上村工業顧客の海外移転に追随した10か国への拠点設置と、地域完結型の営業体制の構築
国内に残って取引ごと失うか、移転先へ会社を置くか——為替に振られない営業体制をどう組むか
- 概要
- 1985年のプラザ合意を境に自動車・家電の顧客が生産を海外へ移したのに対し、上村工業が国内にとどまらず顧客の移転先へ会社を置き続けた経営判断。1985年12月の米国子会社を皮切りに、2012年のインドネシアまでに拠点は10か国へ広がった。
- 背景
- 表面処理用の薬品は、めっき液・機械・液管理装置を組で納め、顧客の工程のそばで不具合の原因を切り分ける商売である。顧客が生産を海外へ移せば、国内に残った供給者は売上の一部ではなく取引そのものを失う。
- 内容
- 米国(1985年12月)を最初に、香港・台湾・タイ・中国深圳・シンガポール・マレーシアへ現地法人を置いた。単なる輸出拠点ではなく、為替変動の影響を受けない地域完結型の営業展開を目標に据えた点に、この判断の中身がある。
- 含意
- 米国子会社を通じてインテル社やアムコア社と直接情報交換できる体制を、上村寛也社長は自社の大きな財産と述べた。2026年3月期の薬品売上558億円のうち海外は6割を超え、台湾と中国の2地域に海外分の8割近くが集まる。
追随の中身を決めたのは誰か
顧客に付いていく、という言い方は受け身に聞こえる。実際、上村工業は自ら市場を選んだのではなく、自動車や家電のメーカーが出ていった先へ会社を置いた。ただ、追随の中身を決めたのは同社であった。上村寛也社長が掲げた地域完結型は、日本から薬品を送って売る輸出の延長ではなく、販売と技術サービスをその地域の中で完結させる形である。為替の振れから商売を切り離す目的をそこに置いた点で、この判断は移動の後追いにとどまらなかったとみることができる。
地域完結型は、顧客が特定の地域に集まり続けることを前提にしている。薬品売上が台湾と中国の二つで海外分の8割近くに寄っている現状は、集積の恩恵であると同時に、集積が動いたときの弱さでもある。40年前に追随した相手が自動車と家電で、いまの相手が半導体パッケージであることを思えば、顧客の顔ぶれも置き場所も入れ替わってきた。地域完結型が強みであり続けるかどうかは、次にどこへ工程が集まるかにかかっているといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
顧客の工程のそばでしか成り立たない商売
上村工業が扱う表面処理用の薬品は、納めて終わる商品ではなかった。めっき液は使ううちに汚れて組成が変わり、仕上がりが崩れたときには、原因が薬品にあるのか、めっき機械にあるのか、液を管理する装置にあるのかを切り分ける必要がある。同社は薬品・機械・液管理装置の三つをすべて手がけ、顧客の工程のそばで原因を突き止める役回りを引き受けてきた。上村寛也社長は、ハードディスクのめっきに参入した十数社のうち同社が残った理由をここに求めている[1]。
原因を突き止める役回りは、人を顧客の近くに置かなければ果たせない。1997年の時点で、同社は枚方の中央研究所に80名の所員を抱え、東京・大阪・名古屋の各拠点にも10名ほどの営業技術担当者を配置し、地域ごとの要望に応じた改良や開発にもあたらせた。社員総数330人のうち約3分の1が何らかの形で研究開発に関わる構成である。国内に配したこの技術サービスの体制は、顧客の工場が国内にあることを前提としていた[2]。
プラザ合意で動き出した顧客
その前提は1985年のプラザ合意で崩れた。円高が定着すると、同社の主要な顧客であった自動車と家電のメーカーが、次々に生産を海外へ移した。めっき工程は顧客の工場に付いて動くため、工場が出ていけば薬品の商売も一緒に消える。国内にとどまるかぎり、失うのは売上の一部ではなく取引そのものであった。上村寛也社長は後年、顧客が次々に海外へ出ていったので、その海外展開に付いていくことにしたと説明している[3]。
当時の上村工業に、顧客を追って海外へ会社を構えた経験はなかった。1972年にフィリピンの代理店と合弁で油性研摩剤の現地製造に乗り出し、1977年には韓国の企業へ光沢剤の製造技術を供与したが、どちらも技術を売る取引であって、顧客の工場のそばに営業と技術サービスを置く話ではない。売上高は1982年11月期で約131億円だった[4][5]。
