日本国有鉄道 の歴史

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沿革

1949〜1987年 1949年に運輸省鉄道総局の現業部門が切り離されて発足した公共企業体が起源。1960年に国内初のオンライン座席予約システムMARSを導入し、1964年には東海道新幹線を開業させた。1987年に分割民営化でJR旅客6社・JR貨物へ移行し、38年の歴史を閉じた。

沿革

1949年に運輸省鉄道総局の現業部門が切り離されて発足した公共企業体が起源。

1960年に国内初のオンライン座席予約システムMARSを導入し、1964年には東海道新幹線を開業させた。1987年に分割民営化でJR旅客6社・JR貨物へ移行し、38年の歴史を閉じた。

1949年〜創業期公共企業体の発足と定員法による9万5018人の整理

  1. 日本国有鉄道法により運輸省から独立し公共企業体として発足
  2. 定員法により職員9万5018人を整理、下山・三鷹・松川事件が続発
  3. 本庁組織を改正
  4. 地方組織を改正
  5. 組織を改正
  6. 資産再評価による減価償却費増で営業損失を計上
日本国有鉄道売上高1955年3月期2,629.7億円

1956年〜安定成長期十河信二総裁の広軌別線投資と東海道新幹線の開業

  1. 組織を改正
  2. わが国初のオンライン座席予約システムMARSを使用開始
  3. 運賃改訂と全面時刻改正で旅客・貨物列車を大幅増発
  4. 常磐線三河島駅で列車衝突事故が発生
  5. 東海道新幹線が開業
日本国有鉄道売上高1964年3月期6,002億円

1965年〜低迷期事業純損失への転落と5万人合理化計画

  1. 経費増が収入増を上回り事業純損失に転落
  2. 5万人合理化計画を提示し電気機関車・ディーゼル機関車の1人乗務化に着手
  3. 監査報告書が線区を輸送需要によりA・B・C区分に3分類
  4. 財政再建計画を策定し再建期間の収支試算を提示
  5. 財政再建の柱として生産性向上運動を全国で開始
  6. 国労・動労が19時間ストを実施し全国で約5000本が運休
  7. 公労委が生産性向上運動を不当労働行為と認定し国鉄は救済命令を受諾
  8. 長期債務残高が3兆円を突破
  9. 順法闘争への不満から高崎線上尾駅で暴動が発生
  10. 公労協のスト権奪還ストで8日間192時間にわたり輸送が停止
日本国有鉄道売上高1975年3月期18,209億円

1976年〜転換期長期債務10兆円突破と分割民営化によるJR7社の発足

  1. 一般勘定と区分して特別勘定を新設
  2. 単年度純損失が9千億円台に到達
  3. 「日本国有鉄道の再建について」を閣議了解
  4. 長期債務残高が10兆円を突破
  5. 日本国有鉄道経営再建促進特別措置法が成立
  6. 自民党が国鉄再建小委員会(三塚委員会)を設置
  7. 東北・上越新幹線の資本費負担を損益に計上開始
  8. 通信自由化に対応し日本テレコムを設立
  9. 旅客販売総合システムMARS 301の使用を開始
  10. 単年度純損失が1兆6504億円に拡大
  11. 再建監理委員会が分割民営化を求める意見を提出
  12. 分割民営化でJR旅客6社・JR貨物へ移行し38年の歴史に幕
日本国有鉄道売上高1984年3月期33,898億円

系譜

1949年に日本国有鉄道法により運輸省から独立し、公共企業体として発足。1984年に日本テレコムを設立した。1987年に分割民営化でJR旅客6社・JR貨物へ移行。公共企業体を地域別に分割し、民営化による業界再編を実現した。

系譜

1949年に日本国有鉄道法により運輸省から独立し、公共企業体として発足。

1984年に日本テレコムを設立した。1987年に分割民営化でJR旅客6社・JR貨物へ移行。公共企業体を地域別に分割し、民営化による業界再編を実現した。

1871年 1906年 1908年 1920年 1943年 1945年 1949年 1987年 鉄道寮 1871年工部省に設置 日本鉄道ほか私鉄17社 1906年鉄道国有法で買収 逓信省鉄道作業局 1906年私鉄17社を国有化 鉄道院 1908年内閣直属へ移管 鉄道省 1920年省に昇格 運輸通信省 1943年逓信省と統合 運輸省 1945年鉄道総局を置く 日本国有鉄道 1949年公共企業体として発足 国鉄清算事業団 1987年債務25.9兆円を承継 JR7社 1987年分割発足
長期業績の推移 1949〜1984年

業績

日本国有鉄道:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
1970年3月期〜1984年3月期

第1章 1949年〜 公共企業体の発足と定員法による9万5018人の整理

1949年〜総司令部の要求による公共企業体への改組と、独立採算制・運賃法定制

1949年6月1日、国有鉄道は日本国有鉄道の名称で公共企業体として改組し、76年続いた国営の幕を閉じて政府の行政機関から切り離された。改組を要した第1の条件は連合軍による占領である。国有鉄道は課ひとつの改廃も定員の異動も、総司令部と逐一打ち合わせて指令・勧告を仰がなければ実行できない状態に置かれていた。運輸省の内部にも事情があり、鉄道総局が膨大な現業機関を抱えるのに対し海運総局は純然たる監督機関にとどまるため、鉄道現業部門を運輸省から切り離すべきだという議論が省内の大勢を占めていた。公共企業体という構想も、日本政府が独自に発想したものではない。総司令部から"Public corporation"の機構を内示された政府は、アメリカ合衆国の同種の企業体についてまず初歩から調査した。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [1]1949年6月1日 国有鉄道が日本国有鉄道の名称で公共企業体へ改組
    • [2]76年の国営に幕を閉じ政府の行政機関から切り離された
    • [3]改組を要した第1の条件は連合軍の占領
    • [4]課の改廃も定員の異動も総司令部の指令・勧告を要した
    • [5]鉄道総局は現業機関を持ち海運総局は監督機関という運輸省内の不均衡
    • [6]鉄道現業部門を運輸省から切り離すべきだという議論が省内の大勢
    • [7]公共企業体は日本政府独自の構想ではなく総司令部から内示された
    • [8]政府は米国の同種企業体を初歩から調査した

1948年7月22日、マッカーサー元帥は内閣総理大臣芦田均氏に書簡を送り、国家公務員の争議その他国務を渋滞させるいっさいの行為を禁止するよう勧告するとともに、国有鉄道や専売事業について公共企業体を組織すべきことに言及した。書簡を受けて国家公務員法が改正され、国家公務員は争議権も団体交渉権も失った。国有鉄道の職員は国家権力の行使ではなく企業の運営に従事するにすぎず、公務員より緩和された労働権を与えるほうが企業運営上好ましい。この理由づけが組織変更の趣旨とされた。運輸省が1948年7月29日に作った機構改革案3案のうち、政府は鉄道総庁案と国有鉄道庁案を実現可能とみた。総司令部民間運輸局は、公共性と企業性の実現には公社とする第3案によるべきだと譲らなかった。日本国有鉄道法案は同年11月11日に第3回国会へ提出され、11月30日に無修正で可決、12月20日に法律第256号として公布された。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [9]1948年7月22日 マッカーサー元帥が芦田均首相へ書簡を送付
    • [10]国務を渋滞させるいっさいの行為の禁止を勧告
    • [11]書簡は国有鉄道・専売事業の公共企業体化に言及
    • [12]国家公務員法改正で争議権も団体交渉権も禁止
    • [13]国鉄職員には公務員より緩和された労働権を与えるほうが好ましいとの趣旨で公共企業体へ改組
    • [14]1948年7月29日 運輸省が機構改革案3案を作成し政府は第1・第2案を検討
    • [15]総司令部民間運輸局が公社とする第3案を主張して譲らなかった
    • [16]日本国有鉄道法は1948年11月30日可決・12月20日に法律第256号として公布

日本国有鉄道法の施行は当初1949年4月1日を予定していたが、運輸省設置法の施行が6月1日へ延期されたため同じ日にそろえられた。日本国有鉄道は発足と同時に、経済安定9原則によって均衡予算を厳守することを第1の命題とされた。1949年度は貨物運賃を据え置き旅客運賃を6割値上げすることを条件に、収支の均衡をはかることが求められた。運賃の決め方にも制約がかかった。財政法第3条が国の独占事業の料金を法律または国会の議決で定めると規定したのは、新憲法の理念によるものとして総司令部が強く要求した結果である。1948年4月14日の法律第27号『財政法第3条の特例に関する法律』は、国会の議決を要するものに煙草の定価・郵便電信料金と並んで鉄道運賃の賃率を含めた。独立採算制を採ったことで復興のための投資規模は必要な水準に届かず、のちに至るまで大きな禍根を残した。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [17]施行は1949年4月1日の予定が運輸省設置法にそろえて6月1日へ延期
    • [18]経済安定9原則により均衡予算の厳守が第1の命題
    • [19]1949年度は貨物据置き・旅客6割値上げを条件に収支均衡を要求された
    • [20]財政法第3条の独占事業料金の国会議決規定は総司令部の強い要求による
    • [21]新憲法の理念によるものとして総司令部が要求した
    • [22]1948年4月14日 法律第27号が鉄道運賃の賃率を国会議決事項に含めた
    • [23]議決事項に煙草の定価・郵便電信料金と鉄道運賃の賃率を含めた
    • [24]独立採算制の採用で復興投資が抑えられ後年まで禍根を残した
参考文献[1]-[24]
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [1]1949年6月1日 国有鉄道が日本国有鉄道の名称で公共企業体へ改組
    • [2]76年の国営に幕を閉じ政府の行政機関から切り離された
    • [3]改組を要した第1の条件は連合軍の占領
    • [4]課の改廃も定員の異動も総司令部の指令・勧告を要した
    • [5]鉄道総局は現業機関を持ち海運総局は監督機関という運輸省内の不均衡
    • [6]鉄道現業部門を運輸省から切り離すべきだという議論が省内の大勢
    • [7]公共企業体は日本政府独自の構想ではなく総司令部から内示された
    • [8]政府は米国の同種企業体を初歩から調査した
    • [9]1948年7月22日 マッカーサー元帥が芦田均首相へ書簡を送付
    • [10]国務を渋滞させるいっさいの行為の禁止を勧告
    • [11]書簡は国有鉄道・専売事業の公共企業体化に言及
    • [12]国家公務員法改正で争議権も団体交渉権も禁止
    • [13]国鉄職員には公務員より緩和された労働権を与えるほうが好ましいとの趣旨で公共企業体へ改組
    • [14]1948年7月29日 運輸省が機構改革案3案を作成し政府は第1・第2案を検討
    • [15]総司令部民間運輸局が公社とする第3案を主張して譲らなかった
    • [16]日本国有鉄道法は1948年11月30日可決・12月20日に法律第256号として公布
    • [17]施行は1949年4月1日の予定が運輸省設置法にそろえて6月1日へ延期
    • [18]経済安定9原則により均衡予算の厳守が第1の命題
    • [19]1949年度は貨物据置き・旅客6割値上げを条件に収支均衡を要求された
    • [20]財政法第3条の独占事業料金の国会議決規定は総司令部の強い要求による
    • [21]新憲法の理念によるものとして総司令部が要求した
    • [22]1948年4月14日 法律第27号が鉄道運賃の賃率を国会議決事項に含めた
    • [23]議決事項に煙草の定価・郵便電信料金と鉄道運賃の賃率を含めた
    • [24]独立採算制の採用で復興投資が抑えられ後年まで禍根を残した

