{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"4966","company_name":"上村工業","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/4966/","api_url":"/api/4966/history.json","updated":"2026-08-10","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/4966/","title":"上村工業の歴史概略","sections":[{"start_year":1848,"end_year":1945,"main_title":"薬種商から研磨材へ、道修町の商家が金属の表面へ回るまで（1848〜1945）","subsections":[{"title":"和漢薬種の店がめっき資材の輸入に転じた大正期","text":"上村工業の商いは、1848年に大阪の薬種問屋街・道修町でひらかれた讃岐屋長兵衞の店に始まる。扱ったのは和漢薬種で、2代の上村長兵衞氏のころには地方の医者へ医薬品を卸す商いを主とし、その形は大正期まで続いた。3代は本間定次郎氏が務めて長兵衞を襲名せず、4代の上村長兵衞氏は旧姓を川辺茂平といった。4代は1896年に大阪製薬の発起人と取締役に名を連ね、1926年2月には同社の3代社長に就き、1929年6月に健康上の理由で辞めた。5代の平太郎氏は病弱のため家業を継がないまま1920年に没した。\n\n明治から大正にかけて、店は扱う品を金属の表面へ寄せた。1915年ころにめっき資材の直輸入とゴム薬品の取扱いを始め、カドミサルトや塩化ニッケルのほか、英カンニング社と米マンニング社からトリポリ・青棒・マチレス・フェルトを輸入した。ゴム薬品では日本ペイントの代理店を務めた。第1次大戦後に政府が外国依存の打破を掲げて国産を奨励すると、6代の上村長兵衞氏はこれに応じ、1918年にトリポリの国産化に成功して大阪府堺に工場を設けた。そして1922年、医薬品の部門を小西伊兵衞商店へ譲り、めっき資材とゴム薬品に商いを絞った。\n\n国産化は研磨材の自製へ広がった。1927年にグリーンルージュを国産化して特許第74097号を取得し、1929年には3Bライムを完成させた。各地の産ライムを試作記号A・Bで比べ、原料のトリポリ粉も輸入から国産の風化硅石へ替えるため全国の鉱山を回って岐阜県山中で良質品を得た経緯があった。1930年11月には上村重平氏が6代長兵衞を襲名し、翌12月に資本総額26万円の匿名組合を設けた。鍍金部は出資者7名で15万円、ゴム部は出資者9名で11万円を出し、積立金と組合員退職基金、社員奨励基金を成文化した。1932年には店舗を道修町2丁目から3丁目18番地へ移し、以後ここが本社となった。","references":[{"title":"上村工業『135年のあゆみ ── 金属表面技術の発展とともに』（1983年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"上村工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"株式会社への改組と、ニッケルが国家資材になった戦時","text":"1933年12月3日、資本金50万円・1万株で株式会社上村長兵衞商店を設立し、初代社長には6代の上村長兵衞氏が就いた。東京では1920年に日本橋本銀町へ出張所を置き、1、2年後に本所区へ移していたが、1923年9月1日の関東大震災で焼け、浅草新福井町へ移った。株式組織になったのを機に、同じ12月には東京市浅草区の出張所を東京営業所と改め、1938年3月には東京支店へ昇格させた。研磨材の輸出は1934年ごろから本格化して中国の上海と天津へ馬達牌・三喜牌・福雀牌の商標で送り、昭和初期には神戸と岡山にも出張所を構えた。\n\n戦争は原料の調達を絶ち、同時に新しい仕事を持ち込んだ。大阪市港区三条通ではスズ電解工場の一部を借りて築港工場を開き、モネルメタルから電解で粗ニッケルを取り出して泉大津へ送った。ニッケルの輸入が困難になり国家の重要資材とされたことを契機に、1939年には大阪府泉大津市板原に300坪の泉大津工場を建て、従業員28人で純金属ニッケル、硫酸・塩化・炭酸の各ニッケル、酸化銅、酸化クロムを製造した。1942年10月に設けた淀川工場は、爆撃の目標になりやすいとして生産を行わず倉庫として使い、1943年には千船工場と四貫島倉庫へ原料を分散して疎開させた。\n\n1945年の敗戦時、本社も工場も倉庫も東京支店も戦災を免れ、残った陣容は本社27人、工場14人、東京支店5人だった。戦時に開いた築港工場は1946年5月に整理して閉じ、同じ月に淀川工場で研磨材の製造を再開した。