上村工業 の歴史

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創業 1848年
創業者 上村長兵衞
創業地 大阪・道修町(現・大阪市中央区)
創業
1848年、大阪の薬種問屋街・道修町にひらかれた讃岐屋長兵衞の店が始まりである。扱ったのは和漢薬種で、2代の上村長兵衞のころには地方の医者へ医薬品を卸す商いを主とし、その形は大正期まで続いた。1915年ごろにめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを始め、英カンニング社と米マンニング社からトリポリや青棒を輸入している。第1次大戦後に政府が国産を奨励すると、6代の上村長兵衞は1918年にトリポリの国産化に成功して堺に工場を設けた。1922年、医薬品の部門を小西伊兵衞商店へ譲り、めっき資材とゴム薬品へ商いを絞る。1933年12月に資本金50万円で株式会社上村長兵衞商店を設立し、1969年1月に上村工業へ商号を改めた。
決断
薬品と機械と、液を管理する装置を一社に揃えてきた。1957年9月に本社へ薬品部を置き、めっき用化学品の製造を始めた。朝鮮戦争の特需で戦略物資のニッケルが高騰し、その代替として光沢ニッケルめっきが広まった局面である。1960年9月には機械事業部を設けて表面処理用機械の製作を始め、第1号を川崎航空機工業へ納めた。1968年7月には枚方へ中央研究所を建てて薬品の製造部門を移した。走査型電子顕微鏡とX線回折装置を備えた鉄筋3階建の研究所は、社内外から分不相応だという批判を受けている。1980年4月には無電解ニッケルの自動液管理装置ニムコンを仕上げた。不具合の原因が薬品か機械か液かを切り分けられる同業が他になかったことが、ハードディスク基板向けの無電解ニッケルめっき液で1996年度に国内シェア8割という位置を上村工業へ与えた。
現況
主力が入れ替わったのは、旧主力が縮んだからではない。2026年3月期の薬品売上559億円のうち、ウェハー・パッケージ関連が445億円で79.6%を占める。ハードディスク関連は36億円・6.4%にとどまるが、金額では1996年度の33億円からほとんど動いていない。比率が下がったのは、生成AI用サーバー向けを中心に半導体パッケージ基板向けが伸びたためである。連結売上高917億円・営業利益213億円のうち、表面処理用資材が売上777億円・利益204億円を占める。旧世代の用途を切らずに新しい用途を積み増したことで、売上の85%を一つの事業に集めたまま営業利益率23.2%を達成した。
競合
機械の採算を落としてでも、薬品を売る側に立ってきた。表面処理用機械事業は1997年3月期に2億6,800万円の営業損失を計上したが、上村寛也社長は機械が薬品販売の道具であり戦略的に受注する場合もあると説明している。2026年3月期も機械事業の利益率10.3%は表面処理用資材の26.3%を下回る。半導体パッケージ基板では絶縁層のフィルムで味の素が世界シェア95%を占め、平坦化に使うCMP用のパッドは富士紡ホールディングスが持つ。上村工業が扱うのは、その絶縁層の上へ銅の配線を析出させるめっき薬品である。1985年以降は海外へ移る顧客を追って10か国へ拠点を置いたため、日本207億円に対し中国139億円・台湾137億円という地域構成は顧客の設備投資が決めている。
上村工業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 薬種商から研磨材へ、道修町の商家が金属の表面へ回るまで(1848〜1945) (1848年〜)

和漢薬種の店がめっき資材の輸入に転じた大正期

上村工業の商いは、1848年に大阪の薬種問屋街・道修町でひらかれた讃岐屋長兵衞の店[1]に始まる。扱ったのは和漢薬種で、2代の上村長兵衞氏のころには地方の医者へ医薬品を卸す商いを主とし、その形は大正期まで続いた[2]。3代は本間定次郎氏が務めて長兵衞を襲名せず[3]、4代の上村長兵衞氏は旧姓を川辺茂平といった[4]。4代は1896年に大阪製薬の発起人と取締役に名を連ね、1926年2月には同社の3代社長に就き、1929年6月に健康上の理由で辞めた[5]。5代の平太郎氏は病弱のため家業を継がないまま1920年に没した[6]

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.5
    • [1]1848年(嘉永元年)に大阪・道修町で讃岐屋長兵衞が薬種商を創業した。巻末年表の最古項は「大阪道修町上村長兵衞商店創設 薬種商を営む」。ただし社史は初代長兵衞の没年を1841年とも記しており、開店時の当主が初代か2代かは判別できない
    • [2]2代長兵衞は和漢薬種商を専門とし、地方の医者へ医薬品を卸す「しもくだしや」を大正期まで続けた
    • [3]3代は本間定次郎で、長兵衞を襲名しないまま4代へ引き継いだ
    • [4]4代長兵衞は旧姓を川辺茂平といい、1861年(文久元年)生まれ
    • [5]4代は1896年に大阪製薬(社史の表記では「現在の大日本製薬株式会社」)の発起人・取締役、1926年2月に同社3代社長、1929年6月に健康上の理由で辞任した
    • [6]5代平太郎は4代の長男で、病弱のため家業を継がず1920年に没した

