明治初年から100年あまり、日本の電気通信は国家の独占事業だった。1982年の臨時行政調査会『行政改革に関する第三次答申』がこれを崩す方向を示し、公衆電気通信法に代わる電気通信事業法が1985年4月に施行される[1]。制度が動く前年の1984年6月1日[2]、京セラを中心とする企業連合が東京都世田谷区に第二電電企画株式会社を設立した。資本金16億円、電気通信事業の企業化調査を目的とする会社である。稲盛和夫京セラ社長は参入の意思を表明するにあたり、{q1}と述べた。
稲盛和夫社長がこの参入を語るときに繰り返した言葉が{q1}である。本人は後年、「カネ儲けをしたい、名前をあげたいという私心だったら、踏ん切りがつくはずがない。みんな参入を逡巡したとおり、勝算はないわけですよ。勝算はないが、通信料金を下げたい、善きことをしたい。1000億円損するかもしれない、それでダメなら撤退するから、と役員会に提案した」と振り返っている。稲盛和夫社長が役員会に示したのは、事業計画ではなく損失の上限である。
発足時の第二電電企画は10人ほどの所帯である。このとき集まった人材から、後にDDI常務となる無線技術者の小野寺正氏らが出ている。参入分野の選定も、社員が10人ほどしかいない時期に済ませている。市外電話・国際電話・携帯電話のうちどれから入るかを検討した結果である。中山氏は{q1}と説明している。
1985年3月の時点で、京セラは第二電電企画の資本金80億円のうち28%を持つ筆頭株主だった。ただし出資比率は5割未満に抑え、経営の支配権をあえて握らない形をとっている。[3]非常勤取締役には牛尾治朗ウシオ電機会長、飯田亮セコム会長、盛田昭夫ソニー[4]会長、三村庸平三菱商事社長が名を連ねた。設立時に16億円だった資本金は10か月で80[5]億円まで増えており、出資の輪は広がっている。京セラが損失を引き受けると明言した事業に、財界の顔ぶれが相乗りする構図である。支配権を握らないというこの原則は、上場した時点の株主構成にもそのまま残った。
株主構成はこのように広く分かれていたが、人の集め方は寄合いの逆を行った。森山信吾社長は電電公社や通信工事会社からの出向を仰がず、独自の募集と引き抜きで20人以上のNTT技術者を採用[6]している。出向で来た事務系の社員には『DDIに骨をうずめる意思のない方はお引き取りいただいて結構です』[引用元]と告げた[7]。理由は営業にあった。『顧客と長年のおつき合いができなければ本当の営業はできない。2〜3年で帰ってしまう出向社員では不効率』[引用元]というのが本人の説明である。株主は複数の企業に分かれ、社員は自前で採った。出資者の顔ぶれと、実際に会社を動かす人の出どころが、最初から別々に設計されている。
通信自由化に手を挙げたのは第二電電だけではない。国鉄系の日本テレコムは新幹線の線路沿いに、建設省・道路公団を軸とする日本高速通信は高速道路の中央分離帯に、それぞれ光ファイバーを敷いて開業する計画を立てていた[8]。両社は敷設用地を最初から持っている。京セラの連合にはその種の資産が何もない。通信網を敷く経験も、電気通信の免許も持っていなかった。稲盛和夫会長は後年の講演で『私共は、そういうインフラは何もありませんでした。しかし、第二電電を起こそうという動機だけは純粋でしたので、かえって勇気が沸いてきました』[引用元]と語っている。[9]
用地を持たない会社が選んだのは、山の頂から頂へパラボラアンテナを置き、その間をマイクロ波で結ぶ方式だった。40キロから60キロおきに中継所を設け[10]、ネットワークセンター間をつなぐ。道のない場所へはヘリコプターで機材を運んで鉄塔を組んだ。光ファイバーが線でつなぐのに対し、この方式は点でつなぐため、中継点だけを建てれば延伸でき、建設費を抑えながら早く伸ばせる。用地を持たないという条件が、結果として拡張の速い設備構成を選ばせた。東京・大阪間の回線は1986年8月に完成し、同年10月から専用サービスの営業[11]が始まっている。
三陣営は同じ時期に開業にこぎつけた。1985年4月の電気通信事業法施行に合わせて商号を第二電電株式会社に改め、6月に郵政省から第一種電気通信事業の許可を、12[12]月に市外電話サービスの接続番号『0077』の指定を受けている。既設の用地を持つ2社と、山を越えて鉄塔を建てた1社が、同じ年に許可を受け同じ時期に走り出している。神田延祐社長は後年、この方式を『『線』でつなぐ光ファイバー方式に比べ、保守上有利であるばかりでなく、中継点のみの建設によるネットワークの早期拡張が可能であり、コストを低く抑えることが可能』[引用元]と説明した。用地を買えない制約から選んだ方式が、延伸の速さと保守の両面で利点を持っていた。
