上村工業の商いは、1848年に大阪の薬種問屋街・道修町でひらかれた讃岐屋長兵衞の店[1]に始まる。扱ったのは和漢薬種で、2代の上村長兵衞氏のころには地方の医者へ医薬品を卸す商いを主とし、その形は大正期まで続いた[2]。3代は本間定次郎氏が務めて長兵衞を襲名せず[3]、4代の上村長兵衞氏は旧姓を川辺茂平といった[4]。4代は1896年に大阪製薬の発起人と取締役に名を連ね、1926年2月には同社の3代社長に就き、1929年6月に健康上の理由で辞めた[5]。5代の平太郎氏は病弱のため家業を継がないまま1920年に没した[6]。
明治から大正にかけて、店は扱う品を金属の表面へ寄せ[7]た。1915年ころにめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを始め[8]、カドミサルトや塩化ニッケルのほか、英カンニング社と米マンニング社からトリポリ・青棒・マチレス・フェルトを輸入した[9]。ゴム薬品では日本ペイントの代理店を務めた[10]。第1次大戦後に政府が外国依存の打破を掲げて国産を奨励すると、6代の上村長兵衞氏はこれに応じ、1918年にトリポリの国産化に成功して大阪府堺に工場を設けた[11]。そして1922年、医薬品の部門を小西伊兵衞商店へ譲り[12]、めっき資材とゴム薬品に商いを絞った。
国産化は研磨材の自製[13]へ広がった。1927年にグリーンルージュを国産化して特許第74097号を取得し[14]、1929年には3Bライムを完成させた[15]。各地の産ライムを試作記号A・Bで比べ、原料のトリポリ粉も輸入から国産の風化硅石へ替えるため全国の鉱山を回って岐阜県山中で良質品を得た[16]経緯があった。1930年11月には上村重平氏が6代長兵衞を襲名し[17]、翌12月に資本総額26万円の匿名組合を設けた。鍍金部は出資者7名で15万円、ゴム部は出資者9名で11万円を出し[18]、積立金と組合員退職基金、社員奨励基金を成文化した。1932年には店舗を道修町2丁目から3丁目18番地へ移し、以後ここが本社となった[19]。
1933年12月3日、資本金50万円・1万株で株式会社上村長兵衞商店を設立し[20]、初代社長には6代の上村長兵衞氏が就いた[21]。東京では1920年に日本橋本銀町へ出張所を置き、1、2年後に本所区へ移していたが、1923年9月1日の関東大震災で焼け、浅草新福井町へ移った[22]。株式組織になったのを機に、同じ12月には東京市浅草区の出張所を東京営業所と改め、1938年3月には東京支店へ昇格させた[23]。研磨材の輸出は1934年ごろから本格化して中国の上海と天津へ馬達牌・三喜牌・福雀牌の商標で送り[24]、昭和初期には神戸と岡山にも出張所を構えた[25]。
戦争は原料の調達を絶ち[26]、同時に新しい仕事を持ち込んだ。大阪市港区三条通ではスズ電解工場の一部を借りて築港工場を開き、モネルメタルから電解で粗ニッケルを取り出して泉大津へ送った[27]。ニッケルの輸入が困難になり国家の重要資材とされた[28]ことを契機に、1939年には大阪府泉大津市板原に300坪の泉大津工場を建て、従業員28人で純金属ニッケル[29]、硫酸・塩化・炭酸の各ニッケル、酸化銅、酸化クロムを製造した。1942年10月に設けた淀川工場[30]は、爆撃の目標になりやすいとして生産を行わず倉庫として使い、1943年には千船工場と四貫島倉庫へ原料を分散して疎開させた[31]。
1945年の敗戦時、本社も工場も倉庫も東京支店も戦災を免れ[32]、残った陣容は本社27人、工場14人、東京支店5人[33]だった。戦時に開いた築港工場は1946年5月に整理して閉じ[34]、同じ月に淀川工場で研磨材の製造を再開した[35]。設備は直径70cmの鉄鍋4個を薪で直炊きするもので、1日の産出はトリポリ200本、エメリー棒150本、グローカス100本[36]、金額にして7万円から10万円にすぎなかった。停電が続いたため、働ける日は日曜を含めて週4日ほどにとどまった[37]。1947年11月期の売上高は2,222万円[38]である。