1950年〜定員法による9万5018人の整理と、下山・三鷹・松川の三事件

終戦直後の国有鉄道は事業官庁として多くの職種を持ち、復員・引揚の軍人や政府関係職員を受け入れる組織として着目されたため、積極的な人員受け入れを迫られた。食糧増産、運輸建設本部・軍管理工場・軍病院の引受け、炭坑の経営、教習所の拡充、公安員の設置、列車の増発を相次いで計画したのもその現われである。ただし人の多い割にサービスは向上せず、営業でも運転でも事故が減らないという非難が絶えなかった。1949年3月末の職員数は60万4243人に達し、1948年度は一般会計からの300億円の繰入金でかろうじて収支のバランスを保った。1949年5月31日に成立した行政機関職員定員法は附則第7項で、職員数を同年10月1日に506,734名以下とするため9月30日までに逐次整理すると定めた。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [25]復員・引揚の軍人や政府関係職員の受け皿として人員を受け入れた
    • [26]食糧増産・軍管理工場・軍病院の引受けや炭坑経営など業務を広げた
    • [27]人が多い割にサービスは向上せず事故も減らないとの非難が絶えなかった
    • [28]1949年3月末の国鉄職員数は60万4243人
    • [29]1948年度は一般会計から300億円を繰り入れて収支を保った
    • [30]1949年5月31日成立の行政機関職員定員法 附則第7項で506,734名以下へ整理
    • [31]1949年10月1日時点で506,734名を超えないよう9月30日までに整理

定員は機械的な天引削減ではなく、最も能率的とみられた1939年度の労働生産性を基準に1950年度の業務量から算定し、労働基準法の施行による労働条件の変化を加味して決めた。整理の基準は人格・知識、肉体的適応性、業務に対する熟練と協力といった資格要件の優劣に置き、差を認めがたい者の間では国有鉄道での勤務の長さによるとした。同法附則第9項は、公共企業体労働関係法第8条第2項が定める団体交渉の範囲の規定の適用を排除した。国鉄労働組合が申し立てた仮処分を、東京地方裁判所は1949年8月8日に却下した。整理は7月1日に運輸省大臣出席のもとで基準を通告してから、7月4日の第1次通告、7月14日の第2次通告を経て、7月21日の広島鉄道局管内への通告で大筋を終えた。依願免1万2472人、免職8万141人、その他2405人の計9万5018人が職を離れた。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [32]定員は1939年度の労働生産性を基準に1950年度の業務量から算定
    • [33]労働基準法の施行による労働条件のあり方を考慮して決定
    • [34]整理基準は人格・知識・肉体的適応性・熟練と協力の優劣
    • [35]資格要件に差がない者は国有鉄道での勤務の長さによる
    • [36]定員法附則第9項が公労法第8条第2項の適用を排除
    • [37]1949年8月8日 東京地裁が国労の仮処分申請を却下
    • [38]7月1日の基準通告から7月21日の広島鉄道局管内通告まで
    • [39]依願免1万2472人・免職8万141人・その他2405人の計9万5018人

第1次通告の翌7月5日、下山定則総裁は日本橋三越へ立ち寄ったまま消息を絶ち、翌6日、常磐線北千住・綾瀬間で轢死体となって発見された。自殺説と他殺説が入り乱れ、原因は不明である。第2次通告の翌15日、中央本線三鷹駅構内で電車が暴走し、前部4両が駅前のアパートに突入し、旅客6人が死亡、19人が重軽傷を負った。8月17日、東北本線金谷川・松川間で上り第412列車が脱線転覆し、機関士と機関助士3人が死亡した。政府は事件のたびに共産党員や労働組合員が暴力革命の意図で起こしたものとして発表し、新聞やラジオもこれを大々的に伝えた。組合は不利な立場に追い込まれ、予測された地域闘争も組織的闘争も起きなかった。1950年11月10日、日本国有鉄道は共産主義者と同調者を排除する方針を組合へ示し、469人を追放した。1951年5月23・24日、京都で日本国有鉄道機関車労働組合が結成され、分裂が確定した。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [40]1949年7月5日 下山定則総裁が日本橋三越で消息を絶つ
    • [41]翌6日、常磐線北千住・綾瀬間で轢死体で発見
    • [42]自殺説・他殺説が入り乱れ原因は不明
    • [43]三鷹駅構内で電車が暴走し前部4両が駅前アパートに突入
    • [44]旅客6人が死亡し19人が重軽傷
    • [45]1949年8月17日 松川で上り第412列車が脱線転覆し3人死亡
    • [46]政府は事件を共産党員・労働組合員によるものと発表し報道も拡大
    • [47]組合は不利な立場に追い込まれ地域闘争も組織的闘争も起こらなかった
    • [48]1950年11月10日の方針提示によるレッドパージで469人を追放
    • [49]1951年5月23・24日 京都で日本国有鉄道機関車労働組合が結成
参考文献[25]-[49]
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [25]復員・引揚の軍人や政府関係職員の受け皿として人員を受け入れた
    • [26]食糧増産・軍管理工場・軍病院の引受けや炭坑経営など業務を広げた
    • [27]人が多い割にサービスは向上せず事故も減らないとの非難が絶えなかった
    • [28]1949年3月末の国鉄職員数は60万4243人
    • [29]1948年度は一般会計から300億円を繰り入れて収支を保った
    • [30]1949年5月31日成立の行政機関職員定員法 附則第7項で506,734名以下へ整理
    • [31]1949年10月1日時点で506,734名を超えないよう9月30日までに整理
    • [32]定員は1939年度の労働生産性を基準に1950年度の業務量から算定
    • [33]労働基準法の施行による労働条件のあり方を考慮して決定
    • [34]整理基準は人格・知識・肉体的適応性・熟練と協力の優劣
    • [35]資格要件に差がない者は国有鉄道での勤務の長さによる
    • [36]定員法附則第9項が公労法第8条第2項の適用を排除
    • [37]1949年8月8日 東京地裁が国労の仮処分申請を却下
    • [38]7月1日の基準通告から7月21日の広島鉄道局管内通告まで
    • [39]依願免1万2472人・免職8万141人・その他2405人の計9万5018人
    • [40]1949年7月5日 下山定則総裁が日本橋三越で消息を絶つ
    • [41]翌6日、常磐線北千住・綾瀬間で轢死体で発見
    • [42]自殺説・他殺説が入り乱れ原因は不明
    • [43]三鷹駅構内で電車が暴走し前部4両が駅前アパートに突入
    • [44]旅客6人が死亡し19人が重軽傷
    • [45]1949年8月17日 松川で上り第412列車が脱線転覆し3人死亡
    • [46]政府は事件を共産党員・労働組合員によるものと発表し報道も拡大
    • [47]組合は不利な立場に追い込まれ地域闘争も組織的闘争も起こらなかった
    • [48]1950年11月10日の方針提示によるレッドパージで469人を追放
    • [49]1951年5月23・24日 京都で日本国有鉄道機関車労働組合が結成

1951年〜占領下で削られた電化計画と、朝鮮戦争の特需輸送

1948年に立てられた幹線電化中心の5か年計画に対し、総司令部民間運輸局は、着工済みの奥羽本線福島・米沢間と東海道本線沼津・浜松間についても工事の中止を求めた。日本国有鉄道は石炭の消費節減と国内の経済復興に不可欠だという理由で継続の承認を得、東海道本線は沼津・静岡間を1949年2月1日、静岡・浜松間を5月20日、奥羽本線福島・米沢間を4月24日に完成させ、これらの電化線区は予期以上の経済的効果をあげた。しかし他の工事は一つも起工できず、5か年計画の実現はほとんど不可能になった。車両の増備も総司令部の命令でほとんどが削られた。1949年9月15日のダイヤ改正では特急"平和"号が復活し、展望車1両を含む11両編成で東京・大阪間554kmを9時間で走り、平均速度61.5km/h、最高速度95km/hとほぼ戦前の水準に戻した。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [50]1948年に幹線電化を中心とする5か年計画を策定
    • [51]総司令部民間運輸局が着工済み区間の工事中止を要求
    • [52]石炭の消費節減と経済復興に必要と説得して工事継続の承認を得た
    • [53]1949年に東海道本線沼津・浜松間と奥羽本線福島・米沢間の電化が完成
    • [54]電化線区は予期以上の経済的効果をあげた
    • [55]他の工事は起工できず5か年計画の実現は不可能になった
    • [56]車両増備も総司令部の命令でほとんど削減された
    • [57]1949年9月15日のダイヤ改正で特急「平和」号が復活
    • [58]11両編成で東京・大阪間554kmを9時間・平均61.5km/hで走り戦前水準に達した

1950年6月25日に朝鮮戦争が始まると、日本は不可欠の兵站基地とされ、膨大な兵員と資材が送り込まれた。開戦の翌26日には弾薬輸送のため約40両の貨車が動員され、臨時貨物列車は26日1本、27日2本、28日6本、29日10本と急増した。7月1日から16日までに九州地区へ走った軍事輸送関係の臨時列車は209本・5111両に達し、一般の貨物輸送はその分だけ抑えられた。貨物の年間輸送量は1949年度の1億2430万トンから1950年度は1億2900万トンへ伸びており、この数字には連合軍の軍事輸送量が入っていない。1950年秋の在貨は150万トン、1951年2月も150万トンで、以後は200万トン前後で推移した。1951年度上半期の貨物輸送実績は1936年度比で約150%となり、同期の鉱工業生産指数113を上回った。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [59]1950年6月25日 朝鮮戦争勃発で日本が兵站基地とされた
    • [60]開戦翌日に弾薬輸送で約40両の貨車を動員
    • [61]臨時貨物列車は6月26日1本から29日10本へ急増
    • [62]7月1日から16日に九州地区へ軍事輸送の臨時列車209本・5111両
    • [63]貨物年間輸送量は1949年度1億2430万トンから1950年度1億2900万トンへ
    • [64]この輸送量には連合軍の軍事輸送量を含まない
    • [65]1950年秋・1951年2月の在貨150万トン、以後200万トン前後
    • [66]1951年度上半期の貨物輸送実績は1936年度比約150%、鉱工業生産指数は113

1950年から1955年にかけて日本国有鉄道の貨物と旅客の輸送量はいずれも約2割増えたが、施設の増加はわずかにとどまった。輸送力が需要に追いつかない間に自家用トラックが増え、その輸送量の伸びは鉄道を上回った。当時の自動車保有台数は14万台にすぎない。道路の側では有料道路の制度が設けられ、揮発油税を道路整備の特定財源とする法律も制定された。日本国有鉄道の1952年度は営業収入2182億2000万円に対し営業損益が20億8000万円の赤字、1954年度も35億9000万円の赤字だった。1949年9月に第2代総裁となった加賀山之雄氏、1951年8月に第3代総裁となった長崎惣之助氏に続き、1955年5月には十河信二氏が第4代総裁に就任した。