1987年9月、一般の市外電話サービスの営業[13]が始まった。利用者はあらかじめ加入登録したうえで、相手の番号の前に『0077』の4桁を回す。両端の市内区間はNTTの回線を使うため、料金は自社回線分にNTTの市内通話料を足した金額になる。この足し算方式のもとで、東京・大阪間の平日昼間3分の通話料はサービス開始時点[14]の300円から、1992年4月の値下げ後に180円まで下がった。開業から5度の値下げを重ねた結果である。NTTも同区間を民営化時の400円から180[15]円へ下げており、料金競争は両者が交互に下げる形で進んだ。
4桁を余計に回す手間は、新規参入側の弱点でもあった。第二電電はこれを機器で解いた。法人向けにはアダプターを無償で貸し出し、家庭向けには最も安い回線を自動で選んで接続するα-LCRを開発している。この機能を1枚のLSIにまとめて電話機メーカーへ供給したところ、搭載機種は1991年1月末の1社1機種から1992年1月末に9社29機種へ増え、最終的に国内12社の主力[16]コードレス電話が採用した。利用者が事業者を意識せずに使えば、料金の安い側が自動的に選ばれる。最も安い事業者を自動で選ぶ装置が広まったことで、『さらに競争は新電電に有利なものになっていった』[引用元](日本産業史[17] 第4巻)。
営業地域は順次広がり、1992年12月の山陰ルート開業で全都道府県への市外電話サービスの提供[18]が可能になった。開業から6年をかけて、NTTと同じ全都道府県で売れるようになった。料金以外の品揃えにも手を広げ、同年7月には月額定額で一定時間まで使える『おしゃべりパック』を始めている。加入登録を前提とする仕組みのため、契約を取る営業は法人向けに65の営業所を置き、個人向けは流通系の代理店と組む形で分けていた。1993年3月期の営業収益2307億円のうち市外電話サービス[19]が1830億円と79.4%を占め、専用サービスは44億円で1.9%にとどまった。第二電電の収益はこの時期、ほぼ長距離電話1本で立っていた。
稲盛和夫会長は設立の当初から移動体通信への参入を決めていた。理由は半導体にあった。シリコンバレーで集積回路を扱ってきた経験から、集積度が幾何級数的に上がることを知っており、当時トランクに送受信機を積んでいた自動車電話が5年ほどで手に持てる端末になると見ていた。本人は『いつでも、どこでも、だれとでも簡単に電話ができる携帯電話の時代が必ず来る』[引用元]と考えたと述べている[20]。営業も始めていない会社が次の投資に踏み込むことに社内は反対したが、稲盛和夫会長は押し切っている。市外電話の開業より前に、次の主力事業の設計が決まっていた。
同じ時期に自動車電話へ乗り出したのが、トヨタ自動車と日本高速通信を軸とする陣営である。両者は東京・名古屋という最大の市場をめぐって争い、一本化の交渉に入った。交渉は物別れに終わる。相手側の関係者は『トヨタを中心にしたわが社は正統派。経団連のゲリラを自認する企業(京セラ)と一緒にやるのは困難』[引用元]と語っており、事業の条件よりも組織の性格の違いが前面に出た交渉だった。[21]決着をつけたのは行政である。郵政省は全国を二分し、首都圏・中部圏を日本移動通信に、それ以外の地域を第二電電系のセルラー各社に割り当てた。
割り当てを受けた第二電電は、担当地域に1社ずつ会社を建てた。1987年6月の関西セルラー電話を皮切りに[22]、同年10月に九州、11月に中国、1988年に東北・北陸・北海道、1989年に四国、1991年に沖縄と、8社が順に設立されている。全国1社で運営せず地域別に法人を分けたのは、地元企業から出資を受けて営業基盤を作るためである。役員も出向者と地元財界から集まり、会社ごとに意思決定が完結する構造になった。複数企業の共同出資で始めた本体の作り方が、そのまま子会社群にも及んでいる。同じ1987年6月、本店も東京都世田谷区[23]から千代田区へ移している。
