味の素の事業は、鈴木家が1888年に神奈川県葉山で始めたヨード製造[1]にさかのぼる。鈴木ナカ氏が興したこの家業は、東京帝国大学の長井長義氏から技術の指導を受けて製薬へ広がった[2]。1907年5月には合資会社鈴木製薬所を設立し[3]、葉山でヨードとカリを、逗子で硝酸を、麻布でヨードとカリをそれぞれ製造していた[4]。1908年7月、東京帝国大学の池田菊苗博士が昆布のうま味の成分を突き止め、調味料グルタミン酸ソーダの製造法で特許を取得した[5]。同年9月、二代目の鈴木三郎助氏がその商品化を引き受け、特許の共有者となった[6]。
1909年5月、うま味調味料『味の素』の一般販売が始まった[7]。逗子工場での試験で製造に確信を得た[8]鈴木家は、川崎の地を選んで新しい工場を建てた。1912年4月、鈴木三郎助氏個人の事業だった味の素の事業を合資会社鈴木製薬所が継承し、同社は合資会社鈴木商店へ商号を変えた[9]。1914年9月には川崎工場が完成して操業に入り[10]、家内工業の組織から近代的な設備での量産へ移った。製造は鈴木忠治氏が引き受け、その指導のもとで鈴木六郎氏が実務を担い[11]、販売はのちに三郎助を襲名する鈴木三郎氏が担当し、鈴木家のなかで役割を分けて事業を運んだ。
販売の拡大とともに、原料をめぐる根拠のない噂が流れ[12]、味の素は受難の時期を迎えた。第一次世界大戦後の恐慌で打撃を受け、1923年の関東大震災では本舗が焼失し工場も倒壊した[13]。1917年6月には株式会社鈴木商店を設立して[14]合資会社鈴木商店の営業一切を譲り受け、1925年12月には両社の営業を引き継ぐ株式会社鈴木商店を新設して[15]、現在の味の素株式会社が発足した。震災後は十数年の宣伝が実を結び、販路は内地だけでなく台湾、朝鮮から満州、中国大陸、南方一帯にまで及んだ[16]。1910年代後半から1920年代にかけては東京と大阪を中心に地域別の特約店制度を整え、特約店の下に副特約店と小売店を重ねる流通網を全国の主要都市へ敷いた[17]。原料も小麦粉に加えて大豆が主要な位置を占め[18]、1937年に生産量3,750トンと戦前の最盛期を迎えた[19]。
1932年10月、味の素本舗株式会社鈴木商店へ商号を改めた[20]。1935年3月には宝製油株式会社を設立して油脂事業に入り[21]、1944年5月にこれを合併した[22]。戦時色が濃くなるにつれて社名も変わり、1940年12月に鈴木食料工業株式会社[23]、1943年5月に大日本化学工業株式会社となった[24]。1943年には佐賀県諸富津にアセトン・ブタノール工場の建設に着手し[25]、同県に佐賀工場を設けた。日華事変以降は原料の入手が年々難しくなり、太平洋戦争では平和産業としての味の素は生産を止め、工場の設備は戦時物資の生産に振り向けられた[26]。
戦後はDDTの生産から立ち上がり、1946年2月に味の素株式会社へ商号を改め[27]、同年5月には少量ながら味の素の製造を再開した[28]。輸出一本で出発した事業は、1949年11月に東京と大阪の市内で終戦後初めて家庭向けの配給が認められ[29]、国内販売への道が開いた。設備資金を賄うため増資を重ね、資本金は1948年11月の9,500万円から1954年5月には16億4,000万円へ増えた[30]。1949年5月には株式を上場し[31]、輸出と国内の販売量はともに戦前の最高時の二倍に達した[32]。1954年7月から12月までの製品売上高は100億9,000万円に達し[33]、その内訳は味の素51%、味液17%、大豆油11%、脱脂大豆9%、澱粉7%、肥料2%、その他3%[34]だった。
1955年前後の味の素は、川崎、横浜、佐賀の三工場を持つ会社だった[35]。主力の川崎工場は味の素を月産600トン作れる設備を備え[36]、澱粉、味液、有機肥料のほか、塩酸を自給するための塩の電解部門と、渇水期に備えた自家発電設備を持っていた。横浜工場は大豆油と脱脂大豆を、佐賀工場はテックスとカラメルを生産した[37]。澱粉は紡績会社の糊付け用と食糧用に、味液は醤油の原料に回り、大豆油は味の素の天ぷら油として売られた[38]。うま味調味料の抽出法が副産物の量を決め、その副産物が澱粉・味液・油脂の各部門を養う構造だった[39]。
