第二電電日本イリジウムの設立と米イリジウム社への218億円の出資、2000年の事業廃止

衛星が地球を覆うまでの8年に、地上の携帯電話はどこまで進んだか

時期 1993年4月
意思決定者(推定) 稲盛和夫 第二電電会長
論点 衛星携帯電話への出資と撤退
概要
1993年4月、第二電電が米モトローラ主導の衛星携帯電話計画「イリジウム」の日本での受け皿として日本イリジウム株式会社を設立し、同社を通じて米イリジウム社へ218億円を出資した経営判断。米モトローラに次ぐ第2位株主となり、京セラと合わせたイリジウム関連のリスク債権は340億円に達した。米イリジウムの破綻を経て、日本イリジウムは2000年3月に事業を廃止した。
背景
66機の低軌道周回衛星を打ち上げ、地球上のどこからでも一台の携帯電話で通話できるという構想を、米モトローラのクリストファー・ガルビン会長が稲盛和夫会長に持ちかけた。「通信インフラのない発展途上国の人々のためになる」として参加が決まっている。第二電電にとっては、市外電話とセルラーで築いた地上の通信網の上に、その電波が届かない場所を覆う層を重ねる話にあたる。
内容
稲盛会長は1995年の講演で、高度780キロメートルの低軌道を回る66個の衛星と、イリジウム・セルラー・PHSの端末を一台で切り替える端末の開発構想を説明した。1998年5月時点の事業計画は、端末1台3000ドル前後、基本料は月50ドル、2002年度に売上高500億円・経常利益50億円を見込んでいた。
含意
1998年11月の開業時、端末価格は20万円以上・重量は400グラム以上で、建物内や高層ビル密集地では使えなかった。加入は世界で3万台の水準にとどまり、1999年8月に米イリジウムが連邦破産法11条を申請。第二電電の2000年3月期は、日本イリジウムと海外事業で合計83億円の最終損失を見込む事態となった。
筆者の見解

全球を一度に立ち上げる事業の時間

66機の衛星を打ち上げ終えるまで、この事業は端末を1台も売れなかった。1993年の出資の時点で、地上の携帯電話がその後どこまで小型化し、値下がりするかが決まっていたわけではない。1990年の計画表明から1998年11月の開業までの8年、資金は出るだけで戻らず、回収が始まる時点の端末仕様は打ち上げの時期に縛られる。誤算の所在は、全球分の設備を先に立ち上げるほかない構造が、この8年をそのまま地上との競走にしてしまった点にあったとみることができる。

稲盛会長が1995年の講演で示したのは、PHS・セルラー・衛星を一台で切り替える三層の構想だった。その前提には、21世紀初頭に国内の携帯電話が5000万台へ伸びるという予想が置かれている。地上がそこまで広がることと、衛星の埋める隙間が残ることは、同時には成り立ちにくい。実際に残ったのは海洋・砂漠・山岳という市場で、加入は世界で3万台にとどまった。破綻の後も、稲盛名誉会長は米イリジウムへの再出資を考えていた。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

モトローラが持ちかけ、日本で受けたのは第二電電だけだった

1990年、米モトローラが衛星携帯電話の計画を表明した。66機の低軌道周回衛星を打ち上げ、地球上のどこからでも一台の携帯電話で通話できるという構想で、当時は「夢の携帯電話」と呼ばれている。モトローラのクリストファー・ガルビン会長は、この構想を京セラ・第二電電の稲盛和夫会長に持ちかけた。稲盛会長は「通信インフラのない発展途上国の人々のためになる」として参加を快諾している[1][2]

モトローラは、日本の相手を最初からベンチャーに求めたわけではなかった。後に日本イリジウム社長となる安田芳治氏は「モトローラも最初日本に来たときはNTTやKDDを誘ったが、結局それに乗ったのはベンチャーの稲盛氏だけだった」と述べている。第二電電は1993年4月、計画の日本での受け皿として日本イリジウム株式会社を設立した。初代社長には、第二電電企画の旗揚げで人集めを担った中山一氏が就いている[3][4][5]

三層で移動体通信を埋めるという構想

稲盛会長は1995年の日本証券アナリスト大会の記念講演で、この計画の中身を具体的に説明している。高度780キロメートルの低軌道を回る66個の衛星を使い、携帯電話の棒アンテナから直接衛星につなぐ。1998年には日本国内だけでなく世界中どこでも、一つの端末から電話ができるようになる——出資から2年半を経た時点で、稲盛会長は開業の時期まで区切って説明していた[6]

