日本移動通信開業時の無線方式へのNTT大容量方式の採用と、TACS方式の不採用
実績のある規格を借りるか、規格の外へ出るか——首都圏と中部圏に参入した日本移動通信の技術選択
- 概要
- 1988年12月に首都圏と中部圏の1都12県で開業した日本移動通信が、自動車電話・携帯電話の無線方式にNTTと同じ大容量方式を採り、英国生まれのTACS方式を採らなかった技術選択。
- 背景
- 通信自由化で移動電話への新規参入が相次いだが、日本で商用運用され端末と基地局の供給裏付けを持つ無線方式は、当時NTTのものだけであった。出資者のトヨタ自動車は独占時代からディーラーでNTTの自動車電話を扱っていた。
- 内容
- NTT大容量方式で1988年12月にサービスを開始。技術情報の開示を受けるためNTTへ10億円以上を支払い、端末にも外部への許諾料が上乗せされた。第二電電系のセルラー電話8社は1989年以降にTACS方式で開業し、方式は二系統に割れた。
- 含意
- 規格を借りる立場は商品を出す時期まで相手に左右され、小型端末では1年5カ月の遅れが生じた。日米通信摩擦がモトローラ方式の併営を持ち込み、1994年のデジタル方式を加えた三方式並行が減価償却費を押し上げた。
借り賃は、金額と時間の両方で支払われた
1988年12月の開業に間に合わせるという条件のもとでは、選べる無線方式は実質的に一つであった。基地局と端末が現に動き、供給者も価格も確かめられる方式は、NTTのものしかない。出資者のトヨタ自動車には、ディーラーでNTTの自動車電話を売った経験もある。参入時点の材料に照らせば、実績を採った判断に無理は無い。狂いはその先にあった。規格の所有者が、同時に最大の競争相手でもある。この一点から、ムーバに1年5カ月遅れた「ミニモJ」のような後追いが繰り返された。
三つの方式を抱えた結果を、1988年の選択だけに帰すのは無理がある。二つ目は日米電気通信交渉の決着が持ち込んだ。三つ目はツーカーセルラー東京と東京デジタルホンの参入が前倒しさせた。いずれも会社の外側で決まっている。自動車・電力・道路の資本が持ち寄った出資構成では、外圧を退けて一方式に絞り直す力も働きにくかったであろう。方式を一つに保った第二電電系8社は、1994年度に1910億円の売上高と380億円の経常利益を見込んだ。同じ年度、加入者が最も伸びた日本移動通信は38億3300万円の中間期経常損失を計上した。規格を持たない側が規格を借りるとき、借り賃は金額だけでは済まない。商品を出す時期の遅れとしても支払われた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
通信自由化と、首都圏・中部圏を任された新会社
移動電話は長くNTTの独占下にあった。料金が高く、自動車電話は企業のトップが乗る専用車や高額所得者に用途が限られていた。携帯電話も小型化と軽量化が進まず、米国での普及ぶりと比べれば「開国前夜」と評される状態が続いた。この停滞に刺激を与えたのが通信の自由化で、長距離の中継系に続き、移動体でも各地に新電電が生まれた。日本移動通信は、その最初の一社として首都圏と中部圏を任された[1]。
会社の発足は1987年3月である。トヨタ自動車と建設省が主導した中継系新電電の日本高速通信が、移動体部門を切り出して設立した。出資者には日本高速通信のほか、トヨタ自動車・東京電力・日産自動車・中部電力などが名を連ねた。経営の最高責任者には、トヨタ自動車で相談役を務めた花井正八氏が日本高速通信と兼務で就いた。のちに社長となる塚田健雄氏がトヨタ自動車から専務として移ったのは、開業直前の1988年10月である[2][3][4]。
開業前に一つだけ決めねばならないもの
移動電話の事業者は、開業の前に無線方式を一つ決めねばならない。方式が決まらなければ基地局も端末も発注できず、加入者へ売る商品の形も定まらない。1980年代後半の日本で、現に商用として動き、端末と基地局の供給裏付けもある方式は、NTTの大容量方式だけであった。海外へ目を移せば英国生まれのTACS方式があり、モトローラをはじめ供給者も存在する。ただし国内での運用実績は無い[5]。
同じ問いに逆の答えを出した会社もある。第二電電と地域の電力会社が共同で出資した関西セルラー電話が、1989年に開業した。九州・中国・東北・北海道・北陸・四国・沖縄がこれに続き、8社はいずれもTACS方式を採ってNTTの規格に乗らなかった。営業区域は日本移動通信が首都圏と中部圏、セルラー各社がそれ以外と分かれた。全国を一社で覆うNTTに対し、新規参入の側は地域でも方式でも二つに割れた状態で競争へ入った[6][7]。
決断
実績を採る——1988年12月の開業
1988年12月、日本移動通信は首都圏と中部圏の1都12県で自動車電話と携帯電話のサービスを開始した。採った無線方式は、NTTと同じ大容量方式である。新規参入者が独占事業者と同じ規格を選ぶのは、商品の違いを見せる面では不利に映る。それでも決め手は実績であった。基地局も端末も現に日本で動いており、供給者と価格を開業前に確かめられる。期日を守り、初期投資の見積りを外さないことが優先された[8]。
販売の面にも根拠があった。出資者のトヨタ自動車は、独占時代からディーラーでNTTの自動車電話を扱っている。方式が同じであれば、売り方も保守も既存の経験をそのまま生かせる。全国に販売網を持つ自動車会社が主要株主に並ぶ会社にとって、これは軽い条件ではなかった。実績のある規格を借り、販売の厚みで差をつける。1988年時点で手元にあった材料に照らせば、この組み立ては筋が通っていた[9]。
