信越化学工業米ダウコーニング社との共同出資による信越半導体の設立と、優先交渉権を行使した全株式の取得
技術も販路も相手と分け合って始めた事業を、なぜ12年後に丸ごと引き取れたのか
- 概要
- 1967年3月に米ダウコーニング社との共同出資で設立した信越半導体を、1979年にダウコーニング側からの合弁解消の申し入れを受け、社長の小田切新太郎氏が合弁契約の優先交渉権を行使して全株式を取得した経営判断。半導体シリコンの投資判断を単独で下せる体制が整い、海外拠点の設置と一貫工場の建設が続いた。
- 背景
- 1960年6月に磯部工場でシリコーン工場の副産物から高純度シリコン「スーパー・シリコン」の製造を始め、半導体材料に足を踏み入れた。ただし単結晶からウエハまでの量産は本体ではなく、1967年に米ダウコーニング社と共同出資で設けた信越半導体という関係会社に置かれ、設備を増強するたびに合弁相手の同意を要する構造となっていた。
- 内容
- 1979年に合弁相手が撤退を申し入れると、信越化学は契約に置いた優先交渉権を行使して全株式を取得した。塩ビの米国子会社シンテックで1976年に用いたのと同じ条項の行使であり、二大事業会社がいずれも同じ形で単独経営へ切り替わった。以後は同社の判断だけで増産と海外展開を決められるようになった。
- 含意
- 単独経営となった信越半導体は1979年に米国、1984年に英国へ生産会社を置き、同年に白河で単結晶からウエハまでの一貫工場を完成させた。1990年代後半には業界標準が固まる前の300ミリウエハへ先行して量産投資を決め、2007年時点でシリコンウエハの世界首位に立っていた。
分け合って始め、引き取って仕上げる
1979年にダウコーニング社が抜けると言い出したとき、信越化学の手元には優先交渉権があった。合弁は事業を始めるための形にすぎず、終わり方まで契約に書き込んであったことになる。小田切新太郎社長にとっては、1976年のシンテックに続く二度目の行使であった。他社と分け合って始めた事業を、相手の退場と同時に丸ごと引き取る。半導体シリコンでも塩ビでも同じ設計が働いた点に、この会社の資本の扱い方が表れているとみることができる。
ただ、引き取った時点で首位が約束されていたわけではない。白河の一貫工場までに5年、300ミリの量産投資まで20年近くかかっており、その間に投じた設備の重さは、単独経営でなければ背負いきれなかったとみられる。しかも優先交渉権は、相手が去ると言い出すまで使えない受け身の権利にとどまる。合弁を選ぶ判断の質は、組む時点の条件より、解けるときにどう解けるかを先に書いておけたかで決まるといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
シリコーンの副産物から始めた半導体材料
半導体シリコンの出発点は、シリコーン工場の副産物であった。1960年、磯部工場で高純度シリコン「スーパー・シリコン」の企業化に踏み切っている。1953年のシリコーン、1957年の塩化ビニルに続いて、既にある設備と技術の隣にもう一つの製品を置く形が繰り返された。肥料から出発した会社が、電子材料の世界へ入る最初の一歩にあたる[1][2]。
ただし単結晶を引き上げ、それを薄く切ってウエハにするまでの量産は、本体の中には置かれなかった。1967年3月、米ダウコーニング社との共同出資で信越半導体が設立される。同じ時期に信越ポリマーや信越石油化学工業など多くの関係会社が生まれており、新しい製品を別会社に分けて育てる形が、当時の同社の常であった[3][4]。
電子分野の素材を将来の柱に置いた長期計画
参入から6年後の1973年2月、常務取締役の吉澤正明氏が日本証券アナリスト協会の企業分析部会で講演し、電子分野の素材を将来の柱として語っている。レア・アースについては「17元素あり、その特長、性質、用途などはほとんど開発されていない新しい分野」と述べ、電子計算機に使われる素材が昭和52年ごろに業績へ寄与すると見込んでいた[5][6]。
同じ講演で示された年間輸出額は約40億円、総売上高の8%ほどにすぎない。国内の需要を土台にした会社が、電子材料を次の柱に据えようとしていた時期にあたる。その半導体シリコンが本体の外の共同出資会社に置かれている限り、設備を増やすには相手の同意が要り、投資の速度は自社だけでは決められなかった[7][8]。
決断
相手の撤退の申し入れに、優先交渉権で応じる
