日本移動通信DDIセルラーグループとの次世代携帯電話における全面提携と、CDMA方式の共同採用

NTTと同じ方式を使い続けるか、自前で開発せずに別系統へ移るか——地域割りの事業者が選んだ相手

時期 1997年3月
意思決定者(推定) 塚田健雄 社長
論点 次世代携帯電話の方式選択と提携相手
概要
1997年3月、日本移動通信が第二電電系のセルラー電話グループと、1998年からの次世代携帯電話で全面提携すると発表した経営判断。米クアルコムが開発したCDMA方式を共同で採用し、両陣営の営業区域を合わせて全国均一のサービスを目指した。塚田健雄社長のもとで決まっている。
背景
1988年12月にNTTと同じ大容量方式で開業した後、日米通信摩擦の決着としてモトローラ方式が、競争の激化に応じてデジタル方式が加わり、三つの方式を並行して維持する構造になっていた。1997年3月末の累積損失は179億円、トヨタ自動車の出資比率は27.2%であった。
内容
首都圏・中部圏を区域とする日本移動通信と、それ以外を区域とするセルラー8社が方式を揃える。CDMAは基地局の数を約3分の1に減らして同じ範囲をまかない、収容できる加入者は約1.5倍になる。米国で実用化済みの両用端末を持ち込めるため、開発の期間と費用も抑えられた。
含意
NTTドコモが1997年4月に次世代方式としてW-CDMAを打ち出し、日本の携帯電話は方式で二系統に割れた。技術の共通化は業務の範囲にとどまらず、同年10月に塚田社長が第二電電グループとの「戦略的大同団結」に言及するなど、資本の距離を縮める話へ接続した。
筆者の見解

開発しないことを条件に選ばれた方式

米国で実用化済みの端末を持ち込めるかどうかが、方式選びの条件になった。無線方式を三つ抱え、1997年3月末に179億円の累積損失を残した会社に、四つ目を自力で仕上げる余力はない。塚田健雄社長の「NTTと同じ方式を採用していては勝負にならない」という言葉は、独自技術への意欲を語ったものではなかったであろう。開発の負担を負わずにドコモと異なる系統へ移れる道が、一つしかなかったということである。区域が補完し合うセルラー8社という相手が同じ時期にいたことが、その道を通した。

ただし、この提携が資本の接近まで進むと1997年の時点で決まっていたわけではない。トヨタ自動車の奥田碩社長は、同じ年の4月に急ぐ必要はないと語っている。同じ資本系列のKDDは、日本移動通信と反対のW-CDMAを支持した。技術の共通化が両陣営の距離を縮めたのは確かである。それでも、資本の接近が提携の設計へ最初から織り込まれていたとは考えにくい。方式を揃えた二陣営が同じ商品を全国で売るうちに、別々でいる理由が減った。順序としては、そちらに近い。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

三つの方式を抱えたまま迎えた1997年

1997年の日本移動通信は、営業区域が首都圏と中部圏に限られる事業者であった。1987年に中継系新電電の日本高速通信から分かれて発足し、トヨタ自動車・東京電力・日産自動車・中部電力などが出資した。1988年12月の開業ではNTTと同じ大容量方式を採っている。その後、日米通信摩擦の決着でモトローラ方式が加わり、競争の激化に応じてデジタル方式も足した。1997年には無線方式を三つ抱え、そのそれぞれに基地局と端末を用意した[1][2]

1997年3月末で、トヨタ自動車の日本移動通信に対する出資比率は27.2%、累積損失は179億円に達していた。トヨタが資本参加した通信会社はほかにもある。長距離のテレウェイには38.3%を出資して累損646億円、国際のIDCには17.6%を出資して累損49億円を抱えた。三社に共通する低迷の理由は、NTTとの対抗上、資金面を含めすべてが中途半端な規模にとどまった点にある[3][4]

動き出した通信業界と、地域割りという弱点

1996年12月にNTTの経営形態論議が決着すると、通信業界では大型の合併と提携が相次いだ。1997年3月には、長距離の日本テレコムと国際の日本国際通信が合併を発表する。国内・国際の双方を持つ会社が初めて生まれ、業界全体が動いた。日本テレコムの坂田浩一社長は記者会見で、一緒になることでお互いのノウハウを発揮できると判断したと語った[5][6]

移動体通信では、NTTドコモが全国を一社でカバーし、資金力とブランドで契約を伸ばしていた。シェアがあまりに高いため、公正取引委員会がNTTの出資引き下げをめぐって行政指導に乗り出したほどである。これに対し、地域ごとに免許を受けた事業者は、区域の外では自社のサービスを売れない。全国に拠点を持つ法人を相手にする営業では、この地域割りがそのまま不利に働いた[7]