1956年、協和発酵工業が直接発酵法によるグルタミン酸ソーダの製造を発表した[40]。直接発酵法はグルタミン酸ソーダの生産を副産物の制約から解き放ち、自由な増産を可能にする製法[41]だった。抽出法で優位を保ってきた味の素は斜陽会社とみなされ、株価が下落した[42]。味の素は技術の対立を訴訟に持ち込まず、1956年11月に協和発酵工業とグルタミン酸ソーダの全量買取契約を結んで[43]市場の混乱を避けた。この年の1月には輸液用の必須アミノ酸を発売してアミノ酸事業に入り[44]、年内にニューヨーク味の素社を設立して神奈川県に中央研究所を置いた[45]。
味の素自身も製法の転換を進め、1940年代末から1950年代初めにかけて発酵法と合成法の研究に着手した[46]。1962年に佐賀県へ発酵法の九州工場を、翌1963年に四日市へ合成法の東海工場を建設して[47]操業を始めた。抽出法で製造してきた川崎工場も発酵法へ切り替え[48]、グルタミン酸ソーダの全量を新しい技術で作る体制に移った。抽出、発酵、合成という三つの基礎技術がそろい[49]、目的に応じてそれらを使い分けられた。製法の転換で『味の素』は副産物の市場動向に縛られずに増産でき、油脂部門は独立した一部門として食用油の生産に向かい、澱粉部門は小麦グルテンからコーンスターチへ原料を変えた[50]。
1964年秋に実施した『味の素』とハイミーの1割値下げは、戦後13回目の値下げだった[51]。渡辺文蔵常務は合理化の成果として値下げができると説明し、償却を含めて年約50億円ある資金を合理化に振り向ける[52]考えを示した。経営陣は『課せられた責務は、単体的であった味の素を、総合食品会社の形態に変えることである』[引用元]と述べ、単品の専業から脱する方針を掲げた。多角化を促したのは技術の変化だけではなく、『販売店の扱い商品を多くしないと不利になるから、抱き合わせ商品が必要となってくる』[引用元]という販路側の要請でもあった。
1963年3月、米コーンプロダクツ社と提携し、合弁会社のクノール食品株式会社が発足した[53]。ヨーロッパで最も売れていたクノールスープの基本技術に日本の味を加え[54]、スープを軸に加工食品市場へ入った。1968年3月には京浜地区でマヨネーズの販売を始め、1969年3月から全国一斉発売に移った[55]。マヨネーズの原料のうち、油は自社の油脂部門が、調味料は本業が、卵は関係会社の飼料会社が供給できた[56]。1966年には、加工食品ほどスーパーマーケットへの適合度が高いという調査を踏まえ、特約店経由の販売を保ちながら大手スーパーと直接取引する経路を並行させた[57]。多品目化には、系列の問屋を強くし、末端の小売とくに大手スーパーとの結びつきを強めて流通のパイプを太くする狙いがあり[58]、すでに市場ができあがった分野へ後発の不利を承知で挑んだ[59]。
海外では東南アジアから工場を建て、1958年5月にユニオンケミカルズ社をフィリピンに[60]、1960年4月にタイ味の素社を、1961年7月にマラヤ味の素社を設立した[61]。さらに1968年2月にペルー味の素社、1969年7月にインドネシア味の素社、1974年12月に味の素インテルアメリカーナ社を加えた[62]。1977年には東南アジアに4工場、南米に2工場、欧州に1工場を持つ多国籍企業[63]になった。1977年3月期の海外からの受取配当金は約20億円、利子とロイヤリティ収入が5億円[64]で、収入の総計は約25億円に達し、経常利益117億円の21.4%を占めた[65]。海外投融資利回りは15.1%で[66]、本田技研工業の1.8%、東レの1.1%を上回った。
進出先の政府の政策[67]も味の素に有利に働いた。フィリピンのユニオン・ケミカル社は設備機械の輸入税減免などの優遇を受けて1962年9月に工場を完成させ[68]、操業開始の直後の1963年1月にフィリピン政府がグルタミン酸ソーダの関税を大幅に引き上げた[69]。ペルー味の素社が1969年2月に操業を始めると、同年8月にペルー政府はグルタミン酸の輸入禁止令を出した[70]。一方、イタリア政府機関との合弁だった味の素インスッドは経営が悪化し、1977年4月に工場の生産打ち切りを決め、直接の損失は11億7,000万円にのぼった[71]。
