ヒロセ電機米国現地法人の設立から始めた海外拠点網の構築
顧客が海外へ移るとき、コネクタ専業はどこまで追いかけたか——販売から生産へ広げた30年
- 概要
- 1980年9月に米国現地法人ヒロセエレクトリック(U.S.A.),INC.を設立し、以後30年余りにわたって韓国・欧州・東南アジア・中国・インドへ拠点を継ぎ足していった一連の判断。単年の出来事ではなく、1980年代から2010年代にかけて面として固まった海外戦略にあたる。
- 背景
- 1972年5月期の同社は国内販売が98.7%、輸出は1.3%にとどまり、海外は代理店任せであった。国内の生産は東北へ分散させて増強していたが、取引先である電機セットメーカーの生産が海外へ移るにつれ、部品メーカーも追随を迫られた。
- 内容
- 1980年の米国を皮切りに、1985年に韓国(大徳産業との合弁)、1988年に西独と英国、1989年にマレーシア、1991年に台湾、1995年にインドネシア、2000年に中国・東莞、2003年にオランダの欧州統括会社、2010年にシンガポール、2016年にインドと拠点を置いた。販売会社が先行し、生産拠点が後を追う順序であった。
- 含意
- 国内で高収益を支えていたのは東北の協力工場に量産を委ねる外注体制であり、その仕組みは海外へそのまま移せなかった。マレーシアでは国内とは逆に自動組立ラインを敷いて一貫生産する形をとった。2015年3月期には海外売上高比率が約7割に達している。
追いかける側の拠点網
ヒロセ電機の海外進出には、自社の市場を海外に作りにいくという趣きが薄い。出ていく理由はいつも取引先の側にあり、セットメーカーが移った先に販売会社を置き、量産が移った先に工場を置いた。1980年の米国法人から2016年のインド法人まで、36年かけて置かれた拠点の並びは、日本の電機産業が生産をどこへ移したかの記録とほぼ重なる。追いかける側に徹したからこそ、進出先の選定に迷いが少なかったとみられる。
一方で、国内の高い利益率を生んでいた協力工場の網は、そのまま海外へは移らなかった。マレーシアでは自動化ラインと約400人の直接雇用という、宮古とは正反対の作り方を選んでいる。海外売上高比率が約7割に達した2015年になっても、有形固定資産は日本207億3,500万円に対しアジア151億100万円と、有形固定資産の過半は国内に残った。売る場所は世界へ広がり、儲け方の仕組みは東北に据え置かれたまま今日に至っている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
輸出1.3%の会社
東証二部へ上場した当時のヒロセ電機は、ほぼ国内だけで商売をしていた。1972年5月期の地域別販売実績は国内が98.7%、輸出は1.3%で、しかも国内販売の88.7%は関東地区が占めていた。英国・イタリア・スイス・イスラエル・スウェーデンに海外代理店を置いて10数か国へ輸出してはいたが、金額はごくわずかであった。自社の看板を掲げた海外の会社は、まだ一つもなかった[1][2]。
1970年代の増強は、もっぱら国内へ向いていた。1974年3月に岩手県宮古市へ東北ヒロセ電機を設立し、多極コネクタと絶縁物、金型の製造を担わせる。1982年6月には福島県郡山市に郡山ヒロセ電機を設けた。1980年5月期の単独売上高は109億8,400万円・経常利益22億2,300万円で、上場時の3倍を超える規模に育っていたが、その供給力は東北に集まっていた[3][4]。
セットメーカーが出れば部品も出る
海外へ出る理由を、酒井秀樹社長は取引構造の側から説明していた。1996年の取材では「セットメーカーが海外に出れば、部品メーカーも出ざるを得ない」と述べ、現地では言葉も文化も習慣も宗教も商習慣も異なるため、それを理解できる人材の確保が最大の要点になると語っている。成長産業とされる電子部品でも日本の市場はこれ以上広がらないという見立てが、その前提にあった[5]。
追随は販売だけでは済まなかった。1995年時点で同社の海外生産比率は約15%にとどまり、セットメーカーの海外生産拡大に合わせて比率を引き上げることが課題として挙げられている。1989年に設けたマレーシアの海外主力生産拠点をどこまで太らせられるかが、当時の焦点であった[6]。
決断
販売会社を先に置く