  • 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-自動車時代のきざし」
    • [67]1950年から1955年に貨物・旅客とも約2割増えたが施設の増加は微々たるもの
    • [68]鉄道輸送力の相対的低下が自動車輸送をうながし自家用トラックの伸びが鉄道を上回った
    • [69]戦後の自動車保有台数は14万台
    • [70]有料道路の創設と揮発油税を道路整備の特定財源とする法律の制定
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和34年度
    • [71]1952年度 営業収入2182.2億円・営業損益△20.8億円
    • [72]1954年度 営業損益△35.9億円
  • 日本国有鉄道百年史 別巻 国鉄歴史事典(日本国有鉄道、1973年)
    • [73]第2代総裁 加賀山之雄氏 1949年9月就任/第3代 長崎惣之助氏 1951年8月就任
    • [74]第4代総裁 十河信二氏 1955年5月就任
参考文献[50]-[74]
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [50]1948年に幹線電化を中心とする5か年計画を策定
    • [51]総司令部民間運輸局が着工済み区間の工事中止を要求
    • [52]石炭の消費節減と経済復興に必要と説得して工事継続の承認を得た
    • [53]1949年に東海道本線沼津・浜松間と奥羽本線福島・米沢間の電化が完成
    • [54]電化線区は予期以上の経済的効果をあげた
    • [55]他の工事は起工できず5か年計画の実現は不可能になった
    • [56]車両増備も総司令部の命令でほとんど削減された
    • [57]1949年9月15日のダイヤ改正で特急「平和」号が復活
    • [58]11両編成で東京・大阪間554kmを9時間・平均61.5km/hで走り戦前水準に達した
    • [59]1950年6月25日 朝鮮戦争勃発で日本が兵站基地とされた
    • [60]開戦翌日に弾薬輸送で約40両の貨車を動員
    • [61]臨時貨物列車は6月26日1本から29日10本へ急増
    • [62]7月1日から16日に九州地区へ軍事輸送の臨時列車209本・5111両
    • [63]貨物年間輸送量は1949年度1億2430万トンから1950年度1億2900万トンへ
    • [64]この輸送量には連合軍の軍事輸送量を含まない
    • [65]1950年秋・1951年2月の在貨150万トン、以後200万トン前後
    • [66]1951年度上半期の貨物輸送実績は1936年度比約150%、鉱工業生産指数は113
  • 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-自動車時代のきざし」
    • [67]1950年から1955年に貨物・旅客とも約2割増えたが施設の増加は微々たるもの
    • [68]鉄道輸送力の相対的低下が自動車輸送をうながし自家用トラックの伸びが鉄道を上回った
    • [69]戦後の自動車保有台数は14万台
    • [70]有料道路の創設と揮発油税を道路整備の特定財源とする法律の制定
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和34年度
    • [71]1952年度 営業収入2182.2億円・営業損益△20.8億円
    • [72]1954年度 営業損益△35.9億円
  • 日本国有鉄道百年史 別巻 国鉄歴史事典(日本国有鉄道、1973年)
    • [73]第2代総裁 加賀山之雄氏 1949年9月就任/第3代 長崎惣之助氏 1951年8月就任
    • [74]第4代総裁 十河信二氏 1955年5月就任

第2章 1956年〜 十河信二総裁の広軌別線投資と東海道新幹線の開業

1957年〜東海道本線の輸送力の限界と広軌別線をめぐる論争

1957年、東海道本線の東京・新橋間には片道210本の列車が走った。列車回数は1954年から1955年にかけて戦前の最高水準を超え、複線鉄道で片道200本を超える本数は限界点に近く、これ以上の増発は難しかった。東海道本線の営業キロは590kmで全営業キロの約3%にすぎなかったが、旅客輸送量は全国鉄の約25%、貨物輸送量は24%に達し、その増加率は全国鉄の平均を年々上回った。沿線には全国土の約16%の面積に全人口の43%が集まり、工業生産額と国民所得は全国の約70%を占めた。日本国有鉄道は1956年に東海道本線の全線電化を終え、1958年11月から東京・大阪間を日帰りできる特急電車"こだま号"を走らせたが、線路の容量そのものは変わらなかった。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [75]1957年に東京・新橋間で片道210本の列車が走った
    • [76]列車回数は1954年から1955年に戦前最高の水準を越えた
    • [77]複線鉄道で片道200本超は限界点に近い
    • [78]東海道本線の営業キロは590kmで全営業キロの約3%
    • [79]旅客輸送量は全国鉄の約25%、貨物輸送量は24%
    • [80]沿線に全国土の約16%の面積と全人口の43%が集中し、工業生産額と国民所得は全国の約70%
    • [81]1956年に東海道本線の全線電化が完成
    • [82]1958年11月から東京・大阪間日帰り可能の特急電車「こだま号」運転開始

第二次大戦中の東京・下関間広軌別線建設計画は、国際標準軌間を採り、東京・大阪間を約4時間半で結ぶ構想だった。工事は1943年から1944年にかけて中止となり、用地の約25%と、ある程度掘り進んだ長大トンネルが残った。日本国有鉄道は1956年5月、本社に東海道線増強調査会を設け、技師長を会長として全社で増強策の検討に入った。案は狭軌併設、狭軌別線、広軌10駅、広軌23駅、広軌電鉄の5案に絞られたが、いずれも1000億円を超える投資を必要とした。1957年5月25日、鉄道技術研究所は創立50周年を記念して東京銀座の山葉ホールで公開講演会を開き、東京・大阪間を最高時速250kmの電車により3時間で結ぶ可能性を紹介した。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [83]戦時中の東京・下関間広軌別線建設計画は国際標準軌間を採用
    • [84]東京・大阪間を約4時間半で結ぶ構想
    • [85]1943年から1944年にかけて工事中止、用地は全体の約25%を確保
    • [86]1956年5月に本社へ東海道線増強調査会を設置し、会長は技師長
    • [87]増強案は狭軌併設・狭軌別線・広軌10駅・広軌23駅・広軌電鉄の5案
    • [88]いずれの案も1000億円を超える投資を要した
    • [89]1957年5月25日に鉄道技術研究所が創立50周年記念の公開講演会を山葉ホールで開催
    • [90]最高時速250kmの電車で東京・大阪間を3時間で結ぶ可能性を発表

十河信二総裁は講演会の後に国鉄内部の意見をまとめ、1957年7月2日、運輸省大臣の宮沢胤勇氏へ東海道本線の増強について配慮を求めた。7月29日には本社に幹線調査室を置き、大石重成氏を室長とした。政府は8月30日、閣議決定に基づいて運輸省に日本国有鉄道幹線調査会を設け、会長に大蔵公望氏、委員35人を任命した。第1回調査会の席上、十河信二総裁は戦前に始まった広軌新幹線を下回る輸送力増強計画では間に合わないとの立場から、広軌別線案を暗に押し出した。調査会では、新幹線方式は過剰投資であるうえむだな投資であり、航空機と競争する高速の別線より混雑緩和へ資金を向けるべきだという議論も出た。計画を戦艦大和・武蔵や万里の長城と並べ"世界の三馬鹿"と嘲笑する者もあり、ジャーナリズムは興味本位に採り上げた。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [91]1957年7月2日に十河信二総裁が運輸大臣の宮沢胤勇へ東海道本線の増強を要請
    • [92]1957年7月29日に本社へ幹線調査室を設置し、室長は大石重成
    • [93]1957年8月30日に閣議決定で運輸省へ日本国有鉄道幹線調査会を設置
    • [94]幹線調査会の会長は大蔵公望、委員は35人
    • [95]十河総裁は第1回調査会で広軌別線案を暗に主張
    • [96]新幹線方式は過剰投資かつむだな投資で、混雑緩和に振り向けるべきという反対論
    • [97]戦艦大和・武蔵や万里の長城と並べ「世界の三馬鹿」と嘲笑された
参考文献[75]-[97]
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [75]1957年に東京・新橋間で片道210本の列車が走った
    • [76]列車回数は1954年から1955年に戦前最高の水準を越えた
    • [77]複線鉄道で片道200本超は限界点に近い
    • [78]東海道本線の営業キロは590kmで全営業キロの約3%
    • [79]旅客輸送量は全国鉄の約25%、貨物輸送量は24%
    • [80]沿線に全国土の約16%の面積と全人口の43%が集中し、工業生産額と国民所得は全国の約70%
    • [81]1956年に東海道本線の全線電化が完成
    • [82]1958年11月から東京・大阪間日帰り可能の特急電車「こだま号」運転開始
    • [83]戦時中の東京・下関間広軌別線建設計画は国際標準軌間を採用
    • [84]東京・大阪間を約4時間半で結ぶ構想
    • [85]1943年から1944年にかけて工事中止、用地は全体の約25%を確保
    • [86]1956年5月に本社へ東海道線増強調査会を設置し、会長は技師長
    • [87]増強案は狭軌併設・狭軌別線・広軌10駅・広軌23駅・広軌電鉄の5案
    • [88]いずれの案も1000億円を超える投資を要した
    • [89]1957年5月25日に鉄道技術研究所が創立50周年記念の公開講演会を山葉ホールで開催
    • [90]最高時速250kmの電車で東京・大阪間を3時間で結ぶ可能性を発表
    • [91]1957年7月2日に十河信二総裁が運輸大臣の宮沢胤勇へ東海道本線の増強を要請
    • [92]1957年7月29日に本社へ幹線調査室を設置し、室長は大石重成
    • [93]1957年8月30日に閣議決定で運輸省へ日本国有鉄道幹線調査会を設置
    • [94]幹線調査会の会長は大蔵公望、委員は35人
    • [95]十河総裁は第1回調査会で広軌別線案を暗に主張
    • [96]新幹線方式は過剰投資かつむだな投資で、混雑緩和に振り向けるべきという反対論
    • [97]戦艦大和・武蔵や万里の長城と並べ「世界の三馬鹿」と嘲笑された

1964年〜世界銀行の8000万ドル借款と開業

日本国有鉄道幹線調査会は1958年7月7日、所要資金と利子の合計を1948億円と見積もり、国内で調達でき運賃の引上げも要らないとする答申書を提出した。1959年3月31日には第31回国会が東海道幹線増設費を承認し、4月20日に新丹那トンネル東口で起工式を行った。当初予算は用地費146億円と路盤工事費1073億円などを積んだ1725億円で、利子と債務取扱諸費247億円を加えて1972億円とした。これを自己資金でまかなうことはできず、開業後の経営を考えて年5.75%の低利による世界銀行の借款を選び、名神高速道路の建設費で借款が実現していたことから成立の見込みを立てた。1961年5月2日、十河信二総裁とブラック世界銀行総裁が8000万ドルの借款契約書に署名し、同時に交わした覚書によって日本政府は国際的に新幹線の完成を義務づけられた。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [98]1958年7月7日に幹線調査会が答申書を提出、所要資金と利子の合計は1948億円
    • [99]1959年3月31日に第31回国会が東海道幹線増設費を承認し工事へ正式着手
    • [100]1959年4月20日に新丹那トンネル東口で東海道新幹線の起工式
    • [101]当初予算1725億円(用地費146億円・路盤工事費1073億円ほか)
    • [102]利子および債務取扱諸費247億円を加えた総額1972億円
    • [103]5.75%の低利による世界銀行借款を方針とした
    • [104]名神高速道路建設費の借款が実現しており成立の可能性は大きいと判断
    • [105]1961年5月2日に十河総裁とブラック世銀総裁が8000万ドルの借款契約に調印
    • [106]覚書により日本政府は国際的に新幹線の完成を義務づけられた