売上の構成は10年あまりで入れ替わり、1965年度の売上高544億円のうち[72]、『味の素』を中心とする調味料が282億円で52%を占め、油脂が17%、飼料が13%、加工食品はわずか3%だった[73]。1976年度には売上高3,083億円のうち加工食品が850億円で28%を占めて首位に立ち[74]、調味料と油脂がそれぞれ23%、飼料が13%、アミノ酸が7%と続いた。1970年11月には『ほんだし』を発売し[75]、同年12月には味の素レストラン食品株式会社を設立して冷凍食品事業に入った[76]。1973年8月には米ゼネラルフーヅ社と提携して味の素ゼネラルフーヅを発足させ[77]、コーヒー市場へ加わった。単品の専業から総合食品会社への移行は、1973年には『脱調味料』路線と呼ばれる加速の段階に入った[78]。1983年には主力の化学調味料の国内シェア6割弱を土台に[79]、スープ、マヨネーズ、冷凍食品など周辺食品へ広げて総合食品会社化を果たした。
1986年1月14日、鈴木忠雄副社長が米国のハーバード・ビジネス・スクールの教壇に立ち[80]、味の素の合弁事業を説明した。『海外企業は技術力、味の素はマーケティング力とお互いに足りない機能を補い、成果を平等に分配すれば、双方とも満足できるはず』[引用元](日経ビジネス 1986/4/28)と語り、折半出資を合弁の原則として掲げた[81]。1980年には仏ジェルヴェ・ダノン社と組んで味の素ダノンを設立し[82]、乳製品へ加わった。1984年度の加工食品部門の売上1,646億円のうち75%にあたる1,235億円が合弁会社の製品[83]で、シェアはスープ類95%、マヨネーズ25%、マーガリン18%、コーヒー20%[84]を占めた。もっとも、1965年当時と比べた1983年の利益成長は、有力食品会社のなかで最下位級にとどまった[85]。
1981年9月には『エレンタール』を発売して医薬品事業に[86]、1982年5月にはアスパルテームの輸出を始めて甘味料事業に入り、1987年6月にクノール食品を子会社とし、1989年9月にはベルギーの化学会社オムニケム社の全株式を取得した[87]。その一方で品目は増え続け、1972年に参入した冷凍食品では家庭用だけで1985年の200品目が1988年に330品目へ増えた[88]。年に約250の新製品を出した結果、商品は4,000品目に膨らんだ[89]。1989年8月、鳥羽董社長は販売企画部の近藤郁雄部長に絞り込み候補の洗い出しを命じ[90]、売上に貢献していない800品目を抜き出しても売上高への影響は0.4%にとどまる[91]と分かった。1990年4月には1,200品目を削って半分にしても減少は4%で済む[92]と判明し、即席スープでトップシェアの『クノール』全81品目のうち38品目を落として[93]、1990年9月までに800品目の生産を中止した。
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|---|---|---|---|---|
| 1888〜1955年家業のヨード製造から味の素の発売と川崎工場の量産まで | 家業でヨード製造を開始 | ★ | ||
| 味の素の販売開始 | ★★ | |||
| 鈴木商店の発足 | ★ | |||
| 川崎工場の新設 | ★ | |||
| 東洋紡績に澱粉糊の納入を開始 | ★ | |||
| 全国に特約店網を整備 | ★ | |||
| 「味の素本舗鈴木商店」に商号変更 | ★ | |||
| 食品事業で多角化 | ★ | |||
| 味の素に商号変更 | ★ | |||
| 道面豊信 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 1956〜1990年直接発酵法の衝撃から総合食品会社への転換まで | 道面豊信 | アミノ酸事業に参入 | ★ | |
| 道面豊信 | うま味調味料の単品依存から総合食品企業への転換 1956年、協和発酵工業が直接発酵法によるグルタミン酸ナトリウム(MSG)の製造を発表し、抽出法で守ってきた味の素の製法上の優位が揺らいだ。味の素は技術対立を訴訟に持ち込まず、協和発酵のMSGを全量買い取る契約で市場の混乱を避けつつ、うま味調味料の単品依存を脱し、総合食品企業への転換を選んだ。1963年のクノール食品発足を最初の具体化とし、以後およそ四半世紀をかけて固まった面的な戦略である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 道面豊信 | 海外事業を本格化 | ★★ | ||
| 道面豊信 | 四日市工場を新設 | ★ | ||
| 道面豊信 | コーンプロダクツ社と提携 | ★★ | ||
