重要な意思決定
1888

家業でヨード製造を開始

背景

初代三郎助の死去と相場失敗が鈴木家をヨード製造に向かわせる

味の素の事業的起点は1909年の調味料販売ではなく、1888年に神奈川県葉山町堀ノ内で始まったヨード製造にあった。鈴木三郎助(初代)は葉山で日用品店を営んでいたが、1875年にチフスで死去し、妻の鈴木ナカが三人の子を育てながら家計を支える立場に置かれた。さらに二代目三郎助が相場取引に失敗したことで、家業の収入構造は一層不安定化していた。

当時、ヨードは医薬・消毒用途の原料として需要があり、海藻を原料とする製造は千葉・神奈川・静岡・三重の沿岸地域で漁民の副業として成立していた。葉山も同様の条件を備えており、鈴木ナカは自宅で実行可能な生産形態としてヨード製造を選択した。家計危機への対応が、後に味の素へとつながる事業の出発点となった。

決断

親子分業と産学連携により家内工業を製薬事業へ展開

ヨード製造は、鈴木ナカが製造を担い、二代目三郎助が仕入と販売を担当する分業体制で開始された。技術面では、大日本製薬の技師長であり東京帝国大学教授でもあった長井長義が助言を行った。地方の家内工業に大学研究者の知見が関与した点は当時としては異例であり、鈴木家は製造技術の水準を引き上げることが可能となった。

1892年には二代目三郎助がヨードの二次製品であるヨードカリやヨードホルムの製造に着手し、自宅の畑に約200坪の工場を新設して鈴木製薬所と命名した。同時期に弟の忠治が横浜商業学校卒業後に参画し、兄が販売、弟が製造を担う体制が確立された。1907年には合資会社鈴木製薬所が設立された。

結果

製薬事業の資金基盤が味の素事業の立ち上げを下支え

合資会社化によりヨード製薬事業は組織的な運営体制へ移行した。販売先は薬品問屋であり、原料の海藻は三浦半島や伊勢湾などから調達された。事業規模は限定的であったが、安定した収益を確保できる製造販売体制が形成されていた。

この製薬事業は、1909年以降の味の素事業立ち上げ期において資金面を補完する役割を果たした。グルタミン酸塩調味料の工業化には多額の設備投資を要したが、ヨード製薬事業が生む収益がその一部を支えた。家計再建を目的として始まった家内工業が、製薬事業を経て、後に調味料事業の基盤となる資金と経営経験を鈴木家に蓄積させる結果となった。