設備は直径70cmの鉄鍋4個を薪で直炊きするもので、1日の産出はトリポリ200本、エメリー棒150本、グローカス100本、金額にして7万円から10万円にすぎなかった。停電が続いたため、働ける日は日曜を含めて週4日ほどにとどまった。1947年11月期の売上高は2,222万円である。","references":[{"title":"上村工業『135年のあゆみ ── 金属表面技術の発展とともに』（1983年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"上村工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1946,"end_year":1966,"main_title":"鉄鍋四個の再開から、薬品を自ら作る会社へ（1946〜1966）","subsections":[{"title":"東京に命じた自給自足と、焼き損ないのプラグ","text":"戦後の物資欠乏と輸送の混乱は、大阪から東京へ商品を送る道をふさいだ。東京支店は独自に商いを立て直すほかなくなった。しきりに出荷を催促する東京支店に対し、6代の上村長兵衞社長は、運賃が利益を食うことを理由に、空き工場を借りてでも東京で自給自足せよと命じた。東京支店は山中研磨材工業所へ委託生産を出して「3山トリポリ」の名で売り、これが東京独自の最初の製品となって、1950年3月に東京都北区へ東京工場を設けて研磨材の製造を始める流れにつながった。東京工場は1964年2月に埼玉県戸田市へ移り、1970年2月に閉じた。\n\n原料の不足は代替品の工夫で埋めた。1948年、3Bライムの原料である酸化アルミが手に入らなくなると、自動車プラグの焼き損ないを粉砕して代わりに使った。1950年からは総房化学と提携して良質の青化銅を月10トンから15トン扱い、翌1951年に青化銅めっき用の添加剤「ウエライト」を発売した。1949年8月には大阪市阿倍野区に住吉工場を設け、塩化ビニールシートの製造を始めた。木製のめっき槽の内張りや電気絶縁に使う新しい材料として売る狙いだったが、本来の用途では量が限られ、ふろしきや雨かっぱなどの雑貨へ広げると市況が不安定で、販売業者の倒産が続いた。\n\n人の採り方もこの時期に変えた。1954年に就業規則を定め、同じころ大卒の採用を増やしたものの定着せず離職が続いたため、のちに学歴制度そのものを廃して給与体系も一本で通すことにした。1924年に三重県松阪市で生まれ、のちに社長となる上村晃史氏は、1953年11月2日に入社すると、当時の会社を番頭政治の体質が根強く残る古風な会社だと受け止め、近代経営への体質改善を課題として抱えた。この問題意識が1966年の経営理念とウエムラスローガンの制定につながる。1960年には名古屋営業所の初代所長を務め、専務を経て社長に就いた。1963年には労働組合が結成され、1967年に労働協約を結んだ。","references":[{"title":"上村工業『135年のあゆみ ── 金属表面技術の発展とともに』（1983年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"上村工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"朝鮮戦争のニッケル高騰が呼び込んだ薬品部の設置","text":"1957年、本社に薬品部を置いた。きっかけは朝鮮戦争の特需で、戦略物資のニッケルが高騰し量的にも不足したため、その代替と節約から光沢ニッケルめっきが広まった。光沢めっきはバフ研摩の工程を省けるため、量産の速さを求める時代に合っていた。それまでの上村長兵衞商店は研摩剤だけが自社製品で、他は仕入れた商品を売る商いだったが、めっき用化学品の製造を始めた1957年9月を境に、自社製品の柱をもう一本立てた。1961年11月期の売上高は12億1,935万円と、1947年11月期の55倍に達した。\n\n薬品の自社開発は続いた。1958年にニッケル光沢剤「アサヒライト」、1961年ころに青化銅光沢剤「アサヒカプナー」を出し、同じ1961年にはサイザルバフとバイアスバフ、液体研摩剤スチールカットを開発した。1960年7月には名古屋市西区へ名古屋営業所を置いた。本社と東京支店で市場を東西に二分していたその中間を埋めるもので、三重・愛知・岐阜・静岡・福井・石川・富山の7県を受け持ち、8人で始めて4、5年の赤字を覚悟していたが初年度から黒字になった。同年9月には機械事業部を設けて表面処理用機械の製作を始め、淀川工場内に建てた機械工場が完成するとCUF-2/CUF-1型を川崎航空機工業へ納めた。大手メーカーへの納入はこれが最初で、松下電器、フタバ産業、新家工業が続き、薬品と機械を同じ会社が持つ形もこの時点から始まった。