明治から大正にかけて、店は扱う品を金属の表面へ寄せ[7]た。1915年ころにめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを始め[8]、カドミサルトや塩化ニッケルのほか、英カンニング社と米マンニング社からトリポリ・青棒・マチレス・フェルトを輸入した[9]。ゴム薬品では日本ペイントの代理店を務めた[10]。第1次大戦後に政府が外国依存の打破を掲げて国産を奨励すると、6代の上村長兵衞氏はこれに応じ、1918年にトリポリの国産化に成功して大阪府堺に工場を設けた[11]。そして1922年、医薬品の部門を小西伊兵衞商店へ譲り[12]、めっき資材とゴム薬品に商いを絞った。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
    • [7]1915年ころからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを始め、商いの中心が和漢薬種から金属表面処理の資材へ移った
    • [8]1915年ころからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを開始した
    • [9]カドミサルト、ラビットクリーナー、塩化ニッケルのほか、英カンニング社・米マンニング社からトリポリ、青棒、マチレス、フェルトを輸入した
    • [10]ゴム薬品では日本ペイントの代理店だった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7・技術編p.76
    • [11]第1次大戦後の政府による国産奨励に応じ、6代長兵衞が1918年(大正7)にトリポリの国産化に成功、大阪府堺に工場をつくって製造を始めた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)巻末年表
    • [12]1922年(大正11)に医薬品を小西伊兵衞商店へ譲渡し、めっき資材とゴム薬品に専念した

国産化は研磨材の自製[13]へ広がった。1927年にグリーンルージュを国産化して特許第74097号を取得し[14]、1929年には3Bライムを完成させた[15]。各地の産ライムを試作記号A・Bで比べ、原料のトリポリ粉も輸入から国産の風化硅石へ替えるため全国の鉱山を回って岐阜県山中で良質品を得た[16]経緯があった。1930年11月には上村重平氏が6代長兵衞を襲名し[17]、翌12月に資本総額26万円の匿名組合を設けた。鍍金部は出資者7名で15万円、ゴム部は出資者9名で11万円を出し[18]、積立金と組合員退職基金、社員奨励基金を成文化した。1932年には店舗を道修町2丁目から3丁目18番地へ移し、以後ここが本社となった[19]

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
    • [13]1927年のグリーンルージュ国産化、1929年の3Bライム完成と、輸入品の国産化を研磨材の自製へ広げた
    • [14]1927年にグリーンルージュを国産化し特許第74097号を取得した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7-8・技術編p.77
    • [15]1929年に3Bライムを完成させた(特許出願は1936年・第127131号)
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7-8
    • [16]各地産ライムを試作記号A・Bで比較試験し、原料のトリポリ粉も輸入から国産風化硅石へ切り替えるため全国の鉱山を行脚して岐阜県山中で良質品を発見した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.6
    • [17]6代長兵衞は1891年3月に兵庫県明石で倉橋重平として生まれ、1916年3月に入社、1918年に4代の次女・千代と結婚して上村姓となり、1930年11月に6代長兵衞を襲名した
    • [19]1932年に店舗を道修町2丁目27番地から3丁目18番地へ移転した(乾卯兵衞氏との土地交換)。現在の本社地
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.9
    • [18]1930年12月に匿名組合を設立(資本総額26万円。鍍金部=出資者7名・15万円、ゴム部=出資者9名・11万円)。積立金・組合員退職基金・社員奨励基金を成文化した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.5
    • [1]1848年(嘉永元年)に大阪・道修町で讃岐屋長兵衞が薬種商を創業した。巻末年表の最古項は「大阪道修町上村長兵衞商店創設 薬種商を営む」。ただし社史は初代長兵衞の没年を1841年とも記しており、開店時の当主が初代か2代かは判別できない
    • [2]2代長兵衞は和漢薬種商を専門とし、地方の医者へ医薬品を卸す「しもくだしや」を大正期まで続けた
    • [3]3代は本間定次郎で、長兵衞を襲名しないまま4代へ引き継いだ
    • [4]4代長兵衞は旧姓を川辺茂平といい、1861年(文久元年)生まれ
    • [5]4代は1896年に大阪製薬(社史の表記では「現在の大日本製薬株式会社」)の発起人・取締役、1926年2月に同社3代社長、1929年6月に健康上の理由で辞任した
    • [6]5代平太郎は4代の長男で、病弱のため家業を継がず1920年に没した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
    • [7]1915年ころからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを始め、商いの中心が和漢薬種から金属表面処理の資材へ移った
    • [8]1915年ころからめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを開始した
    • [9]カドミサルト、ラビットクリーナー、塩化ニッケルのほか、英カンニング社・米マンニング社からトリポリ、青棒、マチレス、フェルトを輸入した
    • [10]ゴム薬品では日本ペイントの代理店だった
    • [13]1927年のグリーンルージュ国産化、1929年の3Bライム完成と、輸入品の国産化を研磨材の自製へ広げた
    • [14]1927年にグリーンルージュを国産化し特許第74097号を取得した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7・技術編p.76
    • [11]第1次大戦後の政府による国産奨励に応じ、6代長兵衞が1918年(大正7)にトリポリの国産化に成功、大阪府堺に工場をつくって製造を始めた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)巻末年表
    • [12]1922年(大正11)に医薬品を小西伊兵衞商店へ譲渡し、めっき資材とゴム薬品に専念した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7-8・技術編p.77
    • [15]1929年に3Bライムを完成させた(特許出願は1936年・第127131号)
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7-8
    • [16]各地産ライムを試作記号A・Bで比較試験し、原料のトリポリ粉も輸入から国産風化硅石へ切り替えるため全国の鉱山を行脚して岐阜県山中で良質品を発見した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.6
    • [17]6代長兵衞は1891年3月に兵庫県明石で倉橋重平として生まれ、1916年3月に入社、1918年に4代の次女・千代と結婚して上村姓となり、1930年11月に6代長兵衞を襲名した
    • [19]1932年に店舗を道修町2丁目27番地から3丁目18番地へ移転した(乾卯兵衞氏との土地交換)。現在の本社地
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.9
    • [18]1930年12月に匿名組合を設立(資本総額26万円。鍍金部=出資者7名・15万円、ゴム部=出資者9名・11万円)。積立金・組合員退職基金・社員奨励基金を成文化した

