1957年5月期に0.78億円、1957年11月期に0.65億円と、三期続けて赤字が並んでいる。売上高も51億円から56億円のあいだで足踏みし、石鹸向けの原料供給に多くを負う収益構造の弱さが表に出た[3][4]

塗料と火薬に支えられた事業構成

赤字を抜けたあとの事業の姿は、株式会社年鑑の昭和37年版がとらえている。1960年6月から11月までの半期の売上70億3,691万円のうち、塗料が23.7%、火薬が17.7%を占めた。これに対し、石鹸14.5%・食用油脂13.5%・工業油脂12.4%・油剤11.1%・化成品2.8%という油脂系の五品目を合わせても54.3%にとどまり、熔接棒は4.4%であった[5]

生産の拠点も分かれていた。工場は油脂の王子・尼崎、塗料の川崎・三国、熔接棒の神明、火薬の武豊・美唄に置かれ、従業員3,736人のうち3,083人が工場で働いている。株主構成をみると昭和電工が7.5%、三菱信託銀行が7.0%、日本証券金融が6.6%と並び、富士銀行と日本鉱業がそれぞれ3.0%を持っていた。特定の親会社に属さず、複数の金融機関と事業会社が株式を分け合う会社であった[6][7]

決断

千鳥工場の新設と石油化学への進出

油脂に偏った収益をどう組み替えるかが、1950年代末からの課題として残った。日本油脂が選んだのは、扱う原料そのものを広げる設備投資であった。1954年に北海道へ美唄工場を建てて設備の近代化と生産向上を図った流れの、その先にある一手にあたる。1961年、川崎市に千鳥工場を新設し、石油化学の分野へ進出している。塗料の工場をすでに構えていた川崎の地に石油系原料の設備を並べる形で、油脂を出発点とする化学から外へ一歩出た[8][9]

打った手は千鳥工場だけではなかった。独自の技術開発による金属板の爆発成型事業を企業化して冶金機械の分野へ入り、1964年には潤滑油添加剤の製造を目的に、米国ザ・ルーブリゾール・コーポレイションと合弁で日本ルーブリゾール工業を設立した。同年8月には横浜市へ戸塚工場を建て、伸びていた塗料の需要に応えている。油脂以外の柱を同時に何本も立てにいく投資であった[10]

結果

売上85億円への回復と、ふたたびの利益縮小

赤字は1958年5月期に0.21億円の黒字で止まった。同年11月期は1.65億円、1959年11月期は2.18億円、1960年11月期は3.10億円と利益が積み上がり、千鳥工場を建てた1961年の11月期には売上85.0億円・当期純利益3.51億円を計上している。赤字が続いていた1957年の55億円台から、売上規模は1.5倍に広がっている。石油化学へ進む時点で、業績はすでに底を離れていた[11]

しかし利益はここが頂点であった。1962年11月期の当期純利益は1.82億円へ落ち、1963年11月期1.32億円、1964年11月期0.52億円と細り、1965年11月期には売上109億円に対して0.31億円まで縮んでいる。売上は伸び続けたのに利益が付いてこないという、赤字の時期とは別の形の停滞が現れた。石油化学への進出は、この落ち込みまでは止められなかった[12]

収益の形が変わるのは、組織を組み替えてからであった。日本油脂が独立採算制の6事業部を設けたのは1965年で、業態の異なる事業を並べて抱える同社にとって、各事業部が独立した会社のように動く仕組みは1991年の組織改革まで骨格として残った。1967年11月期には売上139億円強・純益2億円を計上して年1割の配当を続け、社長の座は大橋退治氏から村田勉氏へ移っている[13][14]

出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
  • 株式会社年鑑 昭和37年版(1962年)「日本油脂」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 日経ビジネス 1992年3月2日号「日本油脂。整理統合、人事交流…硬直した事業部制にカツ」
  • 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)

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