ヒロセ電機外資と組まない純国産コネクタ専業のまま東証二部へ上場

銀行借入を続けるか、米国大手と組んで資本と技術を仰ぐか——コネクタ業界で唯一の純国産メーカーが選んだ資金の出どころ

時期 1972年12月
意思決定者(推定) 酒井秀樹 社長
論点 資金調達と技術の独立
概要
1972年12月、ヒロセ電機が東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した経営判断。上場の意思は1970年に固まり、創業者の広瀬銈三氏の病中に社長を代行していた酒井秀樹氏が主導した。創業から35年、株式会社への改組から24年が経っていた。
背景
同社は1959年に防衛庁および米軍規格の認定を受け、1965年にはミニコン1300シリーズが日本電信電話公社のボタン電話用コネクタへ採用されて量産体制を得ていた。ただし技術で上位に食い込む一方、設備と運転資金は銀行借入に頼っていた。
内容
上場直前の1972年5月期は売上高30億400万円・経常利益4億4,300万円で、売上高経常利益率14.9%。コネクタ業界での販売高は第2位・シェア15.9%だったが、上位5社のうち同社を除く4社は米国大手との合弁会社か技術提携会社であった。
含意
資本は公開市場から、技術は自主開発から取るという組み合わせを選んだ。外資と組めば技術も販路も手早く整うが、製品仕様と価格の裁量は相手に移る。上場は資金の出どころを銀行から市場へ移すと同時に、純国産のまま残る条件でもあった。
筆者の見解

資本は市場から、技術は自前で

上場は、会社の資金の出どころを銀行から市場へ移す手続きにすぎない。ただヒロセ電機の場合、その手続きが技術の独立と結びついていた点に特徴がある。1972年の業界地図では上位5社のうち4社が米国大手との合弁か技術提携であり、資本と技術をまとめて外から入れるのが上位へ並ぶ標準的な道であった。同社は資本だけを公開市場から調達し、技術は自主開発で持ち続けた。両方を外から入れていれば、コネクタの仕様も価格も相手の都合に従わざるを得なかったとみられる。

皮肉なのは、公開しても手元の資金が潤沢にはならなかったことである。工場へ回す金を絞った結果として外注が広がり、それが設備投資と労務費を抱え込まない生産体制に育った。1995年3月期のヒロセ電機は売上高経常利益率19.2%で、電子部品主要30社平均の6.0%の3倍を超えていたが、その利益を生んでいたのは自社の設備ではなく岩手県宮古周辺の協力工場群であった。銀行に頭を下げたくないという1970年の一言が、上場と、工場を持たない生産の両方を連れてきた。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

コネクタ業界で唯一の純国産メーカー

ヒロセ電機は1948年10月に湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を始め、1959年には自社のコネクタが防衛庁および米軍規格の認定を受けた。1963年に独自開発した「ミニコン1300シリーズ」は欧米製と比べて遜色ないと評価され、1965年に日本電信電話公社のボタン電話用コネクタへ採用されて量産体制が整った。1966年から公社認定メーカー3社の一角として納入を始めると売上は伸び、1967年5月期には年間売上高10億円を超えた[1]

1972年5月期の時点で、コネクタメーカーは専業・兼業をあわせて約40社を数え、上位3社で販売高の52.0%を占める寡占であった。そのなかでヒロセ電機の販売高は業界第2位、シェアは15.9%。ただし上位5社のうち同社を除く4社は、いずれも米国の主要コネクタメーカーとの合弁会社か技術提携会社であり、自主技術だけで上位に並んだのは同社ひとつであった[2]

借入に頼る中小企業の資金繰り

1971年5月、創業者で初代社長の広瀬銈三氏が死去した。晩年の病の間に社長を代行していたのが酒井秀樹氏で、当時のヒロセ電機は売上高20億円ほどの中小企業にすぎず、酒井氏が会社の借金をかぶるほどの窮状にあったと、のちに副会長となる串田榮氏が証言している。技術で業界上位に食い込みながら、その技術を支える設備と運転資金は銀行に頼っていた[3]