\n\n事業の取捨も同じ時期に進んだ。1963年2月、市場が狭く将来に期待が持てないという判断から拡大策は採らず、住吉工場の塩化ビニール生産を止めてビニール部門から退いた。同じ1963年9月には、めっき加工技術の研究と実験を目的に三和防錆を設立した。三菱商事と東邦ダイカスト（のちに住友金属鉱山と交代）との3社合弁で、社内外に反対の声が多いなかを、当時専務だった上村晃史氏が押し通した。外国企業との提携は、同年に英アルブライト&ウィルソン社と結んだピロリン酸銅めっき用光沢剤の販売提携が最初で、商標は「ピロブライト」とした。その1963年には主力の淀川工場が焼失し、倉庫にあった社史の資料の多くも失われた。淀川工場は手狭になったうえ周辺が大阪市の都市計画の対象となっており、1961年6月には移転先として枚方の工場誘致用地17,420㎡を取得していた。","references":[{"title":"上村工業『135年のあゆみ ── 金属表面技術の発展とともに』（1983年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"上村工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1967,"end_year":1988,"main_title":"研究所を建て、薬品と機械と液管理を一つに束ねる（1967〜1988）","subsections":[{"title":"分不相応と批判された中央研究所の建設","text":"1967年5月19日、上村晃史氏が社長に就いた。同年11月には第1次3カ年計画として、売上を3年で約70%、年率18.5%増やす目標を掲げた。1968年6月には機械の専門工場となる新淀川工場が操業を始め、9月3日には創業120周年の記念式典を500人の出席で開いた。同じ年、東京支店を台東区鳥越へ移し、新潟県燕市に新潟出張所を置いた。ただし11月には戸田の東京工場が火災に遭い、製造を止めた。この工場は1970年2月に閉鎖された。1961年12月12日に紫綬褒章、1966年11月3日に勲三等瑞宝章を受けた6代長兵衞氏は、社長を退いたのち会長に就いた。受章にあたっては、資本の自由化を迎えて絶対優位な価値ある製品を開発する以外に企業の存立は困難な時代が来ると述べていた。\n\n1968年7月、大阪府枚方市に枚方工場が竣工し、めっき用化学品の製造部門を淀川工場から移すとともに、同じ敷地に中央研究所を設けた。研究所は鉄筋3階建・延2,188㎡で、走査型電子顕微鏡とX線回折装置を備えたもので、社内外から分不相応だという批判を受けた。世界に通用する技術、世界をリードする技術に賭けていた上村晃史社長は後年、分不相応なものを作ったと内外からかなり批判されたが、いまでは規模的につり合うようになったとふり返った。研究所は1997年時点で所員80人を抱える規模になっていた。\n\n1969年1月、商号を上村長兵衞商店から上村工業株式会社へ改めた。商店として始まった店は1919年にはメーカーへ脱皮しており、1955年を境にめっき資材の総合メーカーとして伸びていた。創業以来親しまれた上村長兵衞商店という社名は、その実態と合わなくなっていた。社章もこのとき定めた。枚方工場と中央研究所は1968年6月にほぼ完成して7月から製造に入り、地鎮祭から完成までは約8か月で、竣工式は9月3日の創業120周年記念式典と合わせて行った。1968年3月には名古屋営業所を名古屋支店へ昇格させた。","references":[{"title":"上村工業『135年のあゆみ ── 金属表面技術の発展とともに』（1983年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"上村工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1998年1月号「上村工業」（1997年12月11日・大阪での講演と質疑応答）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"上村晃史","role":"中央研究所設立当時の社長","date":"1983","text":"当時としては、分不相応なものを作ったと、内外からかなり批判をうけたが、今日では規模的につり合うようになった","source":"上村工業『135年のあゆみ』（1983年）p.38","paragraph":2}]},{"title":"外から取り込んだ技術と、公害規制への対応","text":"研究所は新しい技術を外から取り込む窓口にもなった。1967年に仏フラッパーズ社とプログラム制御全自動めっき装置の技術提携を結び、1969年には西独バイエル社と無電解ニッケルの技術提携を締結した。