| 鈴木恭二 | 化成品部を発足 | ★ | ||
| 鈴木恭二 | 冷凍食品事業に参入 | ★ | ||
| 渡辺文蔵 | ゼネラルフーズと提携 | ★ | ||
| 渡辺文蔵 | ジェルべ・ダノンと提携 | ★ | ||
| 歌田勝弘 | 医薬品事業に参入 | ★ | ||
| 歌田勝弘 | 鹿島工場を新設 | ★ | ||
| 鳥羽董 | 欧州・オニケム社を買収 | ★ | ||
| 鳥羽董 | カルピス食品工業と提携 | ★ | ||
| 1991〜2002年総合化の限界と不祥事、集権化による事業の切り出し | 稲森俊介 | 肝疾患用分岐鎖アミノ酸製剤を発売 | ★★ | |
| 稲森俊介 | 総会屋への利益供与(商法違反) | ★ | ||
| 江頭邦雄 | 半導体パッケージ材ABFの育成——食品会社が世界シェア95%を握るまで 1998年9月、味の素は半導体パッケージ基板用の絶縁材料ABF(味の素ビルドアップフィルム)を手がける専門子会社・味の素ファインテクノを設立し、食品事業の判断サイクルから切り離してこの新規事業に資源を集中させた。江頭邦雄社長の『技術立社』路線のもとで、うま味調味料の製造で培ったアミノ酸・樹脂の技術を電子材料へ転用した多角化であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 江頭邦雄 | グループ企業の整理統合を開始 | ★ | ||
| 江頭邦雄 | 海外で飼料用アミノ酸を増産 | ★ | ||
| 2003〜2026年規模の追求から資本効率へ、半導体材料の再評価まで | 江頭邦雄 | 油脂事業をJ-オイルミルズに移管 | ★★ | |
| 江頭邦雄 | 欧州・オルサン社を買収 | ★ | ||
| 江頭邦雄 | カンパニー制を再編 | ★ | ||
| 伊藤雅俊 | 飼料用アミノ酸事業の再編(収益低下) | ★ | ||
| 伊藤雅俊 | ウィンザー・クオリティHEを買収 | ★ | ||
| 西井孝明 | ROICを軸にした資本効率経営への転換と事業ポートフォリオの選択と集中 2019年、味の素が西井孝明社長のもとで、投下資本利益率(ROIC)を中核の経営指標に据え、規模の追求から資本効率の重視へと経営の方針を切り替えた判断。2019年3月期の約312億円の減損を機に、六つの重点事業への集中と非重点事業のアセット圧縮、政策保有株の売却、黒字下の希望退職を一体で進めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 西井孝明 | 希望退職者を募集 | ★★ | ||
| 藤江太郎 | 従来型の中期経営計画を廃止し「中期ASV経営」へ転換 2023年2月28日、味の素が藤江太郎社長のもとで、3年分の数値を積み上げる従来型の中期経営計画を期中で廃止し、2030年の『ありたい姿』から挑戦的な『ASV指標』をバックキャストして掲げる『中期ASV経営』へ転換した経営判断。同時に2030年までのロードマップと志(パーパス)の進化を示した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 藤江太郎 | 相次ぐ価格改定と「バリュープライシング」への転換 2022年から2023年にかけて、味の素は原材料・エネルギー・物流費の高騰を受け、家庭用調味料や加工食品を中心に出荷価格を相次いで改定した。2022年4月に就任した藤江太郎社長は、これを単なるコスト転嫁ではなく商品価値に見合わせる『バリュープライシング』と位置づけ、国内外で価格改定を進めた。改定効果の浸透により、2023年3月期は売上高・純利益がともに過去最高を更新した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 中村茂雄 | 英パリサーの「価値向上プラン」とABF価値顕在化の要求 2026年3月31日、英アクティビストファンドのパリサー・キャピタルが味の素株の取得を明らかにし、『価値向上プラン』を公表した。半導体パッケージ基板用絶縁材ABF(味の素ビルドアップフィルム)の価格を30%超引き上げ、冷凍食品事業を再編し、電子材料を独立セグメントとして開示すれば、株価に70%を大きく上回る上昇余地があると訴えた。本稿の時点で決着していない。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(味の素)