同社の販売はユーザーへの直接受注が約90%を占め、受注から納入までの期間は通常およそ1か月であった。1972年5月期末には下丸子・菊名・大崎・湯河原の4工場で628人が働き、売上の94.9%をコネクタが占めていた。多品種を短い納期でさばく事業は金型と治工具、そして工場設備の絶えざる更新を求め、新製品の開発費と設備投資が同時にのしかかった[4]

決断

「銀行に頭下げんのはもう嫌だ」

公開の意思が固まったのは1970年であった。入社の翌年にあたるその年、串田榮氏は酒井氏から「銀行に頭下げんのはもう嫌だ。串田、急いで上場するぞ」と声をかけられ、驚いたという。1971年5月に広瀬銈三氏が死去して酒井氏が正式に社長となり、1972年12月、ヒロセ電機は東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した[5][6]

上場の直前にあたる1972年5月期は、売上高30億400万円・経常利益4億4,300万円で、売上高経常利益率は14.9%であった。前期からの需要減退で売上はわずかに減ったものの、利益率の高いボタン電話用コネクタが前期比15.8%増と伸び、丸形コネクタの加工を切削からダイキャストへ改めたことで原価率も下がっていた。公開は、業績が底を打った直後に実行された[7]

外資と組まずに資本だけを取る

当時のコネクタ業界で上位に立つには、米国大手との資本または技術の結びつきが近道であった。酒井氏は上場翌月の1973年1月19日、日本証券アナリスト協会の企業分析部会で講演し、業界の外資関係を示す表を掲げて、米国の1位から7位までの会社がすべて日本に入っており、日本側にも日本電気・古河電工・住友電工といった大企業が並んでいると説明している[8]

そのうえで酒井氏は「こういう大メーカーでも自主技術でコネクタを生産できない」と述べ、日本電気が子会社の日本航空電子工業を設立して技術を導入したのに対し、ヒロセ電機のほうがコネクタの納入率は高いと語った。外資と組めば技術も販路も手早く整うが、製品仕様と価格の裁量は相手へ移る。資本は公開市場から、技術は自主開発から取るという組み合わせを、同社は選んだ[9]

結果

公開資金と、資金不足が生んだ外注

上場の翌期にあたる1973年5月期の売上高は39億1,600万円・経常利益6億600万円へ伸び、1974年5月期には売上高56億2,300万円・経常利益10億7,900万円に達した。酒井氏は1973年1月の講演で、増える受注に応じるため菊名工場の建設と習志野生産技術研究所の生産ライン化を進めており、菊名工場の本格稼働は4月になると述べている。公開で得た資金は生産能力へ向かった[10][11]

もっとも成長は直線ではなかった。第一次石油危機の影響で1975年5月期の売上高は38億7,700万円へ落ち込み、経常利益も4億1,300万円まで減った。この時期、資金の乏しさは生産の形そのものを変えている。新製品の開発費は削れないため工場へ回す予算が絞られ、設備を更新できない工場は外注に頼った。1970年代から採り入れた組み立て外注方式が、のちに営業利益率20%台を支えるファブレス経営の原型となった[12][13][14]

出典・参考
  • 証券(東京証券取引所総務部)1972年12月号(24巻12号)
  • 証券アナリストジャーナル(日本証券アナリスト協会)1973年2月号(11巻2号)
  • 週刊東洋経済 2013年9月13日号「【特集 アップル再起動&電子部品サバイバル】 2 日本の部品の競争力 町工場の力引き出す達人 ヒロセ電機」
  • 日経ビジネス 1995年11月6日号「ヒロセ電機 新製品コネクターに集中 組み立て外注で効率生産」
  • ヒロセ電機 有価証券報告書【沿革】
  • ヒロセ電機 会社年鑑(1976年版)/会社年鑑(1986年版)掲載の単独業績

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