講演にはもう一段の構想が続いた。イリジウムの端末とセルラーの端末、PHSの端末を、一つの端末機で切り替えるだけで使い分けられるようにするという開発計画である。狭い地域はPHS、広域はセルラー、地球全体は衛星と、三つの方式を一台に束ねる。稲盛会長は21世紀初頭に国内だけで携帯電話が5000万台に達すると見ており、衛星はその上に重ねる最上層に置かれていた[7]

決断

218億円と、第2位株主という位置

第二電電の出資は、子会社の日本イリジウムを通じて米イリジウム社へ向かった。金額は218億円で、発案者である米モトローラに次ぐ第2位の株主となっている。京セラの分と合わせると、イリジウム関連のリスク債権は340億円に達した。通信網を一から敷いて事業を起こしてきた会社が、自前では建設しない通信網に資本だけを出した[8]

218億円という額は、当時の第二電電の規模に照らせば軽い出資ではなかった。設立の前期にあたる1993年3月期の営業収益は2307億円、従業員は2758人である。同社はさらに携帯電話とPHSだけで年間2000億〜3000億円の先行投資を続け、連結有利子負債を1990年代後半の4年で4倍に増やしていた。衛星への出資は、この資金繰りの上に積まれていた[9][10]

開業を控えた時点での事業計画

1998年5月、同年9月の開業を控えた日本イリジウムの安田芳治社長は、事業の輪郭を数字で説明している。端末は1台3000ドルほど、基本料は月50ドル、通話料は北米から日本にかける場合で1分4.39ドル。「通話料は高い。一般用よりビジネス用途だ」として、顧客層に中小企業のオーナーや大企業、災害用を挙げた。市場についても「もともとニッチなマーケット」と自ら位置づけている[11]

収支は2002年度に売上高500億円、経常利益50億円をメドとしていた。契約については、2000年に市場全体で100万件、そのうち15万件を取り、初年度はその3割ほどをねらうと語っている。増資はもう必要なく、あとは借金で賄うとも述べた。参入の理屈も回収の道筋も、開業の4カ月前まではこうして数字の形で示されていた[12]

結果

開業したとき、地上の携帯電話は先へ進んでいた

サービスは1998年11月に始まった。だがその時点で、端末価格は20万円以上、重量は400グラム以上、通話料は最低でも1分1.48ドルかかっている。衛星電波の特性から建物内や高層ビルの密集地では使えず、期待していた国際ビジネスマンの需要を取り込めなかった。残ったのは海洋・砂漠・山岳という市場で、世界の加入台数は3万台の水準にとどまった[13]

1999年8月13日、米イリジウム社は日本の会社更生法にあたる米連邦破産法11条の適用を申請した。15日の社債の利払いに資金繰りが間に合わないなかでの申請で、事実上の経営破綻となった。京セラの側でも、同年5月時点で190億円を見込んでいたイリジウム関連事業の売上高が、30億円規模まで後退する見通しとなった[14][15]

決算への波及と、日本イリジウムの廃止

破綻は第二電電の決算に直接響いた。2000年3月期は、立ち上げ途上の日本イリジウムと海外事業の最終損失が合計83億円に達し、連結純利益は前期比8割減の30億円へ落ち込む見通しとなった。1999年7月、稲盛和夫名誉会長は設備投資の圧縮と借入の抑制を明言している[16][17]

2000年3月、日本イリジウム株式会社は事業を廃止した。1993年4月の設立から7年弱で、実際にサービスを提供した期間は1年余りにとどまっている。同年10月、第二電電はKDD・日本移動通信と合併して株式会社ディーディーアイとなった。一方で稲盛名誉会長は破綻の後も米イリジウムへの再出資を考えており、日本法人を畳む判断と、構想を続けようとする意思とが同じ時期に並んでいた[18][19]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 1997年3月15日号「[ひと]ツーカーセルラー東京社長 中山 一 乱世の携帯電話でどんな手腕見せるか」
  • 週刊東洋経済 1998年5月23日号「[フラッシュ]先行することで世界標準を握る インタビュー 日本イリジウム社長 安田芳治」
  • 週刊東洋経済 1999年7月10日号「[TopNews]大転換 設備投資圧縮に転じる稲盛DDIの胸のウチ」
  • 週刊東洋経済 1999年9月4日号「[TopNews]相反 イリジウム経営破綻が語る稲盛イズムの限界」
  • 週刊東洋経済 1999年10月9日号「[キーパーソン]新事業の創造こそ成長復帰への道 京セラ社長 西口泰夫」
  • 証券アナリストジャーナル 1995年33巻11号「京セラの海外展開と通信事業戦略」(稲盛和夫)
  • 証券(新規上場会社紹介)1993年45巻11号
  • KDDI 有価証券報告書【沿革】

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