譲ったはずの首都圏・中部圏へは、別の枠組みで入った。1991年7月に日産自動車との共同出資で株式会社ツーカーセルラー東京を、1992年2月にツーカーセルラー東海を設立[24]している。いずれも関連会社であり、セルラー8社とは資本関係も規格も別だった。これでグループとしては全国で移動体通信を提供できるようになったものの、社数は10を超え、系統も二つに分かれた。長距離電話1社と地域別携帯電話10社という構成は、この時期に固まっている。1992年3月期の本体売上高は1998億円、経常利益は234[25]億円だった。
携帯電話の市場そのものは、参入の時点ではまだ小さい。稲盛和夫会長が後年の講演で挙げた数字によれば、1981年の国内市場はNTTの独占で13万台、普及率0.1%にとどまっていた[26]。当時の端末は送受信機を車のトランクに積む自動車電話である。伸びが始まったのは1990年前後で、セルラー各社の開業から3年が過ぎていた。当時の報道は第二電電と日本移動通信について『両社とも『開業当時は、こんなに伸びるとは思っていなかった』というほどの躍進ぶりだ』[引用元]と伝えている。8社を建てた1987年の時点では、参入した側も需要の立ち上がる時期を見通せていなかった。
1993年9月3日、第二電電は東京証券取引所市場第二部に上場した。証券コードは9433、社長には神田延祐氏が就いていた。[27]上場時点の発行済株式総数は19万2222株、資本金は278億5392万円[28]、従業員は同年6月末で2783人だった。大株主は京セラが25.1%を持ち、ソニー5.0%、ウシオ電機・セコム・三菱商事が各2.5[29]%と続く。設立時に複数の企業が資金を出した構成は、上場の時点でも京セラを筆頭とする分散した株主構成として残っていた。単独で過半を握る株主はおらず、京セラの持分も4分の1にとどまる。
上場翌日の日本経済新聞には『DDIは長距離系新電電3社の中でも収益力でトップ』[引用元]との記述がある。数字もこれを裏づけている。1993年度の第二電電は売上高約2500億円[30]に対して経常利益が約250億円、日本テレコムは売上高約2200億円に対して経常利益が約190億円で、新電電3社のうち2社が売上高経常利益率で10%近くに達していた。NTT株の下落で通信産業への失望が広がっていた時期にあたり、第二電電の上場は、規制緩和で参入した企業が短期間で利益を出せることを市場へ示す材料になった。
単体の売上高は1993年3月期の2307億円から1995年3月期には3778億円へ伸び[31]、数回の値下げを経てなお営業利益359億円を確保した。同じ1995年3月期には、セルラー8社の経常利益合計が410億円[32]に達している。長距離電話で稼いだ利益を上回る額を、本体の外にある地域会社の集合が生み出す構図が、この時点で現れている。携帯電話の稼働台数は1994年末の433万台・普及率3.5%から1995年7月末[33]に582万台・4.7%へ進んでおり、収益の中心は市外電話から移動体へ移りつつあった。
上場した1993年は、長距離電話の事業環境が変わった年でもあった。1992年12月の山陰ルート開業で全都道府県をカバーし終え、新しい地域を開いて増収する余地がなくなる。料金面でもNTTとの差が縮み、1993年9月の時点で昼間時間帯の最遠距離3分の通話料はNTTより20円安[34]いところまで接近していた。東京・大阪間でも、開業時に300円と400円だった両者の料金は、1994[35]年にそれぞれ170円と180円まで下がっている。安さで選ばれてきた事業が、安さで差をつけにくくなり、値下げをしても格差はすぐに埋め戻された。
制度の変更も控えていた。NTTの事業部制導入に伴い、長距離系新電電の相互接続点を原則1県1個へ集約する措置が1994[36]年4月から実施される予定にあり、NTT回線との接続料金にアクセスチャージを導入する交渉も進んでいた。端末から端末までを自社の料金として設定するエンド・エンド料金制度も、1994年4月までに実施される見通しだった。神田延祐社長は上場直後の講演で、これらが収益へ及ぼす影響について『内容や時期がはっきりしないため、いまは算定できない状況である』[引用元]と述べ、大きな変更を迫られる場合は適時開示すると付け加えている。