ニボジュール法と呼ばれるこの技術が、のちの自社製品「ニムデン」「BELニッケル」につながった。1969年には初の輸出貢献企業として表彰を受け、1970年ごろにプリント基板めっきの分野へ進出した。1970年5月にはFACOM230-10を導入し、1978年12月には自動ラック倉庫とのインライン化まで進めた。\n\n1970年代に入ると、めっき業が出す重金属と排水が規制の対象になった。1971年、機械系7人・化学系6人・業務3人の計16人で公害防止機器部を設け、オルガノと技術提携してイオン交換樹脂法を採った。1976年3月に英アルブライト社から導入した三価クロムめっき「アレクラ3」は、六価クロムの規制に応じるもので、めっきの毒性そのものを替える製品だった。1974年には神東塗料と電着塗装の共同研究に着手し、1982年の「ニューペイトン法」に至った。1973年には米エレクトログロー社と電解研摩の技術提携を結び、神鋼ファウドラへサブライセンスを出した。1975年には米マクダーミッド社とプリント配線基板向けの銅アルカリエッチング剤について特許実施権とノウハウ供与の契約を結び、商標をアルファインとした。同じ年、西独デグサ社と貴金属めっきの販売提携を結び、東京支店にデグサチームを組んで全国で売った。\n\n1972年4月から1973年8月にかけて枚方工場を増やし、排水処理棟・倉庫棟・機械工場棟を建てた。淀川工場は立地から見て長く機械工場として使えないため、いつでも移せるよう準備しておくという判断が理由の一つにあった。オイルショックは設備投資の需要を半年遅れで冷やし、1975年には機械事業部の仕事がほとんど無い状態になった。この時をとらえて枚方工場への移転を始め、どんな情勢になっても対応できる人員にするとして陣容を極端に切り詰め、同年5月には淀川工場を閉じた。売上高は1974年11月期の82億7,144万円から1975年11月期には63億6,253万円へ23%減り、配当も30%から18%へ下げた。この時の業績悪化が、機械事業部を見直す機会になった。売上高は1976年11月期に88億348万円とオイルショック前の水準を超え、1977年11月期の94億2,819万円が当時のピークとなった。","references":[{"title":"上村工業『135年のあゆみ ── 金属表面技術の発展とともに』（1983年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"上村工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1998年1月号「上村工業」（1997年12月11日・大阪での講演と質疑応答）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"液を管理する装置と、顧客を追いかけた海外進出","text":"技術は輸出の対象にもなった。1972年10月にフィリピンで設立したAlliance Abrasive社が翌年7月に現地生産を始め、これが技術輸出の第1号となった。1977年には韓国鍍金材料工業へ光沢剤の製造技術を輸出し、通商産業省の認可を11月23日に受けた。1979年6月には機械の製造技術も供与した。同じ1977年、コンピュータ制御のロボットUPCSをトヨタ自動車へ納め、日本航空と日本電気が続いた。1979年6月には米マイクロプレート社との技術打ち合わせのため機械事業部から2名を派遣し、のちに販売契約を結んでプリント基板端子めっき装置の第1号を田代電化工業へ納めた。1981年には西独ラングバイン社と技術交流契約を結び、ニムデンを輸出する一方でサテンニッケルを導入して「パールブライト」とした。\n\n1968年に着手した複合めっき「メタフロン」は、10年余をかけて1979年7月に完成した。翌1980年4月には無電解ニッケルの自動液管理装置「ニムコン」を仕上げ、第1号機を福井電化工業へ納めた。1982年5月には高速流動研摩機「スピンマックス」も開発し、同年8月のニムコンⅡは東洋電波へ納入して、実稼働の第1号は富士電機製造の松本工場だった。めっき液は使ううちに成分が偏るため、薬品と機械に加えて、液そのものを管理する装置までを一社で抱えた。1983年10月から米連邦通信委員会がディジタル機器の電磁波障害を規制し、プラスチック筐体に電磁波シールドが必要になった。同年5月にデグサ社と技術提携して導入したアルミ真空蒸着加工技術がこれに応え、1984年3月には相模原事業所を設けて加工を始めた。\n\n海外へ人を置く判断は、プラザ合意の4年前からあった。1981年11月に香港と台湾へ駐在所を設けて駐在員を送ることを決め、翌年2月に赴任させた。1985年のプラザ合意以降は、自動車と家電の顧客が相次いで海外へ移った。