1984年〜 電電公社の独占に手を挙げた京セラの企業連合と、山の頂を結ぶマイクロ波
- 1984年第二電電企画を設立
- 1985年商号を第二電電に改め、事業目的を電気通信事業に変更
- 1985年郵政省から第一種電気通信事業の許可を受ける
- 1985年市外電話サービスの接続番号「0077」の指定を受ける
- 1986年東京・大阪間のマイクロ波中継網が完成
- 1986年専用サービスの営業を開始
第二電電の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
1000億円の損失を京セラが引き受けるという参入表明
明治初年から100年あまり、日本の電気通信は国家の独占事業だった。1982年の臨時行政調査会「行政改革に関する第三次答申」がこれを崩す方向を示し、公衆電気通信法に代わる電気通信事業法が1985年4月に施行される。制度が動く前年の1984年6月1日、京セラを中心とする企業連合が東京都世田谷区に第二電電企画株式会社を設立した。資本金16億円、電気通信事業の企業化調査を目的とする会社である。稲盛和夫京セラ社長は参入の意思を表明するにあたり、「第二電電の事業には1000億円ほどかけるつもりです。もちろん、経営責任は私ども京セラが負います」と述べた。 [1][2][3]
- 証券(新規上場会社紹介)1993年45巻11号「第二電電株式会社」
- [1]1984年6月1日に第二電電企画株式会社を設立
- [2]1982年の臨時行政調査会「行政改革に関する第三次答申」を踏まえ、公衆電気通信法に代わる電気通信事業法が1985年4月に施行された
- 日経産業新聞 1984年5月28日
- [3]稲盛和夫氏の「第二電電の事業には1000億円ほどかけるつもりです。もちろん、経営責任は私ども京セラが負います」という発言
稲盛社長がこの参入を語るときに繰り返した言葉が「動機善なりや、私心なかりしか」である。本人は後年、「カネ儲けをしたい、名前をあげたいという私心だったら、踏ん切りがつくはずがない。みんな参入を逡巡したとおり、勝算はないわけですよ。勝算はないが、通信料金を下げたい、善きことをしたい。1000億円損するかもしれない、それでダメなら撤退するから、と役員会に提案した」と振り返っている。1000億円は投資枠ではなく、失っても構わない上限として提示された金額だった。稲盛社長が役員会に示したのは、事業計画ではなく損失の上限である。 [4]
- 週刊東洋経済 2000年8月5日号「[新千年紀の日本人]京セラ名誉会長 稲盛和夫」
- [4]稲盛和夫氏が1984年のDDI設立にあたり「動機善なりや、私心なかりしか」と自問し、1000億円の損失を上限として役員会に提案したと述べている
- 証券(新規上場会社紹介)1993年45巻11号「第二電電株式会社」
- [1]1984年6月1日に第二電電企画株式会社を設立
- [2]1982年の臨時行政調査会「行政改革に関する第三次答申」を踏まえ、公衆電気通信法に代わる電気通信事業法が1985年4月に施行された
- 日経産業新聞 1984年5月28日
- [3]稲盛和夫氏の「第二電電の事業には1000億円ほどかけるつもりです。もちろん、経営責任は私ども京セラが負います」という発言
- 週刊東洋経済 2000年8月5日号「[新千年紀の日本人]京セラ名誉会長 稲盛和夫」
- [4]稲盛和夫氏が1984年のDDI設立にあたり「動機善なりや、私心なかりしか」と自問し、1000億円の損失を上限として役員会に提案したと述べている
10人の所帯と、出向者を返した人の集め方
発足時の第二電電企画は10人ほどの所帯である。社長には元資源エネルギー庁長官の森山信吾氏が就き、技術を千本倖生氏、人集めを中山一氏が担当した。このとき集まった人材から、後にDDI常務となる無線技術者の小野寺正氏らが出ている。参入分野の選定も、社員が10人ほどしかいない時期に済ませている。市外電話・国際電話・携帯電話のうちどれから入るかを検討した結果である。中山氏は「値段も高く、最も入りやすい市外電話から参入した。郵政省も法律準備とのかねあいから、市外電話から新規参入を認めた」と説明している。 [5][6]
- 週刊東洋経済 1997年3月15日号「[ひと]ツーカーセルラー東京社長 中山一」
- [5]第二電電企画の初代社長は元資源エネルギー庁長官の森山信吾、技術担当が千本倖生、人材採用担当が中山一で、小野寺正も初期に加わった
