66機の衛星を打ち上げ終えるまで、この事業は端末を1台も売れなかった。1993年の出資の時点で、地上の携帯電話がその後どこまで小型化し、値下がりするかが決まっていたわけではない。1990年の計画表明から1998年11月の開業までの8年、資金は出るだけで戻らず、回収が始まる時点の端末仕様は打ち上げの時期に縛られる。誤算の所在は、全球分の設備を先に立ち上げるほかない構造が、この8年をそのまま地上との競走にしてしまった点にあったのだろう。
稲盛和夫会長が1995年の講演で示したのは、PHS・セルラー・衛星を一台で切り替える三層の構想だった。その前提には、21世紀初頭に国内の携帯電話が5000万台へ伸びるという予想が置かれている。地上がそこまで広がることと、衛星の埋める隙間が残ることは、同時には成り立ちにくい。実際に残ったのは海洋・砂漠・山岳という市場で、加入は世界で3万台にとどまった。破綻の後も、稲盛和夫名誉会長は米イリジウムへの再出資を考えていた。