1979年、ダウコーニング側から合弁の解消が申し入れられた。社長の小田切新太郎氏は、合弁契約に置かれていた優先交渉権を行使し、信越半導体の全株式を取得する。相手が抜けると決めた事業を丸ごと引き取る判断であり、半導体シリコンの量産投資を単独で決められる体制が、この時に整った[9][10]。
同じ条項を、小田切氏は3年前にも使っていた。1976年、塩ビの米国子会社シンテックで合弁相手の全株式を取得した際に行使したのが、契約に埋め込まれた優先交渉権であった。塩ビと半導体シリコンという二つの主力事業が、いずれも他社と分け合う形で始まり、いずれも同じ条項によって単独経営へ移った[11]。
単独経営のもとで動いた拠点の配置
全株式の取得を境に、信越半導体の拠点の置き方が速まった。1973年のマレーシアに続いて1979年に米国、1984年には英国へ生産会社を設け、同じ1984年に白河で単結晶からウエハまでの一貫工場が完成している。原料の引き上げから最終形状までを一つの工場に収める設備であった[12]。
本体の側でも電子材料への傾斜が進んでいた。1976年に電子材料事業部を設け、1978年にエポキシ・モールディングコンパウンド、1979年にフォトマスク用合成石英を企業化する。1981年度にはファインスペシャルティ製品が売上の50%を超え、肥料から始まった会社の姿は電子材料の供給者へ入れ替わっていた[13]。
結果
大口径化の節目で先に手を挙げる
1997年1月、信越半導体副社長の川崎芳孝氏は、次の直径である12インチについて「一二インチウエハは、〇・一八ミクロンの微細化技術とともに、21世紀初頭と予測される二五六メガDRAMの量産に不可欠な技術」と語っている。同時に、単結晶を引き上げる段階から新しい発想で装置を開発する必要があり、当初は供給メーカーが二~三社で足りるとも述べていた[14]。
客の側は慎重であった。1997年12月に国際半導体製造装置材料協会が300ミリの標準仕様を中間報告した頃、半導体メーカーからは「三〇〇ミリではあえてトップを走らない」という声が出ている。それでも信越半導体は白河工場に量産ラインを建設し、2001年春の月産5万枚を目標に置いた。この時点で世界シェアは約25%であった[15][16]。
世界首位という定位置
2007年3月時点で、シリコンウエハの世界首位は信越半導体であった。2位は住友金属工業と三菱マテリアルが1999年に設立したSUMCOで、両社の世界シェアは3割台で拮抗していた。ウエハの需要が各社の能力増強を上回り、300ミリだけでなく従来の200ミリでも値上げが通った。売り手市場のなかで信越半導体の売上高営業利益率は18.9%に達している[17]。
半導体そのものでは日本勢のシェアが2009年に19.9%まで落ちた一方、ウエハやフォトレジストなど材料の世界シェアは約6割を保った。その理由として挙げられたのが、1973年のマレーシア生産に始まる早い海外展開であった。合弁時代に置いた最初の海外拠点が、30年以上を経て日本の材料産業の強さを説明する材料になっていた[18][19]。
- 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』(経済春秋社, 1968年)
- 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)「信越化学工業」
- 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第4号「信越化学工業 新しい分野に挑戦する」(吉澤正明 常務取締役 講演要旨・1973年2月16日 日本証券アナリスト協会企業分析部会)
- 信越化学工業100年史
- 信越化学工業 有価証券報告書【沿革】
- 週刊東洋経済 1997年1月18日号「[特集]半導体の未来を占う インタビュー 信越半導体副社長 川崎芳孝 次世代技術の開発は怠らない」
- 週刊東洋経済 1997年12月13日号「産業 半導体製造を襲う“標準化”の波 次世代「300ミリウエハ」をめぐる日米半導体業界の思惑」
- 週刊東洋経済 2000年11月25日号「[産業レポート]世界一のIT素材が業界イメージを変える 化学業界」
- 週刊東洋経済 2007年3月17日号「[特集]電機浮上す! 儲かっているのはどこだ 4 半導体製造装置大解剖」
- 週刊東洋経済 2010年4月24日号「特集 経済超入門 【輸出産業の“隠れた優等生”】世界シェア6割を維持 半導体材料はなぜ強い」