1980年9月、ヒロセ電機は米国に現地法人ヒロセエレクトリック(U.S.A.),INC.を設立した。同社にとって初の海外法人であり、機能は販売であった。以後、1985年10月に韓国の大徳産業との合弁でヒロセコリアを、1988年2月に西独へヒロセエレクトリックGmbH、同年4月に英国へヒロセエレクトリックUK LTD.を設けている。米州と欧州はまず売る会社から入った[7]。
生産が海外へ出たのは、その後であった。1989年8月にマレーシアへヒロセエレクトリックマレーシアSdn.Bhd.を設け、1991年3月に台湾の台廣電子股份有限公司、1995年12月にP.T.ヒロセエレクトリックインドネシアが続く。1984年11月に東証一部へ昇格した同社は、1980年代を通じて売上高を109億円から260億円台へ伸ばしており、その拡大と海外法人の増設が並走した[8][9]。
外注体制は持ち出せない
国内でヒロセ電機の収益を支えていたのは、量産の組み立てを周辺の協力工場へ丸ごと出す仕組みであった。主力の宮古工場には組み立てラインが一本もなく、約29社の外注先はいずれもヒロセ電機からの仕事が100%を占めるサテライト工場であった。この体制は海外へ持ち出せなかった。1995年のマレーシア工場は一部の組み立てを除いて外注生産を敷けず、国内とは逆に自動組立ラインを導入し、約400人を採用して部品加工から組み立てまでを一貫生産していた[10]。
障害は設備ではなく関係のほうにあった。酒井社長は、外注先には技術力があるだけでは足りず、急な受注の変動に応じ、時には休みを返上して働いてくれる密接な関係が要ると述べ、言葉も生活習慣も労働への価値観も異なるマレーシアでそうした相手を発掘し育てられるかが今後の収益力を左右すると語っている。海外へ移せるのは工場であって、協力工場との間合いではなかった[11]。
結果
4極の販売網と海外売上7割
拠点の増設は2000年代も続いた。1999年11月に香港、2000年10月に中国・東莞、2003年4月に上海の販売子会社、同年10月にオランダへ欧州統括会社ヒロセエレクトリックヨーロッパB.V.、2007年7月に中国・蘇州、2010年7月にシンガポールの東南アジア統括拠点、2016年12月にインドと続く。同社はこれを日本・アジア・アメリカ・ヨーロッパの4極を結ぶ販売ネットワークと呼んでいる[12]。
数字の上では、海外が本体を追い越した。2015年3月期の連結売上高1,257億2,600万円のうち、顧客の所在地で見たアジアは747億4,300万円と6割近くを占め、日本は351億3,100万円にとどまる。北米70億3,500万円、ヨーロッパ69億4,700万円。同社は有価証券報告書で海外売上高比率が約7割に達したと記し、為替変動の影響を抑えるため海外売上と海外生産の比率を均衡させる取り組みを挙げている[13][14]。
現地で決めるようになった設計
拠点網の意味は、売る場所の広がりだけにとどまらなかった。2018年末、中国の車載向けバッテリー大手へ新型コネクタを提案したヒロセ電機は、その場で却下されている。板で金具の間を仕切る案が競合と同じであり、幅が広がってバッテリーの体積を削るためであった。設計担当者は翌日の再訪を取り付け、現地販売代理店の一室で日本から連れてきた技術者数人と代替案の検討に入った[15]。
一晩で挿し込みの凹凸を逆転させる案をまとめ、約8時間で図面を仕上げ、日本の製造担当へ量産の可否を問い合わせて午前3時に準備を終えた。翌朝の再提案で採用が決まり、完成した「ZH05シリーズ」は日系自動車メーカーにも広がった。同製品を含む車載向けの売上高は、現在では全体の約3割を占める。1980年に販売会社から始まった海外の足場が、設計と量産の判断を現地で回す場になっている[16]。
- 証券(東京証券取引所総務部)1972年12月号(24巻12号)
- 発明(発明推進協会)1996年9月号(93巻9号)
- 日経ビジネス 1995年11月6日号「ヒロセ電機 新製品コネクターに集中 組み立て外注で効率生産」
- 週刊東洋経済 2025年7月19日号「【第1特集 電子部品、最強烈伝。】 三位一体経営×ヒロセ電機 製造、営業、設計の強固な結束 顧客を「待ち伏せ」て驚異の利益率20%超」
- ヒロセ電機 有価証券報告書【沿革】
- ヒロセ電機 有価証券報告書(2015年3月期・連結)
- ヒロセ電機 会社年鑑(1986年版)掲載の単独業績
- ヒロセ電機 公式サイト「グローバルネットワーク」(https://www.hirose.com/corporate/ja/about/global_network/)