株式会社への改組と、ニッケルが国家資材になった戦時

1933年12月3日、資本金50万円・1万株で株式会社上村長兵衞商店を設立し[20]、初代社長には6代の上村長兵衞氏が就いた[21]。東京では1920年に日本橋本銀町へ出張所を置き、1、2年後に本所区へ移していたが、1923年9月1日の関東大震災で焼け、浅草新福井町へ移った[22]。株式組織になったのを機に、同じ12月には東京市浅草区の出張所を東京営業所と改め、1938年3月には東京支店へ昇格させた[23]。研磨材の輸出は1934年ごろから本格化して中国の上海と天津へ馬達牌・三喜牌・福雀牌の商標で送り[24]、昭和初期には神戸と岡山にも出張所を構えた[25]

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.13
    • [20]1933年12月3日に資本金50万円・1万株で設立、初代社長は6代長兵衞
    • [21]株式会社の初代社長は6代上村長兵衞(旧姓 倉橋重平)
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.9
    • [22]1920年に東京出張所を日本橋本銀町に設置(初代所長 井上熊市)。その1〜2年後に本所区(現・墨田区)へ移り、1923年9月1日の関東大震災で焼失して浅草新福井町へ移転した
    • [25]昭和初期に神戸・岡山へ出張所を置いた(1940年ごろまで)
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [23]有報【沿革】は1933年12月に東京市浅草区(現・東京都台東区)へ東京営業所を設置、1938年3月に東京支店へ昇格と記す。社史 p.9 は「昭和8年12月、株式組織になったのを機会に東京出張所は営業所と改められた」として改称と書く
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.10・巻末年表
    • [24]昭和初期に中国(上海・天津)向けの研摩剤輸出を行い、馬達牌・三喜牌・福雀牌の商標を用いた。輸出の本格化は1934年ごろ

戦争は原料の調達を絶ち[26]、同時に新しい仕事を持ち込んだ。大阪市港区三条通ではスズ電解工場の一部を借りて築港工場を開き、モネルメタルから電解で粗ニッケルを取り出して泉大津へ送った[27]。ニッケルの輸入が困難になり国家の重要資材とされた[28]ことを契機に、1939年には大阪府泉大津市板原に300坪の泉大津工場を建て、従業員28人で純金属ニッケル[29]、硫酸・塩化・炭酸の各ニッケル、酸化銅、酸化クロムを製造した。1942年10月に設けた淀川工場[30]は、爆撃の目標になりやすいとして生産を行わず倉庫として使い、1943年には千船工場と四貫島倉庫へ原料を分散して疎開させた[31]

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14
    • [26]戦争でニッケルなどの輸入が困難になり国家の重要資材とされたことが、泉大津工場を建設した契機だった
    • [27]築港工場を開設(大阪市港区三条通のスズ電解工場の一部を借用)。モネルメタルから電解で粗ニッケルを製造し泉大津へ送った。社史 p.14 は「この泉大津工場と並行して」とのみ書き、開設年を明示していない
    • [28]建設の契機は「戦争によってニッケルなどの輸入が困難になり、ニッケルが国家の重要資材となった」ことにある
    • [29]1939年に泉大津工場を建設(大阪府泉大津市板原、300坪、従業員28人)。純金属ニッケル・硫酸/塩化/炭酸ニッケル・酸化銅・酸化クロムを製造した
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1942年10月に大阪市東淀川区(現・淀川区)へ淀川工場を設置した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14-15
    • [31]淀川工場は爆撃目標になりやすいとして生産を行わず倉庫として使用し、1943年に千船工場・四貫島倉庫へ原料を分散疎開させた

1945年の敗戦時、本社も工場も倉庫も東京支店も戦災を免れ[32]、残った陣容は本社27人、工場14人、東京支店5人[33]だった。戦時に開いた築港工場は1946年5月に整理して閉じ[34]、同じ月に淀川工場で研磨材の製造を再開した[35]。設備は直径70cmの鉄鍋4個を薪で直炊きするもので、1日の産出はトリポリ200本、エメリー棒150本、グローカス100本[36]、金額にして7万円から10万円にすぎなかった。停電が続いたため、働ける日は日曜を含めて週4日ほどにとどまった[37]。1947年11月期の売上高は2,222万円[38]である。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15
    • [32]終戦時に本社・工場・倉庫・東京支店はいずれも戦災を免れた
    • [33]終戦時に本社・工場・倉庫・東京支店はいずれも戦災を免れ、陣容は本社27人・工場14人・東京支店5人だった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14
    • [34]1946年5月に築港工場を整理・閉鎖した
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1946年5月に淀川工場で研磨材の製造を再開した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15-16
    • [36]再開時の設備は直径70cmの鉄鍋4個・薪の直炊きで、1日にトリポリ200本・エメリー棒150本・グローカス100本、金額7〜10万円だった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.16
    • [37]停電のため「働く日は日曜を含め週4日ほど」だった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
    • [38]1947年11月期の売上高は22,217千円
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.13
    • [20]1933年12月3日に資本金50万円・1万株で設立、初代社長は6代長兵衞
    • [21]株式会社の初代社長は6代上村長兵衞(旧姓 倉橋重平)
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.9
    • [22]1920年に東京出張所を日本橋本銀町に設置(初代所長 井上熊市)。その1〜2年後に本所区(現・墨田区)へ移り、1923年9月1日の関東大震災で焼失して浅草新福井町へ移転した
    • [25]昭和初期に神戸・岡山へ出張所を置いた(1940年ごろまで)
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [23]有報【沿革】は1933年12月に東京市浅草区(現・東京都台東区)へ東京営業所を設置、1938年3月に東京支店へ昇格と記す。社史 p.9 は「昭和8年12月、株式組織になったのを機会に東京出張所は営業所と改められた」として改称と書く
    • [30]1942年10月に大阪市東淀川区(現・淀川区)へ淀川工場を設置した
    • [35]1946年5月に淀川工場で研磨材の製造を再開した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.10・巻末年表
    • [24]昭和初期に中国(上海・天津)向けの研摩剤輸出を行い、馬達牌・三喜牌・福雀牌の商標を用いた。輸出の本格化は1934年ごろ
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14
    • [26]戦争でニッケルなどの輸入が困難になり国家の重要資材とされたことが、泉大津工場を建設した契機だった
    • [27]築港工場を開設(大阪市港区三条通のスズ電解工場の一部を借用)。モネルメタルから電解で粗ニッケルを製造し泉大津へ送った。社史 p.14 は「この泉大津工場と並行して」とのみ書き、開設年を明示していない
    • [28]建設の契機は「戦争によってニッケルなどの輸入が困難になり、ニッケルが国家の重要資材となった」ことにある
    • [29]1939年に泉大津工場を建設(大阪府泉大津市板原、300坪、従業員28人)。純金属ニッケル・硫酸/塩化/炭酸ニッケル・酸化銅・酸化クロムを製造した
    • [34]1946年5月に築港工場を整理・閉鎖した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14-15
    • [31]淀川工場は爆撃目標になりやすいとして生産を行わず倉庫として使用し、1943年に千船工場・四貫島倉庫へ原料を分散疎開させた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15
    • [32]終戦時に本社・工場・倉庫・東京支店はいずれも戦災を免れた
    • [33]終戦時に本社・工場・倉庫・東京支店はいずれも戦災を免れ、陣容は本社27人・工場14人・東京支店5人だった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15-16
    • [36]再開時の設備は直径70cmの鉄鍋4個・薪の直炊きで、1日にトリポリ200本・エメリー棒150本・グローカス100本、金額7〜10万円だった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.16
    • [37]停電のため「働く日は日曜を含め週4日ほど」だった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
    • [38]1947年11月期の売上高は22,217千円