決断
移転先へ一社ずつ置く
最初の拠点は米国に置いた。1985年12月、上村工業はロサンゼルスにウエムラ・インターナショナル・コーポレーションを設立した。プラザ合意の3か月後にあたる。翌1986年2月には香港に合弁の上村旭光有限公司を設け、1987年6月に台湾上村股份有限公司、同年12月にタイのサムハイテックス、1988年3月には中国深圳の南山上村旭光有限公司と続いた。2年余りで5つの国と地域に会社が並んだ[6]。
拠点はその後も顧客の移動に合わせて増えた。1992年5月にシンガポール、同年12月には米国の子会社から営業を譲り受ける形で新会社を置いた。1996年7月に設立したウエムラ・マレーシアは、ハードディスクの顧客に追随するためのもので、翌1997年12月に生産を始めた。上村寛也社長は、アジア通貨危機で現地通貨が下落する最中の講演で、加工する現場としてマレーシアを中心とするアジアを中長期に重要な地域と位置づけた[7][8]。
地域完結型という設計
並べた拠点をどう使うかについて、同社は輸出の窓口とは別の位置づけを与えた。1997年12月、大阪証券取引所二部への上場の翌月に大阪で講演した上村寛也社長は、為替変動の影響を受けない地域完結型の営業展開を目指して努力していると述べた。日本で作った薬品を送って売るのであれば、円高はそのまま現地での値上がりに跳ね返る。追随のねらいは、顧客の近くにいることと、為替の振れから商売を切り離すことの二つに置かれた[9]。
米国では、顧客との距離の近さが別の効き方をした。上村寛也社長は、米国子会社を通じてMPUを手がけるインテル社、IBMの子会社、周辺の集積回路を扱うアムコア社と直接情報交換できる体制を作れたことを、自社の大きな財産だと述べた。当時の同社はハードディスク用の無電解ニッケルめっき液で国内シェア8割を占めていたが、ICパッケージ向けの立ち上がりが想定より早く、事業計画を上方修正していた。米国進出が成長に良い刺激を与えたという見方も、社長は同じ講演で示した[10][11]。
結果
10か国に広がった拠点と、海外へ移った売上
2000年代に入っても拠点は増えた。2002年4月に中国上海、2010年7月に韓国、2012年8月にインドネシアへ現地法人を置き、海外子会社は10社になった。2026年3月期の連結は日本の1社と海外の10社で構成され、日本が4月から3月、海外の10社が1月から12月と、会計期間の異なる会社を束ねる構成となった。顧客の移転先に会社を一つずつ置く作法を、27年にわたって続けた結果である[12][13]。
売上の出どころは、日本の外へ移った。2026年3月期の薬品売上558億円の内訳は、日本206.8億円、中国138.5億円、台湾137.0億円、韓国31.0億円、北米22.6億円、ASEAN22.5億円で、海外が6割を超える。連結売上高は917億円、営業利益は213億円に達した。1997年の講演で上村寛也社長が5年後の目標に掲げた連結売上高500億円には、年数こそかかったものの、海外の伸びが届かせた[14][15]。
入れ替わった顧客と、集積への依存
付いていった先の顧客は、同じ顔ぶれのままではなかった。追随の発端は自動車と家電のメーカーであったが、1997年には主力がハードディスクとICパッケージへ移り、2026年3月期には半導体パッケージ基板向けを中心とするウェハー・パッケージ関連が薬品売上の79.6%を占める。生成AI用サーバー向けの需要がこれを押し上げた。米国で半導体の顧客と直接やり取りする体制は、追随の産物として残っていた[16]。
一方で、この体制は顧客の集積のうえに成り立つ。2026年3月期の薬品売上は台湾137.0億円、中国138.5億円で、この二つだけで海外分の8割近くに達する。半導体パッケージ基板の生産が東アジアに集まっていることの裏返しである。地域完結型は、その地域に顧客が居続けるかぎり効率よく働く仕組みであり、集積が動けば拠点の配置も組み替えを迫られる[17]。
- 証券アナリストジャーナル 1998年1月号「上村工業 上村寛也社長講演」
- 上村工業 有価証券報告書【沿革】
- 上村工業 有価証券報告書(2026年3月期・連結)
- 上村工業 2026年3月期 決算説明資料
- 135年のあゆみ 金属表面技術の発展とともに(上村工業, 1983年)