本業の伸びしろが細るなかで、神田延祐社長が次の柱に据えたのが移動体通信だった。同じ講演で市場展望を問われ、2000年ごろには1000万台から1200[37]万台に達するとの見通しを示している。実際の伸びはこの予想を上回っている。1995年3月期には[38]、本体の外で作られる利益のほうが大きくなる。長距離電話で立ち上げた会社の稼ぎ手が、本体からセルラー各社へ移り始めていた。上場後も設備投資はセルラー・PHS・衛星の3方向へ続き、子会社群の投資を親会社が背負う構図が固まっている。本体の売上と利益だけを見ていては、この会社の姿がつかめなくなった。
上場前後の第二電電は、移動体通信で二つの新事業に同時に着手した。一つはPHSである。1994年7月に株式会社ディーディーアイポケット企画を設立し、11[39]月に東京ポケット電話へ商号を変更したうえで地域別のポケット電話会社8社を設立した。もう一つが衛星携帯電話であり、上場の半年前にあたる1993年4月に日本イリジウム株式会社を設立している。米モトローラが提唱したイリジウム計画は、高度780キロの低軌道に66個の衛星を配置し[40]、端末から直接衛星につないで世界中どこでも通話できるようにするものだった。
稲盛和夫会長は1995年の講演で、PHS・セルラー・衛星の3方式[41]を1台で切り替えられる端末を開発中だと述べ、21世紀初頭には国内だけでPHSを含む携帯電話が5000万台になると予想した。予測の方向は正しかった。ただし勝ち残ったのはセルラー系の携帯電話であり、PHSと衛星電話ではなかった。PHSは1995年7月に東京と札幌で開業したものの、首都圏では基地局の設置が滞り、通話品質の苦情を受ける立ち上がりとなった。稲盛和夫会長自身が端末を持って都内を歩き、つながり方を確かめている。基地局の整備が進むまでには時間がかかった。[42]
二つの新事業は、いずれも既存の携帯電話より安く広い通信を狙う点で共通していた。PHSは市内通話料が公衆電話より少し高い程度で基本料も安い。衛星電話は通信インフラのない地域でも使える。長距離電話でNTTより安い回線を作った会社が、移動体でも同じやり方を二度繰り返した形になる。だが、その筋に沿った投資が二つ同時に走ったことで、1990年代後半の設備投資は長距離・セルラー・PHS・衛星の4系統[43]に分かれた。
当時の報道は、京セラのフリーキャッシュフローが前期に900億円近いマイナスへ転じた原因を1600億円に及ぶ投融資の増加に求めている。第二電電向けの資金については『この資金にも『テコ入れ』の色彩が漂っている』[引用元](週刊東洋経済 1998年11月14日号)。
1999年7月、稲盛和夫名誉会長は投資方針の転換を明言した。『今期の連結設備投資は公表計画より減らす。特にPHSは半減でもかまわないと(DDI経営陣に)強固に言っている。とにかく、これ以上借金を増やしてはならない』[引用元]。創業以来の自力拡大を続けてきた会社が、投資を絞り外部資本を探すと公言したことになる。参入時に1000億円を上限として示した経営責任の枠を、実際の負債が10倍近く超えていた。
日産がツーカー3社に対して負っていた3300億円の経営指導念書も同時に引き継ぐ。ツーカーの営業エリアは日本移動通信と重なっており、自前で全国をカバーしたうえで交渉に臨む位置を取った形になる。
2000年10月1日、第二電電はKDD株式会社[44]および日本移動通信株式会社と合併し、商号を株式会社ディーディーアイに改めた。合併の形式は第二電電を存続会社とする吸収合併であり、法人格も証券コード9433も第二電電のものが残った。11月には沖縄セルラー電話を除くセルラー7社が関西セルラー電話を存続会社として合併し、株式会社[45]エーユーとなる。消えたのは第二電電という商号と、京セラ系企業連合が単独で経営する新電電という立場である。残ったのは法人と上場、そして地域別に建てた携帯電話会社の営業基盤だった。翌2001年4月、商号はKDDI株式会社に変わる。
| 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1984〜1986年電電公社の独占に手を挙げた京セラの企業連合と、山の頂を結ぶマイクロ波 | 第二電電企画を設立 | ★★ | ||
| 商号を第二電電に改め、事業目的を電気通信事業に変更 | ★ | |||
| 郵政省から第一種電気通信事業の許可を受ける | ★ | |||
| 市外電話サービスの接続番号「0077」の指定を受ける | ★ | |||
| 東京・大阪間のマイクロ波中継網が完成 | ★ | |||
| 専用サービスの営業を開始 | ★ | |||