上村工業はその移転に付いていくことを選び、1985年12月に米国ロサンゼルスでウエムラ・インターナショナル・コーポレーションを設けた。以後も1986年2月に香港で上村旭光有限公司、1987年6月に台湾上村股份有限公司、同年12月にタイのサムハイテックス、1988年3月に中国深圳の南山上村旭光有限公司と続いた。のちに上村寛也社長は、為替変動の影響を受けない地域完結型の営業展開に努めていると述べた。","references":[{"title":"上村工業『135年のあゆみ ── 金属表面技術の発展とともに』（1983年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"上村工業 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1998年1月号「上村工業」（1997年12月11日・大阪での講演と質疑応答）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1989,"end_year":2026,"main_title":"ハードディスクから半導体パッケージへ、主力を入れ替える（1989〜2026）","subsections":[{"title":"上場の翌月に社長が語った三つの技術","text":"1990年代には拠点を細かく置いた。1990年2月に東京支店を東京支社へ昇格させ、1991年6月には独デメトロン社へ無電解ニッケルめっき薬品の技術を供与した。1992年5月にシンガポール、同年12月に米国の新会社、1996年7月にマレーシアへ拠点を置いた。1993年5月には旧淀川工場の敷地に上村ニッセイビルが竣工して不動産賃貸業を始め、1999年10月には相模原事業所を閉じた。そして1997年1月、1980年4月の入社から17年、1988年2月に取締役、1991年10月に代表取締役専務、1995年6月に代表取締役副社長を経て、上村寛也氏が社長に就いた。\n\n創業から149年、株式会社の設立から64年を経た1997年11月、上村工業は大阪証券取引所市場第二部へ上場した。上場の翌月、上村寛也社長は大阪で自社の位置を数字で説明した。ハードディスクのアルミ基板に使う無電解ニッケルめっき液では、1996年度の国内市場40億円のうち33億円を占め、シェアは80%に達していた。無電解ニッケルめっき液そのものの国内市場は約100億円で、うちハードディスク用が約40%を占める。全社では研磨剤市場30億円の約22%、表面処理用薬品とめっき用化学薬品の市場550億円の約20%、機械と制御装置の市場240億円の17%を持っていた。\n\nハードディスクのめっき処理には十数社が参入しており、そのなかで勝ち残った理由を、上村寛也社長は薬品・機械・液を制御する装置の3つを手掛けていたことに求めた。顧客にトラブルが起きたとき、原因がめっき液なのか機械なのか液管理装置なのか分かりにくくなり、3種を扱う上村工業への要望が増えたためで、それが認められるようになったのは最近の5〜6年だとも述べた。機械部門は1997年3月期に2億6,800万円の営業損失を計上していたが、機械は薬品販売の道具であり戦略的に受注する場合もあると説明した。当時の社員330人のうち約3分の1が研究開発に携わっていた。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1998年1月号「上村工業」（1997年12月11日・大阪での講演と質疑応答）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"上村工業 有価証券報告書【沿革】および連結財務諸表","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"上村工業「2022年3月期決算説明会補足情報について」（2022年6月16日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"上村工業「2026年3月期 決算説明資料」（2026年5月13日・5月15日更新）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"リーマンショックと、用途の入れ替わり","text":"2000年代の前半、上村工業の売上は6年で2.4倍になった。2002年3月期の連結売上高234億円は、2007年3月期に533億円、2008年3月期には573億円へ伸びた。しかしリーマンショックがこれを反転させた。2009年3月期は433億円、2010年3月期は323億円で、ピークからの減少幅は44%に達する。経常利益も2007年3月期の79億円から2010年3月期には43億円へ落ちた。主たるユーザーである電子部品業界の在庫調整と設備投資の抑制が、そのまま薬品の出荷量に響いた。