川崎工場の新設
逗子工場の環境問題と用地制約が生産拠点の見直しを迫る
1910年代に入り「味の素」の販売量は拡大していたが、製造工程で発生する塩酸ガスや廃液が逗子工場周辺の農地や住民生活に影響を及ぼしていた。逗子工場は住宅地や農地が近接する地域に立地しており、生産量の増加に比例して苦情が表面化し、操業の継続そのものが経営上の論点となっていた。
加えて逗子工場は用地の制約から設備拡張が難しく、売上成長に対応した生産能力の引き上げには限界があった。製法の改良によって塩酸ガス問題を解消する見通しは当時立っておらず、環境問題と生産能力の双方が同時に顕在化した局面において、生産拠点そのものの見直しが不可避となっていた。
工業地帯として開発途上の川崎への生産拠点移転を選択
鈴木商店は逗子工場の閉鎖と新工場の建設を同時に進める判断を行った。移転先の選定では、住居が少ない地域であることに加え、大量の工業用水を確保できる点や廃液処理に対応可能な地理条件が重視された。多摩川下流に位置する川崎は当時、工業地帯としての開発途上にあり、広い用地の確保が可能であった。
1914年9月、川崎工場の新設が決定された。設備新設に伴う多額の投下資本を受け入れるリスクテイクを含む判断であったが、増収局面にある「味の素」の供給を維持し生産を集約する狙いがあった。環境問題の根本的解決ではなく、立地変更による操業継続を優先した選択であった。
生産集約は実現したが塩酸ガス問題の技術的解消には20年を要す
川崎工場の稼働により「味の素」の生産は同地へ集約され、生産量の拡大に対応できる体制が整った。供給面での制約は緩和され、その後の販売拡大を支える生産基盤が形成された。
一方、川崎工場においても塩酸ガスの問題は即座には解消されなかった。工業利用を想定した立地であったため操業は継続できたが、周辺からの苦情は発生し続けた。製法そのものの見直しが進み塩酸ガス問題が技術的に克服されるのは1935年の製法改善を待つことになる。川崎工場は、立地による対応と技術改良が時間差で重なった生産拠点であった。