東京に命じた自給自足と、焼き損ないのプラグ

戦後の物資欠乏と輸送の混乱は、大阪から東京へ商品を送る道をふさいだ[39]。東京支店は独自に商いを立て直すほかなくなった[40]。しきりに出荷を催促する東京支店に対し、6代の上村長兵衞社長は、運賃が利益を食うことを理由に[41]、空き工場を借りてでも東京で自給自足せよと命じた[42]。東京支店は山中研磨材工業所へ委託生産を出し[43]て『3山トリポリ』の名で売り、これが東京独自の最初の製品となって、1950年3月に東京都北区へ東京工場を設けて研磨材の製造を始める[44]流れにつながった。東京工場は1964年2月に埼玉県戸田市へ移り、1970年2月に閉じた[45]

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.17-18
    • [39]戦後、大阪から東京へ商品を送ると運賃に利益を食われるため、6代長兵衞社長は東京での自給自足を指示した
    • [40]「矢のように本社に出荷を催促すると、6代長兵衞社長は『とても東京まで手が回らない。また東京へ送ると運賃に食われるので東京で自給自足せよ。空き工場でもあれば借りてでもやれ』と指示がきた」
    • [41]運賃が利益を食うことを理由に、空き工場を借りてでも東京で生産せよという指示だった
    • [42]6代長兵衞社長は「とても東京まで手が回らない。また東京へ送ると運賃に食われるので東京で自給自足せよ。空き工場でもあれば借りてでもやれ」と指示した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.18
    • [43]1950年ごろ東京で山中研磨材工業所に委託生産し「3山トリポリ」ブランドで販売した。東京独自の初製品にあたる
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1950年3月に東京都北区へ東京工場を設置し研磨材の製造を開始した
    • [45]東京工場は1964年2月に埼玉県戸田市へ移転し、1970年2月に閉鎖された

原料の不足は代替品の工夫[46]で埋めた。1948年、3Bライムの原料である酸化アルミが手に入らなくなると、自動車プラグの焼き損ないを粉砕して代わりに使った[47]。1950年からは総房化学と提携して良質の青化銅を月10トンから15トン扱い、翌1951年に青化銅めっき用の添加剤『ウエライト』を発売した[48]。1949年8月には大阪市阿倍野区に住吉工場を設け、塩化ビニールシートの製造を始めた[49]。木製のめっき槽の内張りや電気絶縁に使う新しい材料として売る狙いだったが、本来の用途では量が限られ[50]、ふろしきや雨かっぱなどの雑貨へ広げると市況が不安定で、販売業者の倒産が続いた。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.16
    • [46]1948年に3Bライムの原料である酸化アルミの入手難を、自動車プラグの焼き損ないの粉砕で代替した
    • [47]1948年に3Bライムの原料(酸化アルミ)の入手難を、自動車プラグの焼き損ないを粉砕して代替することで解決した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.23・巻末年表(昭和25年・26年欄)
    • [48]1950年から総房化学と提携して良質の青化銅を扱い(月10〜15トン)、1951年に青化銅めっき用添加剤「ウエライト」を発売した
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [49]1949年8月に大阪市阿倍野区へ住吉工場を設置し塩化ビニールシートの製造を開始した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.17
    • [50]「木製のめっき槽には…アスファルトを塗ったり…鉛板を張っていた。これに代わる新しい材料の塩化ビニールのシートを、めっき槽の内張りや電気絶縁に使おうというのが、この新規部門へ進出した目的であった」。本来のめっき用途は量が限られ、雑貨(ふろしき・雨かっぱ)へ広げると市況が不安定で販売業者の倒産が続いた