戦後の物資欠乏と輸送の混乱は、大阪から東京へ商品を送る道をふさいだ[39]。東京支店は独自に商いを立て直すほかなくなった[40]。しきりに出荷を催促する東京支店に対し、6代の上村長兵衞社長は、運賃が利益を食うことを理由に[41]、空き工場を借りてでも東京で自給自足せよと命じた[42]。東京支店は山中研磨材工業所へ委託生産を出し[43]て『3山トリポリ』の名で売り、これが東京独自の最初の製品となって、1950年3月に東京都北区へ東京工場を設けて研磨材の製造を始める[44]流れにつながった。東京工場は1964年2月に埼玉県戸田市へ移り、1970年2月に閉じた[45]。
原料の不足は代替品の工夫[46]で埋めた。1948年、3Bライムの原料である酸化アルミが手に入らなくなると、自動車プラグの焼き損ないを粉砕して代わりに使った[47]。1950年からは総房化学と提携して良質の青化銅を月10トンから15トン扱い、翌1951年に青化銅めっき用の添加剤『ウエライト』を発売した[48]。1949年8月には大阪市阿倍野区に住吉工場を設け、塩化ビニールシートの製造を始めた[49]。木製のめっき槽の内張りや電気絶縁に使う新しい材料として売る狙いだったが、本来の用途では量が限られ[50]、ふろしきや雨かっぱなどの雑貨へ広げると市況が不安定で、販売業者の倒産が続いた。
人の採り方[51]もこの時期に変えた。1954年に就業規則[52]を定め、同じころ大卒の採用を増やしたものの定着せず離職が続いたため、のちに学歴制度そのものを廃し[53]て給与体系も一本で通すことにした。1924年に三重県松阪市で生まれ[54]、のちに社長となる上村晃史氏[55]は、1953年11月2日に入社すると、当時の会社を番頭政治の体質が根強く残る古風な会社だと受け止め、近代経営への体質改善を課題として抱えた[56]。この問題意識が1966年の経営理念とウエムラスローガンの制定[57]につながる。1960年には名古屋営業所の初代所長を務め、専務を経て社長に就いた[58]。1963年には労働組合が結成され、1967年に労働協約を結ん[59]だ。
1957年、本社に薬品部[60]を置いた。きっかけは朝鮮戦争の特需で、戦略物資のニッケルが高騰し量的にも不足した[61]ため、その代替と節約から光沢ニッケルめっきが広まった[62]。光沢めっきはバフ研摩の工程を省けるため、量産の速さを求める時代に合っていた[63]。それまでの上村長兵衞商店は研摩剤だけが自社製品で、他は仕入[64]れた商品を売る商いだったが、めっき用化学品の製造を始めた[65]1957年9月を境に、自社製品の柱をもう一本立てた。1961年11月期の売上高は12億1,935万円と、1947年11月期の55倍[66]に達した。
薬品の自社開発[67]は続いた。1958年にニッケル光沢剤『アサヒライト』、1961年ころに青化銅光沢剤『アサヒカプナー』[68]を出し、同じ1961年にはサイザルバフとバイアスバフ、液体研摩剤スチールカットを開発した[69]。1960年7月には名古屋市西区へ名古屋営業所を置いた[70]。本社と東京支店で市場を東西に二分していたその中間を埋めるもので、三重・愛知・岐阜・静岡・福井・石川・富山の7県を受け持ち、8人で始めて4、5年の赤字を覚悟していたが初年度から黒字になった[71]。同年9月には機械事業部を設けて表面処理用機械の製作を始め[72]、淀川工場内に建てた機械工場が完成するとCUF-2/CUF-1型を川崎航空機工業へ納めた[73]。大手メーカーへの納入はこれが最初で、松下電器、フタバ産業、新家工業が続[74]き、薬品と機械を同じ会社が持つ形[75]もこの時点から始まった。