\n\n2002年4月には中国上海市へ上村化学（上海）有限公司、2003年10月に台湾上村科技股份有限公司を設け、2006年11月には深圳市龍崗区で上村工業（深圳）有限公司の新工場が竣工した。回復は2011年3月期の399億円から始まった。2010年7月に大韓民国京畿道へ韓国上村、2012年8月にインドネシアへウエムラ・インドネシアを設けた。2011年12月には台湾の2社を合併して台湾上村股份有限公司へ統合した。2013年6月には枚方に新しい中央研究所が竣工し、同年7月には取引所の統合に伴い東京証券取引所市場第二部へ移った。2019年12月に名古屋支店の新社屋が完成し、2022年4月の市場再編ではスタンダード市場を選んだ。\n\nこの間に主力の用途が入れ替わった。2022年3月期の時点で、めっき薬品の売上高のうちFC-BGA関連が4割程度、車載用のIGBT関連が1割程度を占めていた。FC-BGAはフリップチップ・ボール・グリッド・アレイ、IGBTは絶縁ゲートバイポーラトランジスタを指す。ウェハー・パッケージ関連の薬品には、無電解ニッケルと金のめっきや、無電解ニッケル・パラジウム・金のめっきが使われる。ただし同一の製品でも顧客側で異なる基板向けに使われる場合があり、正確な用途別売上高の把握は難しいとも説明した。2023年3月期はFC-BGA関連とIGBT関連がともに2割程度増えると見込んだ。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1998年1月号「上村工業」（1997年12月11日・大阪での講演と質疑応答）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"上村工業 有価証券報告書【沿革】および連結財務諸表","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"上村工業「2022年3月期決算説明会補足情報について」（2022年6月16日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"上村工業「2026年3月期 決算説明資料」（2026年5月13日・5月15日更新）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"半導体パッケージが押し上げた収益と、次の設備","text":"2020年代に入って業績はもう一段上がった。連結売上高は2021年3月期の559億円から2022年3月期に723億円、2023年3月期に857億円へ伸びた。2024年3月期は803億円へ減り、2025年3月期の838億円を経て、2026年3月期は917億8,400万円である。営業利益は213億2,700万円、当期純利益は139億4,600万円で、売上高に対する営業利益の比率は23.2%になる。半導体パッケージ基板向けのめっき薬品が、生成AI用サーバー向けを中心に伸びたためである。表面処理用機械事業は売上を減らしたが、半導体ウェハー用めっき装置の販売でセグメント利益は前期を上回った。\n\n2026年3月期の薬品売上558億7,000万円の内訳を見ると、ウェハー・パッケージ関連が444億9,700万円で79.6%を占める。ハードディスク関連は35億6,400万円の6.4%にとどまり、汎用の無電解ニッケル関連は42億8,300万円である。ハードディスク関連の薬品売上は、1996年度の33億円から金額ではほとんど変わっていない。比率が下がったのは、ウェハー・パッケージ関連が大きく伸びたためである。地域別では日本206億8,000万円、中国138億5,000万円、台湾137億円が上位を占め、韓国31億円、北米22億6,000万円、ASEAN22億5,000万円が続く。事業別では表面処理用資材が776億6,100万円で、売上の85%を占めている。\n\n設備の入れ替えも続いている。2023年11月に枚方の新機械工場が竣工し、2024年4月にはめっき加工子会社のサミックスを吸収合併した。枚方工場では旧管理棟を解体して排水処理棟を建てる計画があり、投資額は約8億5,000万円、完成は2028年8月を予定する。昇温工程をなくすことで、工場全体のCO2排出量を約20%減らす見込みである。筆頭株主は浪花殖産で28.29%を保有する。上村寛也社長は1995年5月からこの会社の代表取締役社長も務めている。会社が示した2027年3月期の見通しは、売上高958億4,000万円に対し営業利益203億3,000万円で、増収ながら減益となる。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 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