人の採り方[51]もこの時期に変えた。1954年に就業規則[52]を定め、同じころ大卒の採用を増やしたものの定着せず離職が続いたため、のちに学歴制度そのものを廃し[53]て給与体系も一本で通すことにした。1924年に三重県松阪市で生まれ[54]、のちに社長となる上村晃史氏[55]は、1953年11月2日に入社すると、当時の会社を番頭政治の体質が根強く残る古風な会社だと受け止め、近代経営への体質改善を課題として抱えた[56]。この問題意識が1966年の経営理念とウエムラスローガンの制定[57]につながる。1960年には名古屋営業所の初代所長を務め、専務を経て社長に就いた[58]。1963年には労働組合が結成され、1967年に労働協約を結ん[59]だ。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19-20・巻末年表
    • [51]1954年の就業規則制定、大卒採用の増加と離職を受けた学歴制度の廃止など、採用と処遇の制度を改めた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)巻末年表
    • [52]1954年に就業規則を制定した。1963年に労働組合結成、1967年に労働協約締結
    • [59]1963年に労働組合が結成され、1967年に労働協約を締結した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19-20
    • [53]上村晃史の入社(1953年11月)の翌年に大卒を多く採ったが「案の定、皆辞めていく」ため、「思い切って学歴を廃止しようじゃないかと腹を決め、以来、当社は給与体系も一本で来ている」と述べている
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19・巻末年表
    • [54]上村晃史は1924年生まれ・三重県松阪市出身。1960年に名古屋営業所の初代所長、専務を経て社長になった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)巻末年表(昭和28年欄)
    • [55]上村晃史は1953年11月2日に入社した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19・p.36
    • [56]上村晃史の入社時の第一印象は「まだ"番頭政治"の体質が根強く残っていて、実に古風な会社である」というもので、「近代経営へ何とか体質改善しなければならないという使命感があった。それが、その後の経営理念作成につながり」と書かれる。経営理念とウエムラスローガンの制定は1966年
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.36
    • [57]1966年に経営理念とウエムラスローガンを制定した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19・p.25
    • [58]上村晃史は1960年に名古屋営業所の初代営業所長として赴任し、専務を経て社長になった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.17-18
    • [39]戦後、大阪から東京へ商品を送ると運賃に利益を食われるため、6代長兵衞社長は東京での自給自足を指示した
    • [40]「矢のように本社に出荷を催促すると、6代長兵衞社長は『とても東京まで手が回らない。また東京へ送ると運賃に食われるので東京で自給自足せよ。空き工場でもあれば借りてでもやれ』と指示がきた」
    • [41]運賃が利益を食うことを理由に、空き工場を借りてでも東京で生産せよという指示だった
    • [42]6代長兵衞社長は「とても東京まで手が回らない。また東京へ送ると運賃に食われるので東京で自給自足せよ。空き工場でもあれば借りてでもやれ」と指示した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.18
    • [43]1950年ごろ東京で山中研磨材工業所に委託生産し「3山トリポリ」ブランドで販売した。東京独自の初製品にあたる
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1950年3月に東京都北区へ東京工場を設置し研磨材の製造を開始した
    • [45]東京工場は1964年2月に埼玉県戸田市へ移転し、1970年2月に閉鎖された
    • [49]1949年8月に大阪市阿倍野区へ住吉工場を設置し塩化ビニールシートの製造を開始した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.16
    • [46]1948年に3Bライムの原料である酸化アルミの入手難を、自動車プラグの焼き損ないの粉砕で代替した
    • [47]1948年に3Bライムの原料(酸化アルミ)の入手難を、自動車プラグの焼き損ないを粉砕して代替することで解決した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.23・巻末年表(昭和25年・26年欄)
    • [48]1950年から総房化学と提携して良質の青化銅を扱い(月10〜15トン)、1951年に青化銅めっき用添加剤「ウエライト」を発売した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.17
    • [50]「木製のめっき槽には…アスファルトを塗ったり…鉛板を張っていた。これに代わる新しい材料の塩化ビニールのシートを、めっき槽の内張りや電気絶縁に使おうというのが、この新規部門へ進出した目的であった」。本来のめっき用途は量が限られ、雑貨(ふろしき・雨かっぱ)へ広げると市況が不安定で販売業者の倒産が続いた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19-20・巻末年表
    • [51]1954年の就業規則制定、大卒採用の増加と離職を受けた学歴制度の廃止など、採用と処遇の制度を改めた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)巻末年表
    • [52]1954年に就業規則を制定した。1963年に労働組合結成、1967年に労働協約締結
    • [59]1963年に労働組合が結成され、1967年に労働協約を締結した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19-20
    • [53]上村晃史の入社(1953年11月)の翌年に大卒を多く採ったが「案の定、皆辞めていく」ため、「思い切って学歴を廃止しようじゃないかと腹を決め、以来、当社は給与体系も一本で来ている」と述べている
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19・巻末年表
    • [54]上村晃史は1924年生まれ・三重県松阪市出身。1960年に名古屋営業所の初代所長、専務を経て社長になった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)巻末年表(昭和28年欄)
    • [55]上村晃史は1953年11月2日に入社した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19・p.36
    • [56]上村晃史の入社時の第一印象は「まだ"番頭政治"の体質が根強く残っていて、実に古風な会社である」というもので、「近代経営へ何とか体質改善しなければならないという使命感があった。それが、その後の経営理念作成につながり」と書かれる。経営理念とウエムラスローガンの制定は1966年
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.36
    • [57]1966年に経営理念とウエムラスローガンを制定した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19・p.25
    • [58]上村晃史は1960年に名古屋営業所の初代営業所長として赴任し、専務を経て社長になった