工事費の不足は1959年末に明らかになったが、交渉中の世界銀行に対する信用問題もあり、総額予算を据え置いたまま1960年度の契約を進めた。不足額は1961年4月に864億円、12月には1218億円へ膨らんだ。借款に調印した1961年5月、日本側は世界銀行へ総額2926億円の増額改訂を説明し、うち直接工事費の増加分は802億円だった。理由は物価の騰貴と設計協議による計画変更である。1962年5月の三河島事故を機に、他の線区の改良を後回しにして東海道線を改良するのは利用者の利益を無視するという非難が強まり、増額はかえって工事への反対を強めるという判断から、1962年度補正と1963年度予算は2926億円のわくを動かさずに要求した。工事は全体の工期を決める長大トンネルから始め、切取と盛土の延長は274km、土工量は3500万立方mに達した。工事では211人が殉職した。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [107]1959年末に工事費の不足が明瞭となり、世銀への信用問題から総額予算は据え置き
    • [108]不足額は1961年4月に864億円、12月に1218億円
    • [109]1961年5月に総額2926億円への増額改訂を世銀へ説明、直接工事費の増加分は802億円
    • [110]増額の理由は物価騰貴と設計協議による計画変更
    • [111]1962年5月の三河島事故を契機に東海道線偏重への非難が強まった
    • [112]1962年度補正・1963年度予算は総額2926億円のわくを動かさずに要求
    • [113]工事は長大トンネルから着工、切取・盛土の延長274km、土工量3500万立方m
    • [114]東海道新幹線建設工事の殉職者は211柱

1962年10月27日にモデル線で時速200kmの走行試験に成功し、1963年3月30日には256kmを記録した。愛称は公募で55万8882通が集まり、"ひかり"と"こだま"が選ばれた。十河信二総裁は1963年5月に退き、開業を迎えたのは第5代総裁の石田禮助氏だった。1964年9月17日、工事監査により10月1日の使用開始に差し支えないことが確認された。10月1日、東京・新大阪間515kmで営業を開始し、東京と新大阪の各始発列車はいずれも定時に終着駅へ着いた。1日60本、超特急"ひかり"が4時間、特急"こだま"が5時間で、輸送力はそれまでの特急・急行の約3〜4倍だった。開業当初に1日約6万人だった輸送人員は1965年度に約8万5000人となり、新幹線の収支は1965年度の128億円の赤字から1966年度に164億円の黒字へ転じた。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [115]1962年10月27日に200km/h試験に成功
    • [116]1963年3月30日に256km/hを記録
    • [117]愛称公募は55万8882通、「ひかり」「こだま」が選ばれた
    • [119]1964年9月17日の工事監査報告書が10月1日の使用開始を認めた
    • [120]1964年10月1日に東京・新大阪間515kmで営業開始、始発列車は定時到着
    • [121]開業時は1日60本、「ひかり」4時間・「こだま」5時間、輸送力は従来の約3〜4倍
    • [122]開業当初1日約6万人の輸送人員が1965年度に約8万5000人
    • [123]新幹線の収支は1965年度△127億9900万円、1966年度163億5300万円
  • 日本国有鉄道百年史 別巻 国鉄歴史事典(日本国有鉄道、1973年)
    • [118]十河信二氏は1963年5月に退任し、第5代総裁 石田禮助氏が開業を迎えた(百年史は慰霊祭の参列者を「石田総裁、十河前総裁」と記す)
参考文献[98]-[123]
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [98]1958年7月7日に幹線調査会が答申書を提出、所要資金と利子の合計は1948億円
    • [99]1959年3月31日に第31回国会が東海道幹線増設費を承認し工事へ正式着手
    • [100]1959年4月20日に新丹那トンネル東口で東海道新幹線の起工式
    • [101]当初予算1725億円(用地費146億円・路盤工事費1073億円ほか)
    • [102]利子および債務取扱諸費247億円を加えた総額1972億円
    • [103]5.75%の低利による世界銀行借款を方針とした
    • [104]名神高速道路建設費の借款が実現しており成立の可能性は大きいと判断
    • [105]1961年5月2日に十河総裁とブラック世銀総裁が8000万ドルの借款契約に調印
    • [106]覚書により日本政府は国際的に新幹線の完成を義務づけられた
    • [107]1959年末に工事費の不足が明瞭となり、世銀への信用問題から総額予算は据え置き
    • [108]不足額は1961年4月に864億円、12月に1218億円
    • [109]1961年5月に総額2926億円への増額改訂を世銀へ説明、直接工事費の増加分は802億円
    • [110]増額の理由は物価騰貴と設計協議による計画変更
    • [111]1962年5月の三河島事故を契機に東海道線偏重への非難が強まった
    • [112]1962年度補正・1963年度予算は総額2926億円のわくを動かさずに要求
    • [113]工事は長大トンネルから着工、切取・盛土の延長274km、土工量3500万立方m
    • [114]東海道新幹線建設工事の殉職者は211柱
    • [115]1962年10月27日に200km/h試験に成功
    • [116]1963年3月30日に256km/hを記録
    • [117]愛称公募は55万8882通、「ひかり」「こだま」が選ばれた
    • [119]1964年9月17日の工事監査報告書が10月1日の使用開始を認めた
    • [120]1964年10月1日に東京・新大阪間515kmで営業開始、始発列車は定時到着
    • [121]開業時は1日60本、「ひかり」4時間・「こだま」5時間、輸送力は従来の約3〜4倍
    • [122]開業当初1日約6万人の輸送人員が1965年度に約8万5000人
    • [123]新幹線の収支は1965年度△127億9900万円、1966年度163億5300万円
  • 日本国有鉄道百年史 別巻 国鉄歴史事典(日本国有鉄道、1973年)
    • [118]十河信二氏は1963年5月に退任し、第5代総裁 石田禮助氏が開業を迎えた(百年史は慰霊祭の参列者を「石田総裁、十河前総裁」と記す)

1961年〜約3万人の要員削減計画と、貨物を奪い始めた自動車

日本国有鉄道は1957年度から、老朽設備の取り替えを主眼とする第1次5か年計画を進め、1961年度に第2次5か年計画へ移した。1961年8月には新5か年計画に伴う合理化計画の大綱を発表し、1965年度までに車両の検修や施設の保安改善を合理化して約3万人の要員を生み出し、配置転換と新規採用の手控えで全体の要員を45万人以下に抑えるとした。国鉄労働組合と国鉄動力車労働組合は同じ1961年の定期大会で、要員削減と労働強化にあくまで反対し、9月中旬以降に反復ストライキを実施することを両組合で決めた。争点は工場合理化、船舶合理化、検修合理化で、戦術には2割減車闘争、順法闘争、業務切捨闘争を挙げた。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [124]1957年度の第1次5か年計画は老朽設備の取り替えが主眼
    • [125]1961年度から第2次5か年計画
    • [126]1961年8月に新5か年計画に伴う合理化計画の大綱を発表
    • [127]1965年度までに車両の検修・施設の保安改善などの合理化で約3万人の要員を捻出
    • [128]配置転換と新規採用の手控えで全体の要員を45万人以下とする
    • [129]国労・動労は1961年の定期大会で合理化反対と反復ストライキを確認
    • [130]争点は工場合理化・船舶合理化・検修合理化、戦術は2割減車闘争・順法闘争・業務切捨闘争

争議はすでに激しさを増していた。1957年3月23日の抜き打ちストでは旅客611本と貨物229本が運休し、激昂した旅客による職員の殴打や、電車・駅舎の窓ガラスの破壊が各所で起きた。国鉄は5月9日、国労の小柳委員長ら19人と機労の黒川委員長ら4人を解雇した。7月10日から16日には国労新潟地方本部が本部指令を無視して争議に入り、勤務者を実力で連行して駅長をつるし上げ、15日と16日は管内の全貨物列車が運休した。組合の分裂を機に新組合の結成が相次ぎ、1962年12月の新国鉄労働組合連合を経て、1968年10月に鉄道労働組合が発足した。1962年5月の三河島事故の背景には、事故防止に必要な考査や訓練、審査、競技会が数次の拒否闘争の結果として順次廃止または簡略されてきた実態があった。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [131]1957年3月23日の抜き打ちストで旅客611本・貨物229本が運休
    • [132]激昂した旅客の職員殴打や電車・駅舎の窓ガラス破壊が発生
    • [133]1957年5月9日に国労小柳委員長ら19人、機労黒川委員長ら4人を解雇
    • [134]1957年7月10日から16日の新潟闘争は本部指令を無視した争議
    • [135]15日・16日に新潟局管内の全貨物列車が運休
    • [136]1962年12月に新国鉄労働組合連合が結成され、1968年10月に鉄道労働組合となった
    • [137]三河島事故の特別監査報告が拒否闘争による考査・訓練の廃止を指摘

自動車と航空機の伸びは同時に進んだ。自動車保有台数は1955年の80万台から1965年に420万台へ増え、貨物輸送量をトンキロで比べた鉄道対自動車の比は1958年の3対1から1964年に1.3対1へ、旅客の人キロも4対1から2対1へ縮んだ。1955年度から1965年度までの旅客輸送の年平均伸び率は、定期航空29.5%、乗用車25.5%、バス13.1%に対し国鉄は6.6%だった。1963年5月10日、原安三郎氏を委員長とする国鉄諮問委員会は答申書『国鉄経営の在り方について』を提出し、1970年に年収8189億円の企業となっても営業経費と借入金の利子を払えば72億円しか残らないと試算して、これを経営の完全な破綻とした。国鉄の1963年度は営業収入5687億円、営業損益543億円、純損益574億円だった。

  • 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-需要に追いつかぬ施設」
    • [138]自動車保有台数は1955年に80万台、1965年に420万台
    • [139]貨物のトンキロで鉄道対自動車は1958年3対1から1964年1.3対1
    • [140]旅客の人キロで鉄道対自動車は4対1から2対1
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [141]1955-1965年度の旅客輸送の年平均伸び率は定期航空29.5%・乗用車25.5%・バス13.1%・国鉄6.6%
    • [142]1963年5月10日に原安三郎を委員長とする国鉄諮問委員会が答申書を提出
    • [143]答申書の表題は「国鉄経営の在り方について」
    • [144]1970年に年収8189億円のマンモス企業になるとの試算
    • [145]営業経費と借入金の利子を支払った後は72億円しか残らない
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和38年度
    • [146]1963年度の営業収入5687億円、営業損益543億円、純損益574億円
参考文献[124]-[146]
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [124]1957年度の第1次5か年計画は老朽設備の取り替えが主眼
    • [125]1961年度から第2次5か年計画
    • [126]1961年8月に新5か年計画に伴う合理化計画の大綱を発表
    • [127]1965年度までに車両の検修・施設の保安改善などの合理化で約3万人の要員を捻出
    • [128]配置転換と新規採用の手控えで全体の要員を45万人以下とする
    • [129]国労・動労は1961年の定期大会で合理化反対と反復ストライキを確認
    • [130]争点は工場合理化・船舶合理化・検修合理化、戦術は2割減車闘争・順法闘争・業務切捨闘争
    • [131]1957年3月23日の抜き打ちストで旅客611本・貨物229本が運休
    • [132]激昂した旅客の職員殴打や電車・駅舎の窓ガラス破壊が発生
    • [133]1957年5月9日に国労小柳委員長ら19人、機労黒川委員長ら4人を解雇
    • [134]1957年7月10日から16日の新潟闘争は本部指令を無視した争議
    • [135]15日・16日に新潟局管内の全貨物列車が運休
    • [136]1962年12月に新国鉄労働組合連合が結成され、1968年10月に鉄道労働組合となった
    • [137]三河島事故の特別監査報告が拒否闘争による考査・訓練の廃止を指摘
    • [141]1955-1965年度の旅客輸送の年平均伸び率は定期航空29.5%・乗用車25.5%・バス13.1%・国鉄6.6%
    • [142]1963年5月10日に原安三郎を委員長とする国鉄諮問委員会が答申書を提出
    • [143]答申書の表題は「国鉄経営の在り方について」
    • [144]1970年に年収8189億円のマンモス企業になるとの試算
    • [145]営業経費と借入金の利子を支払った後は72億円しか残らない
  • 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-需要に追いつかぬ施設」
    • [138]自動車保有台数は1955年に80万台、1965年に420万台
    • [139]貨物のトンキロで鉄道対自動車は1958年3対1から1964年1.3対1
    • [140]旅客の人キロで鉄道対自動車は4対1から2対1
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和38年度
    • [146]1963年度の営業収入5687億円、営業損益543億円、純損益574億円