- [6]中山一氏の「値段も高く、最も入りやすい市外電話から参入した。郵政省も法律準備とのかねあいから、市外電話から新規参入を認めた」という発言
1985年3月の時点で、京セラは第二電電企画の資本金80億円のうち28%を持つ筆頭株主だった。ただし出資比率は5割未満に抑え、経営の支配権をあえて握らない形をとっている。非常勤取締役には牛尾治朗ウシオ電機会長、飯田亮セコム会長、盛田昭夫ソニー会長、三村庸平三菱商事社長が名を連ねた。設立時に16億円だった資本金は10か月で80億円まで増えており、出資の輪は広がっている。京セラが損失を引き受けると明言した事業に、財界の顔ぶれが相乗りする構図である。支配権を握らないというこの原則は、上場した時点の株主構成にもそのまま残った。 [7][8][9]
- 日経ビジネス 1985年3月18日号「強さの研究 京セラ/稲盛式キャピタリズム、内から外へ」
- [7]1985年3月時点で京セラは第二電電企画の資本金80億円の28%を出資する筆頭株主であり、出資比率を5割未満に留めて経営の支配権をあえて握らなかった
- [8]第二電電企画の非常勤取締役に牛尾治朗ウシオ電機会長・飯田亮セコム会長・盛田昭夫ソニー会長・三村庸平三菱商事社長が名を連ねた
- 証券(新規上場会社紹介)1993年45巻11号「第二電電株式会社」
- [9]設立時(1984年6月1日)の資本組入総額は16億円で、1985年3月時点の資本金は80億円
株主構成はこのように広く分かれていたが、人の集め方は寄合いの逆を行った。森山社長は電電公社や通信工事会社からの出向を仰がず、独自の募集と引き抜きで20人以上のNTT技術者を採用している。出向で来た事務系の社員には「DDIに骨をうずめる意思のない方はお引き取りいただいて結構です」と告げた。理由は営業にあった。「顧客と長年のおつき合いができなければ本当の営業はできない。2〜3年で帰ってしまう出向社員では不効率」というのが本人の説明である。株主は複数の企業に分かれ、社員は自前で採った。出資者の顔ぶれと、実際に会社を動かす人の出どころが、最初から別々に設計されている。 [10][11]
- 日経ビジネス 1985年10月14日号「企業戦略 第二電電(DDI)/民間色を強く前面に」
- [10]森山信吾社長は出向に頼らず独自の募集・引き抜きで20人以上のNTT技術者を採用し、出向者にプロパー化を求めた
- [11]森山信吾社長の「DDIに骨をうずめる意思のない方はお引き取りいただいて結構です」「顧客と長年のおつき合いができなければ本当の営業はできない。2〜3年で帰ってしまう出向社員では不効率」という発言
- 週刊東洋経済 1997年3月15日号「[ひと]ツーカーセルラー東京社長 中山一」
- [5]第二電電企画の初代社長は元資源エネルギー庁長官の森山信吾、技術担当が千本倖生、人材採用担当が中山一で、小野寺正も初期に加わった
- [6]中山一氏の「値段も高く、最も入りやすい市外電話から参入した。郵政省も法律準備とのかねあいから、市外電話から新規参入を認めた」という発言
- 日経ビジネス 1985年3月18日号「強さの研究 京セラ/稲盛式キャピタリズム、内から外へ」
- [7]1985年3月時点で京セラは第二電電企画の資本金80億円の28%を出資する筆頭株主であり、出資比率を5割未満に留めて経営の支配権をあえて握らなかった
- [8]第二電電企画の非常勤取締役に牛尾治朗ウシオ電機会長・飯田亮セコム会長・盛田昭夫ソニー会長・三村庸平三菱商事社長が名を連ねた
- 証券(新規上場会社紹介)1993年45巻11号「第二電電株式会社」
- [9]設立時(1984年6月1日)の資本組入総額は16億円で、1985年3月時点の資本金は80億円
- 日経ビジネス 1985年10月14日号「企業戦略 第二電電(DDI)/民間色を強く前面に」
- [10]森山信吾社長は出向に頼らず独自の募集・引き抜きで20人以上のNTT技術者を採用し、出向者にプロパー化を求めた
- [11]森山信吾社長の「DDIに骨をうずめる意思のない方はお引き取りいただいて結構です」「顧客と長年のおつき合いができなければ本当の営業はできない。2〜3年で帰ってしまう出向社員では不効率」という発言
線路を持たない三番手が選んだ山越えのマイクロ波
