ダウコーニングとの合弁設立(1979年・信越化学工業の決断)更新:2026/08/04信越化学工業:業績の推移売上高(億円)経常利益率(%)データ出所共同出資で設立した半導体事業会社の、優先交渉権行使による全株取得1967年3月に米ダウコーニング社との共同出資で設立した信越半導体を、1979年にダウコーニング側からの合弁解消の申し入れを受け、社長の小田切新太郎氏が合弁契約の優先交渉権を行使して全株式を取得した経営判断。半導体シリコンの投資判断を単独で下せる体制が整い、海外拠点の設置と一貫工場の建設が続いた。何をなぜ決めたか:共同出資で設立した半導体事業会社の、優先交渉権行使による全株取得概要1967年3月に米ダウコーニング社との共同出資で設立した信越半導体を、1979年にダウコーニング側からの合弁解消の申し入れを受け、社長の小田切新太郎氏が合弁契約の優先交渉権を行使して全株式を取得した経営判断。半導体シリコンの投資判断を単独で下せる体制が整い、海外拠点の設置と一貫工場の建設が続いた。背景1960年6月に磯部工場でシリコーン工場の副産物から高純度シリコン"スーパー・シリコン"の製造を開始し、半導体材料に足を踏み入れた。ただし単結晶からウエハまでの量産は本体ではなく、1967年に米ダウコーニング社と共同出資で設けた信越半導体という関係会社に置かれ、設備を増強するたびに合弁相手の同意を要する構造となっていた。内容1979年に合弁相手が撤退を申し入れると、信越化学は契約に置いた優先交渉権を行使して全株式を取得した。塩ビの米国子会社シンテックで1976年に用いたのと同じ条項の行使であり、二大事業会社がいずれも同じ形で単独経営へ切り替わった。以後は同社の判断だけで増産と海外展開を決められるようになった。いつ何が起きたか10件筆者考察考察考察:分け合って始め、引き取って仕上げる1979年にダウコーニング社が抜けると言い出したとき、信越化学の手元には優先交渉権があった。合弁は事業を始めるための形にすぎず、終わり方まで契約に書き込んであったことになる。小田切新太郎社長にとっては、1976年のシンテックに続く二度目の行使であった。他社と分け合って始めた事業を、相手の退場と同時にすべて引き取る。半導体シリコンでも塩ビでも同じ設計が働いた点に、この会社の資本の扱い方が表れていると思われる。ただ、引き取った時点で首位が約束されていたわけではない。白河の一貫工場までに5年、300ミリの量産投資まで20年近くかかっており、その間に投じた設備の重さは、単独経営でなければ背負いきれなかったのだろう。しかも優先交渉権は、相手が去ると言い出すまで使えない受け身の権利にとどまる。合弁を選ぶ判断の質は、組む時点の条件より、解けるときにどう解けるかを先に書いておけたかで決まるといえる。Yutaka Sugiura, 2026年8月参考文献参考文献参考経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社, 1968年)『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)「信越化学工業」証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第4号(吉澤正明 常務取締役 講演要旨・1973年2月16日 日本証券アナリスト協会企業分析部会)信越化学工業100年史信越化学工業 有価証券報告書【沿革】次に読む決断同じ問い:新技術量産への設備投資1950年日本ゼオン日本ゼオン米グッドリッチとの合弁設立技術を持つ相手と組んで興した新会社による塩化ビニル樹脂の国産化1950年1980年メイコーメイコー多層プリント配線板へ進出両面板専業からの脱却と、より高度な製品分野への転換1980年1981年中部電力中部電力川越火力発電所の新設誘致を決議した町の埋立地への、超々臨界圧LNG火力2基の建設1981年1988年三洋証券三洋証券トレーディングセンター建設兜町から4キロ離れた塩浜への、売買部門の一フロア集約1988年1988年日本移動通信日本移動通信NTT大容量方式の採用開業時の無線方式へのTACS方式の不採用1988年信越化学工業の意思決定1976年信越化学工業信越化学工業シンテックの完全子会社化テキサス立地を軸とした、原料から塩ビまでの自前での押さえ込み1976年1990年信越化学工業信越化学工業シンテック方式の全社展開「フル生産、全量販売」を掲げた全社運営の切り替え1990年×出所