| 1987〜1992年市外電話の開業と携帯電話への参入、東西分割が生んだ分散型のグループ | 移動体通信への参入と、全国8地域へのセルラー電話会社の分散設立、首都圏・中部圏の日本移動通信への割り当て受け入れ 関西セルラー電話の設立から4年で、割り当てられた地域に8社を建てた。市外電話サービスの開業前にあった第二電電が、1987年6月に移動体通信へ参入した判断である。郵政省が全国を二分して首都圏・中部圏を日本移動通信に割り当てたことを受け入れ、残る地域に1社ずつ会社を置く形を選んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 一般の市外電話サービスの営業を開始 | ★★ | |||
| 九州セルラー電話を設立。11月に中国セルラー電話を設立 | ★ | |||
| 東北セルラー電話を設立。5月に北陸セルラー電話、7月に北海道セルラー電話を設立 | ★ | |||
| 四国セルラー電話を設立 | ★ | |||
| 沖縄セルラー電話を設立 | ★ | |||
| 日産自動車との共同出資でツーカーセルラー東京を設立 | ★ | |||
| ツーカーセルラー東海を設立 | ★ | |||
| 東京・大阪間の平日昼間3分を180円に値下げ | ★ | |||
| 山陰ルートの開業により全都道府県で市外電話サービスの提供が可能に | ★ | |||
| 1993〜1997年上場で得た信用を注いだPHSと衛星電話、収益の柱は長距離から携帯へ | 日本イリジウムの設立と米イリジウム社への218億円の出資、2000年の事業廃止 1993年4月、第二電電が米モトローラ主導の衛星携帯電話計画『イリジウム』の日本での受け皿として日本イリジウム株式会社を設立し、同社を通じて米イリジウム社へ218億円を出資した経営判断。米モトローラに次ぐ第2位株主となり、京セラと合わせたイリジウム関連のリスク債権は340億円に達した。米イリジウムの破綻を経て、日本イリジウムは2000年3月に事業を廃止した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| PHS事業への参入と、地域別9社によるポケット電話会社の設立 1994年7月、第二電電がディーディーアイポケット企画を設立し、同年11月にディーディーアイ東京ポケット電話へ商号変更したうえでポケット電話会社8社を設立して、PHS(簡易型携帯電話)事業へ参入した経営判断。地域別9社の体制を敷き、1995年7月に東京と札幌で開業した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 地域別のポケット電話会社8社を設立しPHS事業に着手 | ★ | |||
| 東京・札幌でPHS(ポケット電話)のサービスを開始 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部銘柄に指定替え | ★ | |||
| 京セラディーディーアイ未来通信研究所を設立 | ★ | |||
| 沖縄セルラー電話が日本証券業協会の店頭登録銘柄として株式を公開 | ★ | |||
| 1998〜2000年1兆円を超えた有利子負債と、単独では立てなくなった新電電の終わり | 出資先の米イリジウム社が連邦破産法11条の適用を申請 | ★ | ||
| ツーカーセルラー東京・東海・ツーカーホン関西を子会社化 | ★★ | |||
| ポケット電話会社9社が合併しディーディーアイポケットが発足 | ★ | |||
| 日本イリジウムが事業から撤退 | ★★ | |||
| DDI・KDD・IDOの三社合併——長距離・国際・携帯を1社に束ねたKDDIの発足 2000年10月1日、第二電電(DDI)を存続会社としてKDDと日本移動通信(IDO)が合併し、KDDIが発足した。3社の単純合算で連結売上高2兆630億円、従業員9700人となり、NTTに次ぐ国内2位の通信会社が生まれた。長距離電話のDDI、国際通信のKDD、関東・中部の携帯電話のIDOという、事業も出自も異なる3社の統合だった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| ディーディーアイに商号変更 | ★ |
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事実根拠:出所(第二電電)