通信自由化に手を挙げたのは第二電電だけではない。国鉄系の日本テレコムは新幹線の線路沿いに、建設省・道路公団を軸とする日本高速通信は高速道路の中央分離帯に、それぞれ光ファイバーを敷いて開業する計画を立てていた。両社は敷設用地を最初から持っている。京セラの連合にはその種の資産が何もない。通信網を敷く経験も、電気通信の免許も持っていなかった。稲盛会長は後年の講演で「私共は、そういうインフラは何もありませんでした。しかし、第二電電を起こそうという動機だけは純粋でしたので、かえって勇気が沸いてきました」と語っている。 [12][13]
- 証券アナリストジャーナル 1995年33巻11号「京セラの海外展開と通信事業戦略」(稲盛和夫)
- [12]日本テレコムは新幹線沿い、日本高速通信は高速道路沿いに光ファイバーを敷設して開業する計画だった
- [13]稲盛和夫氏の「私共は、そういうインフラは何もありませんでした。しかし、第二電電を起こそうという動機だけは純粋でしたので、かえって勇気が沸いてきました」という発言
用地を持たない会社が選んだのは、山の頂から頂へパラボラアンテナを置き、その間をマイクロ波で結ぶ方式だった。40キロから60キロおきに中継所を設け、ネットワークセンター間をつなぐ。道のない場所へはヘリコプターで機材を運んで鉄塔を組んだ。光ファイバーが線でつなぐのに対し、この方式は点でつなぐため、中継点だけを建てれば延伸でき、建設費を抑えながら早く伸ばせる。用地を持たないという条件が、結果として拡張の速い設備構成を選ばせた。東京・大阪間の回線は1986年8月に完成し、同年10月から専用サービスの営業が始まっている。 [14][15]
- 証券アナリストジャーナル 1993年31巻10号「第二電電」(神田延祐)
- [14]マイクロ波方式は40〜60kmおきに中継所を設けてネットワークセンター間を結ぶ構成である
- 証券(新規上場会社紹介)1993年45巻11号「第二電電株式会社」
- [15]1986年8月に東京・大阪間のネットワークが完成し、同年10月に専用サービスの営業を開始した
三陣営は同じ時期に開業にこぎつけた。1985年4月の電気通信事業法施行に合わせて商号を第二電電株式会社に改め、6月に郵政省から第一種電気通信事業の許可を、12月に市外電話サービスの接続番号「0077」の指定を受けている。既設の用地を持つ2社と、山を越えて鉄塔を建てた1社が、同じ年に許可を受け同じ時期に走り出している。神田延祐社長は後年、この方式を「『線』でつなぐ光ファイバー方式に比べ、保守上有利であるばかりでなく、中継点のみの建設によるネットワークの早期拡張が可能であり、コストを低く抑えることが可能」と説明した。用地を買えない制約から選んだ方式が、延伸の速さと保守の両面で利点を持っていた。 [16][17]
- 証券(新規上場会社紹介)1993年45巻11号「第二電電株式会社」
- [16]1985年4月に商号を第二電電株式会社に改め、6月に第一種電気通信事業の許可、12月に接続番号「0077」の指定を受けた
- 証券アナリストジャーナル 1993年31巻10号「第二電電」(神田延祐)
- [17]神田延祐社長はマイクロ波方式について「これは「線」でつなぐ光ファイバー方式に比べ、保守上有利であるばかりでなく、中継点のみの建設によるネットワークの早期拡張が可能であり、コストを低く抑えることが可能など、経営上のメリットもある」と説明した
- 証券アナリストジャーナル 1995年33巻11号「京セラの海外展開と通信事業戦略」(稲盛和夫)
- [12]日本テレコムは新幹線沿い、日本高速通信は高速道路沿いに光ファイバーを敷設して開業する計画だった
- [13]稲盛和夫氏の「私共は、そういうインフラは何もありませんでした。しかし、第二電電を起こそうという動機だけは純粋でしたので、かえって勇気が沸いてきました」という発言
- 証券アナリストジャーナル 1993年31巻10号「第二電電」(神田延祐)
- [14]マイクロ波方式は40〜60kmおきに中継所を設けてネットワークセンター間を結ぶ構成である
- [17]神田延祐社長はマイクロ波方式について「これは「線」でつなぐ光ファイバー方式に比べ、保守上有利であるばかりでなく、中継点のみの建設によるネットワークの早期拡張が可能であり、コストを低く抑えることが可能など、経営上のメリットもある」と説明した
- 証券(新規上場会社紹介)1993年45巻11号「第二電電株式会社」
- [15]1986年8月に東京・大阪間のネットワークが完成し、同年10月に専用サービスの営業を開始した
- [16]1985年4月に商号を第二電電株式会社に改め、6月に第一種電気通信事業の許可、12月に接続番号「0077」の指定を受けた