事業の取捨[76]も同じ時期に進んだ。1963年2月、市場が狭く将来に期待が持てないという判断[77]から拡大策は採らず、住吉工場の塩化ビニール生産を止めてビニール部門から退いた[78]。同じ1963年9月には、めっき加工技術の研究と実験を目的に三和防錆を設立した[79]。三菱商事と東邦ダイカスト(のちに住友金属鉱山と交代)との3社合弁で、社内外に反対の声が多いなかを、当時専務だった上村晃史氏が押し通した[80]。外国企業との提携は、同年に英アルブライト&ウィルソン社と[81]結んだピロリン酸銅めっき用光沢剤の販売提携が最初[82]で、商標は『ピロブライト』とした。その1963年には主力の淀川工場が焼失し、倉庫にあった社史の資料の多くも失われ[83]た。淀川工場は手狭になったうえ周辺が大阪市の都市計画の対象となっており、1961年6月には移転先として枚方の工場誘致用地17,420㎡を取得していた[84]。
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|---|---|---|---|---|
| 1848〜1945年薬種商から研磨材へ、道修町の商家が金属の表面へ回るまで(1848〜1945) | 上村長兵衞 | 研磨材と工業用化学品を扱う上村長兵衞商店を設立 | ★★★ | |
| 上村長兵衞 | 東京市浅草区(現・東京都台東区)に東京営業所を設置 | ★ | ||
| 上村長兵衞 | 東京営業所を東京支店に昇格 | ★ | ||
| 上村長兵衞 | 大阪市東淀川区(現・淀川区)に淀川工場を設置 | ★ | ||
| 1946〜1966年鉄鍋四個の再開から、薬品を自ら作る会社へ(1946〜1966) | 上村長兵衞 | 淀川工場で研磨材の製造を再開 | ★★ | |
| 上村長兵衞 | 大阪市阿倍野区に住吉工場を設置し塩化ビニールシートの製造を開始 | ★★ | ||
| 上村長兵衞 | 東京都北区に東京工場を設置し研磨材の製造を開始 | ★ | ||
| 上村長兵衞 | 本社への薬品部設置とめっき用化学品の製造開始 1957年、株式会社上村長兵衞商店が本社に薬品部を設け、同年9月にめっき用化学品の製造を始めた経営判断。それまで自社製品は研摩剤だけで、めっき薬品は他社から仕入れて売っていた。6代の上村長兵衞社長のもとで、研摩剤に次ぐ二本目の自社製品の柱を立てた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 上村長兵衞 | 名古屋市西区に名古屋営業所を設置 | ★ | ||
| 上村長兵衞 | 機械事業部を設置し表面処理用機械の製作を開始 | ★★★ | ||
| 上村長兵衞 | めっき加工技術の研究を目的に三和防錆(のちサミックス)を設立 | ★ | ||
| 上村長兵衞 | 東京工場を埼玉県戸田市に移転 | ★ | ||
| 1967〜1988年研究所を建て、薬品と機械と液管理を一つに束ねる(1967〜1988) | 上村晃史 | 名古屋営業所を名古屋支店に昇格 | ★ | |
| 上村晃史 | 枚方への中央研究所の建設と、めっき用化学品製造部門の移転 1968年7月、上村工業が大阪府枚方市に枚方工場を竣工し、同じ敷地に中央研究所を設けた経営判断。めっき用化学品の製造部門を淀川工場から移すと同時に、鉄筋3階建・延べ2,188.86㎡の研究所を建て、走査型電子顕微鏡とX線回折装置を導入した。上村晃史社長の就任1年目の着工にあたる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 上村晃史 | 商号を上村工業に変更 | ★ | ||