第3章 1965年〜 事業純損失への転落と5万人合理化計画

1964年〜純損失転落と、自動車に逆転された貨物シェア

1957年度以降かろうじて黒字を保っていた国鉄の決算は、1964年度に300億円の純損失へ転じた。営業損益も前年度の543億円の黒字から323億円の赤字に転落した。東海道新幹線が開業したのは1964年10月1日で、赤字転落と同じ年度にあたる。ただし新幹線自体は1966年度に164億円の黒字へ転じ、1970年度には1174億円の利益を出した。赤字は1965年度1230億円、1966年度601億円、1967年度941億円と続き、1967年度末には1477億円の欠損を翌年度へ繰り越した。4年連続の赤字によって、1963年度に1595億円あった繰越利益金は消えた。独立採算制のもとでの経営は、1966年度の時点ですでに限界に達していた。1968年度の繰越欠損金は2821億円へ膨らみ、1969年度には償却前赤字を生じた。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [147]1957年度以降かろうじて黒字だった国鉄財政は1964年度に300億円の純損失を計上
    • [149]東海道新幹線は1964年10月1日に開業し、赤字転落と同じ年度にあたる
    • [150]東海道新幹線の収支は1966年度に164億円の黒字へ転じ、1970年度は1174億円の利益
    • [152]1967年度末に1477億円の欠損を翌年度へ繰越
    • [153]1964年度以降4年連続の赤字で1963年度現在1595億円あった繰越利益金を食いつぶした
    • [154]1966年度『日本国有鉄道監査報告書』が独立採算制のもとの経営は限界に立ち至ったと記述
    • [155]1968年度の繰越欠損金2821億円、1969年度に償却前赤字が発生
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和54年度
    • [148]営業損益は1963年度543億円の黒字から1964年度323億円の赤字へ転落
    • [151]純損失は1965年度1230億円、1966年度601億円、1967年度941億円

1955年度から1965年度に国内の総貨物輸送量は1046億トンキロ増えたが、鉄道が取ったのはその13.5%にあたる141億トンキロにすぎず、内航海運が49.3%、自動車が37.2%を占めた。国鉄のトンキロシェアは1955年度の52.0%から1967年度の28.1%へ落ち、自動車は11.1%から33.2%へ上がった。1966年度には国鉄の559億トンキロに対し自動車が649億トンキロを運び、順位が入れ替わった。旅客のシェアも1967年度は41.7%で、1955年度から13.3%分を自動車輸送に譲った。自動車の進出を支えたのは国鉄投資を上回る道路整備で、設備投資額を1965年度の100で比べると1973年度は国鉄271に対し道路391、港湾422となる。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [156]1955-1965年度の国内総貨物輸送量の増加1046億トンキロのうち鉄道は13.5%の141億トンキロ
    • [157]同期間の増加量は内航海運49.3%、自動車37.2%
    • [158]貨物トンキロのシェアは国鉄52.0%(1955年度)から28.1%(1967年度)へ、自動車は11.1%から33.2%へ
    • [159]1966年度に国鉄559億トンキロ、自動車649億トンキロでトンキロのシェアが逆転
    • [160]1967年度の旅客輸送シェアは国鉄41.7%、1955年度比13.3%減で自動車輸送が補った
  • 日経ビジネス 1974年9月16日号
    • [161]1965年度=100とした投資額は1973年度で国鉄271、道路391、港湾422

外部資金調達額は1955年度の243億円から1967年度3634億円へ増え、長期債務残高は1967年度に1兆6000億円へ達した。利子および債務取扱諸費は1960年度の240億円から1965年度に1012億円へ4.2倍となった。人件費も1960年度の1863億円から1967年度3849億円へ倍増した。1966年3月に旅客31.2%・貨物12.3%の運賃改訂を実施しても、8239億円と見込んだ運輸収入は7684億円にとどまった。1967年度の監査報告書は、収支が均衡しない企業内外の要因として現行運賃制度、各種の公共負担、ローカル赤字線の経営など8項目を挙げた。公共企業体の発足から1967年度までの運賃上の公共負担は9002億円にのぼり、営業キロでA線区に並ぶB・C線区は旅客の10%しか運ばないままA線区の利益の約3倍の損失を計上していたが、地元の執着から廃止は進まなかった。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [162]外部資金調達額は1955年度243億円から1967年度3634億円へ増加
    • [163]長期債務残高は1967年度に1兆6000億円
    • [164]利子および債務取扱諸費は1960年度240億円から1965年度1012億円へ4.2倍
    • [165]損益勘定の人件費は1960年度1863億円から1967年度3849億円へ倍増
    • [166]1966年3月に旅客31.2%・貨物12.3%の運賃改訂を実施したが運輸収入は予定8239億円に対し7684億円
    • [167]1967年度監査報告書が収支不均衡の企業内外要因8項目に現行運賃制度・各種の公共負担・ローカル赤字線の経営を列挙
    • [168]公共企業体発足から1967年度までの運賃上の公共負担は旅客7424億円・貨物1578億円の計9514億円
    • [169]B・C線区は営業キロでA線区に匹敵しながら旅客の10%しか運ばず、A線区の利益の約3倍の損失を計上。便益的性格と地元の執着で廃止は至難だった
参考文献[147]-[169]
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [147]1957年度以降かろうじて黒字だった国鉄財政は1964年度に300億円の純損失を計上
    • [149]東海道新幹線は1964年10月1日に開業し、赤字転落と同じ年度にあたる
    • [150]東海道新幹線の収支は1966年度に164億円の黒字へ転じ、1970年度は1174億円の利益
    • [152]1967年度末に1477億円の欠損を翌年度へ繰越
    • [153]1964年度以降4年連続の赤字で1963年度現在1595億円あった繰越利益金を食いつぶした
    • [154]1966年度『日本国有鉄道監査報告書』が独立採算制のもとの経営は限界に立ち至ったと記述
    • [155]1968年度の繰越欠損金2821億円、1969年度に償却前赤字が発生
    • [156]1955-1965年度の国内総貨物輸送量の増加1046億トンキロのうち鉄道は13.5%の141億トンキロ
    • [157]同期間の増加量は内航海運49.3%、自動車37.2%
    • [158]貨物トンキロのシェアは国鉄52.0%(1955年度)から28.1%(1967年度)へ、自動車は11.1%から33.2%へ
    • [159]1966年度に国鉄559億トンキロ、自動車649億トンキロでトンキロのシェアが逆転
    • [160]1967年度の旅客輸送シェアは国鉄41.7%、1955年度比13.3%減で自動車輸送が補った
    • [162]外部資金調達額は1955年度243億円から1967年度3634億円へ増加
    • [163]長期債務残高は1967年度に1兆6000億円
    • [164]利子および債務取扱諸費は1960年度240億円から1965年度1012億円へ4.2倍
    • [165]損益勘定の人件費は1960年度1863億円から1967年度3849億円へ倍増
    • [166]1966年3月に旅客31.2%・貨物12.3%の運賃改訂を実施したが運輸収入は予定8239億円に対し7684億円
    • [167]1967年度監査報告書が収支不均衡の企業内外要因8項目に現行運賃制度・各種の公共負担・ローカル赤字線の経営を列挙
    • [168]公共企業体発足から1967年度までの運賃上の公共負担は旅客7424億円・貨物1578億円の計9514億円
    • [169]B・C線区は営業キロでA線区に匹敵しながら旅客の10%しか運ばず、A線区の利益の約3倍の損失を計上。便益的性格と地元の執着で廃止は至難だった
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和54年度
    • [148]営業損益は1963年度543億円の黒字から1964年度323億円の赤字へ転落
    • [151]純損失は1965年度1230億円、1966年度601億円、1967年度941億円
  • 日経ビジネス 1974年9月16日号
    • [161]1965年度=100とした投資額は1973年度で国鉄271、道路391、港湾422

1967年〜機関助士廃止をめぐる66回の交渉と、公労委が認めた不当労働行為

1955年度から1967年度にかけて、職員1人当りの輸送人キロは20万5000人キロから40万1000人キロへ96%伸びたが、職員総数は44万6000人から45万8000人へ増えた。1967年3月31日、国鉄当局は機械化・近代化の計画を各労働組合へ示した。5万人合理化計画と呼ばれたこの案の焦点は、電気機関車とディーゼル機関車を機関士1人で運転させることにあった。対象の機関助士は約7500人で、当局は原則として機関士・運転士へ昇格させるとし、解雇ではなく配置転換だと説明した。組合側はスピードアップと過密ダイヤで乗務員の疲労が増しており、事故を防いでいるのは2人乗務だと反論した。交渉は国労22回、動労25回、新国労19回の合計66回に及び、当局は1968年4月の実施を延期し、6月も見送った。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [170]職員1人当り輸送人キロは1955年度20万5000人キロから1967年度40万1000人キロへ96%増
    • [171]職員総数は1955年度44万6000人から1967年度45万8000人へ5%増
    • [172]1967年3月31日に当局が当面の機械化・近代化計画を各労働組合へ提示
    • [173]5万人合理化計画の最大の焦点はEL・DLの1人乗務問題
    • [174]合理化の対象となる機関助士は約7500人、当局説明では原則として機関士・運転士へ昇格させる配転問題
    • [175]組合側はスピードアップ・長距離走行・過密ダイヤによる疲労増を挙げ、2人乗務が事故を防いでいると主張
    • [176]1967年3月の提案以来の交渉は国労22回・動労25回・新国労19回の計66回。当局は1968年4月実施を延期し6月実施も見送った