朝鮮戦争のニッケル高騰が呼び込んだ薬品部の設置

1957年、本社に薬品部[60]を置いた。きっかけは朝鮮戦争の特需で、戦略物資のニッケルが高騰し量的にも不足した[61]ため、その代替と節約から光沢ニッケルめっきが広まった[62]。光沢めっきはバフ研摩の工程を省けるため、量産の速さを求める時代に合っていた[63]。それまでの上村長兵衞商店は研摩剤だけが自社製品で、他は仕入[64]れた商品を売る商いだったが、めっき用化学品の製造を始めた[65]1957年9月を境に、自社製品の柱をもう一本立てた。1961年11月期の売上高は12億1,935万円と、1947年11月期の55倍[66]に達した。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.23
    • [60]1957年に本社へ薬品部を設置した。社史はこれを「商社的色彩からの脱皮」と位置づける
    • [61]「普及のきっかけは、朝鮮戦争の特需ブームによって、戦略物資であるニッケルが高騰し、また、量的にも不足して深刻な事態になった」
    • [62]ニッケルの高騰と不足から代替材料の開発と節約に目が向けられ、光沢ニッケルめっき法が普及した
    • [63]光沢めっきはバフ研摩工程を省略できるため、量産時代の高速化に合致した
    • [64]「研摩剤が自社製品、その他は仕入商品という"商社的色彩"であった当社が、この昭和32年を境により、当社の独自製品としての大きな柱が築かれることになった」
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [65]1957年9月にめっき用化学品の製造を開始した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
    • [66]1961年11月期の売上高は1,219,354千円。1947年11月期(22,217千円)の約55倍にあたる

薬品の自社開発[67]は続いた。1958年にニッケル光沢剤『アサヒライト』、1961年ころに青化銅光沢剤『アサヒカプナー』[68]を出し、同じ1961年にはサイザルバフとバイアスバフ、液体研摩剤スチールカットを開発した[69]。1960年7月には名古屋市西区へ名古屋営業所を置いた[70]。本社と東京支店で市場を東西に二分していたその中間を埋めるもので、三重・愛知・岐阜・静岡・福井・石川・富山の7県を受け持ち、8人で始めて4、5年の赤字を覚悟していたが初年度から黒字になった[71]。同年9月には機械事業部を設けて表面処理用機械の製作を始め[72]、淀川工場内に建てた機械工場が完成するとCUF-2/CUF-1型を川崎航空機工業へ納めた[73]。大手メーカーへの納入はこれが最初で、松下電器、フタバ産業、新家工業が続[74]き、薬品と機械を同じ会社が持つ形[75]もこの時点から始まった。

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.23-24
    • [67]1958年のニッケル光沢剤アサヒライト、1961年ころの青化銅光沢剤アサヒカプナーと、薬品の自社開発を続けた
    • [68]1958年にニッケル光沢剤アサヒライト、1961年ころに青化銅光沢剤アサヒカプナーを発売した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編p.80-81
    • [69]1961年にサイザルバフ・バイアスバフ、液体研摩剤スチールカットを開発した(巻末年表 昭和36年欄)
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [70]1960年7月に名古屋市西区へ名古屋営業所を設置し、同年9月に機械事業部を設置して表面処理用機械の製作を開始した
    • [71]「従来は、本社と東京支店で、市場を東西に大きく二分していたが、その中間に当たる地域を新たに名古屋営業所のテリトリーとし…三重、愛知、岐阜、静岡、福井、石川、富山の7県である。初代営業所長として上村晃史現社長が赴任し、当初のスタッフは8人であった」「4〜5年は赤字を覚悟していたが、幸いお得意先の暖かいご支援により、初年度から立派に黒字を計上することができた」
    • [72]1960年9月に機械事業部を設置し、表面処理用機械の製作を開始した
    • [75]1957年9月のめっき用化学品の製造開始と1960年9月の機械事業部設置により、薬品と機械の双方を自社で持つ体制になった
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.24
    • [73]淀川工場内の機械工場(1960年9月着工、第二期完成は1961年1月目標)で作られた自動機第1号 CUF-2/CUF-1型を川崎航空機工業へ納入した。大手メーカー納入の第1号で、以後 松下電器・フタバ産業・新家工業へ広がった
    • [74]川崎航空機工業への納入が大手メーカー納入の第1号で、その後この装置は松下電器産業・フタバ産業・新家工業にも採用された

事業の取捨[76]も同じ時期に進んだ。1963年2月、市場が狭く将来に期待が持てないという判断[77]から拡大策は採らず、住吉工場の塩化ビニール生産を止めてビニール部門から退いた[78]。同じ1963年9月には、めっき加工技術の研究と実験を目的に三和防錆を設立した[79]。三菱商事と東邦ダイカスト(のちに住友金属鉱山と交代)との3社合弁で、社内外に反対の声が多いなかを、当時専務だった上村晃史氏が押し通した[80]。外国企業との提携は、同年に英アルブライト&ウィルソン社と[81]結んだピロリン酸銅めっき用光沢剤の販売提携が最初[82]で、商標は『ピロブライト』とした。その1963年には主力の淀川工場が焼失し、倉庫にあった社史の資料の多くも失われ[83]た。淀川工場は手狭になったうえ周辺が大阪市の都市計画の対象となっており、1961年6月には移転先として枚方の工場誘致用地17,420㎡を取得していた[84]

