半導体パッケージ材ABFの育成——食品会社が世界シェア95%を握るまで

食品の判断軸から切り離した専門子会社で、味の素はなぜ半導体材料を世界標準へ育てられたか

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時期 1998年9月
意思決定者 江頭邦雄 社長
論点 電子材料事業の育成と技術多角化
概要
1998年9月、味の素は半導体パッケージ基板用の絶縁材料ABF(味の素ビルドアップフィルム)を手がける専門子会社・味の素ファインテクノを設立し、食品事業の判断サイクルから切り離してこの新規事業に資源を集中させた。江頭邦雄社長の「技術立社」路線のもとで、うま味調味料の製造で培ったアミノ酸・樹脂の技術を電子材料へ転用した多角化であった。
背景
味の素はグルタミン酸ナトリウムの製造で生じる副産物からの樹脂改質素材の開発を続け、1970年代にアミノ酸のノウハウを応用した絶縁性のエポキシ樹脂に着目していた。パソコンの高性能化で半導体パッケージ基板の層間絶縁材が液状インクからフィルム状へ移りつつあり、この市場の転換が食品会社の樹脂技術に活路を開いた。
内容
1990年代に絶縁技術をパソコン用半導体基板へ応用する選択を固め、1998年に味の素ファインテクノを設立して1999年に世界初のフィルム状パッケージ基板用絶縁材料ABFを世に出した。食品とは異なる判断軸で技術を育てる体制を早期に整えた点に、この決断の核があった。
含意
ABFは主要な半導体パッケージ基板に採用されて事実上の業界標準となり、世界シェア約95%と高い収益性を持つ事業に育った。AI向け半導体の需要が高まる2020年代には、味の素が「半導体関連株」と呼ばれるまでになった。食品会社の長期の技術育成が本業と異なる収益源を生んだ例といえる。
筆者の見解

食品会社が握った異質な収益源

ABFの歩みを振り返ると、味の素が握ったのは半導体材料という本業から遠い収益源であった。うま味調味料の副産物から生まれた樹脂の技術が、パソコンや生成AIの半導体を支える材料へと姿を変え、世界のほとんどを一社が担う立場にまで届いた。食品の判断軸から切り離した専門子会社という器が、短期の採算では測りにくい技術に時間を与えたことは、この事業が育った条件の一つであったとみることができる。市場の変化を先読みし、そこへ蓄積した技術をあてる構えが、長い年月をかけて実を結んだ形といえる。

一方で、この成功は味の素に新しい問いも残している。ABFは半導体という市況の振れが大きい世界に属し、シェアが高いほど需要の波をそのまま受けやすい。食品という安定した本業と、変動の大きい電子材料という異質な柱を、一つの会社がどう両立させていくのかは、なお開かれた課題であるように見える。食品会社が半導体材料で世界を握った事実は鮮やかである一方、その果実をどこまで自社の物語に組み込めるかは、これからの経営が答えていく問いとして残っているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

うま味調味料の副産物から生まれた樹脂技術

味の素の電子材料は、本業のうま味調味料の製造工程から派生した技術に根がある。主成分であるグルタミン酸ナトリウムを製造する過程で生じる副産物からは塩素化パラフィンが得られ、これが樹脂を柔らかくする機能を持っていた。味の素はこの副産物を手がかりに、難燃剤やエポキシ樹脂の硬化剤など、さまざまな樹脂に機能を付与する素材の開発を続けてきた。食品会社が樹脂の分野で技術を蓄えていた経緯が、後の電子材料事業の土台になった[1]

この素材開発のなかで、味の素は1970年代にアミノ酸のノウハウを応用した絶縁性のエポキシ樹脂に着目していた。そして1990年代に入り、その技術をパソコン用の半導体基板の絶縁材料へ応用する道を選んだ。うま味調味料とアミノ酸で培った知見を、電気を通さない材料という異質な用途へ橋渡しした判断が、事業化の出発点となった。食品と電子材料という一見遠い二つの領域は、アミノ酸研究という一本の技術で結ばれていた[2]

