日本国有鉄道輸送需要によるA・B・C線区の3分類と、赤字ローカル線の廃止見送り
採算で切るか、地元に残すか——赤字の所在を数字で示しながら畳めなかった路線
- 概要
- 1967年度の『日本国有鉄道監査報告書』が、1966年度末の線区を輸送需要によりA・B・Cの3つに分け、B・C線区が合わせてA線区の利益の約3倍の損失を生じていることを示した。分類は赤字の所在を明らかにしたが、廃止・撤去には進まなかった。
- 背景
- 全路線240余は、国の経済活動の根幹というべき部分と、ごく少量の輸送を担当するにすぎないローカル線とに大別されていた。前者の営業収入の伸びが後者の欠損の補塡に回り、1968年度の営業損益は1361億円の赤字であった。
- 内容
- A線区は旅客輸送量の90%、貨物輸送量の94%を運び、営業係数100以下で利益を計上した。営業キロでこれに匹敵するB・C線区は旅客10%、貨物6%を運ぶにすぎない。それでも、路線の便益的性格と地元の人々の鉄道への執着により、廃止・撤去の実行は至難とされた。
- 含意
- 新線は鉄道敷設法にのっとって建設が続き、1964年に設立された日本鉄道建設公団が国鉄に代わって建設を担った。撤収は審議会の提案と閣議了解の文言にとどまり、線区の切り分けが実行に移るのは1985年の特定地方交通線を待った。
分けて見る力と、畳む力は別だった
B・C線区が生んだ損失は、A線区の利益の約3倍にあたる。国鉄はこの数字を自ら監査報告書に載せ、採算の合わない線区は切りすてるべきものだとまで書いた。それでも廃止は進まなかった。足りなかったのは分析ではなく、決める権限であったとみられる。廃止は地元の人々の鉄道への執着を前に至難となり、建設は鉄道敷設法と日本鉄道建設公団という別の仕組みで進んだ。収益で線を引く作業と、その線に沿って路線を畳む作業とが、同じ手の中にそろっていなかった。
ただ、分類が空振りに終わったとも言い切れない。幹線系と地方交通線の会計区分は1971年度から施行され、1985年の特定地方交通線という線引きも、輸送需要で路線を分ける同じ考え方の上にある。一方でこの分類は、残す理由を測る物差しを持たなかった。現行の経営形態のままでは逆に鉄道がなくなりかねないと監理委員会がのちに論じたように、採算の数字だけで存廃は決着しない。1968年に欠けていたのは赤字の額ではなく、誰がその赤字を負担するかの取り決めであったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
240余の路線を二つに分けて見る
国鉄の全路線240余は、国の経済活動の根幹ともいうべき部分と、ごく少量の輸送を担当するにすぎないローカル線とに大別されていた。前者の順調な営業収入の伸びは後者の生み出す欠損の補塡にまわり、全体としての収入は伸び悩んだ。幹線的な部分は、輸送需要からみて企業採算の観点でも自立経営が可能な線区である。そこにローカル線区の赤字補塡という過重な負担を負わせれば、多様な交通機関が競争的に併存する時代には幹線の競争力を減退させると考えられていた[1]。
財政の数字は年ごとに悪くなっていた。1967年度の監査報告書は、国鉄収支の不均衡を助長する企業内外の要因として8項目を挙げ、収入の伸び悩み、職員年齢構成の特殊性と人件費の急増に続く3番目にローカル赤字線の経営を置いた。各種の公共負担、現行運賃制度、市町村納付金の負担、非収益投資による財政負担、長期的財政負担を要する巨額の設備投資がこれに続く。1968年度の営業収入は9165億円、営業損益は1361億円の赤字であった[2][3]。
A・B・Cという3分類
同じ監査報告書は、1966年度末の線区を輸送需要によってA・B・Cの3つに分けた。A線区は主要都市間を結び、今後とも客貨の輸送需要が増大する重要な線区と、大都市の通勤輸送に欠くことのできない線区である。B線区は中間都市の輸送を主とする比較的輸送需要の少ない線区、あるいは他の輸送機関の利用が増えて定期客の輸送が主目的となった線区を指す。C線区は、従来その地域の交通の主体でありながら、道路網の整備などによって客貨とも輸送量が減った線区であった[4]。
分類は、自社の路線を収益で色分けする作業でもあった。A線区は旅客輸送量の90%、貨物輸送量の94%を占め、営業係数100以下を示して利益を計上した。営業キロではA線区にほとんど匹敵するB・C線区は、両者を合わせても旅客で10%、貨物で6%を運んでいるにすぎず、合わせてA線区の利益の約3倍の損失を生じていた。報告書はさらに、B・C線区に属する赤字が確実に予測される新線の建設が年々進められ、国鉄の負担を増やしている事実は看過されるべきではないと述べた[5][6]。