1968年には国労が第1次から第4次まで、動労が第1次から第7次まで闘争を組み、9月12日と20日の2波ではATSの警報が出るたびに停止ブレーキを扱うATS闘争を採った。当局が1968年10月18日に設けた調査委員会は大島正光東京大学教授を委員長とし、1969年4月9日の報告書で、諸外国の例からみて1人乗務の客観的条件は熟していると結論づけた。当局が5月12日に1人乗務の全体計画を示すと、動労は組織の命運をかけて絶対反対の態度をとり、27日からサボタージュに入り、30日には全国53か所で約12時間の違法ストを打った。決着は1969年10月30日から11月1日にかけての3日間の徹夜交渉でついた。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [177]1968年に国労が第1次から第4次、動労が第1次から第7次まで闘争を展開
    • [178]1968年9月12日・20日の2波でATSの警報表示のたびに停止ブレーキを扱うATS闘争を新戦術として採用
    • [179]1968年10月18日にEL・DLの乗務員数と安全の関係についての調査委員会を設置、委員長は大島正光東大教授
    • [180]1969年4月9日提出の調査報告書は諸外国の例からみて1人乗務の客観的条件は熟していると結論
    • [181]1969年5月12日に当局が1人乗務実施の全体計画を提示、動労は絶対反対で5月27日からサボタージュ
    • [182]1969年5月30日に全国53か所で約12時間の違法スト
    • [183]1969年10月30日から11月1日にかけての3日間の徹夜交渉で合意

1969年5月に就任した磯崎叡総裁は、日本生産性本部への委託と中央鉄道学園での教育によって生産性向上運動を始め、1970年4月から全国で実施した。当局発表では1970年度に延べ約30万人が受講し、当時の職員総数の65%にあたる。国労と動労から脱退が相次ぎ、鉄労は7万人から11万人へ増えた。国労は1971年8月の函館大会までの約1年で組合員が約2万5000人減ったと記録した。現場では職制が脱退を求め、水戸の現場長会議では能力開発課長から証拠を残すなという指示が出た。1971年10月8日、公労委は静岡地本関係の5件について不当労働行為を認めて救済命令を出し、当局は11日に受諾、磯崎叡総裁は同日国会で陳謝した。当局は23日に陳謝文を組合へ持参して訓告2件・厳重注意16件の処分と真鍋職員局長の更迭を発表し、29日に生産性教育を延期した。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [184]磯崎叡氏は1969年5月に第6代総裁へ就任
    • [185]日本生産性本部への一部委託と中央鉄道学園での生産性教育により1970年4月ごろから全国で実施
    • [190]1971年10月8日に公労委が静岡地本関係5件の不当労働行為を全面的に認め救済命令、当局は11日受諾
  • 一人ひとりがつくる労働組合を:国鉄マル生と国労運動の発展(1971年)
    • [186]当局発表の1970年度実績は年間のべ約30万人、当時の職員総数の65%
    • [188]1971年8月の函館大会までの約1年間に国労の組合員は約2万5000人減少
    • [189]1971年10月8日の水戸の現場長会議で能力開発課長が証拠を残すなと発言
    • [191]1971年10月11日、磯崎叡総裁が国会で不当労働行為を陳謝
    • [192]1971年10月23日に陳謝文を持参し訓告2・厳重注意16の処分と真鍋職員局長の更迭を発表、10月29日に生産性教育を延期して運動は中断
  • 日経ビジネス 1976年4月12日号
    • [187]国労・動労からの脱退が相次ぎ、鉄労は7万人から11万人へ膨張
参考文献[170]-[192]
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [170]職員1人当り輸送人キロは1955年度20万5000人キロから1967年度40万1000人キロへ96%増
    • [171]職員総数は1955年度44万6000人から1967年度45万8000人へ5%増
    • [172]1967年3月31日に当局が当面の機械化・近代化計画を各労働組合へ提示
    • [173]5万人合理化計画の最大の焦点はEL・DLの1人乗務問題
    • [174]合理化の対象となる機関助士は約7500人、当局説明では原則として機関士・運転士へ昇格させる配転問題
    • [175]組合側はスピードアップ・長距離走行・過密ダイヤによる疲労増を挙げ、2人乗務が事故を防いでいると主張
    • [176]1967年3月の提案以来の交渉は国労22回・動労25回・新国労19回の計66回。当局は1968年4月実施を延期し6月実施も見送った
    • [177]1968年に国労が第1次から第4次、動労が第1次から第7次まで闘争を展開
    • [178]1968年9月12日・20日の2波でATSの警報表示のたびに停止ブレーキを扱うATS闘争を新戦術として採用
    • [179]1968年10月18日にEL・DLの乗務員数と安全の関係についての調査委員会を設置、委員長は大島正光東大教授
    • [180]1969年4月9日提出の調査報告書は諸外国の例からみて1人乗務の客観的条件は熟していると結論
    • [181]1969年5月12日に当局が1人乗務実施の全体計画を提示、動労は絶対反対で5月27日からサボタージュ
    • [182]1969年5月30日に全国53か所で約12時間の違法スト
    • [183]1969年10月30日から11月1日にかけての3日間の徹夜交渉で合意
    • [184]磯崎叡氏は1969年5月に第6代総裁へ就任
    • [185]日本生産性本部への一部委託と中央鉄道学園での生産性教育により1970年4月ごろから全国で実施
    • [190]1971年10月8日に公労委が静岡地本関係5件の不当労働行為を全面的に認め救済命令、当局は11日受諾
  • 一人ひとりがつくる労働組合を:国鉄マル生と国労運動の発展(1971年)
    • [186]当局発表の1970年度実績は年間のべ約30万人、当時の職員総数の65%
    • [188]1971年8月の函館大会までの約1年間に国労の組合員は約2万5000人減少
    • [189]1971年10月8日の水戸の現場長会議で能力開発課長が証拠を残すなと発言
    • [191]1971年10月11日、磯崎叡総裁が国会で不当労働行為を陳謝
    • [192]1971年10月23日に陳謝文を持参し訓告2・厳重注意16の処分と真鍋職員局長の更迭を発表、10月29日に生産性教育を延期して運動は中断
  • 日経ビジネス 1976年4月12日号
    • [187]国労・動労からの脱退が相次ぎ、鉄労は7万人から11万人へ膨張

1968年〜上尾事件とスト権スト、そして挫折した第1次財政再建計画

1968年11月の国鉄財政再建推進会議の意見書を受け、政府は日本国有鉄道財政再建促進特別措置法案を1969年2月に国会へ提出し、5月9日に成立させた。法は1978年度までに損益計算で利益が出る状態へ戻すことを目標とし、再建期間を1969年度から10年間と定めた。9月12日の閣議決定は再建期間中の設備投資を3兆7000億円とし、1970年2月19日に承認された計画は駅の約4割で業務の委託や集約を行い、約6万人の要員を減らすとした。給与ベースの上昇率は計画8.5%に対し1970年度15.0%・1971年度14.0%となり、1971年度末には864億円を超える償却前赤字が避けられないと見込まれた。計画は2年目で挫折した。その一方で1970年5月13日に全国新幹線鉄道整備法が成立し、1971年4月1日には東北・上越・成田の3線の整備計画が決まった。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [193]1968年11月1日の国鉄財政再建推進会議意見書を受け1969年2月7日に法案提出、5月9日可決
    • [194]法第2条は1978年度までに損益計算で利益が生ずるよう財政の健全性を回復するとし、再建期間を1969年度以降10年間と規定
    • [195]1969年9月12日の閣議決定で再建期間中の設備投資を3兆7000億円と設定
    • [196]1970年2月19日に運輸大臣が承認した再建計画は駅の約4割の業務委託・集約と退職者の一部不補充で約6万人の要員縮減を掲げた
    • [197]給与ベース上昇率は計画8.5%に対し1970年度15.0%・1971年度14.0%の実績
    • [198]1971年度末に864億円を超える償却前赤字の発生が不可避と予想され、再建計画は2年目で挫折した
    • [199]全国新幹線鉄道整備法は1970年5月13日に可決成立、1971年4月1日に東北・上越・成田の整備計画を決定

生産性向上運動の中断後、国労と動労はスト権奪還とマル生反対を掲げ、1972年から1973年にかけて順法闘争を繰り返した。スト権を持たない組合にとって、旅客が安全に乗り終えるまで発車合図を出さない順法闘争はストに代わる手段だった。動労が1973年3月5日から10日にかけて行った第1波では、国鉄首都圏本部の集計で2274本が運休し、624万人が影響を受け、60人余の負傷者が出た。3月13日の朝、上尾駅では遅延に激昂した乗客が騒ぎを起こし、高崎線と東北本線が止まった。4月24日の順法闘争でも赤羽・上野・新宿の各駅で乗客が窓ガラスや券売機を壊し、26日から動労が72時間、27日から国労が加わるストへ入った。当局はこの年、1人平均8097円という異例の有額回答を出した。

  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [200]マル生中断後、総評・国労・動労はスト権奪還・マル生反対を掲げ1972年から1973年にかけて激しい順法闘争を繰り返した
    • [201]順法闘争は旅客が安全に乗車したことを確かめて発車合図を出す戦術で、スト権を持たない組合がストに代わる手段として頻繁に採用した
    • [202]1973年3月5〜10日の動労第1波順法闘争で2274本が運休、624万人が影響、60人余が負傷(国鉄首都圏本部発表)
    • [203]1973年3月13日7時すぎ、上尾駅で遅延に激昂した乗客が騒動を起こし高崎線・東北本線が全線ストップ
    • [204]1973年4月24日の順法闘争で赤羽・上野・新宿駅などの群衆が窓ガラス・券売機を破壊、26日0時から動労が72時間スト、27日に国労が加わった
    • [205]1973年の春闘で当局は1人平均8097円引き上げの異例の有額回答を行った

1975年11月26日から12月3日まで、公労協は8日間192時間にわたるスト権奪還ストを行った。国鉄では旅客列車14万2502本と貨物列車4万1317本が運休し、影響人員は1億5090万人、減収額は旅客269億円・貨物68億円に達した。12月1日には墨田区で中小企業主ら約300人が、2日には東京・東日本橋で14団体約1000人が中止を求める集会を開き、宇和島・八幡浜両市ではミカン農家がむしろ旗を立てた。政府は12月1日、料金法定制度の改正を含む当事者能力の強化を検討するとした基本方針を閣議決定した。藤井松太郎総裁は12月2日に記者会見でスト中止を訴えた。公労協は12月3日正午、国民にこれ以上の負担はかけられないとして闘争の中断を決めた。1973年度末には累積赤字が1兆5955億円となって自己資本を上回り、1974年度の純損失は6508億円、売上高人件費比率は71.2%へ達していた。