決断

同じ方式では勝負にならない

1997年3月、日本移動通信は第二電電系のセルラー電話グループと、1998年からの次世代携帯電話で全面提携すると発表した。採用するのは、米クアルコムが開発したCDMA方式である。開業以来9年にわたってNTTと共通の大容量方式を主力に据えてきた事業者が、次の世代では別の系統へ移る。塚田健雄社長は、NTTと同じ方式を採用していては勝負にならないと言い切った[8][9]

提携の効き目は、まず売り先の広がりに表れる。日本移動通信の区域は首都圏と中部圏、セルラー8社の区域はそれ以外で、二つを合わせると全国が埋まった。方式を揃えれば、どちらの区域でも同じ端末が同じように使え、全国均一のサービスを名乗れる。全国をカバーするドコモに対して地域割りの事業者が抱えていた営業上の弱点が、資本を動かさないまま消える計算になった[10][11]

自前で開発しないという選び方

CDMAは、同じ電波を複数の通話で使い分ける。一つの基地局が受け持てる通話が増えるため、基地局の数を約3分の1に減らしても同じ範囲をまかなえる。収容できる加入者は約1.5倍になる。基地局の用地取得と建設に費用を割いてきた事業者にとって、設備の密度を下げられることは、そのまま投資額の差になった[12]

もっとも、方式の性能だけで決まったわけではない。すでに米国では、アナログ方式とCDMAの両方に対応する端末が実用化されている。それを持ち込めば、開発の期間と費用を抑えられた。第二電電の小野寺正氏は、開発期間やコストを考えると他に選択肢がなかったと語った。区域の補完、開発負担の回避、ドコモへの対抗——理由は一つではなく、どれか一つが欠けても同じ判断にはならなかったであろう[13][14]

結果

二系統に割れた次世代方式

1997年4月、NTTドコモは次世代方式としてW-CDMAを打ち出した。日本の携帯電話は、ドコモが推す方式と、日本移動通信・セルラー陣営が採る米国方式との二系統に割れる。共同で採る新方式は、1998年4月に関西セルラー電話が先行して商用化する計画であった。方式の分岐は端末だけでなく、基地局から交換機までの設備全体に及んだ[15]

方式の分裂は、トヨタが出資する通信会社の内側にも及んだ。1997年11月に日本高速通信との合併を決めたKDDは、次世代携帯で国産のW-CDMAを支持していた。日本移動通信とセルラーが選んだ米国方式とは、設備の面で競合する。KDDの西本正社長も、次世代への参加を決めただけでどこと組むかは分からないと答えていた。同じ資本系列にありながら、移動体の方式では足並みが揃わなかった[16]

業務提携の「先」

提携は業務の範囲にとどまらなかった。1997年10月、塚田健雄社長はNTTドコモを批判した。公社時代からの資本・人・技術という国民の財産を、そのまま受け継いでいるという理由である。そのうえで、自社も現状に甘えず第二電電グループと戦略的に大同団結して対抗したいと述べた。同年12月には業務提携をほんの一つのシナリオだとして、その先を否定していない。方式を共通にした二陣営の関係は、資本の話をはらみ始めた[17][18]

ただし、親会社の側は資本の接近を急いでいなかった。トヨタ自動車の奥田碩社長は1997年4月、通信各社への出資について、第二電電などはどこかと組む話になると困っているようだと述べた。そのうえで、トヨタはある程度自由が利く立場にあり、それほど急ぐ必要はないと続けている。一方、当時の業界予測は二つの反NTT陣営への収斂であった。第二電電・テレウェイ・IDC連合と、KDD・TTネット・日本テレコム・ITJ連合である[19][20]

競合の側の見方も変わった。NTTドコモの立川敬二社長は1998年9月、自社のシェアが過去に48%まで下がったことがあると振り返った。そのうえで、ライバルの日本移動通信とDDIセルラーが組めば手ごわいと認めている。方式の統一は、まだ商用サービスが始まる前から営業上の脅威と受け止められた。共同の新方式は1999年4月、cdmaOneの名で商用サービスに入った[21][22]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1997年3月31日号「セルラー,IDO 提携に至った2つの理由」
  • 日経ビジネス 1997年4月21日号「新方式携帯電話『CDMA』 1つの電波を複数利用 挽回狙うIDO、セルラー」
  • 日経ビジネス 1999年6月28日号「異変発生!横綱ドコモのシェアが急減 IDO、セルラー共同の新サービスcdmaOne大ヒットで猛追」
  • 週刊東洋経済 1997年4月5日号「編集長インタビュー 奥田碩 トヨタ自動車社長」
  • 週刊東洋経済 1997年4月26日号「特集 業界・大異動 21世紀の業界地図 通信 KDDとDDI軸に第二次再編へ」
  • 週刊東洋経済 1997年10月4日号「ザ・トーク 塚田健雄・IDO社長」
  • 週刊東洋経済 1997年12月6日号「企業 目覚めたトヨタ 通信・住宅への不退転」
  • 週刊東洋経済 1998年9月26日号「編集長インタビュー 立川敬二 NTT移動通信網社長」
  • 日本産業史 第4巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「通信-情報通信産業の誕生」

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