規格を借りる立場に付いた条件
借り賃は開業前から発生した。NTT方式の技術情報は原則として非公開で、日本移動通信は開示を受けるために10億円を超える金額をNTTへ支払っている。端末にも外部への許諾料が上乗せされ、調達価格は競合より高くついた[10]。加入者一人あたりの原価は、はじめから相手より高い水準に置かれる。方式の選択は、そのまま費用構造の選択でもあった。
商品を出す時期も相手が握った。NTTが小型端末「ムーバ」を実用化したのは1991年4月で、関連技術の公開はその半年後になる。日本移動通信が同等品の「ミニモJ」を出せたのは1992年9月であった。差は1年5カ月にのぼる。端末の小型化がそのまま販売を左右した時期の1年5カ月である。規格の所有者が新しい商品を出したあとでなければ、日本移動通信は追随できなかった[11]。
結果
日米交渉が持ち込んだ二つ目の設備
1989年、米モトローラが動いた。自社のTACS方式が中部圏と首都圏で使えないことを、日本市場が閉鎖的である証拠として持ち出す。主張は日米電気通信交渉の争点にまで及んだ。交渉は、日本移動通信が同方式を自社で提供することで決着する。同社の側にも、外国勢が新規参入して四社目の事業者になるよりは自社で抱えたほうが得策という計算が働いた。開業から2年の会社が、二つ目の無線設備を国家間の交渉の帰結として引き受けた[12][13]。
1991年10月、モトローラ方式による「トーキョーフォン」が東京23区を中心とする1都3県で始まった。基本料金はNTT方式より月3000円安い。それでも開始から6カ月の1992年3月末で加入は2000回線にとどまり、同じ期間にNTT方式が積んだ6000回線を下回った。設備の負担だけが先に立つ。東京23区に置いた47の無線基地局のうち、二つの方式で用地を兼用できたのは12局にすぎなかった。1基あたり2億円から3億円かかる基地局を、20局近く新たに建てている[14][15]。
追加投資と、二度目の交渉
1992年6月、モトローラからの設備拡充要求と郵政省の要請を受け、同方式へ3年間で400億円を超える追加投資を決めた。当初の見積りは二百数十億円で、負担はほぼ倍になる。1992年3月期の加入は24万回線を数えた。それでも売上高604億円に対して経常利益は12億円まで落ち、前期からの落ち込みは23億円に達した。約98億円あった累積損失の一掃時期は、1992年から1993年の見込みが1996年へ後退した[16][17]。
交渉は一度では終わらなかった。1994年春に日米の経済摩擦が再燃し、1995年9月までに無線基地局159局の増設が課される。モトローラ方式への設備投資は総額でおよそ600億円となり、当初の計画より300億円多くなった。加入者が二つ目の方式へどれだけ集まるかとは別の理屈で、設備の量が決まった。国内の競争で必要な投資と、通商交渉で求められる投資とが、同じ財務の上に重なった[18]。
三つ目の方式と、加入者が最も伸びた年の赤字
1994年、日本移動通信はデジタル方式の携帯電話も始めた。三つ目の無線方式である。割り当てられた電波には余裕があり、需要の面で急ぐ理由は無かった。それでも前倒しで投資したのは、同じ年にツーカーセルラー東京と東京デジタルホンがデジタル方式で参入したためであった。デジタルは盗聴に強く、同じ帯域から取れる回線数も多い。後発の二社が利点を売りに入ってくる以上、持たずに済ませる選択は残らなかった[19][20]。
販売そのものは、この年に最も伸びた。1994年4月の端末売り切り制で市場が急拡大する。同社は法人に強いNTTドコモを避け、個人客と量販店へ販路を移した。売る商品には、価格の安いモトローラ方式を前面に立てている。新規契約の8割から9割を同方式が占めた。契約数は1994年3月末の33万6800から年末の50万1800へ、9カ月で16万5000増えている。10月には月間の販売数量で初めてドコモを上回り、同じ月に資本金を114億円から229億円へ倍額増資した[21][22]。
それでも1994年度の中間期は、38億3300万円の経常損失を計上した。営業利益は前年同期比31%減の49億円である。三方式を並行して維持する減価償却費が増え、人件費を除いても売上高の6割が固定費という収益構造になっていた。黒字回復は早くても1997年度下期と見込まれる。同じ年度、方式を一つに絞った第二電電系のセルラー電話8社は売上高1910億円・経常利益380億円の増収増益を見込んでいた。立て直しは、1997年3月に同グループと次世代方式で全面提携するまで持ち越された[23][24][25]。
- 日経ビジネス 1992年6月22日号「競争激化の時期に外圧から二重投資 日米通信摩擦に揺れるIDOの経営」
- 日経ビジネス 1995年1月30日号「誤算の研究 日本移動通信 三重投資で収益悪化 NTT方式採用が足かせ」
- 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」
- 日経ビジネス 1989年4月10日号「有訓無訓 参謀に日本企業の経営はできない」
- 日経ビジネス 1997年3月31日号「セルラー,IDO 提携に至った2つの理由」