  • 日本国有鉄道労働運動史 資料 第31集(日本国有鉄道、1975年)
    • [206]スト権奪還ストは1975年11月26日から12月3日までの8日間192時間
    • [207]運休は旅客列車142,502本・貨物列車41,317本、影響人員15,090万人、減収額は旅客269億円・貨物68億円
    • [208]12月1日午後に墨田区で中小企業主・商店主など約300人、12月2日午前に東京・東日本橋で14団体約1,000人が抗議集会。宇和島・八幡浜市ではミカン農家がむしろ旗を立てた
    • [209]政府は1975年12月1日に3公社5現業等の労働基本権問題に関する基本方針を閣議決定し、料金法定制度等の改正を含む当事者能力の強化の方途を検討するとした
    • [210]1975年12月2日午後6時30分、藤井松太郎国鉄総裁が緊急記者会見でスト中止を訴えた
    • [211]公労協は12月3日正午の第5回緊急拡大共闘委員会で、国民にこれ以上の負担はかけられないとして中断を決定
  • 日経ビジネス 1974年9月16日号
    • [212]1973年度末の累積赤字1兆5955億円は資本金と資本積立金の合計1兆5896億円を上回った
  • 日経ビジネス 1976年2月16日号
    • [213]1974年度決算は純損益△6508億円、売上高人件費比率71.2%
参考文献[193]-[213]
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
    • [193]1968年11月1日の国鉄財政再建推進会議意見書を受け1969年2月7日に法案提出、5月9日可決
    • [194]法第2条は1978年度までに損益計算で利益が生ずるよう財政の健全性を回復するとし、再建期間を1969年度以降10年間と規定
    • [195]1969年9月12日の閣議決定で再建期間中の設備投資を3兆7000億円と設定
    • [196]1970年2月19日に運輸大臣が承認した再建計画は駅の約4割の業務委託・集約と退職者の一部不補充で約6万人の要員縮減を掲げた
    • [197]給与ベース上昇率は計画8.5%に対し1970年度15.0%・1971年度14.0%の実績
    • [198]1971年度末に864億円を超える償却前赤字の発生が不可避と予想され、再建計画は2年目で挫折した
    • [199]全国新幹線鉄道整備法は1970年5月13日に可決成立、1971年4月1日に東北・上越・成田の整備計画を決定
    • [200]マル生中断後、総評・国労・動労はスト権奪還・マル生反対を掲げ1972年から1973年にかけて激しい順法闘争を繰り返した
    • [201]順法闘争は旅客が安全に乗車したことを確かめて発車合図を出す戦術で、スト権を持たない組合がストに代わる手段として頻繁に採用した
    • [202]1973年3月5〜10日の動労第1波順法闘争で2274本が運休、624万人が影響、60人余が負傷(国鉄首都圏本部発表)
    • [203]1973年3月13日7時すぎ、上尾駅で遅延に激昂した乗客が騒動を起こし高崎線・東北本線が全線ストップ
    • [204]1973年4月24日の順法闘争で赤羽・上野・新宿駅などの群衆が窓ガラス・券売機を破壊、26日0時から動労が72時間スト、27日に国労が加わった
    • [205]1973年の春闘で当局は1人平均8097円引き上げの異例の有額回答を行った
  • 日本国有鉄道労働運動史 資料 第31集(日本国有鉄道、1975年)
    • [206]スト権奪還ストは1975年11月26日から12月3日までの8日間192時間
    • [207]運休は旅客列車142,502本・貨物列車41,317本、影響人員15,090万人、減収額は旅客269億円・貨物68億円
    • [208]12月1日午後に墨田区で中小企業主・商店主など約300人、12月2日午前に東京・東日本橋で14団体約1,000人が抗議集会。宇和島・八幡浜市ではミカン農家がむしろ旗を立てた
    • [209]政府は1975年12月1日に3公社5現業等の労働基本権問題に関する基本方針を閣議決定し、料金法定制度等の改正を含む当事者能力の強化の方途を検討するとした
    • [210]1975年12月2日午後6時30分、藤井松太郎国鉄総裁が緊急記者会見でスト中止を訴えた
    • [211]公労協は12月3日正午の第5回緊急拡大共闘委員会で、国民にこれ以上の負担はかけられないとして中断を決定
  • 日経ビジネス 1974年9月16日号
    • [212]1973年度末の累積赤字1兆5955億円は資本金と資本積立金の合計1兆5896億円を上回った
  • 日経ビジネス 1976年2月16日号
    • [213]1974年度決算は純損益△6508億円、売上高人件費比率71.2%

第4章 1976年〜 長期債務10兆円突破と分割民営化によるJR7社の発足

1976年〜5兆3千億円の債務棚上げでも止まらなかった赤字の膨張

国鉄は1976年3月、一般勘定と区分して特別勘定を新設し、赤字の一部を本体の損益から切り離した。1979年12月には"日本国有鉄道の再建について"が閣議了解となり、1980年12月に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法が成立した。1976年度と1980年度の二回、累積欠損額に相当する5兆3千億円の長期債務が棚上げされ、そのうえで"後のない計画"と呼ばれた経営改善計画が実施された。長期債務残高は1980年3月に10兆円を超えた。1969年度以来、政府と国鉄は何度も経営再建対策を立案してきたが、そのいずれもが中途で挫折した。

  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和59年度
    • [214]1976年3月に一般勘定と区分して特別勘定を新設
    • [216]1980年12月 日本国有鉄道経営再建促進特別措置法が成立
  • 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
    • [215]1979年12月「日本国有鉄道の再建について」を閣議了解
    • [217]1976年度・1980年度の二回、累積欠損額に相当する5兆3千億円の長期債務を棚上げ
    • [218]長期債務残高が1980年3月に10兆円を突破
    • [219]1969年度以来、政府と国鉄が経営再建対策を繰り返し立案し、いずれも中途で挫折

赤字は棚上げ後も膨らんだ。1975年度に9147億円だった純損失は、1979年度に8218億円まで縮んだあと反転し、1980年度に1兆84億円、1983年度に1兆6604億円へ達した。1984年度の純損失1兆6504億円は、特定退職手当・特定年金・東北上越新幹線資本費を除いた一般損失相当額でみると5768億円になる。東北・上越新幹線の資本費負担を損益へ計上し始めたのは1982年11月である。営業収入は1975年度の1兆8209億円から1984年度の3兆3898億円へ伸びたが、営業損益の赤字は9235億円から1兆8193億円へ広がった。

  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和59年度
    • [220]1975年度の純損失9147億円
    • [221]1979年度の純損失8218億円、1980年度の純損失1兆84億円
    • [222]1983年度の純損失1兆6604億円
    • [223]1984年度の純損失1兆6504億円
    • [224]特定退職手当・特定年金・東北上越新幹線資本費を除く一般損失相当額5768億円
    • [225]1982年11月 東北・上越新幹線の資本費負担を損益に計上開始
    • [226]営業収入 1975年度1兆8209億円→1984年度3兆3898億円
    • [227]営業損益 1975年度△9235億円→1984年度△1兆8193億円

赤字の膨張には、借入金が利子を生み、その利子のためにまた赤字が増え、さらに借入金に頼るという悪循環が働いていた。1960年代後半からの設備投資では、インフラ部分を利用者負担でまかなえなかった——1963年に国鉄へ入社した葛西敬之氏の見立てである。物価も運賃も抑えられていたため、国鉄はこの投資を借入に頼った。返済計画として輸送量の増える10年計画を描いたものの、鉄道はすでに成熟産業で成長が鈍っていたため計画が狂ったというのが葛西氏の説明である。長期債務残高は1975年度末の6兆8000億円から、1985年度末には23兆6000億円に達すると見込まれた。国庫助成は1985年度予算で6025億円に上ったが、赤字額を償うには届かなかった。

  • 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
    • [228]借入金が利子を生み、その利子でまた赤字が増え、さらに借入金に頼る悪循環
    • [233]長期債務残高 1975年度末6.8兆円→1985年度末23.6兆円の見込み
    • [234]1985年度予算の国庫助成6025億円
  • 日経ビジネス 1996年7月15日号
    • [229]インフラ投資の部分は利用者負担ではまかなえなかった
    • [230]葛西敬之氏は1963年に国鉄へ入社
    • [231]物価も抑制され運賃も縛られていたため借入に頼った
    • [232]輸送量が増える10年計画を描いたが鉄道はすでに成熟産業で成長が鈍化
参考文献[214]-[234]
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和59年度
    • [214]1976年3月に一般勘定と区分して特別勘定を新設
    • [216]1980年12月 日本国有鉄道経営再建促進特別措置法が成立
    • [220]1975年度の純損失9147億円
    • [221]1979年度の純損失8218億円、1980年度の純損失1兆84億円
    • [222]1983年度の純損失1兆6604億円
    • [223]1984年度の純損失1兆6504億円
    • [224]特定退職手当・特定年金・東北上越新幹線資本費を除く一般損失相当額5768億円
    • [225]1982年11月 東北・上越新幹線の資本費負担を損益に計上開始
    • [226]営業収入 1975年度1兆8209億円→1984年度3兆3898億円
    • [227]営業損益 1975年度△9235億円→1984年度△1兆8193億円
  • 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
    • [215]1979年12月「日本国有鉄道の再建について」を閣議了解
    • [217]1976年度・1980年度の二回、累積欠損額に相当する5兆3千億円の長期債務を棚上げ
    • [218]長期債務残高が1980年3月に10兆円を突破
    • [219]1969年度以来、政府と国鉄が経営再建対策を繰り返し立案し、いずれも中途で挫折
    • [228]借入金が利子を生み、その利子でまた赤字が増え、さらに借入金に頼る悪循環
    • [233]長期債務残高 1975年度末6.8兆円→1985年度末23.6兆円の見込み
    • [234]1985年度予算の国庫助成6025億円
  • 日経ビジネス 1996年7月15日号
    • [229]インフラ投資の部分は利用者負担ではまかなえなかった
    • [230]葛西敬之氏は1963年に国鉄へ入社
    • [231]物価も抑制され運賃も縛られていたため借入に頼った
    • [232]輸送量が増える10年計画を描いたが鉄道はすでに成熟産業で成長が鈍化

1981年〜第二臨調から再建監理委員会へ移った決定の場と、二代続いた総裁の更迭

国鉄が自ら立てた再建計画と運賃の大幅な値上げがことごとく失敗したため、再建の検討は国鉄の外へ移った。鈴木内閣は1981年3月に第二次臨時行政調査会を開き、国鉄・コメ・健保の3Kを行政改革の課題に据えたうえで、国鉄再建計画を臨調の手に委ねた。国鉄は当初臨調に非協力的だったが、国鉄内にも改革を望むグループがあることが分かり、内情は次第に臨調へ伝わった。臨調は第四部会を設け、部会長には慶応大学教授の加藤寛氏が就任した。第四部会は当初から国鉄の再建は分割・民営化しかないと考え、その報告をもとに臨調は1982年7月末に分割・民営化の基本答申を出した。

  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「運輸-四五・四七体制の終焉」
    • [235]国鉄自らの再建計画と運賃の大幅値上げがことごとく失敗
    • [236]1981年3月 鈴木内閣が第二次臨時行政調査会を開いた
    • [237]3K(国鉄・コメ・健保)が行政改革の課題
    • [238]国鉄は当初臨調に非協力的だったが、国鉄内にも改革派がいた
    • [239]臨調第四部会の部会長は慶応大学教授の加藤寛氏
    • [240]1982年7月末 臨調が分割・民営化の基本答申

自民党は1982年2月、党内に国鉄再建小委員会を設置した。国鉄の改革派が運輸族の三塚博氏へ職場の荒廃を訴えたことが発端で、この小委員会は三塚委員会と呼ばれた。三塚委員会は国鉄・組合・運輸省へのヒアリングにとどまらず、山梨県の甲府駅への抜き打ち視察や全国の現場管理者へのアンケート調査を行い、分割・民営化論へ傾斜した。中曽根内閣は臨調の答申を受け、1983年6月10日に日本国有鉄道再建監理委員会を発足させた。委員長には労務問題に精通した住友電気工業会長の亀井正夫氏を据え、加藤氏らも委員に選ばれた。監理委員会は国鉄当局とことごとく対立した。1976年3月に大蔵公望事務次官から就任した高木文雄総裁と、1983年12月に鉄道建設公団総裁から就任した仁杉巌総裁が、二代続けて更迭された。