  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.17
    • [76]1963年2月に住吉工場の塩ビ生産を停止してビニール部門から撤退した
    • [77]「市場が狭く、将来にあまり期待がもてないと判断して拡大策はとらず」と記す
    • [78]1963年2月に住吉工場の塩ビ生産を停止しビニール部門から撤退した。「市場が狭く、将来にあまり期待がもてないと判断して拡大策はとらず」
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [79]1963年9月にめっき加工技術の研究・実験を目的として三和防錆(のち サミックス)を設立した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.28
    • [80]三和防錆は三菱商事・東邦ダイカスト(後に住友金属鉱山へ交代)との3社合弁。「社内、社外の反対の声の多い中で上村晃史社長(当時専務)は将来の経営拡大の信念を貫き」設立にこぎつけた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.31
    • [81]1963年に英アルブライト&ウィルソン社とピロリン酸銅めっき用光沢剤の販売提携を結んだ(商標「ピロブライト」)。外国企業との提携の第1号にあたる
    • [82]1963年の英アルブライト&ウィルソン社との販売提携が外国企業との提携の第1号にあたる
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)発刊ごあいさつ
    • [83]「たまたま昭和38年当社の主力工場であった淀川工場が焼失し、倉庫に保管されていた諸資料は焼失し、焼け残りのわずかな資料をもとに、先輩諸氏の記憶に訴え、可能な限りの努力で歴史をたどりました」
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.29
    • [84]「淀川工場が手狭になったのに加え、工場周辺が大阪市の都市計画の対象となったので、工場移転を考えることになり、候補地を探した末、昭和36年(1961)6月、大阪府枚方市の工場誘致用地を取得した。…広さは17,420.44m2(5278.9坪)である」
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.23
    • [60]1957年に本社へ薬品部を設置した。社史はこれを「商社的色彩からの脱皮」と位置づける
    • [61]「普及のきっかけは、朝鮮戦争の特需ブームによって、戦略物資であるニッケルが高騰し、また、量的にも不足して深刻な事態になった」
    • [62]ニッケルの高騰と不足から代替材料の開発と節約に目が向けられ、光沢ニッケルめっき法が普及した
    • [63]光沢めっきはバフ研摩工程を省略できるため、量産時代の高速化に合致した
    • [64]「研摩剤が自社製品、その他は仕入商品という"商社的色彩"であった当社が、この昭和32年を境により、当社の独自製品としての大きな柱が築かれることになった」
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
    • [65]1957年9月にめっき用化学品の製造を開始した
    • [70]1960年7月に名古屋市西区へ名古屋営業所を設置し、同年9月に機械事業部を設置して表面処理用機械の製作を開始した
    • [71]「従来は、本社と東京支店で、市場を東西に大きく二分していたが、その中間に当たる地域を新たに名古屋営業所のテリトリーとし…三重、愛知、岐阜、静岡、福井、石川、富山の7県である。初代営業所長として上村晃史現社長が赴任し、当初のスタッフは8人であった」「4〜5年は赤字を覚悟していたが、幸いお得意先の暖かいご支援により、初年度から立派に黒字を計上することができた」
    • [72]1960年9月に機械事業部を設置し、表面処理用機械の製作を開始した
    • [75]1957年9月のめっき用化学品の製造開始と1960年9月の機械事業部設置により、薬品と機械の双方を自社で持つ体制になった
    • [79]1963年9月にめっき加工技術の研究・実験を目的として三和防錆(のち サミックス)を設立した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
    • [66]1961年11月期の売上高は1,219,354千円。1947年11月期(22,217千円)の約55倍にあたる
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.23-24
    • [67]1958年のニッケル光沢剤アサヒライト、1961年ころの青化銅光沢剤アサヒカプナーと、薬品の自社開発を続けた
    • [68]1958年にニッケル光沢剤アサヒライト、1961年ころに青化銅光沢剤アサヒカプナーを発売した
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編p.80-81
    • [69]1961年にサイザルバフ・バイアスバフ、液体研摩剤スチールカットを開発した(巻末年表 昭和36年欄)
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.24
    • [73]淀川工場内の機械工場(1960年9月着工、第二期完成は1961年1月目標)で作られた自動機第1号 CUF-2/CUF-1型を川崎航空機工業へ納入した。大手メーカー納入の第1号で、以後 松下電器・フタバ産業・新家工業へ広がった
    • [74]川崎航空機工業への納入が大手メーカー納入の第1号で、その後この装置は松下電器産業・フタバ産業・新家工業にも採用された
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.17
    • [76]1963年2月に住吉工場の塩ビ生産を停止してビニール部門から撤退した
    • [77]「市場が狭く、将来にあまり期待がもてないと判断して拡大策はとらず」と記す
    • [78]1963年2月に住吉工場の塩ビ生産を停止しビニール部門から撤退した。「市場が狭く、将来にあまり期待がもてないと判断して拡大策はとらず」
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.28
    • [80]三和防錆は三菱商事・東邦ダイカスト(後に住友金属鉱山へ交代)との3社合弁。「社内、社外の反対の声の多い中で上村晃史社長(当時専務)は将来の経営拡大の信念を貫き」設立にこぎつけた
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.31
    • [81]1963年に英アルブライト&ウィルソン社とピロリン酸銅めっき用光沢剤の販売提携を結んだ(商標「ピロブライト」)。外国企業との提携の第1号にあたる
    • [82]1963年の英アルブライト&ウィルソン社との販売提携が外国企業との提携の第1号にあたる
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)発刊ごあいさつ
    • [83]「たまたま昭和38年当社の主力工場であった淀川工場が焼失し、倉庫に保管されていた諸資料は焼失し、焼け残りのわずかな資料をもとに、先輩諸氏の記憶に訴え、可能な限りの努力で歴史をたどりました」
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.29
    • [84]「淀川工場が手狭になったのに加え、工場周辺が大阪市の都市計画の対象となったので、工場移転を考えることになり、候補地を探した末、昭和36年(1961)6月、大阪府枚方市の工場誘致用地を取得した。…広さは17,420.44m2(5278.9坪)である」