決断
切りすてるべき線区を、切らない
企業採算性を重んじる観点からいえば、採算の合わない線区は切りすてるべきものであった。国鉄はそこまで自ら書いている。それでも実際には、路線の有している便益的な性格や、地元の人々の鉄道への執着といった経営外の事由によって、廃止・撤去を実行することは至難であった。A・B・Cの区分は廃止の順序を決める表にはならず、赤字がどこで生じているかを示す資料にとどまった[7]。
建設の側は、別の法律で走っていた。新線は、鉄道以外の陸上輸送機関が考えられなかった時代に構想された鉄道敷設法(1922年制定)にのっとって建設が続き、審議会などでその中止あるいは見直しが勧告されていた。1964年3月には日本鉄道建設公団法にもとづいて日本鉄道建設公団が設立された。同法第1条は鉄道新線の建設による交通網の整備と地域格差の是正を目的に掲げ、企業性のわくに制約される国鉄に代わって公団が建設を担った[8][9]。
会計を二つに割るという次善
1970年12月、財政制度審議会が中間報告「総合交通問題について」を発表し、国鉄財政の再建を各種交通手段の中で現在もっとも緊急な問題として取り上げた。合理化の具体策として挙げたのは、地方線系線区からの大幅な撤収、赤字新線の整理、地方鉄道公社の設置、運賃制度の合理化・自由化、関連事業投資の拡大、各種交通手段における利用者負担の徹底の6つである。撤収後の資産の現物出資を受けて地元市町村などが運営に当たる地方鉄道公社構想は、注目を集めた[10]。
続いて国鉄諮問委員会が、幹線系と地方線系の会計を分ける二分論、いわゆる第2国鉄論を提案した。地方交通線区の運営費の赤字は国または地方公共団体が財政補塡し、当該年度内に処理する。存廃は国・地方公共団体・学識経験者の委員会で審議し、新線建設はそのほとんどを中止する。線区別会計区分は1970年度の試行を経て1971年度から施行された。1971年12月の閣議了解「総合交通体系について」も、特性に適合しない在来線を順次自動車輸送に転換するとした[11][12]。
結果
撤収は計画に、建設は法律に
赤字が拡大するさなかに、建設は拡大した。1970年3月の鉄道建設審議会が審議した全国新幹線鉄道整備法案の要綱には、整備すべき新幹線の路線名が別表に規定され、総延長は東海道新幹線を除いておよそ9000kmとされた。法案は議員立法として国会に提出され、1970年5月13日に可決成立した。1971年4月1日には東北・上越・成田の3新幹線の整備計画が決定され、建設費の概算額は東北新幹線が8350億円、上越新幹線が5800億円、成田新幹線が2050億円であった[13][14]。
追加はその後も続いた。1972年6月と12月に基本計画が加えられ、営業中の東海道・山陽新幹線を含めておよそ3500kmの新幹線網の整備が決定した。新幹線を利用するのに1時間以内で到達できる人口の全人口に対する比率は、おおむね80%になると見込まれた。撤収の側は審議会の提案と閣議了解の文言にとどまり、建設の側は法律と基本計画で確定した。切るべき線区を数字で把握しながら、国鉄が抱える路線はむしろ増えた[15]。
特定地方交通線という決着
線区の切り分けが実行に移るのは、分類から17年後であった。1985年7月、日本国有鉄道再建監理委員会は、旅客鉄道会社が国鉄から経営を引き継ぐ路線を特定地方交通線を除く全線区とした。輸送密度が少なくバス輸送への転換が適切な路線である特定地方交通線については、地域にとってより適切な交通体系を構築する見地からもバス転換等を図ることが必要であるとした。それ以外の地方交通線は幹線とともに引き継ぎ、地域の実情に即した運営と要員の合理化に努めるものとされた[16]。
同委員会は、分割・民営化はローカル線の切り捨てにつながるという議論にも答えた。公社制度のもとでの全国画一の運営では地域の実情に即した経営は望めず、現行の経営形態のまま採算性の良くない路線を経営する場合の方が、かえって一部地域から鉄道がほとんどなくなりかねないと論じた。国有化の由来にも触れ、1906年の鉄道国有法による買収の直前には鉄道網の7割近くを民間事業者が経営していたと指摘し、国鉄にのみ求められていた政策上の要請はほとんど意義を失っていると結論づけた[17][18]。
- 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
- 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
- 日本国有鉄道監査報告書 昭和54年度