  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「運輸-四五・四七体制の終焉」
    • [241]1982年2月 自民党が党内に国鉄再建小委員会を設置
    • [242]改革派が運輸族の三塚博氏に職場の荒廃を訴えたのが発端
    • [243]甲府駅への抜き打ち視察と全国の現場管理者へのアンケート調査
    • [245]委員長は住友電気工業会長の亀井正夫氏
    • [246]監理委員会は国鉄当局と対立し、高木文雄総裁は1976年3月に大蔵事務次官から就任
    • [247]仁杉巌総裁は1983年12月に鉄道建設公団総裁から就任し、高木氏と二代続けて更迭
  • 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
    • [244]1983年6月10日 日本国有鉄道再建監理委員会が発足

監理委員会は1985年7月26日、『国鉄改革に関する意見 — 鉄道の未来を拓くために —』を内閣総理大臣に提出した。同委員会は、運賃や賃金が中央で画一的に決まって地域経済の実態に合わないこと、全国一体の収支管理により地域や事業部門の間に依存関係が生じることを挙げた。こうした問題は全国を事業区域とする巨大組織で事業運営が続く限り避けられず、公社制度を改めて民営化するだけでは解決され難いと同委員会は述べた。1957年に本社から大幅な権限を委譲して発足した支社制度も、運賃や労働条件の決定権が本社に残った結果、1970年に廃止された。適正な事業単位へ分割すれば、電力会社や大手私鉄のように比較対象となる同種企業が並び、相互に競争意識が働く。同委員会はそう論じたうえで、速やかに分割・民営化を断行するほか道はないと結論づけた。

  • 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
    • [248]運賃や賃金が中央で画一的に決まり地域経済の実態に即していない
    • [249]全国一体の収支管理で地域や事業部門の間に依存関係が生じる
    • [250]公社制度を改めて民営化するだけでは解決され難い
    • [251]1957年に本社から大幅な権限委譲で支社制度が発足
    • [252]運賃や労働条件の決定権が本社に留保され、支社制度は1970年に廃止
    • [253]分割すれば電力会社や大手私鉄のように比較対象の同種企業が存在し競争意識が働く
    • [254]速やかに分割・民営化を断行するしか道はないという結論
参考文献[235]-[254]
  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「運輸-四五・四七体制の終焉」
    • [235]国鉄自らの再建計画と運賃の大幅値上げがことごとく失敗
    • [236]1981年3月 鈴木内閣が第二次臨時行政調査会を開いた
    • [237]3K(国鉄・コメ・健保)が行政改革の課題
    • [238]国鉄は当初臨調に非協力的だったが、国鉄内にも改革派がいた
    • [239]臨調第四部会の部会長は慶応大学教授の加藤寛氏
    • [240]1982年7月末 臨調が分割・民営化の基本答申
    • [241]1982年2月 自民党が党内に国鉄再建小委員会を設置
    • [242]改革派が運輸族の三塚博氏に職場の荒廃を訴えたのが発端
    • [243]甲府駅への抜き打ち視察と全国の現場管理者へのアンケート調査
    • [245]委員長は住友電気工業会長の亀井正夫氏
    • [246]監理委員会は国鉄当局と対立し、高木文雄総裁は1976年3月に大蔵事務次官から就任
    • [247]仁杉巌総裁は1983年12月に鉄道建設公団総裁から就任し、高木氏と二代続けて更迭
  • 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
    • [244]1983年6月10日 日本国有鉄道再建監理委員会が発足
    • [248]運賃や賃金が中央で画一的に決まり地域経済の実態に即していない
    • [249]全国一体の収支管理で地域や事業部門の間に依存関係が生じる
    • [250]公社制度を改めて民営化するだけでは解決され難い
    • [251]1957年に本社から大幅な権限委譲で支社制度が発足
    • [252]運賃や労働条件の決定権が本社に留保され、支社制度は1970年に廃止
    • [253]分割すれば電力会社や大手私鉄のように比較対象の同種企業が存在し競争意識が働く
    • [254]速やかに分割・民営化を断行するしか道はないという結論

1985年〜杉浦喬也総裁の下で進んだ移行と、37兆円の債務を残した解散

運輸省事務次官を務めた杉浦喬也氏が1985年6月、第10代総裁に就任し、分割・民営化を自ら指揮した。就任当時の国鉄内部は改革の意識が乏しく、大多数の職員が現状維持を望み、分割・民営化に反対する労働組合が力を持っていた。杉浦喬也総裁は新聞・雑誌・社内機関誌など使える媒体を通じて、分割・民営化の必要を国鉄の内外へ訴えた。自ら現場を歩いて職員に向き合い、職員の家族へは将来の生活を守ると書いた手紙を送った。国鉄内部では現状維持派と改革派の確執が強まり、改革派が力を得て現状維持派は追い込まれた。運輸省も分割・民営化への支持を公然と表明した。

  • 日経ビジネス 1996年7月15日号
    • [255]杉浦喬也氏は運輸事務次官を経て1985年6月に第10代国鉄総裁へ就任
    • [256]就任当時の国鉄内部は改革の意識が乏しく大多数の職員が現状維持を望んだ
    • [257]新聞・雑誌・社内機関誌など使える媒体で分割・民営化を内外へ訴えた
    • [258]職員の家族へ将来の生活を守ると手紙を書いた
  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「運輸-四五・四七体制の終焉」
    • [259]現状維持派と改革派の確執が強まり改革派が力を得た
    • [260]運輸省が分割・民営化への支持を公然と表明

監理委員会は要員の見通しも示した。新規採用を原則として止め、過去の退職実績から予測すると、1987年度首の在籍職員数は約27万6000人になる。これに対し新事業体の適正要員規模は約18万3000人で、余剰人員は約9万3000人に上る。同委員会は、公的部門の雇用慣行に照らして職員とその家族を路頭に迷わせてはならないとして、解雇によらない処理を求めた。移行前に2万人程度の希望退職を見込み、移行時には旅客鉄道会社が鉄道旅客部門の適正要員の2割にあたる約3万2000人を受け入れる。残る約4万1000人は特別対策対象者として"旧国鉄"へ所属させ、雇用を継続して対策を講じる期間は3年を限度とした。

  • 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
    • [261]新規採用の原則停止と過去の退職実績を前提とした要員見通し
    • [262]1987年度首の在籍職員数は約276,000人の見込み
    • [263]新事業体の適正要員規模約183,000人、余剰人員約93,000人
    • [264]公的部門の雇用慣行から職員とその家族を路頭に迷わせてはならない
    • [265]移行前に20,000人程度の希望退職を期待
    • [266]旅客鉄道会社へ鉄道旅客部門の適正要員の2割程度、約32,000人を移籍
    • [267]特別対策対象者約41,000人が「旧国鉄」に所属
    • [268]「旧国鉄」で雇用を継続し対策を講じる期間は3年を限度

1987年4月1日、日本国有鉄道はJR旅客6社とJR貨物へ移り、38年の歴史を終えた。旅客は本州3社と北海道・四国・九州の3島会社に分け、貨物は全国1社とした。旅客流動の域内完結度は本州3グループで98%、3島会社で95%から99%に達する。処理すべき長期債務等は37兆3000億円で、うち11兆4000億円を新事業体が負い、25兆9000億円を旧国鉄が処理する。非事業用用地2600ha程度の売却収入5兆8000億円、株式売却収入6000億円、新幹線保有主体からの収入2兆8000億円を充てても、最終的に16兆7000億円が残る見込みだった。国鉄清算事業団が引き継いだ債務は25兆5000億円、発足時の再就職未定者は7628人である。

  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「運輸-四五・四七体制の終焉」
    • [269]1987年4月 分割民営化でJR旅客6社・JR貨物へ移行し38年の歴史に幕
  • 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
    • [270]旅客は本州3グループと北海道・四国・九州の3島、貨物は全国一元の1社
    • [271]旅客流動の完結度は本州グループ内98%、3島は95%〜99%
    • [272]処理すべき長期債務等の総額37兆3000億円
    • [273]非事業用用地2,600ha程度の売却収入5.8兆円
    • [274]最終的に残る長期債務等は16.7兆円程度
  • 日経ビジネス 1996年7月15日号
    • [275]国鉄清算事業団が引き継いだ債務25.5兆円
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [276]事業団発足時(1987年4月1日)の再就職未定者7628人
参考文献[255]-[276]
  • 日経ビジネス 1996年7月15日号
    • [255]杉浦喬也氏は運輸事務次官を経て1985年6月に第10代国鉄総裁へ就任
    • [256]就任当時の国鉄内部は改革の意識が乏しく大多数の職員が現状維持を望んだ
    • [257]新聞・雑誌・社内機関誌など使える媒体で分割・民営化を内外へ訴えた
    • [258]職員の家族へ将来の生活を守ると手紙を書いた
    • [275]国鉄清算事業団が引き継いだ債務25.5兆円
  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「運輸-四五・四七体制の終焉」
    • [259]現状維持派と改革派の確執が強まり改革派が力を得た
    • [260]運輸省が分割・民営化への支持を公然と表明
    • [269]1987年4月 分割民営化でJR旅客6社・JR貨物へ移行し38年の歴史に幕
  • 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
    • [261]新規採用の原則停止と過去の退職実績を前提とした要員見通し
    • [262]1987年度首の在籍職員数は約276,000人の見込み
    • [263]新事業体の適正要員規模約183,000人、余剰人員約93,000人
    • [264]公的部門の雇用慣行から職員とその家族を路頭に迷わせてはならない
    • [265]移行前に20,000人程度の希望退職を期待
    • [266]旅客鉄道会社へ鉄道旅客部門の適正要員の2割程度、約32,000人を移籍
    • [267]特別対策対象者約41,000人が「旧国鉄」に所属
    • [268]「旧国鉄」で雇用を継続し対策を講じる期間は3年を限度
    • [270]旅客は本州3グループと北海道・四国・九州の3島、貨物は全国一元の1社
    • [271]旅客流動の完結度は本州グループ内98%、3島は95%〜99%
    • [272]処理すべき長期債務等の総額37兆3000億円
    • [273]非事業用用地2,600ha程度の売却収入5.8兆円
    • [274]最終的に残る長期債務等は16.7兆円程度
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [276]事業団発足時(1987年4月1日)の再就職未定者7628人

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出典・参考 17件
出典・参考
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
  • 日本国有鉄道百年史 別巻 国鉄歴史事典(日本国有鉄道、1973年)
  • 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-自動車時代のきざし」
  • 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-需要に追いつかぬ施設」
  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「運輸-四五・四七体制の終焉」
  • 日経ビジネス 1974年9月16日号
  • 日経ビジネス 1976年4月12日号
  • 日経ビジネス 1976年2月16日号
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
  • 日経ビジネス 1996年7月15日号
  • 一人ひとりがつくる労働組合を:国鉄マル生と国労運動の発展(1971年)
  • 日本国有鉄道労働運動史 資料 第31集(日本国有鉄道、1975年)
  • 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和34年度
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和38年度
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和54年度
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和59年度

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