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上村工業の沿革1933〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1848〜1945年薬種商から研磨材へ、道修町の商家が金属の表面へ回るまで(1848〜1945)上村長兵衞研磨材と工業用化学品を扱う上村長兵衞商店を設立★★★
上村長兵衞東京市浅草区(現・東京都台東区)に東京営業所を設置
上村長兵衞東京営業所を東京支店に昇格
上村長兵衞大阪市東淀川区(現・淀川区)に淀川工場を設置
1946〜1966年鉄鍋四個の再開から、薬品を自ら作る会社へ(1946〜1966)上村長兵衞淀川工場で研磨材の製造を再開★★
上村長兵衞大阪市阿倍野区に住吉工場を設置し塩化ビニールシートの製造を開始★★
上村長兵衞東京都北区に東京工場を設置し研磨材の製造を開始
上村長兵衞本社への薬品部設置とめっき用化学品の製造開始

1957年、株式会社上村長兵衞商店が本社に薬品部を設け、同年9月にめっき用化学品の製造を始めた経営判断。それまで自社製品は研摩剤だけで、めっき薬品は他社から仕入れて売っていた。6代の上村長兵衞社長のもとで、研摩剤に次ぐ二本目の自社製品の柱を立てた。

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★★★
上村長兵衞名古屋市西区に名古屋営業所を設置
上村長兵衞機械事業部を設置し表面処理用機械の製作を開始★★★
上村長兵衞めっき加工技術の研究を目的に三和防錆(のちサミックス)を設立
上村長兵衞東京工場を埼玉県戸田市に移転
1967〜1988年研究所を建て、薬品と機械と液管理を一つに束ねる(1967〜1988)上村晃史名古屋営業所を名古屋支店に昇格
上村晃史枚方への中央研究所の建設と、めっき用化学品製造部門の移転

1968年7月、上村工業が大阪府枚方市に枚方工場を竣工し、同じ敷地に中央研究所を設けた経営判断。めっき用化学品の製造部門を淀川工場から移すと同時に、鉄筋3階建・延べ2,188.86㎡の研究所を建て、走査型電子顕微鏡とX線回折装置を導入した。上村晃史社長の就任1年目の着工にあたる。

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★★★
上村晃史商号を上村工業に変更
上村晃史東京工場を閉鎖
上村晃史西独デグサ社と販売提携し金めっき浴を発売★★
上村晃史表面処理用機械の製造を枚方工場へ移し淀川工場を閉鎖
上村晃史デグサ社と技術提携しアルミ真空蒸着加工技術を導入★★
上村晃史神奈川県相模原市に相模原事業所を設置
上村晃史顧客の海外移転に追随した10か国への拠点設置と、地域完結型の営業体制の構築

1985年のプラザ合意を境に自動車・家電の顧客が生産を海外へ移したのに対し、上村工業が国内にとどまらず顧客の移転先へ会社を置き続けた経営判断。1985年12月の米国子会社を皮切りに、2012年のインドネシアまでに拠点は10か国へ広がった。

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★★★
上村晃史香港に合弁で上村旭光有限公司を設立★★
上村晃史台湾に合弁で台湾上村股份有限公司を設立
上村晃史タイに合弁でサムハイテックス(現・ウエムラ・タイランド)を設立
上村晃史中国深圳市に合弁で南山上村旭光有限公司を設立
1989〜2026年ハードディスクから半導体パッケージへ、主力を入れ替える(1989〜2026)上村晃史東京支店を東京支社に昇格
上村晃史独デメトロン社へ無電解ニッケルめっき薬品の技術を供与
上村晃史シンガポールにウエムラ・インターナショナル・シンガポールを設立
上村晃史米国にウエムラ・インターナショナル・コーポレーションを新設
上村晃史旧淀川工場跡に上村ニッセイビルが竣工し不動産賃貸業を開始
上村晃史岐阜県土岐市にユーテックを設立
上村晃史マレーシアにウエムラ・マレーシアを設立
上村寛也上村寛也氏が代表取締役社長に就任★★
上村寛也大阪証券取引所市場第二部に上場
上村寛也相模原事業所を閉鎖
上村寛也ユーテックの清算が結了
上村寛也中国上海市に上村化学(上海)有限公司を設立
上村寛也台湾に台湾上村科技股份有限公司を設立
上村寛也中国深圳市龍崗区に上村工業(深圳)有限公司の新工場が竣工
上村寛也東京支社を東京都台東区から中央区へ移転
上村寛也大韓民国京畿道に韓国上村を設立
上村寛也台湾上村股份有限公司が台湾上村科技股份有限公司を吸収合併
上村寛也インドネシアにウエムラ・インドネシアを設立
上村寛也枚方市に新中央研究所が竣工
上村寛也取引所統合に伴い東京証券取引所市場第二部に上場
上村寛也名古屋支店の新社屋が完成
上村寛也市場再編に伴い東京証券取引所スタンダード市場へ移行
上村寛也枚方市に新機械工場が竣工
上村寛也子会社サミックスを吸収合併
出典・参考
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.30/有価証券報告書【沿革】
  • 上村工業 有価証券報告書【沿革】
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.5
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7・技術編p.76
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)巻末年表
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7-8・技術編p.77
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.7-8
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.6
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.9
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.13
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.10・巻末年表
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.14-15
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.15-16
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.16
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)資料編「業績の推移」
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.17-18
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.18
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.23・巻末年表(昭和25年・26年欄)
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.17
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19-20・巻末年表
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19-20
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19・巻末年表
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)巻末年表(昭和28年欄)
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19・p.36
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.36
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.19・p.25
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.23
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.23-24
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)技術編p.80-81
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.24
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.28
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.31
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)発刊ごあいさつ
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.29
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.39-41
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.40
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.26-27
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.38
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.43
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.37
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.39・p.45
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.39
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.45
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.44・巻末年表
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.44
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.47
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.47・技術編p.206
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.56
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.60
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.55
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.50
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.51
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.47・p.56-57
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.56-57
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.51・p.60
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.57
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.61
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.61-62
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.62
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.63
  • 上村工業『135年のあゆみ』(1983年)p.57-58
  • 証券アナリストジャーナル 1998年1月号(1997年12月11日講演)

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