パッケージ基板のフィルム化という市場の転換

味の素の樹脂技術に活路を開いたのは、半導体を載せる回路基板の側で起きた変化であった。パソコンの高性能化に伴い、半導体は配線が複雑に積層された回路基板へ実装される方式が採られるようになり、層と層の間を電気的に絶縁する材料の重要性が増していた。従来の絶縁材料は液体インクが主流で、塗りムラが起こりやすく気泡が入りやすい弱みを抱えていた。基板を高密度に積み上げるほど、この塗りムラや気泡が歩留まりを損なう問題として表面化していた[3]

味の素が向かった先は、この液状インクをフィルム状の材料へ置き換える方向であった。基板に貼るだけで絶縁層を作れるフィルムであれば、インクの塗布に付きまとう塗りムラや気泡を避けられ、量産の効率も高められる。液状からフィルム状へという材料の転換が市場で進みつつあったなかで、味の素は自社の樹脂技術がこのニーズに応えうると見て取った。市場の変化を先読みし、そこへ蓄積した技術をぶつける構図が整いつつあった[4]

決断

食品から切り離した専門子会社への集約

1998年9月、味の素は半導体パッケージ基板用の絶縁材料などを手がける専門子会社・味の素ファインテクノを設立した。食品を主力とする本体の判断サイクルとは別に、電子材料に特化した器を用意し、そこへ経営資源を集めた点にこの決断の性格が表れている。うま味調味料や加工食品とは需要のリズムも顧客も異なる事業を、本業の物差しで測って埋もれさせないための組織上の切り分けであった。翌1999年、味の素は世界で初めてフィルム状のパッケージ基板用絶縁材料ABFを世に出した[5][6]

この組織的な切り分けの背後には、江頭邦雄社長が掲げた「技術立社」の路線があった。総会屋事件を受けて1997年に社長へ就いた江頭邦雄社長は、味の素の生き残りを分野の限定と独自技術に求め、他社が持たない強みで世界と伍していく方針を打ち出していた。ABFへの集中は、この方針を電子材料という具体の事業で実行に移したものであった。食品の巨人が半導体材料に資源を割く判断は、技術で勝負する会社であろうとする経営者の意思に支えられていた[7]

アミノ酸を軸にした選択と集中

江頭邦雄社長は事業再編を選択と集中と拡大の三語で説明し、味の素が目指す姿を「食品アミノ酸の日本から出発した世界企業」と定めていた。ネスレやユニリーバといった世界の食品大手がアミノ酸を持たないのに対し、味の素はその領域で世界首位を握るという自負が根にあった。強みのある分野に資源を集め、そこを他社に負けない事業へ育てるという考え方は、電子材料の切り出しとも一つづきであった。ABFは食品の外にあるように見えて、味の素はこれをアミノ酸を軸とする戦略の内側に据えていた[8]

結果

業界標準となった高収益事業

ABFは主要な半導体パッケージ基板に採用され、事実上の業界標準となった。味の素は自社のシェアを約95%と説明しており、この材料の分野では世界の需要のほとんどを味の素が満たす構図が生まれた。事業としての収益性も際立っていた。2018年度の第2四半期には、電子材料の売上高が四半期で100億円を超え、事業利益率は3割を超える水準にあった。食品とは異なる収益構造を持ちながら、味の素の利益に厚みを加える柱に育っていた[9][10]

育てた事業の存在感は、2020年代に入っていっそう際立った。生成AIの普及で高性能な半導体の需要が高まると、その基板に欠かせないABFが改めて注目され、2020年代半ばには、味の素は食品会社でありながら「半導体関連株」と受け止められた。ABFを中心とするファンクショナルマテリアルズ事業の直近の売上高は約1,007億円、事業利益は約546億円に達し、グループ全体の利益の約3割を占めるまでになった。株価も2020年3月の安値から2026年5月には約7倍へ上昇し、市場は本業の食品とは別の物差しで味の素を評価した[11]

出典・参考