| 上村晃史 | 東京工場を閉鎖 | ★ | ||
| 上村晃史 | 西独デグサ社と販売提携し金めっき浴を発売 | ★★ | ||
| 上村晃史 | 表面処理用機械の製造を枚方工場へ移し淀川工場を閉鎖 | ★ | ||
| 上村晃史 | デグサ社と技術提携しアルミ真空蒸着加工技術を導入 | ★★ | ||
| 上村晃史 | 神奈川県相模原市に相模原事業所を設置 | ★ | ||
| 上村晃史 | 顧客の海外移転に追随した10か国への拠点設置と、地域完結型の営業体制の構築 1985年のプラザ合意を境に自動車・家電の顧客が生産を海外へ移したのに対し、上村工業が国内にとどまらず顧客の移転先へ会社を置き続けた経営判断。1985年12月の米国子会社を皮切りに、2012年のインドネシアまでに拠点は10か国へ広がった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 上村晃史 | 香港に合弁で上村旭光有限公司を設立 | ★★ | ||
| 上村晃史 | 台湾に合弁で台湾上村股份有限公司を設立 | ★ | ||
| 上村晃史 | タイに合弁でサムハイテックス(現・ウエムラ・タイランド)を設立 | ★ | ||
| 上村晃史 | 中国深圳市に合弁で南山上村旭光有限公司を設立 | ★ | ||
| 1989〜2026年ハードディスクから半導体パッケージへ、主力を入れ替える(1989〜2026) | 上村晃史 | 東京支店を東京支社に昇格 | ★ | |
| 上村晃史 | 独デメトロン社へ無電解ニッケルめっき薬品の技術を供与 | ★ | ||
| 上村晃史 | シンガポールにウエムラ・インターナショナル・シンガポールを設立 | ★ | ||
| 上村晃史 | 米国にウエムラ・インターナショナル・コーポレーションを新設 | ★ | ||
| 上村晃史 | 旧淀川工場跡に上村ニッセイビルが竣工し不動産賃貸業を開始 | ★ | ||
| 上村晃史 | 岐阜県土岐市にユーテックを設立 | ★ | ||
| 上村晃史 | マレーシアにウエムラ・マレーシアを設立 | ★ | ||
| 上村寛也 | 上村寛也氏が代表取締役社長に就任 | ★★ | ||
| 上村寛也 | 大阪証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 上村寛也 | 相模原事業所を閉鎖 | ★ | ||
| 上村寛也 | ユーテックの清算が結了 | ★ | ||
| 上村寛也 | 中国上海市に上村化学(上海)有限公司を設立 | ★ | ||
| 上村寛也 | 台湾に台湾上村科技股份有限公司を設立 | ★ | ||
| 上村寛也 | 中国深圳市龍崗区に上村工業(深圳)有限公司の新工場が竣工 | ★ | ||
| 上村寛也 | 東京支社を東京都台東区から中央区へ移転 | ★ | ||
| 上村寛也 | 大韓民国京畿道に韓国上村を設立 | ★ | ||
| 上村寛也 | 台湾上村股份有限公司が台湾上村科技股份有限公司を吸収合併 | ★ | ||
| 上村寛也 | インドネシアにウエムラ・インドネシアを設立 | ★ | ||
| 上村寛也 | 枚方市に新中央研究所が竣工 | ★ | ||
| 上村寛也 | 取引所統合に伴い東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 上村寛也 | 名古屋支店の新社屋が完成 | ★ | ||
| 上村寛也 | 市場再編に伴い東京証券取引所スタンダード市場へ移行 | ★ | ||
| 上村寛也 | 枚方市に新機械工場が竣工 | ★ | ||
| 上村寛也 | 子会社サミックスを吸収合併 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(上村工業)